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清原和博永久保存会

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コミュ内全体

詳細 2016年6月21日 04:37更新

漢・清原和博を愛する者が集うコミュです!
清原和博を永久に語継ぎ、
今後も清原和博を応援し続けましょう!

☆はじめまして&挨拶用トピック☆
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=15899283&comm_id=1885785

小学生〜中学生時代
祖父や父は巨人ファンであり、巨人ファンとして育った。1974年には巨人は中日ドラゴンズにV10を阻止され、翌年は広島東洋カープにリーグ優勝をさらわれた。父親が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、野球に入っていくひとつのきっかけであった。

1974年、岸和田市立八木南小学校に入学。ここで野球を始めた清原は、岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。毎日祖父から100円をもらい雨の日でも風の日でも毎日欠かさず練習をしていた(この頃に金銭をもらって野球をする感覚を覚えた)。

1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。その後投手としても才能を発揮し、6年生の最後の試合ではエースで4番を務め、完全試合を達成した。

その後、岸和田市立久米田中学校に進学するとともに、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たす。3年時には日生球場のネットを揺らす本塁打を放った。


高校時代
高校はPL学園高校に進学。天理高校かPL学園かどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、天理高では3年生が練習をし1年生が球拾いをしているのに対し、PL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となった。入学当初は投手を希望していたが同期の桑田真澄の並外れた実力を知り、「(桑田には)絶対勝てない」と野手を選んだ(新入部員が最初に集まった際に、清原は名の通っていた桑田を探しその姿を発見すると「なんだ こんな小さい奴か」とタカを括ったが、実際の投球を見て度肝を抜かれ観念したと後にコメントしている)。

当時はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、ネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために清原用の金網が継ぎ足されたという逸話が残っている。

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り、エース桑田とともに甲子園に5季連続出場を果たす。1年生の夏に優勝、2年生の春・夏は共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は2度目の優勝を経験している。

特に清原と桑田はKKコンビと呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになるこの世代を代表する人物となった。後に共にプロに入団した松山秀明(元オリックス)、今久留主成幸(元:横浜大洋、西武)も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、1大会のタイ記録となる5号を放った際、植草貞夫アナウンサーは「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。3年生春の浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(ともに大量得点差のついた最終回)では監督に懇願し、投手として登板させてもらった。


西武時代
子供の頃から熱烈な巨人ファンであった清原本人は巨人入りを熱望していたが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田をドラフト1位で指名。当の清原は南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団から1位指名を受け、抽選の結果西武が交渉権を獲得。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された。 後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くした。 ちなみにこの年の巨人は桑田を含めて1位から4位まですべて投手を指名。また当時の巨人は一塁に中畑清、三塁に原辰徳がおり、巨人に入団しても出場機会は少なかったと思われる。

清原はそのまま西武に入団。背番号3が与えられた。ルーキーイヤーの1986年、開幕2戦目に守備固めで登場すると、第1打席の四球の後第2打席にはプロ初安打となる初本塁打を打つ。その後も打ち続け、高卒新人では史上最多の31本の本塁打を放って新人本塁打記録の最多タイを記録。打率.304及び打点78も同じく高卒新人の歴代最高記録で、新人王に選出された。その年の日本シリーズには8試合すべてに4番・ファーストで先発出場し、日本一に貢献している。またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。

黄金時代の西武にあって4番に君臨し、3番秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。後にオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる。全盛期には『三冠王に一番近い男』と呼ばれた。また、西武入団時には当時の球団代表であった坂井保之氏から「四冠王を目指してほしい(打率・本塁打・打点+盗塁)」と期待されるほどの俊足であった。清原自身は盗塁に意欲的ではなかったが、2桁盗塁を二度マークしている。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、入団4年目の1989年6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。3年後の1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10カ月で200号本塁打を達成した。

守備も上手く、一塁手でゴールデングラブ賞を5度受賞している。なお年に数試合は三塁を守り、日本シリーズのセ・リーグの本拠地での試合でも、普段は指名打者のデストラーデが一塁、清原は三塁を守った。

1990年オフ、当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなった。

1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年〜1988年、1990年〜1992年)に貢献。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。


巨人時代
1996年暮れにFA宣言。阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となる。5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は、長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、5に決定(後に契約金は阪神の方が倍近く高かったが長嶋監督の心の広さに感銘した、とTV番組で明かしている)。なお、このことで同じファーストを守る当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍。巨人退団会見で落合は「清原と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む監督の顔は見たくない」というセリフを残している。3番松井秀喜とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。後に高橋由伸が加わり「MKT砲」となる。1997年は開幕から4番を務めたが、阪神の4番の桧山進次郎と三振数を争って当時のリーグ新記録152三振を記録し(桧山は150三振)、一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には.249、32本塁打、95打点の成績に終わった。本塁打、打点は前年より多く、主砲として申し分の無い数字だが、西武時代の95年の2度に渡る右肩亜脱臼の後遺症や長年の不摂生のツケからかスイングに力強さがなく打率が伸び悩んだ。加えて西武時代に比べテレビ放送が多い巨人では、チャンスにおいて執拗なインコース攻めの前に力なく三振や凡打した映像が目立ち、大いに期待外れの印象を残してしまった。

