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堀 悌吉

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詳細 2017年2月12日 12:10更新

〜国士無双といわれた逸材〜
明治16年大分県で、農業矢野弥三郎の三男として生まれる。後に堀家を継ぐ。杵築中学から海軍兵学校へ入学。第32期。同期に、山本五十六、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾と4人の大将がいる。入学時の成績は、192名中3番。卒業時は1番。因みに、山本は入学時2番で卒業時13番。堀は、「兵学校創立以来、未だ見ざる秀才」といわれ、同期生の間には「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」という句が残っていた。秀才の集まりでもあった海軍兵学校の中で、群を抜いていたのが、堀であった。また、堀は砲術学校普通科学生1番、水雷学校普通科学生2番、海軍大学乙種学生1番、砲術学校高等科学生4番、海軍大学甲種学生2番と、全てにわたり恩賜を賜り、海軍きっての逸材と言われた。文武両道にたけていたが、「人物は謙虚で、酒も飲まず、煙草もすわず、無駄口をきくわけでもなく、どちらかと言えば、欠点のない、穏和な人柄」であった。「俊敏隼の如きも一面閑雅風流の所あり。神社仏閣の巡拝、美術の鑑賞、自然の風物に浸り、また日本舞踊を好み、長唄などに耳を傾く余裕もあり」という面があった。
 山本五十六(当時高野姓)の盟友であり、兵学校時代山本は「吾、一人の友を得たり」と、実兄高野季八宛の手紙に記している。堀もまた、後年山本について「深く相識り、相ゆるし、相図り、相教え、相警め、相扶け、相慰め、共に憤り、共に励まして、公務に私事によく尽くし合った」関係であったと書いている。
 明治37年に海軍兵学校を卒業するや否や、平時であれば遠洋航海に出るところを、ロシアとの戦争の真っ直中であり、少尉候補生のまま日本海海戦に参戦する。堀は、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将旗艦「三笠」に乗船し、戦争の悲惨さを実体験し、これ以降、彼の海軍に対する考え方の基本が培われたと言える。
 「互いに名乗りを上げて華々しく刃を合わせた歴史時代の武士の作法から見れば、何たる変わりようであろう。殊に近代の海戦においては武士の情けも何もあったものではない。ただ遠くからお互いに砲弾を送り合って対手を倒さんとする手段のみが存在するのである」と、集中砲火を浴びて沈没寸前の、甲板上に多数の水兵を乗せたロシア戦艦「ウラル」の掲げた信号旗旒を、双眼鏡を通して目撃し、堀はその信号を、降伏申し入れではなかったのかと、戦争の残酷さ悲惨さを、40年経った昭和21年5月の手記に記した。「戦争そのものは明らかに悪であり、凶であり、醜であり災いである。しかるに、これを善とし、吉とし、美とし、福とするのは、戦争の結果や戦時の副産物などから見て、戦争実体以外の諸要素を過当に評価し、戦争実体と混同するからにほかならぬ」と堀は述べている。「軍備は平和の保証である」「海軍はどこまでも防御的なものである」との防備艦隊の戦略思想は、日本海海戦の経験が大きく影響していることが伺える。
 堀は、大正2年から5年にかけてフランス駐在を経験し、帰国後海軍大学を卒業し、軍務局一課員を経て、ワシントン軍縮会議の随員となった。昭和5年1月からの、大型巡洋艦や補助艦、潜水艦の保有を制限するロンドン軍縮会議の際、堀は少将として海軍省の軍務局長として国内にあった。山本五十六少将は、前首相の若槻礼次郎を首席全権とし、海軍大臣財部彪大将等全権の一団の随員として、ロンドンにいた。日本政府は、大型巡洋艦も補助艦も対米7割と要求したが、米国は6割を主張して互いに譲らなかった。時の軍令部長加藤寛治大将、次長末次信正中将ら軍令部側は7割に固持し、条約に猛烈に反対したが、対米英不戦の海軍省側は、国際協調の観点から、まず協定すべきであるとの立場であった。財部彪海軍大臣を中心に、海軍次官山梨勝之進中将、軍務局長堀悌吉少将、先任副官古賀峯一大佐らが軍政派(条約派)を形成していた。当時、日本経済は世界大恐慌の影響を受け、深刻な状況下にあり、軍拡競争をひとまず中止し、国民の生活を守ることが先決であったと言える。ロンドン軍縮会議は、日米の妥協により条約が調印された。
 昭和7年2月、伏見宮博恭が軍令部総長に、8年1月に大角岑生大将が海軍大臣に就任するや、いわゆる艦隊派の軍政派(条約派)への攻撃が激化し、続々と軍政派の優秀な人材が、予備役に編入されていった。昭和8年3月山梨勝之進大将、同年9月谷口尚真大将、9年3月左近司政三中将、同年4月寺島健中将等が、予備役に編入された。この間、堀に対する言われなき中傷は、苛烈を極めた。昭和7年、第3戦隊司令官として上海事変の際、堀のとった作戦行動が卑怯であるとの誹謗であった。呉淞(ウースン)砲台から突然砲撃を受けた際、直ちに反撃することなく、一時退避した後、反撃に転じたことを一方的に非難するものであった。堀は、居留民の安全確保と国際公法の遵守のため、あえて一時退避し、被害が及ばぬよう付近の外国船舶等に予告をし、砲台のみの破壊に限定し、民家等を破壊することなく応戦をしている。後に堀は、上海事変について次のように述べている。「平戦時公法の無視蹂躙、兵力濫用の修羅場である。戦果誇張、功名争いの餓鬼道の展開である。さらに同僚排撃の醜悪なる畜生道である。一言にして上品に言うても、武士道の極端なる堕落である。かような場所で、かような友軍と協同して警備に従事せねばならなかったのは、自分の不幸な廻り合わせである」また、「昭和7年1月末の上海事変は、第1遣外艦隊の無分別、無定見により起こされたものである。したがって、まったく無名の帥(いくさ)である」とも述べている。
 昭和9年10月、山本五十六少将は日本代表として、第2次ロンドン軍縮会議予備交渉に臨んだ。山本は、帰国途中ベルリンで、海軍兵学校の同期生でもある海軍省軍務局長吉田善吾中将から一通の極秘電報を受け取った。その内容は、海軍中将堀悌吉の予備役編入を知らせるものであった。山本は「堀を失ったのと大型巡洋艦一隻と、どっちが海軍にとって損失かわかっているのか」と口惜しがった。数日後、山本は堀宛筆を執ったが、この書簡は戦後発表されている。「堀兄  吉田よりの第一信により君の運命を承知し、爾来怏々の念にたえず。出発前相当の直言を総長にも大臣にも申し述べ、大体安心して出発せるに事ここに至りしは誠に心外にたえず。 (略) 海軍の前途は真に寒心の至りなり。 かくの如き人事が行われる今日の海軍にたいし、これが救済のための努力するも到底むつかしと思わる。やっぱり山梨さんが言われしごとく、海軍自体の慢心に斃るるの悲境に一旦陥りたる後、立直るの外なきにあらざるやを思わしむ。 (略)」
 堀の予備役編入と同じ9年12月、ワシントン条約は米国に破棄通告された。以後、建艦競争の時代に突入していく。
 予備役編入となった堀は、当時の日本飛行機社長、浦賀ドック社長として海軍のためバックアップした。昭和34年5月12日、76歳で逝去。

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