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バルバロッサ作戦

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詳細 2016年6月22日 01:16更新

バルバロッサ作戦(独:Unternehmen Barbarossa)とは、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたドイツのソ連奇襲攻撃の秘匿名称を指す。
名称は、神聖ローマ帝国皇帝だったフリードリヒ1世の渾名であるBarbarossa(赤髭)に由来する。フリードリヒ1世は名君と呼ぶべき人物であったと同時に、東方に力を傾けた人物であったことが理由と思われるが、一説には赤髭=アカの髭=スターリンを表すとも言われる。


ドイツの準備
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ナチス・ドイツがソ連への侵攻を開始したと聞いても、ヒトラーの著書『我が闘争』の読者は驚かなかった。アドルフ・ヒトラーは著書の中でドイツ人がより広い生存圏を必要とし、それが東方で捜されることを明らかにしていたからである。ヒトラーはロシア人を劣等人種と見なし、彼らを追放し、広大な植民地を設ける計画であった。

ナチス・ドイツとソ連は、ポーランド侵攻の直前にモロトフ=リッベントロップ協定を締結して友好関係にあった。それはドイツとソ連が東ヨーロッパの分割支配を合意した相互安全保障条約であった。独ソの条約締結は世界を驚かせた。日本の平沼内閣は日独防共協定に違反するとして責任を取り退陣した。しかし、ドイツにとり条約は単に一時的な保険に過ぎなかった。

ヨシフ・スターリンは1930年代後半に反対派の大粛清を強行し、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を殺害したため、赤軍を弱体させ、指揮官不足を惹き起こしていた。

陸軍首脳部はイギリスを背面にソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは、側近の助言を斥け、「土台が腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と豪語して作戦開始を命令した。

ヒトラーは西方電撃戦の成功により、赤軍との戦いに勝利を確信していた。彼はソ連の扉さえ叩けば、この国は瓦解すると読んでいた。また、赤軍に対する迅速な勝利がイギリスとの和平を促進すると期待していた。このためにドイツ軍は冬季戦に対する適切な寒冷装備を準備していなかった。

ヒトラーはソ連国境に250万の兵力を移動させ、ソ連領に対して数多くの航空偵察を行ったにもかかわらず、ソ連は奇襲を許した。これは、独ソ不可侵条約締結のわずか2年後にドイツが攻撃しないというスターリンの確信と関係する。彼は、ヒトラーが対英戦を終了させた後にしか自国を攻撃することはないと確信していた。情報機関からの再三の警告にもかかわらず、スターリンは、ドイツとソ連の間の諍いの種をまくイギリスの謀略であると考え、情報を拒絶した。中には東京の駐日ドイツ大使館に潜り込んでいたスパイのリヒャルト・ゾルゲの報告も含まれていた。

ヒトラーとドイツ軍指導部は、3個の軍集団に攻撃目標としてソ連の特定の地方および大都市を占拠するために割り当てた。北部軍集団は、バルチック海沿岸に沿い北ロシアへ侵入し、レニングラード(今のサンクトペテルブルク)の占領もしくは破壊を目標とした。中央軍集団は、現在のベラルーシを通りロシアの中西部を進軍し、モスクワへの直接攻撃が目標となった。南部軍集団は人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの草原から引き続き東方のボルガ川まで進軍するように計画を整えた。


ソ連の準備
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開戦時点で、ソ連は主要軍備の保有量と工業生産力においてドイツを上回っていた。ソ連の工業生産は、資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた1930年代に急速に発展し、アメリカ合衆国に次ぎ、ドイツを上回った。重点は重工業、特に軍需産業に置かれていた。また、ソ連の戦車は多くの場合ドイツのそれより高性能だった。

1940年にドイツがフランスを電撃戦で破った後も、ソ連軍はドイツ軍の進軍速度を低く見積もっていた。ソ連軍は、前衛がドイツ軍を国境付近で足止めしている間に主力が後方に集結し、やがて主力が前進してドイツ領に攻めこむという展開を想定していた。計画ではドイツ軍の攻撃は国境沿いの要塞線で阻止されると想定されていた。しかし、1939年までの国境線に構築された「スターリン線」の要塞は、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄された。新しい国境沿いの要塞は構築中で、途切れ途切れの点として存在していた。新要塞線の構築完了まで、ソ連側の防備は脆弱であったが、国境付近に兵力を貼り付ける配備に変更はなかった。また、精鋭部隊の多くはシベリアのソ満国境に置かれ、工業生産の中心はドイツ国境に近いヨーロッパロシアに集中していた。

