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近藤昭一

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コミュ内全体

詳細 2013年1月5日 21:57更新

1958年 5月26日生まれ。愛知県名古屋市出身
1974年 3月 名古屋市立笈瀬中学校卒業
1977年 3月 愛知県立千種高等学校卒業
1978年 4月 上智大学法学部法律学科入学
1981年 9月 中国・北京語言学院留学
1984年 3月 上智大学法学部法律学科卒業
1984年 4月 中日新聞社入社
1993年 1月 中日新聞社退社、国政参加に向けて活動開始
1994年 2月 新党さきがけ入党
10月 さきがけ愛知準備会代表に就任
1996年 9月 民主党結党に参加。同党愛知県連副代表に就任
10月 第41回総選挙で初当選
2000年 6月 第42回総選挙にて再選
2003年 11月 第43回総選挙にて三選
12月 民主党「次の内閣」環境大臣に就任
2005年 9月 第44回総選挙にて四選 衆議院青少年問題特別委員長に就任
2006年 2月 民主党愛知県連代表に就任
2007年 9月 衆議院外務委員会筆頭理事に就任


▲ 内海海岸にて
1958年5月26日生まれ。
愛知県名古屋市出身、50歳

母親の実家が愛知県知多郡内海町の薬局で、小さい頃から泳ぎに親しんで育ちまし た。
亡くなった父親は「そのうち、内海へ移って、ゆっくり暮らしたい」が口ぐせでした が、豊かな自然の同町は、私のある種の「原点」です。





▲亀島小学校入学式
1965年、名古屋市立亀島小学校に入学

「松」「竹」「梅」というユニークな名前をクラスにつけている小学校で、5,6年と水泳部に所属、中日スイミングクラブから全国大会にも出場しました(全国大会リレーの部で3位)。全国2番目の小学校・アマチュア無線局を指導の先生のもと、開局したのは6年生のとき。木造校舎に裸電球、プールは20メートルしかない貯水槽を兼用した素朴な学校でした。




1971年、名古屋市立笈瀬中学校に入学

市内でも有数のワンパク(?)校でしたが、ユニークな仲間ばかりで、楽しい3年間を過ごしました。今でもみんな手弁当で応援に来てくれる仲間。もちろん、部活は水泳部に所属。3年生の時、名古屋市大会で100メートル・自由形の2位に入りました。
この頃、名古屋市とロサンゼルス市の友好関係で、アメリカ人の高校生のホームステイを受け入れました。私にとっては、有意義な出会いでした。





▲ロサンゼルスでホームステイ
1974年、愛知県立千種高校に入学

学校群制度の2期目でしたが、思い切って偏差値の高い郡を受験。おかげで、三年間成績は後ろから数えたほうが早く苦労しました。でも、かけがえのない友人を得、また初めて外国(米国ロサンゼルス)へ行ったのは一年生の時の夏休み。もちろん部活は水泳部所属。 高2の学園祭では、「ジャズカントリー」という劇で主役の「トム」を演じました。





▲学生インストラクターを勤める
1978年、上智大学法学部法律学科に入学

一年浪人生活を送って、現役の時には一校も受けなかった東京の大学に入学。人生というのは不思議ですが、高校3年生の時に、北杜夫さん、遠藤周作さんを読んで旧制高校にあこがれ、東北か北海道の大学に行きたいと思っていたのですが、浪人中どうしても東京に行きたいと思うようになりました。在学中は、大学3年までは吉祥寺に、留学から帰ってきて4年時に中野坂上に住みました。
在学中所属したアスペンスキークラブでの活動は一生忘れられない思い出に。大学3年時は志賀高原の若林プロスキースクール、4年生時は山形県の天元台スキースクールで学生インストラクターをやり、オールソフィアスキー大会・基礎の部で二回の優勝を果たしました。なお、元郵政大臣・野田聖子さんとはこの時の同級生です。




1981年、中国北京語言学院留学

何と言っても忘れられないのが、大学を休学しての中国への1年半の留学。語学の習得はもちろん、他国からの留学生との交流、そして、パレスチナからの留学生が、イスラエルとの紛争が激化してきた際に本国に呼び戻され、彼らの壮行会が行われた時のことは、私に「平和」というものを考えさせてくれました。また、中国国内だけでなくシベリア鉄道を使ってロシア(当時ソ連)、ヨーロッパをまわった経験は私にとって多くのことを学ぶ機会となりました。


▲北京語言学院の正門で

▲シベリア鉄道でヨーロッパへ





大学卒業後、中日新聞に入社

文化事業局に所属し、名古屋デザイン博ガウディの城、ぎふ未来博山東竜館、黄河文明展などを手がけました。最後の仕事になったのは、「パウル・クレー展」ですが、スイスのベルンに出品作品の交渉にいったりと準備を進めていたのですが、実際の展覧会の時は既に新聞社を離れており、複雑な気持ちでした。




1993年1月、同新聞社を退社、国政参加に向けて活動開始

入社して十年たったら自分の生き方を(決して会社を離れるということではなく)考えようと思っていました。ところが、9年目のこの頃、日本新党ができて日本の政治が大きく動き出し、亡くなられた中日新聞社・加藤巳一郎会長のおともで約1週間の中国視察旅行をさせていただいた際、色々とお話を聞かせていただいたことなどがきっかけとなり、新聞社を離れて政治の世界へ入る決意をしました。もちろん、父親が政治家(名古屋市議)だったことも大きな影響がありました。
ただ、多くの先輩・同僚・仲間の皆さんにご迷惑をおかけしましたし、離れると決めたときの高まった気分と、ある日突然会社に行かなくなり、かといってどんどん具体的に行動が出来るわけでもなく、一人でぽつんと残されたような感じになったときのギャップの大きさは、かなりつらいものがありました。
尊敬する武村正義代表との間をとってくださったのは、亡くなられた加藤巳一郎・中日新聞社会長でした。「環境主義」「民権政治」「行政改革」今も大切にしている理念の原点がここにあります。





1994年11月さきがけ愛知準備会代表として県支部設立のため奔走。

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2007年3月31日

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