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南米の荒鷹 「H・クレスポ」

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詳細 2015年12月26日 12:18更新

エルナン・ホルヘ・クレスポ
Hern?n Jorge Crespo

ニックネーム  バルダニート(小さなバルダーノ)
国籍 アルゼンチン
生年月日 1975/7/5
出身地 フロリダ
ポジション FW(CF)
身長 184cm
体重 78kg

リバープレート(アルゼンチン) 1993-1996
パルマ(イタリア) 1996-2000
ラツィオ(イタリア) 2000-2002
インテル(イタリア) 2002-2003
チェルシー(イングランド) 2003-2004
ACミラン(イタリア) 2004-2005
チェルシー(イングランド) 2005-2006
インテル(イタリア) 2006-


スピード、テクニック、ポストプレーとストライカーとしての技術はすべて兼備えたアルゼンチン代表主砲。どんな体勢からでも左右両足どちらでのボール扱いも苦手とせず強烈なシュートを放つ。敵のディフェンスラインの裏を突く鋭い飛び出しに優れ、高い打点からのヘディングも決められる万能型。又、いろいろなタイプのFWと組んでいたため自己犠牲も厭わないプレーをし同じセンターフォワードタイプと組むことも苦にしない。
時として芸術的な得点も記録、あのバティストゥータからエースストライカーの名を引き継いだスター選手。

絶妙の飛び出しをオフサイドと判定されると、頭を抱えこんだり両手を大きく広げて「どうして?」とオーバーアクション気味にアピールするのも彼の特徴のひとつ。


いつだって、エルナン・クレスポの評価は芳しいものではなかった。
少年の頃はエンツォ・フランチェスコリに憧れMFとしてプレーし、6才の頃からリバープレートの下部組織で育ったクレスポは類い稀な才能を発揮するも18才になるまで6軍チームの控えに甘んじる。コーチはクレスポを特別な存在としては見ず、当時トップチームを指揮していたパサレラによって見い出され1993年、トップデビューを果たすとすぐにレギュラーとして活躍、93/94前期、94/95前期にてリーグ優勝に貢献し93/94後期リーグにて得点王も獲得する。1996年リベルタドーレス杯では優勝の立役者と言える活躍を見せ世界中にその名を知らしめると、約4億円の移籍金でパルマへ引き抜かれる。
当初はイタリアのサッカーに馴染めずに苦しんだ。1996/97シーズン、1997/98シーズンは12得点を挙げるにとどまり、エースストライカーとしては満足のいく結果を残せず。サポーターから批難を浴びる。
 だがクレスポは、その間にも相当な努力を重ねていた。チームメート達は一様に「あれほど練習をする選手は知らない」と彼を称え、その結果としてチームのタイトル獲得や得点王のタイトルが付いてきた。遂には母国の英雄ガブリエル・バティストゥータを押し退けてアルゼンチン代表のエースストライカーにまで成長、2002年ワールドカップの地区予選ではチーム最多となる9得点を挙げた。
 練習に練習を重ねた結果、クレスポは誰からも高い評価を受ける素晴らしいプレーヤーに成長した。現在の彼の評価、それは「世界最高峰のストライカー」である。

欧州移籍当初、思うような活躍が出来ずにいたが、当時パルマの監督であったアンチェロッティは、そのポテンシャルの高さを信じ、試合に使い続け、やがてその予想通りの活躍を見せるようになる。シーズンを重ねる事に得点能力を大きく開花させると
98/99シーズンにUEFAカップ優勝に貢献、99/00シーズンにはシェフチェンコに1得点及ばず得点王のタイトルは逃すも22得点とゴールを量産した。
00/01シーズン前、ラツィオへ移籍の際にはセリエA最高となる約66億円という移籍金で話題となったが、このシーズン26得点を記録し得点王を獲得、その金額に値する活躍を見せた。
その後移籍したインテルでの1年目は怪我に泣かされ不本意なシーズンとなったがその能力を疑問視する者もなく、迎える03/04シーズンに大きな期待が寄せられていたが、チェルシーの進める大型補強の対象となって電撃移籍。この移籍が表ざたになるとインテリスタからの猛反対を受け、この移籍を白紙に戻そうとしたモラッティ会長であったが、時すでに遅く、チェルシー側にこれを拒否される結果となった。
結果的にイングランドでは10得点に終わり、その期待を裏切るものとなるも04/05シーズンセリエA復帰後は序所にコンディションを上げ、シェバとのコンビを確立、チャンピオンズ・リ−グでは通算6得点で決勝進出に貢献、決勝リバプール戦では2得点を挙げながらPK戦の末チームは敗れたが、このシーズンの完全復活は誰の目にも明らかであった。
シーズン終了後、ミランへの完全移籍を望むも交渉は決裂し再びチェルシーへ戻る事となったが、ここでリーグタイトルに貢献し翌06/07シーズンより古巣インテルへ復帰している。

アルゼンチン代表としてはユースでも活躍し1996年アトランタ五輪では6得点を挙げ得点王獲得、チームに銀メダルをもたらしたが2番目の褒美はいらないとメダルをポケットにしまい込むエピソードを持つ。恩師パサレラがアルゼンチン代表監督に就任した後、1995年2月14日のブルガリア戦にてデビューを果たす。1998年ワールド杯ではバティストゥータの控えとして不本意に終わり(1試合出場)2002年ワールド杯南米予選では12試合出場9得点(予選得点王)を挙げチームの主砲として活躍しながら本大会ではまさかのグループリーグ敗退を屈しバティの胸で泣きじゃくるクレスポの姿は非常に印象的であった。
リベンジを誓い挑んだ2006年ワールド杯では本領を発揮し4試合で3得点の活躍を見せたが、ここでも母国を優勝に導く事は出来なかった。

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