1998年前年の不振から、長年の神主打法からの大幅な打撃フォーム改造を敢行した。厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。4月は広島の前田智徳を抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切った。しかし左太腿肉離れなど故障もあって次第に調子を落としていった。結局、清原はこの年100試合近く4番を打ち.268、23本塁打、80打点の成績を残し、原辰徳の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成したが、この年以降常に下半身の故障に悩まされることになる。

1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガースの藪恵壹からの死球で左手を亀裂骨折。さらに6月には広島戦でクロスプレーの際に右足の靭帯を負傷し、出場試合数は86試合、成績は.236、13本塁打、46打点に留まり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れてしまった。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を敢行。すべての煩悩を焼き尽くし意を決した清原はアメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。

2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーであった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。しかし、7月7日の復帰後初打席で代打3ランを放ち復活をアピール。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で.296、16本塁打を記録。日本シリーズでは3番打者として活躍した。またこの年、モデルの木村亜希と結婚している。

2001年は5年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていた。しかし清原は開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と好成績を残し(打点は自己ベスト)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。

2002年も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、.314、12本塁打と一定の成績は残した。故障を押して出場した日本シリーズでは松坂大輔から本塁打を放っている。また8月23日には長男が誕生した。

2003年は松井移籍数日後に原辰徳監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録している。しかしシーズン後半にはペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ペタジーニも規定打席不足ではあるが)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。

2004年はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合博満以来6人目の2000本安打を達成するが、成績は.228、12本塁打と低迷。同年シーズン終了後、監督の堀内恒夫の戦力構想から外れたことが判明。退団の危機に陥ったが、オーナーに直談判、堀内監督にも残留を哀訴し、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。

2005年の清原は、「ナンバ走り」など科学的トレーニングを取り入れ下半身の負担を減らすことを試みる。またメジャーリーガーのバリー・ボンズにあやかりダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。しかし開幕では4番だったものの5月以降は主に6番を打つことが多くなった。4月14日の阪神戦で、福原忍から本塁打を打ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。4月29日の広島戦(広島市民球場)で広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の快挙となる通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時.269まで上昇した。 しかし、交流戦のオリックス戦で投手の山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障も重なって成績は徐々に低迷し、張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打を記録するも、打率は自己最低となる.212に終わった。8月4日の対広島戦では打順は7番で起用されたが、これに激怒。4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチでチームメイトとのハイタッチを拒否した。そして、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約選手として公示された。


オリックス時代
巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーである仰木彬が「大阪に帰って来い。お前の最後の花道は俺が作ってやる」とオファーし、オリックス入団が決まった。仰木には前年の2004年にも勧誘を受けていたが、その際は巨人に残留し、1年後のオリックス入りが現実となった。直後に仰木は肺癌による呼吸不全で死去し、それ以降清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」として語るようになった。ただ、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めた」との批判もなされた。が後に本人はその点を否定している。

背番号は巨人時代に引き続き5(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団の中村紀洋がつけた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 当時体重は120kgに達していたが、2ヶ月足らずで約20kgの減量をした。また球団が吉本興業と業務提携を結んでいることから、中村らと共によしもと新喜劇にも出演した。

2006年、開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。5月21日の阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔投手から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーン投手から放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスター第2戦では、8回2死走者なし代打で登場し藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスター最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。

2007年もキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての一軍試合出場なしに終わった。

その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれた事に感謝している」と語っている。2007年12月10日に契約更改を行い、野球協約による減額制限(40%)を超す45%・9000万ダウンの1億1000万円の単年契約でサインした。

2008年7月31日、532日ぶりに一軍に合流。しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。

8月3日のソフトバンク戦で7回に代打で695日ぶりに登場したが、大隣憲司の前に空振り三振に終わる。翌日の同戦では再び代打で登場し三瀬幸司のストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。

8月18日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。

9月29日、プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの埼玉西武ライオンズとのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドのライオンズファンの清原コールに応えたあと、バファローズとライオンズの両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われた。また、西武時代のチームメイトの渡辺久信監督からも花束贈呈があった。また、西武時代に背番号3番を着けていたので、現在の3番中島裕之とユニフォームを交換した。


引退試合
10月1日、京セラドーム大阪でのオリックスのシーズン最終戦、対福岡ソフトバンクホークス、イチローや同年に引退した桑田真澄らが見守る中[1]、4番DHで先発出場。試合前には対戦相手の王貞治監督から花束贈呈もあった(ホークス先発投手・杉内俊哉、杉内は完投)。

