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選手時代の原 辰徳

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コミュ内全体

詳細 2019年10月14日 16:10更新

◆選手時代の原 辰徳さんについてのコミュニティー◆


何度選手時代の原さんに感動をさせられた事でしょうか。
監督の原さんも原さんでありますが、それは選手時代の≪8マン・辰徳≫がいたからこそ、応援もしたくなるモノ。

川上、O・Nに継ぐ巨人軍4番バッターとして、長く君臨する。
しかし、選手時代は怪我(アキレス腱痛・骨折)など不遇な時代も多い。

晩年は、長嶋監督の変わった選手起用で、選手寿命が微妙に変化している。

選手時代の原辰徳を忘れられません。



そんな選手原さんを語り合うコミュニティーです。
打撃論・エピソード何でも受付中。





※wikipediaより引用


原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市出身、神奈川県厚木市・相模原市育ちのプロ野球選手(現役期間1981年〜1995年)、プロ野球監督(2002年〜2003年、2006年〜)。現役時代は読売ジャイアンツ所属の内野手。

現在は読売ジャイアンツ監督、同球団名誉顧問。右投右打。愛称は「若大将」。あるいは「タツ」「平成の若大将」「ヤング・ミスター」「永遠の若大将」とも呼ばれる。いわゆる「ポストON世代」の筆頭。

高校時代から甲子園のアイドルとして大変な人気があった。


1980年 ドラフト会議において、読売ジャイアンツの藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、相思相愛が実り巨人に入団(入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された)。背番号は高田繁の引退に伴い空いた「8」を受け継ぐ。
1981年 シーズン当初は二塁手として出場したが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障よりアマ時代からのポジションである三塁手に戻り、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。
1982年 最多勝利打点を獲得。
1983年 MVP、打点王、最多勝利打点を獲得。
1986年9月24日 対広島東洋カープ戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首を骨折。本人いわくこの怪我が致命傷になったという(実際この怪我を境に成績は下降したが、原本人は「あの時の津田との対戦には悔いはない」と当時から現在に至るまで繰り返し語っている)このころからアキレス腱痛などにも悩まされるが2年連続3割30本を記録。
1989年には藤田監督が復帰し他の選手起用の関係や本人の怪我の影響を配慮し外野手(左翼手)に転向。
1992年 再び内野手(一塁手)に転向。藤田監督退任。
1993年 三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ(引退した年を除けば)プロ入り以来最低の成績に終っている。
1995年 現役引退。同年、球団一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を永久欠番にとの署名が多く集まり、巨人は「準永久欠番」に制定。※現在谷選手

               
計 15年
試合出場:1697
安打:1675
打率:279
二塁打:273
三塁打:25
本塁打:382
打点:1093
盗塁:82
四死球:755

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2007年3月22日

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カテゴリ
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