mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 井深八重さんが好き!!

井深八重さんが好き!!

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2016年6月6日 10:02更新

私には、まだ人の苦しみも宗教も仕える意味も・・・
分からないかも知れません。
でも、この人はすごいことをしたんだとしっかり分かります。
日本のマザーテレサ・井深八重氏を尊敬している方はどうぞ!



===============
今世紀、繁栄の狭間から噴き出した貧困、飢餓、戦争…。
今なお世界中で死の恐怖に脅え、一粒の薬がないため喘ぐ、無数の人々がいる。
誰もが目をそむけるそんな闇に自ら飛び込み、灯をともした女性たちがいた!!
人生をインドの貧しい者、止める者のために捧げ、皆から“マザー”と慕われたマザー・テレサ。
道で行き倒れた人が、捨てられた子供たちが、そして死にゆく者たちが、どれほど差しのべられたマザーの手に安らぎを見たことか…。
マザー1人で始められた活動が、この半世紀で世界中に広がり、多くの女性たちがその人生をマザーの後に捧げてきた。
「私たちが貧しい人たちに与えているのではありません。
 貧しい人たちが私たちに与えてくれるのです。」
 
昭和50年、アメリカの雑誌「タイム」にマザー・テレサと並んで紹介された、一人の日本人女性がいた。
“生きている聖女”
かつて不治の病とされ、社会から見放されたハンセン病患者の看護と救済に生涯を捧げ、ローマ法王から最高の栄誉とされる「尊十字賞」に選ばれた、井深八重。
ソニーの創設者、あの井深大氏につながる井深一族に生まれながら、思いもよらぬ運命の巡り合わせから、過酷な運命に飛び込んでいった八重。一切を捧げ尽くしてハンセン病克服の歴史に大きな灯を点した。
「患者さんの臨終に、本当にいろんな人生の生き方があるものだと…。
 口では言えない教訓を与えられ、素晴らしいものだと思いました」。
 
人間の極限状態を共に見続けたマザー・テレサと井深八重、彼女たちが21世紀の我々に託した、そのメッセージとは!!
 
1929年、19歳のマザー・テレサことアグネス・ゴンジャは神に生涯を捧げる誓いをたて、家族に永遠の別れを告げて旧ユーゴスラビアからインドにやってきた。
アグネスは、シスター・テレサとして修道院の女学校で教壇に立ち充実した日々を送っていた。
 
ところが、第二次大戦とベンガル飢饉によって、町には難民が溢れ、さらにヒンズー教徒とイスラム教徒の争いで混乱は深まり、人々は悲惨な状況に陥っていた。
そんな中、テレサは神に祈るだけでなにもしていない自分に悩むようになっていた。
そんなある日、汽車に乗っていたテレサは神の声を聞く。
「病める者に手を差し伸べ、家もなく飢える者を助けよ。貧しい者の中の最も貧しい者を救え」
 
テレサは一人、住み慣れた学校を捨て、カルカッタのスラム街へと飛び込んでいく。
しかし、予想以上にひどいスラムの状況に、テレサの体も疲れ果てていった。
ある日、テレサが飢えた母親と子供たちに持っていたわずかな米を差し出す。
ところが、母親はその米を半分に分け、もう半分を裏の家の人に分けるため、家を飛び出していったのである。 
テレサは与えようとしている自分が与えられ、慈しみを教えられているのに気付いた。
 
想いを新たにテレサはスラムの子供たちに字を教える青空教室を始める。
そこにかつての教え子たちがテレサの手伝いをするため集まってきた。
一人また一人と増えていった活動に今度は進んで食物やお金を寄付してくれる人まで現れた。
 
1950年、テレサたちの活動はローマ法王から認められる。
『神の愛の宣教者会』、マザーと呼ばれる旅立ちだった。
“貧しい人たちの最も貧しい人たちに仕える”それが彼女たちの誓いであった。
 
