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木曾義仲

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詳細 2016年8月10日 10:54更新

朝日将軍・木曾義仲好きな方はどうぞ。

トピ立てもご自由に。
挨拶はこちらで。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=13995479&comm_id=1712341


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木曾義仲関連お薦めサイト。

『木曽義仲のホームページへようこそ』
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/gehen/japanese/start.htm

『木曽義仲大研究』
http://www.rr.iij4u.or.jp/~komao/yoshmenu.html

他にもお薦めサイトご存知でしたらお知らせください(*´ω`)





源 義仲(みなもと の よしなか)(久寿元年(1154年)-元暦元年(1184年)
平安時代末期の信濃源氏の武将。通称・木曽次郎。木曽 義仲の名でも知られる。征夷大将軍となり、「朝日将軍(旭将軍)」と呼ばれた。
清和源氏の一族で、河内源氏の流れを汲む。父は源義賢。源為義の孫で、源義朝の甥、源頼朝・源義経の従兄弟にあたる。幼名は駒王丸。


祖父の源為義と伯父の源義朝が対立的関係になった時、父為義の命を受けて本拠地の京都から関東に下った源義賢の次男として武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に生まれる。関東での源為義派の父義賢と、伯父の義朝の対立の過程で、父の義賢が甥の源義平に討たれた後、幼少の義仲は 畠山重能、斎藤実盛らの援助で信濃(長野県)に逃れ、木曽谷の豪族、中原兼遠の庇護下に育ち、通称を「木曽次郎義仲」と名乗る。有名な巴御前は、義仲の愛妾であり、兼遠の娘といわれる。


1180年、平清盛と対立していた後白河法皇の皇子である以仁王が全国に令旨を発し、叔父新宮行家が全国で挙兵を呼びかけると、同年9月7日、義仲も呼応して挙兵した(市原合戦)。
翌1181年、越後から攻め込んできた城助職を千曲川横田河原の戦いで破り、一時上野国(群馬県)へ進むが、関東地方で挙兵した源頼朝とは合流せずに北陸道に進んだ。北陸では逃れてきた以仁王の子を北陸宮として擁護し、北陸を勢力圏として固めた。
1183年5月、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦い(富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で平維盛率いる追討軍を破り、同年7月、京都に進軍して平家を西走させた。

京都に入った義仲は、8月11日に後白河法皇より従五位下左馬頭・越後守に任ぜられ、また「朝日将軍」という院宣が下された。この位は後白河法皇によってこのときに突然にして創り出されたものであり、まったく前例のないものである。おそらく義仲の平家追討の功績を一応称えるとともに、征夷大将軍の位を望む義仲を牽制したものと推定される。
8月16日には平家一門の60余名が官職から追放され、また義仲自身は越後守から伊予守に転任させてもらっている (おそらく、すでに義仲の支配下に落ちている越後の国主よりも平家の力の強い四国の国主になっておいたほうが得だと考えたのであろう)。

さらに義仲は自らが奉じていた皇族北陸宮を即位させようと画策したが、後白河法皇は相手にせず、8月20日に高倉天皇の皇子で安徳天皇の弟四之宮(後鳥羽天皇) を即位させた。このあたりから伝統や格式を重んじる後白河法皇や貴族社会は知識や教養がまるでない義仲を「粗野な人物」として厭うようになっていった(義仲は平家一門や子供時代を京都で過ごした頼朝とは違い、生まれてから京都で過ごした経験がなかったためにそうしたものに触れる機会が存在しなかったのである)。

また義仲は京都の治安回復にも失敗した。逆に当時の京都は連年の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた背景もあって、追い詰められた義仲軍の中には民から略奪を行うものまで現れる始末となったのである。
後白河法皇は、義仲を京都から厄介払いすることを目的としてたびたび義仲に対して西国へ逃れた平家の追討を命じるようになった。やむなく、腹心の樋口兼光を京都に残して後白河法皇を牽制しながら、9月20日に平家追討の為に播磨国へ向かって出陣した。

しかし海戦に不慣れな木曽源氏軍は、備中の水島の戦い(岡山県倉敷市)で平家水軍に大惨敗。義仲軍は閏10月15日に京都へ逃げ帰ってきた。
しかし法皇にはもはや義仲を受け入れるつもりはなく、比叡山や園城寺の協力をとりつけて僧兵を集めて院の守りを固めるとともに、11月7日、義仲に再度平家追討令を出して、京都から出て行くよう命じた。半ばやけくそになった義仲は、11月19日に法皇の法住寺殿を襲撃し、法皇を五条内裏に幽閉して政権を掌握。11月21日には藤原基房(前関白)の娘藤原伊子に自分の妻になるよう強要し、さらに11月23日には法皇に組した公卿49人を解官。さらに12月10日、法皇に強要して鎌倉の源頼朝追討の院宣を書かせて、寿永3年(1184年)1月10日には自らを征夷大将軍に任命させた。
しかしまもなく源範頼、源義経率いる鎌倉源氏軍が到着。義仲は京都の防備を固めて鎌倉源氏軍との開戦に及んだが、法皇幽閉にはじまる一連の暴挙のため、木曽源氏軍の兵士は次々と敵前逃亡し、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。義仲自身も近江国粟津(滋賀県大津市)で戦死(宇治川の戦い)。享年31。法名は徳音院義山宣公。

義仲が戦死したとき嫡子義高は頼朝の娘大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれ、義仲の家系は絶えた。但し、戦国時代の木曽谷の領主木曽氏は義仲の三男木曽義基の後裔と称している。

また、義仲の兄の八条蔵人源仲家は、摂津源氏の源頼政が養子にし、頼政と共に宇治で討死している。


官職位階履歴

1183年(寿永2)
8月11日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。越後守兼任。  
8月16日、伊予守兼任。越後守の任替。  
10月、左馬頭辞任。  
10月13日、従五位上に昇叙。伊予守如元。

1184年(寿永3)
1月2日、従四位下に昇叙。昇殿を許される。伊予守如元。 
1月10日、征夷大将軍宣下(旭将軍の号を賜る)。

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2007年1月5日

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