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占守島

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詳細 2016年4月30日 22:32更新

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島の北東端を占める島。ロシア連邦の実効支配下にあるが、日本政府は国際法上は所属未定地であると主張している。ロシア名シュムシュ島 ( о.Шумшу)
歴史

アイヌが古くから居住していた。19世紀にはシベリアからオホーツク海を通してロシアが西から入り込み、日露和親条約によって一度ロシア領となるが、樺太問題が深刻化したため、1875年の樺太・千島交換条約で樺太と交換に日本領となる。このため、目前のロシア、後のソビエト連邦と向き合う最前線となり、国境警備の拠点として日本軍が駐屯、居住していたアイヌは色丹島などに移住させた(しかし、居住環境の急な変化についていけず、多くのアイヌが死亡した)。当時の行政区画では北海道根室支庁占守郡に属し、択捉島以南と異なり町村制は施行されなかった。なお、日本領時代は択捉島以北は幌筵島と占守島しか定住者がなかったため、特に問題にもならなかった。

第二次世界大戦中も日本領であったが、休戦後の1945年8月18日に、ソ連軍が侵攻し日本軍と戦闘になった。8月21日に戦闘行動が停止され、ソ連軍が占領した。この島は千島列島唯一のソ連軍との激戦地である。ソ連はこの行動の根拠をヤルタ会談の秘密協定に求めているが、日本側は日本の知らない秘密協定での行動は違法だとしている。1951年に日本はサンフランシスコ講和条約で同島の領有権を放棄したが、同条約の調印国ではないソ連が占領・実効支配を続け、ソ連崩壊後は引き続きロシア連邦の実効支配下にある。このため、日本はこの地域の領有は未定という立場を取っている。

占守攻防戦

太平洋戦争での米軍上陸を恐れた日本軍は、第五方面軍第91師団第73旅団をこの島に派遣して要塞化を進めていたが、1945年(昭和20)8月15日、日本敗戦の報とともに米軍機による爆撃が停止された。電波状況が悪いため玉音放送はほとんど聞こえなかったが、16日に師団参謀立会いで武装解除を行っていた。

だが15日以降、国籍不明機(実際はソ連機)が先行爆撃を実施。同17日深夜(18日未明)、勧告等は一切無く対岸のソ連ロパトカ岬から砲撃が始まり、同時に艦艇からの支援射撃を背景にソ連軍部隊が強襲上陸を開始した。日本軍はこれを速射砲と大隊砲、陸海軍の航空隊所属の僅かな航空機によって迎え撃った。この予想外の抵抗はソ連軍の指揮を混乱させたが、大損害を出しつつも上陸自体は成功し、朝6時までにソ連軍は四嶺山まで進出した。しかし、日本軍は池田末男中佐(戦死)率いる第11戦車連隊(通称『士魂部隊』)を投入して戦線を膠着させたうえ、ソ連軍をさんざんに蹂躙。ソ連軍は内陸に進むことができなかった。日本軍は海岸付近に一挙に攻勢をかけ、ソ連軍を殲滅しようとしたが、第五方面軍より戦闘停止・自衛戦闘への移行命令が下ったため、第91師団はソ連軍の攻撃の中、停戦のための白旗を掲げた軍使が派遣されるがソ連軍はこれを射殺した。その後、ソ連軍が軍使を受け入れたため停戦交渉が始まり、8月21日に停戦した。23日にはソ連軍の監視の下で武装解除が行われた。

この闘いにおけるソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(日本側資料では日本側死傷者500名以上600名から700名、ソ連側約3,000名。ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)。また生存した日本兵は武装解除の後シベリアへ送られ、抑留された。

また当時、缶詰工場が稼動しており、そのうち400名は女子工員であった。迎えの船が来次第、内地へ送り返すこととなっていたが、ソ連軍の攻撃を受けて帰れなくなっていた。参謀長らはソ連軍の陵辱被害を恐れ、400名の女子を20隻の独航船に分乗させ、濃霧の中を出航させた。ソ連軍の攻撃が続いていたが、高射砲の一斉射撃でこれを防ぎ、5日後北海道に400名全員が無事帰還した。

ヨシフ・スターリンは北海道の東半分(釧路〜留萌までの直線から東部)を占領することを欲していた(日本降伏直後の電報で占領の意志を示したが、米トルーマンに拒否された)ので、すばやく千島・樺太を攻略する必要があったのだが、その一歩目である占守島で予想外に長い時間を費やしてしまった上に、損害が満州・朝鮮をあっさりと上回り、北海道を諦めざるを得なくなったという。また、ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない、全く無駄な作戦だった。」と回顧録を残している。

日本軍の被害が少なかった理由

* ソ連軍が上陸できる砂浜が狭い竹田浜しかなく、上陸地点が予想され狭い砂浜で効果的に攻撃された。
* ソ連軍の戦車揚陸艦が日本軍の砲爆撃により撃沈され、戦車を揚陸できなかった。
* 天候不良、航続距離の短さのため、ソ連軍は航空兵力による効果的な援護ができなかった。
* ソ連軍は上陸作戦の経験がなく、上陸前の艦砲射撃が1時間しか行われず陣地の破壊が充分ではなかった。
* 日本軍の兵士はノモンハン事件やガダルカナル島の生き残りが多く経験、士気が高かった。
* 北方方面はほとんど戦場にならなかったため、日本軍の食料・弾薬が十分であった。
* 政治的な色合いが強く、戦術戦略上の意義が皆無の作戦(既に日本は降伏している)ため、指揮官にも攻略の意欲は乏しく、ソ連軍の戦意も著しく低かった。

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