ウィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus)
彼は、20世紀を代表するドイツのピアニストである。
1884年3月26日ドイツのライプツィヒに彼は生まれた。幼い頃より母親からピアノの手ほどきを受け、7歳からライプツィヒ音楽院の教授アロイス・レッケンドルフのプライベートレッスンにてピアノを本格的に学びはじめる。10歳の時にレッケンドルフの推薦でライプツィヒ音楽院に入学し、正式にレッケンドルフの生徒となった。この時期にピアノの基礎教育を施され、ドイツ音楽の伝統を教え込まれたことは重要であろう。
ライプツィヒ音楽院を卒業後は、当時ベートーヴェン演奏家として不動の人気を博していた大ピアニストであるオイゲン・ダルベールに師事する。ダルベールはベートーヴェンの解釈に定評があり、バックハウスは彼からベートーヴェンの解釈を学ぶことになる。この時期にピアノ技法を完成させられ、同時に演奏家としても本格的な活動を行うようになった。
1905年、21歳の時にルビンシュタイン音楽コンクールで優勝する。この時2位になったのが後に作曲家として名を馳せるベーラ・バルトークである。バルトークは自分のピアノに絶対の自信を持っていただけに酷く落胆したという。
その後も多くの有名指揮者との共演、録音、音楽祭への参加など演奏会ピアニストとして活躍した。また、1933年にスイスに移住し、1946年スイスに帰化している。
1969年“ケルンテルンの夏”という音楽祭に呼ばれ6月26日、28日と演奏をした。しかし、6月28日の演奏会が彼の最後の演奏となってしまう。この演奏会の録音を我々は聞くことが出来る。軽快なテンポ、堂々とした力強さ、繊細な表現、衰えることを知らない技巧など、とても死が目前に迫った85歳の老人の演奏とは思えない。彼はベートーヴェンのピアノソナタ18番op31-3を演奏中、心臓発作を起こして休憩を取った。休憩中に医師から演奏中止を勧告されたが、なおも壇上に現れ演奏家としての役割を果たした。バックハウスが最後に弾いた曲はシューベルの即興曲第二番である。その後、フィラッハの病院に収容されたバックハウスは回復することなく、1週間後の7月5日、85歳でこの世を去った。
バックハウスは若い頃“鍵盤の獅子王”と呼ばれるほどの技巧派であった。いかなる難曲をも弾きこなす無類のテクニシャンであったが、その音楽は冷たいと言う印象を持たれていた。この頃はショパンやリストも弾いていたが、やがて外面的な派手さではなく、作曲家や作品の精神を追求し、いかにもドイツ的で質実剛健な演奏に変わってゆく。装飾を廃し、ひたむきにピアノと向き合うことで生まれる神々しいまでの美しき音色が、彼のピアノの魅力であろう。
教師としては1905年にマンチェスター音楽院、1907年ゾンデルスハウゼン音楽院、1925年にカーチス音楽院で教えていたが、演奏会が多忙を極め、弟子を教育する時間の余裕がなっかたらしくそれぞれごく短期間でしかなっかた。その為かバックハウスの弟師で著名なピアニストは存在せず、演奏のみに生涯を捧げたと言っても過言ではない。ピアノの演奏家として生まれ、その使命を徹底して生きたのだ。
演奏家としての栄誉を象徴するものに、1966年オーストリア政府から名誉十字勲章を受け、またベーゼンドルファー社から20世紀最大のピアニストとしての意味を持つ指環を贈られている。
バックハウスはレコード録音にも積極的であった。ちなみにピアノ協奏曲の史上初の録音が1910年彼によって行われている。曲はグリーグのピアノ協奏曲イ短調である。この他にもベートーヴェンのピアノソナタ全曲録音をはじめ、カール・ベームやハンス・シュミット・イッセルシュッテトなどとも共演し、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト、シューマンの各協奏曲では歴史的にも重要な録音を残している。
彼が好んだ言葉にこのようなものがある
“まじめな仕事は、真の喜びを与える”・・・セネカ
“人間の尊厳は君達の手にゆだねられている
それを守りたまえ” ・・・シルラー
“芸術家よ、想像し給え、語るなかれ”・・・ゲーテ
いかにもバックハウスらしい格言ではないか