外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏1死一塁で4球目を空振り三振。第3打席はオリックスが3−1とリードした6回裏1死一塁で5球目を右中間タイムリー二塁打(打点1)。これが現役最後の安打・打点となった。8回裏1死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めた東利夫から清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈呈[2]した。試合は4−1でオリックスが勝利した。ウイニングボールがオリックスの先発で完投勝利を記録した近藤一樹から清原に手渡されたが、清原はこのボールにもサインを入れ近藤に贈呈している。

試合終了後の引退セレモニーでは、オリックス選手会長の北川博敏、阪神タイガースの金本知憲から花束が贈呈され、歌手の長渕剛が『とんぼ』をアコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。引退挨拶では自分が所属した西武・読売・オリックスおよび各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木彬に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうも有難うございました」と涙ながらに締めくくった。その後場内を1周し、ホームベース上でオリックス選手団によって胴上げが行われた。

翌10月2日、オリックス球団は本人の希望で清原を任意引退選手として申請し、同日パシフィック野球連盟から公示された[1]。オリックスはこの年2位に入りクライマックスシリーズ出場権を獲得したが、清原は出場の辞退を自ら申し入れた。そのクライマックスシリーズ・ファーストステージ(対北海道日本ハムファイターズ)では選手の要望で清原のユニホームがベンチ内に掲げられ、清原本人もゲストルームから声援を送った。


肉体改造と怪我との闘い
清原入団後、主として投手陣崩壊により巨人は逸したが、この間清原は敗戦の責任、メディアやファンの批判を一身に背負った。「巨人の4番」としての心労は西武時代とは比較にならず、入団当初は死ぬことすら頭に浮かんだという(「車を運転していてハンドルを離してしまいたくなった」と当時を振り返っている)。

クロスプレーで足の靭帯を損傷し後半戦を離脱、初めて規定打席不足に終わった1999年オフ、藁にもすがる思いで前田日明に紹介してもらったケビン山崎のジムに通い、ウェイトトレーニングを開始。食事は鶏肉と卵の白身だけという生活を続けるなど、死に物狂いで鍛え続けたことで「筋肉の鎧」を手に入れる。

この『肉体改造』は30台中盤を迎えようとしていた清原の瞬発力を増加させ、圧倒的なパワーで東京ドームで看板直撃ホームラン弾を連発。もっとも効果があらわれた2001年には、5番打者として自己最高の121打点を記録した。しかしウェィトトレーニングでは1999年の故障を根本的に克服することはできず、以後肉離れや膝半月板など連鎖的な故障に悩まされる。このため2001年が1999年以後唯一、そして現役最後に規定打席に到達したシーズンとなった(巨人退団直前、筋肉を減量し走方や重心を修正するなど、現在は一般にも知られるような科学的トレーニングも取り入れているが、下半身の故障は既に限界であった)。


ニックネーム
全時代共通
キヨ
お祭り男(高校時代は甲子園、プロではオールスター・ゲームや日本シリーズなどの大舞台で活躍し、さらに通算サヨナラ本塁打と通算サヨナラ安打も歴代1位であることなどが付けられた)
西武時代
キヨマー(同時代に活躍した阪急の強打者ブーマー・ウェルズに対抗できる位の活躍を期待された為)
社長
ネコ(ネコをかぶるの意)
殿
巨人時代
番長(『巨人軍は紳士たれ』のスローガンにそぐわないとして、読売系列の中継や番組等ではこの呼称は避けられていた)
だんじりファイター(大阪府岸和田市出身のため、全国的に有名な岸和田だんじり祭より命名。上記の理由から「番長」に代わるものとして日本テレビがよく使用した)
オリックス時代
番長(巨人時代に引き続き使用される)
お好み焼きソース(中村紀洋とのコンビの表現。中村はマヨネーズである。中村の中日移籍により、この愛称は2006年のみ)
永遠の四番打者(西武対オリックス最終戦で、『永遠の四番打者』と書かれた横断幕が見られた。)
その他
清原といえば「ワイ」が代名詞で(ただし実際には使用していない)、写真週刊誌「フライデー」の人気連載企画をまとめた「おう、ワイや!清原和博番長日記」という書籍(内容は巨人時代のもの)が出版されたことがあるほどだが、インタビュー等では基本的に「僕」を使う。また「ジャンクSPORTS」(フジテレビ)のスペシャルにゲスト出演した際、番長日記の事を浜田雅功に突っ込まれると「僕は俺とか言いますが、ワイなんて言っていません」と説明(自分のことを『ワシ』と言うことはたまにあるとのこと)。番長日記については「俺は昔からフライデーに殴られっぱなしだから、今後もそれでいい。しかし、あれはマジで面白い」と容認した。その後フライデーとは、何かあった時には取材に応じるから、追いかけ回さないという言わば協定なようなものを結び、フライデーの番長日記の定期連載は現在では終了している。

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開設日
2007年2月22日

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カテゴリ
スポーツ