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八幡太郎義家と河内源氏

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詳細 2016年12月13日 03:58更新

●武家源氏の主流
清和源氏の武士団を摂津国川辺郡多田(兵庫県川西市多田)に最初に形成した源満仲を祖とする。
嫡子の源頼光は、満仲が開き、源氏武士団を形成した摂津国多田を相続し、清和源氏嫡流である「摂津源氏」の祖となる。
次子の源頼親は、大和国宇野(奈良県宇野)に本拠地をかまえ「大和源氏」の祖となる。
三男の源頼信は、河内国古市郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、香呂峯(こうろほう)に館を建て、「河内源氏」の祖となる。
本拠地が河内国であることから「河内源氏」と呼ばれる。

清和源氏の嫡流は源頼光の摂津源氏だったが、武に秀でた源頼信の河内源氏は武家源氏の主流となり、武門において摂津源氏を凌駕し、やがて武家棟梁となる。

●河内源氏三代の東国進出
河内源氏初代の源頼信は、平忠常の乱を鎮定し、坂東に進出して河内源氏の勢力を扶植し、その子の源頼義、頼義の子の源義家(八幡太郎義家)の時に、前九年・後三年の役で、坂東武士を家臣郎党とし、特に八幡太郎義家の時に武家棟梁となった。
この源頼信、頼義、義家を「河内源氏三代」という。
河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東に勢力を扶植したのは、頼信が兄の頼光の摂津源氏との活動基盤の競合を避けたためとされている。しかし坂東は勢力圏にすぎず、河内源氏の本拠地は河内国にあり、活動拠点は、摂津源氏と同じく京都にあった。

●源義家(八幡太郎義家)
長暦3年(1039年)、源頼義の長男(母親は平直方の娘)として生まれ、河内源氏の本拠地である河内国古市郡壺井の香呂峯の館で育ち幼名は源太。二歳で院に謁見し、その時に縅した鎧は「源太が産衣」と名付けられる。京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称した。
鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、天喜5年(1057年)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎残った官軍の退却を助け、義家の射る矢は神の如しと称えられる。この役で生け捕った敵の首を髭ごと打った刀は「髭切」と名付けられたという逸話が残る。その後、奥州安倍氏を平定し、その勲功を賞され天喜6年(1058年)2月25日に従五位下出羽守を叙任される。
永保3年(1083年)鎮守府将軍となり、清原氏の内紛である後三年の役が起こるとこれも平定するが、朝廷はこの乱を義家の個人的野望のための私闘と見抜き報奨を与えなかった。このため義家は、河内国石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。

●武家の棟梁
清和源氏の嫡流は、源満仲の嫡男の源頼光の摂津源氏であり、河内源氏は傍流だったが、源義家を頂点とする武の実力で摘流の摂津源氏を凌駕したため武家源氏の主流となる。
しかし、義家の晩年に嫡子の源義親が朝廷に反抗し、義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始める。
そして、義家の死後、家督を相承した源義忠が叔父の源義光の謀殺されたことによって河内源氏の武名は損なわれ、当初、事件の主犯とされた義家の弟の源義綱とされて義忠の養子源為義の討伐を受けて壊滅し、真犯人がもう一人の弟義光であったことから源氏内部の内紛が明らかになるなど源氏の権勢は失墜した。

●保元の乱、平治の乱
義家死後、義忠暗殺事件を経て、河内源氏を継いだ源為義の時に保元の乱が起こり、一族が敵味方に分かれて参加する。
上皇方に参陣した源為義は乱後に死罪となり、為義の子の源為朝(鎮西八郎為朝)は流罪に処せられ、天皇方に参陣した源義朝のみが残り、勢力は減少する。
河内源氏の本拠地の河内国ではなく、勢力圏の坂東に下り相模を地盤とした義朝は、勢力回復を企て、平治の乱を起こし、嫡子の源義平(鎌倉源太義平)などが奮戦し活躍するが、坂東にいる自己の郎党を動員する時間がなく、少数兵力のまま平清盛率いる伊勢平氏に敗れる。義朝は、相模に逃れる途中に知多で殺され、義平は変装して平清盛一族(平家)の支配する京都に密かに潜入し、京都に潜む父義朝のかつての郎党と共に清盛暗殺を企てるが失敗し捕らえられて殺される。義平の弟の頼朝は伊豆流罪の身となり、河内源氏は四散する。

●源頼朝と鎌倉幕府
清和源氏の嫡流は、源頼光にはじまる摂津源氏だったが、河内源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開き、自らを源氏嫡流と位置づけたことから、以降、摂津源氏に代わって河内源氏が源氏の嫡流と見なされるようになる。

●河内源氏の本拠地と石川氏
源義家の後を継いだ河内源氏四代の源義忠は京都に進出し、河内源氏の本拠地の石川荘は、義家の五男の源義時(陸奥五郎義時)が相続し守る。兄の義忠の死後、義時は河内源氏の棟梁を望んだが果たされず石川の地に土着し、子孫は石川源氏、さらに石川氏と呼ばれた。

●河内源氏の子孫
河内源氏は清和源氏の武家主流となったため、その子孫は多い。源平合戦に登場する源義仲(木曽義仲)や甲斐源氏、常陸源氏も河内源氏であり、南北朝時代に活躍した新田氏や足利氏も、源義重(新田義重)や源義康(足利義康)を祖し、いずれも河内源氏の源義国の子孫であり、武家の多くは河内源氏の子孫であるか子孫を称した。

●通法寺と壷井八幡宮
河内源氏の本拠地の大阪府羽曳野市壷井には、河内源氏の菩提寺だった通法寺跡があり、頼信・頼義・義家の三代の墓や、河内源氏の氏神の壷井八幡宮、頼信、頼義や、頼義の子である八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光を祀る壷井権現がある。なお、宮司の高木氏は、八幡太郎義家、その子の陸奥六郎義時の子孫であるとされる。

●河内源氏嫡統
初代源頼信(本拠地・河内壷井)
二代源頼義(本拠地・河内壷井)
三代源義家(本拠地・河内壷井)
四代源義忠(本拠地・河内壷井)
五代源為義(本拠地・山城京都)
六代源義朝(本拠地・相模三浦)
七代源頼朝(本拠地・相模鎌倉)
八代源頼家(本拠地・相模鎌倉)
九代源実朝(本拠地・相模鎌倉)

※トップの画像は、河内源氏の菩提寺の通法寺跡(大阪府羽曳野市壷井)にある源義家の墓。近くに祖父の頼信、父の頼義の墓もある。

※姉妹コミュ
壷井八幡宮と河内源氏
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2118676

※大阪は大阪市は近世大阪から商人の町、商都とよくいわれますが、近世以前の大阪府は武家の棟梁である源氏の本拠地だったんですね。

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