マザーが始めた『死を待つ人の家』。ここでは路上で瀕死の状態で打ち捨てられた人々の体を洗い清め、温かいスープを与える。シスターたちに優しく語りかけられながら、彼らは穏やかに息をひきとっていく。
貧しい人が死ぬまで見捨てられたままにならないように…。
路上やゴミの中に捨てられた子供たちを育てる、『孤児たちの家』。
ここではシスターたちが赤ん坊を母親となって抱きしめることから始まる。
「あなたも望まれてこの世に生まれてきたのですよ…」
 
大正8年、静岡県御殿場市のハンセン病病院『神山復生病院』に一人の娘がやってきた。
井深八重、22歳。それは思いもかけぬ運命のいたずらであった。
明治23年、八重は旧会津藩家老からの家柄で、国会議員にまでなった井深彦三郎の娘として生まれた。明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に物心ついてから預けられ、何不自由なく英才教育を施された八重は、京都の同志社女学校を卒業後、英語教師として長崎の県立女学校へ赴任。
 
ところが一年後、縁談の話がきた矢先、八重は自分の体に異変を発見した。
すぐに診察を受けるが、なぜか診断結果が八重に知らされなかった。
何も知らされぬまま神山復生病院につれられてきた八重は院長室で思いもよらない言葉を聞く。「ライ…」
当時、一般にライ病は遺伝病という誤った俗説があり、「恥ずべ業病」とされていた。
名門・井深家からライ患者を出すことは一族の重大事件であり、八重は事実をふせられたままライ病院に隔離されたのだった。
 
八重の脳裏を「自殺」ということばが幾度となくよぎる。しかし、死ぬまでもなく既に戸籍からも抜かれ、社会的に死んだも同然の八重であった。
しかし、絶望の淵にいる八重の目に、笑顔で患者たちに接し、自分も感染するかもしれないのに素手で患者をなでさする院長、レゼー神父と、患者たちの明るい姿が映っていた。
 
マリア像の前で「空の空なるかな…みな空なり」という聖書の言葉を考えながら彼女の中で、思いもよらぬ世界が開けた。
「もしかしたら、この世で生の望みを絶ったはずの彼らが新たな生の意味に目を開き、
 神の手に身を委ね、決して空ではない確かなものをつかみとろうとしているのでは!」
 
一年が経ち、なかなか症状が悪化しない八重は東京の皮膚科の親戚のもとで再検査をうけると、なんとライではない、という診断が下された。
しかし八重は、一転して絶望の底から救われたにもかかわらず、なぜか喜んではいけない気がしていた。
そして、彼女はやっと解放された病の恐怖に、再び今度は自分から飛び込んでいくのである。
看護学を学び、病院でただ一人の看護婦として働き始める八重。
人にとっては苦行にみえる道も彼女にとっては最も魂が充たされる悦びのみちであった。
 
患者たちから「母にもまさる母」と慕われた八重に昭和36年、国際赤十字から看護婦の最高名誉・ナイチンゲール賞が贈られても、彼女はどこまでも控えめで、自分を語ることはなかったのである。
 
ひたすら人に尽くすことに人生を捧げたマザー・テレサと井深八重。
二人の行為は決して政治や社会の仕組みを変えるようなことではない。
インドのスラム街で、そして患者たちの中で…、一人一人に手渡しにされてきた愛である。
しかし、その手渡しの行為こそが、国境を越えて広がり、歴史を動かしてきたのかもしれない。
 
21世紀の私たちにマザーはこう言う。
「パンの飢えがあるように、豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。
 誰からも愛されず必要とされない心の痛みです。
 与えてください。あなたの心が痛むほどに…」

 

コミュニティにつぶやきを投稿

最近の投稿がありません泣き顔
つぶやき・トピック・イベント・アンケートを作成して参加者と交流しようわーい(嬉しい顔)
参加メンバー 20人

もっと見る

開設日
2006年12月26日

3837日間運営

カテゴリ
学問、研究
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!