mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 孔子+諸葛亮同好会

孔子+諸葛亮同好会

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2016年9月24日 20:18更新

孔子や諸葛亮に関して語り合う。
勝手にトピ立ててください

☆孔子☆

〜〜事績〜〜

紀元前551年に、魯国昌平郷辺境の陬邑(昌平とは太平を盛んにするという意。邑は村の意)、現在の山東省曲阜(きよくふ)市で下級武士の次男として生まれたとされる。卑賎階級の巫女の子として生まれたとの異説もある。自身は「貧しくて賎」と語る(『論語』)。父は叔梁紇、母は顔徴在とされるが、『論語』の中に記述がなく、諸子百家の中で親の名がわかっているのは韓非子(韓の王族の出)だけであることを考慮すると疑わしい。幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めたとされる。しかし、孔子は誰にも師事したことがなく、朝廷儀礼に触れる機会の乏しい立場であったことからも疑わしい。その上、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廊に入ったときには、あれは何か、これは何かと聞きまわる始末であった。老子師事説は孔子の礼学に正当性を与えたい後の儒家と、それにつけこんだ道家による捏造の可能性が高い。『論語』の中で子貢が「何の常師かこれあらん」と語る通りである。孔子の宿す学問的な虚構性はのちの儒家の課題となった。身長は9尺6寸、1尺を19.6cmとすれば188cmの長身で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。52歳のとき魯の定公によって中都の宰に取り立てられたと『史記』孔子世家は伝えるが、魯に中都なる城邑が存在したという記述は『史記』以外にないことから疑問の残るところである。さらに、その一年後に大司寇に就任したとされるが、昇進が早すぎて不自然である。しかし、出世の機会が全くなかったわけではなく、下克上により魯の実権を握った陽虎に誘われ仕官しようとしたことがある(『論語』の一節「公山佛擾費を以て畔く。召く。子は往かんと欲す。(子=孔子)」)。紀元前497年に失望して弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。しかし素性怪しい孔子を受け容れる国は無く、紀元前483年69歳のとき魯に帰国した。その後、弟子の育成に専念し、紀元前479年に73歳で亡くなった。

孔子の人生の大部分は無冠の一学者に過ぎなかったが、漢代、司馬遷はその実質を王と評価して『史記』の中に「孔子世家(世家は諸侯王家の歴史)」を、またその弟子たちの伝記として「仲尼弟子列伝」を立てた。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。

〜〜功績〜〜

孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長体制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、一生涯その機会に恵まれなかった。しかし、漢代初期に儒宗・叔孫等(秦・項梁・懐王・項羽・劉邦と主君を換えた希代の奸臣)が漢の朝廷儀礼を”発明”(ノート参照)し、劉邦の支持をとりつけた。その後孟子を中心とした後継者により、支持者を広げ、漢の武帝に至って国教の座を獲得した。漢は孔子自身の説いたものは思想であり道徳であって、「子は怪、力、乱、神を語らず」という言葉からも知られるように宗教性は希薄であった。しかし、後世、礼としての儀式、孔子をはじめとする聖人への尊崇から宗教としての側面も備えるに至った。

☆諸葛亮孔明☆

諸葛 亮(しょかつ りょう、ピンイン: Zhūge Liàng、181年 - 234年 8月23日)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。また初めて中華まんを作った人とされている。

伏竜、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

妻は黄夫人。子には蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻、同母兄に呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪や同母弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、従父(叔父)に豫章太守の諸葛玄。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。彼の孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。また、裴松之が注に引く『襄陽記』によると、諸葛瞻以外に諸葛懐という息子と諸葛果という娘がいたとされる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫を自称している。


〜〜主な略伝〜〜

三顧の礼
赤壁の戦い
入蜀
夷陵の戦い
北伐 etc.

〜〜先祖についての逸話〜〜

先祖である諸葛豊は、厳格で剛直な性格で知られていた様で、誰彼構わず疑わしい者は事情聴取をしていた(司隷校尉という役職を考えると、職務に忠実であったとも言えるが)ようで、諸大夫から煙たがられていたという。この頃、諸大夫の間で遅刻をした時に「諸葛に会っていたもので」という言い訳が流行した程であったらしい。

コミュニティにつぶやきを投稿

最近の投稿がありません泣き顔
つぶやき・トピック・イベント・アンケートを作成して参加者と交流しようわーい(嬉しい顔)
参加メンバー 60人

もっと見る

開設日
2007年2月13日

3753日間運営

カテゴリ
学問、研究
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!