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當麻寺

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詳細 2021年9月10日 02:20更新

小さい頃、境内でよく遊ばせて貰いました。


当麻寺 (當麻寺、たいまでら)は、奈良県葛城市にある奈良時代創建の寺院である。
山号は二上山(ただし、後になって付けられたものです。古代寺院には山号はない)、本尊は弥勒仏である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古(麻呂子とも言われる)王とされるが、草創については不明な点が多い。

西方極楽浄土の様子を表わした「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。地元では「当麻れんぞ」、または「当麻れんど」と呼ばれている。東塔・西塔の2基の三重塔が創建後あまり時を距てない時期のまま残る、日本唯一の寺としても知られる。


中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で名高い当麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。当麻寺がある奈良県葛城市当麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にある。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。折口信夫氏の『死者の書』を参考にされたい。


二上山の南を通る竹内街道は、河内と大和を結ぶ交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地自体が前述の折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。


当麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族当麻氏の氏寺として建てられたものである。寺には仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(7世紀後半)にさかのぼる遺物があり、寺の草創はこのころと推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。


当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に当麻寺草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期の建久2年(1191年)に成立した『建久御巡礼記』という書物。これは、興福寺の僧・実叡が大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。

当麻寺について同書には、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681年)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだ、とある。他の鎌倉時代の史料によれば、当麻寺は推古天皇20年(612年)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、当初は今の当麻寺の南方にあり、692年に現在地に移築されたとする。なお、万宝蔵院の旧所在地については河内国山田郷(大阪府交野市あたり)とする伝承もある。
ただし当麻寺の南方には丘陵状の土地が広がっており、詳細は不明である。南大門も存在していたと伝わるが、現在では跡形もなく、もっぱら東の仁王門が入り口として機能している。


平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から当麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。



国宝

東塔
西塔
本堂(曼荼羅堂)
塑像弥勒仏坐像−金堂の本尊である。像高約2.2メートル。塑像(粘土製の像)は奈良時代には盛んに制作されたが、寺の本尊像を塑像とするのは比較的珍しい。本像の張りのある面相は、奈良・興福寺の「仏頭」の作風に通ずるものがあり、当麻寺草創期の天武朝(7世紀末)の造像と推定される。日本にある塑像としては最古例の1つである。
当麻曼荼羅厨子−本堂(曼荼羅堂)内陣に安置される高さ約5メートルの巨大な厨子で、当麻曼荼羅を懸けるためのものである。平面は奥行が浅い扁平六角形で、屋根、柱等に残る金銀泥絵や金平文(きんひょうもん、金の薄板を文様の形に裁断して漆塗の面に貼り付ける技法)の装飾は正倉院宝物などに見られる古式の技法で、本厨子の制作が奈良時代末期〜平安時代初期にまでさかのぼることを示す。厨子正面の扉(左右各3枚ずつの折戸)は、仁治3年(1242年)に厨子の大修理を行った際に新調したもので、黒漆地に金蒔絵で蓮池を表わし、下部には2,000名を超える結縁者の氏名がやはり蒔絵で表わされている。なお、この扉は取り外されて奈良国立博物館に寄託されている。
綴織当麻曼荼羅図
梵鐘  ちなみにこの梵鐘前でよく遊ばせていただいていた。

(奥院所有)
倶利伽羅竜蒔絵経箱



重要文化財

乾漆四天王立像−金堂須弥壇の四隅を護る。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に継いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、当麻寺の四天王像は静かな表情で直立しており、その顔貌には異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、4体の中で持国天像は比較的当初の部分を残すが、多聞天像は全体が鎌倉時代の木彫に代わっている。
天邪鬼の作風が伸び伸びとしたもので微笑ましい仕上がりとなっている。

(その他の重要文化財)
金堂
講堂
薬師堂
絹本著色当麻曼荼羅縁起 2幅
紙本著色当麻寺縁起 3巻 絵土佐光茂筆 詞後奈良天皇等九筆
絹本著色当麻曼荼羅掛幅(伝慶舜筆)(文亀曼荼羅) 
板絵著色諸尊曼荼羅図 2枚
木造阿弥陀如来坐像(講堂本尊)
木造阿弥陀如来坐像(所在講堂)
木造地蔵菩薩立像(所在講堂)
木造妙幢菩薩立像(所在講堂)
木造阿弥陀如来坐像(紅玻璃(ぐはり)阿弥陀)(奈良国立博物館寄託) 
木造吉祥天立像(東京国立博物館寄託)
木造十一面観音立像(東京国立博物館寄託)(注)
木造光背 40面 附木造光背残欠
石燈籠
螺鈿玳瑁唐草合子(念珠入)
(注)本堂(曼荼羅堂)安置の十一面観音像(通称織殿観音)とは別の像である。

(中之坊所有)
中之坊書院

(奥院所有)
本堂
方丈
鐘楼門
紙本著色十界図 六曲屏風 
紙本著色法然上人行状絵巻 48巻
押出銅造三尊仏像
木造円光大師坐像
選択本願念仏集

(西南院所有)
木造十一面観音立像
木造聖観音立像
木造千手観音立像







どうぞ、一度お参りください。
季節と歴史を感じられるよい寺です。

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