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John McGeoch

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詳細 2016年4月27日 05:22更新

鬼才ギタリスト、サキソフォーン・プレイヤー、そして画家としてのジョン・マクガフ John McGeoch 単独のコミュニティです。

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ジョン・アレグザンダー・マクガフ[彼と同じバンドで活動した人々は「マギアー」と呼んでいる]John Alexander McGeoch(1955年5月28日−2004年3月4日)

 スコットランド人ギタリスト。マガジン Magazine、ヴィサージュ Visage、スージー&ザ・バンシーズ Siouxsie & the Banshees、ジ・アーモリー・ショウ The Armoury Show、パブリック・イメージ・リミテッド Public Image Ltd.(PiL)など、ポストパンク期を代表するバンドを遍歴。スージー・スー Siouxsie Sioux は、どんなときもマクガフがお気に入りのギタリストだったと述懐する。
 マクガフはインヴァークライド州グリーノック[スコットランド北西部]に生まれ、10代のときマンチェスターに移転。そこで台頭するパンク・シーンに魅かれるようになり、ギターを習得する。判明しているのは、最初に弾いたリフがクリーム Cream の「サンシャイン・ラヴ Sunshine of Your Love」だったことである。そしてあの奏法、ノイズを抑えた音、独創的なアルペジオ、フランジャー・ペダルの使用、伝統的なスケールの無視などが生まれる(ティナ・ターナー Tina Turner によるザ・テンプテイションズのカヴァ「ボール・オブ・コンフュージョン Ball of Confusion」のイントロ参照)。
 美術の学位を取得したマクガフは、さらに写真、油彩画、線描画へも興味を広げ、ジ・アーモーリー・ショーではジャケット・アートも手がけている。

【マガジン(1977-80)】

 1977年4月、マクガフはハワード・ディヴォート Howard Devoto の置いたギタリスト募集広告に応じる。ディヴォートはバスコックス Buzzcocks を脱退したばかりで、いわゆる“3コード・パンク”の枠を越えたバンドを結成しようとしていた。まさにうってつけのものをマクガフに見出したディヴォートは、マガジンを結成し、バリー・アダムスン Barry Adamson、ボブ・ディキンスン Bob Dickinson、マーティン・ジャクスン Martin Jackson が加わった。
 1978年1月、マガジンはデビュー・シングル「明日に撃て Shot by Both Sides」をリリース。曲を書いたのはピート・シェリー Pete Shelley だが、歌詞はディヴォートが新たにつけたもので(バズコックスでは同じ曲は「リップスティック Lipstick」になった)、このリリースがポストパンク期の黎明となった。シングルは全英チャート41位まで上っている。
 マクガフは『リアル・ライフ Real Life』(1978)、『セカンドハンド・デイライト Secondhand Daylight』(1979)、『コレクト・ユース・オブ・ソープ The Correct Use of Soap』(1980)と、マガジンの3枚目のアルバムまでギタリストを務め、そのあいだにあの独特のギター・サウンドを確立した。1980年に脱退。理由は、音楽業界のなかでは非常に高い評価を得ていたのに、商業的な成功に結びつかなかいのに業を煮やしたからだという。

【ヴィサージュ Visage(1979-80)】

 マガジン在籍時代から、マクガフはジェネレーションX Generation X やスキッズ The Skids といったバンドに客演。同じマガジンのバリー・アダムスン Barry Adamson、デイヴ・フォーミュラ Dave Formula とともに、スティーヴ・ストレンジ Steve Strange のエレポップ・ユニット、ヴィサージュにも参加している。マガジン脱退後は、ヴィサージのファースト・アルバム『ヴィサージュ Visage』(1980)でギターとサキソフォーンを担当することになった。
 マクガフはヴィサージュというプロジェクトをジョークとみなしてはいたが、求めていた商業的成功は、短期間ながら、掌中にできた。シングル「フェイド・トゥ・グレイ Fade to Grey」が、21ヵ国でチャート1位を獲得したのである。

【スージー&ザ・バンシーズ(1980-82)】

 バンシーズに加入してからのマクガフは、名実ともに成功を収めることになる。マクガフ在籍期の3枚のアルバム、『カレイド・スコープ Kaleidoscope』(1980)、『呪々 Juju』(1981)、『キス・イン・ザ・ドリームハウス A Kiss in the Dreamhouse』(1982)は、今日に至るもスージー&ザ・バンシーズの最高傑作と広い評価を得ている。この時期のヒット曲の数々で、マクガフ自身も生涯最高のプレイを生み出した。1980年の「ハッピー・ハウス Happy House」と「イスラエル Israel」の2曲は、その最たるものである。しかしマクガフは、ツアーのストレスと暴飲の結果、神経症に苦しむようになり、1982年、マドリードでのコンサートの最中に、ステージで倒れてしまう。

【PiL(1986-92)】

 1984年にリチャード・ジョブソン Richard Jobson、ラッセル・ウェブ Russel Webb(ともに元スキッズ)、ジョン・ドイル John Doyle(元マガジン)と結成したジ・アーモリー・ショウがぱっとしなかったため、1986年、マクガフは、パブリック・イメージ・リミテッドに参加する。そもそもはマクガフが PiL の大ファンで、とりわけジョン・ライドン John Lydon の歌詞を絶賛しており、Pil 側からも誘われていたが、ほかにいろいろ義理があるからと、1984年にいったんは断った経緯があるという。加入早々にして、ウィーンでのコンサート中にワインボトルで顔を殴られるという事件があったが、マクガフは 1992年の PiL 最後のライヴまでプレイし続け、最長期間在籍メンバーとなった。マクガフ期のアルバムは、『ハッピー? Happy?』(1987)、『ナイン 9』(1989)、『ザット・ホワット・イズ・ノット That What is Not』(1992)となる。

【その後】

 PiL の瓦解後、マクガフは、ヘヴン・セヴンティーン Heaven 17 のグレン・グレゴリー Glenn Gregory、スパンドゥー・バレエ Spandau Ballet のジョン・キーブル John Keeble と、それぞれユニットを結成するが、どちらも実を結ばなかった。
 70年代から80年代を通して、シーンの最先鋒であり続けたマクガフは、新しい世代の音楽を前に、立ち往生せざるを得なくなった。1995年には看護師資格を取得はするものの、テレビ局の依頼で作曲を続けていたマクガフは、2004年、睡眠中に亡くなったという。90年代以降は音楽的成功らしいものを得られなかったにせよ、ザ・ストロークス The Strokes、ザ・ラプチャー The Rapture、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ Red Hot Chili Peppers のジョン・フルシアンテ John Frusciante、マニック・ストリート・プリーチャーズ Manic Street Preachers のジェイムズ・ディーン・ブラッドフィールド James Dean Bradfield ほか、数多くのミュージシャンが、大きな影響を受けた人物に、今もマクガフの名を挙げ続けている。

[以上、ウィキペディア英語版 http://en.wikipedia.org/wiki/John_McGeoch の全訳に、一部加筆修正したものです。
 Copyright (C) 2006-2011 Hogetz Kamada. All rights reserved.]

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Emily McGeogh(お嬢さん)による公式サイト
http://johnmcgeoch.tripod.com/

Emily 公式 MySpace(動画投稿多数!必見!)
http://www.myspace.com/j_mcgeoch

Shot By Both Sides.com のページ
http://shotbybothsides.com/mag_john.htm

Fodderstompf(PiL ファンサイト)のページ
http://www.fodderstompf.com/MEMBERS/mcgeoch.html
http://www.fodderstompf.com/ARCHIVES/INTERVIEWS/jmcobit.htm

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