スターリンは独ソ不可侵条約の有効性を信じ、ドイツの攻撃意図を看過ごした。条約締結までソ連ではファシズムの脅威が宣伝され、国内の粛清の口実になっていたが、条約締結後は一転して反ドイツ的論調が抑圧された。情報部からドイツ軍の国境集結を報じられてからも、スターリンはその情報を、独ソ不可侵条約を骨抜きにしようとするイギリスの謀略だと考えた。政府も軍もめだった行動を起さず、前線部隊への警告も行われなかった。こうして赤軍は、戦略的にも戦術的にも一方的な奇襲を受けた。


攻撃の開始
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1941年6月22日にドイツ軍は攻撃を開始した。作戦は、合計300万人の兵員が動員され、それまでで最大の陸上作戦だった。ドイツ軍は12月の初旬までにモスクワ周辺まで到達した。作戦の致命的な欠点は、ロシアの地があまりに広大で、またロシアの戦争遂行能力が予想外であったことであった。ドイツ軍の見通しは余りに楽観的であった。ヨーロッパロシアはレニングラード、モスクワ、南方の資源地帯と戦略的目標が分散しており、それに応じて兵を三分することを余儀なくされた。それは兵力の分散を招き、また補給の困難さを招いた。また、ヒトラーがユーゴスラビアの反ドイツ政権の転覆に干渉し、さらにムッソリーニが独断で侵攻したギリシャ侵攻作戦が大失敗に終わり、ギリシャ軍に逆襲されたことに対して装甲部隊の投入を余儀なくされたことにより、(Cf.バルカン半島制圧戦)、当初の5月15日実行から一ヶ月以上延期されたことも言及される。

作戦中にヒトラーは、南部軍集団のウクライナ攻撃を支援するために、モスクワに向かった中央軍集団に南方への転換を命じた。それは開戦後ウマーニ包囲戦などの限定的な成功はあったものの、比較的強力な敵部隊の抵抗にあって進撃が困難であった南方軍集団の進撃路をつくった。この動きはモスクワに対する攻撃を遅らせた(ドイツ軍がモスクワをその攻撃の視野に入れ始めたとき、秋の雨季による泥濘と、続く冬の降雪がその進軍を停止させた)。ただし、OKHなどが考えていたモスクワ直進は補給が追いついていなかったこと、さらにソビエト連邦の大都市や資源が存在する南方での進撃が史実よりも困難になることから、正解ではないかといわれている。

さらに、祖国を防御するための大祖国戦争を宣言したソビエト人達による抵抗は、ドイツ側が予想したよりはるかに猛烈だった。ベラルーシ、ブレストの国境要塞での戦いはその予期しなかった抵抗の一例である。ドイツ侵入の一日目、要塞は数時間以内に占領できると計画された。しかしながらドイツ軍とソ連の守備隊は、包囲された要塞の内部で一か月間戦い続けた。同時に主要な正面戦線においては、多くのソビエト徴集兵の自殺行為にも似たドイツ軍に対する突入攻撃が行われた。補給線が伸びてパルチザンの攻撃に脆弱になったので、ドイツの兵站補給はさらに大問題になった。赤軍は、ドイツ軍に占領地の食物、燃料および建造物の使用を行わせないために放棄することを強いられたすべての土地に対して焦土戦術を実行した。ソビエトからの独立志向があったウクライナ地方においては、ウクライナ人を戦争協力させる案があったが、不手際から結局のところ同様に敵に回してしまっている。

しかしながらドイツ軍はこれらの反撃にもかかわらず、赤軍をしばしば撃破するか包囲、降伏を強要して進軍を続けた。キエフの戦いは特に激烈だった。10月中旬に南部軍集団はキエフを占領し、650,000人を越える捕虜を連行した。その多くはナチの強制収容所で死んだ。キエフは英雄的な戦闘で英雄都市の称号をその後与えられた。

バルト海地域とレニングラードの占領が目的だった北方軍集団は1941年8月までにレニングラードの南部周辺へ進軍したが、猛烈な赤軍の抵抗はそれを止めた。レニングラード占領の代価を考えたドイツ軍は、装甲部隊の投入を行わず、包囲と封鎖によって都市の補給を絶つことを決定した。しかしながら、1944年前半のドイツ軍の撤退までレニングラードは持ちこたえた。レニングラードは英雄都市の称号を受け取った最初のソ連の都市だった。

バルバロッサ作戦の決定的な転機は、1941年後半に中央軍集団がクレムリンの尖塔の見える所まで進軍したときだった。彼らがモスクワを入手するのと同じくらい冬将軍は接近していて、赤軍のモスクワ防御はロシアの凍結した大地にドイツ軍を追い返した。反撃の大部分は、モスクワに接近していた中央軍集団に向けられた。モスクワはその後英雄都市の称号を受け取った。

初期のソビエトの敗北原因
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赤軍の開戦初期の大敗の原因は単純だった。彼らはドイツの攻撃を予期せず、防御のための準備を行わなかった。さらに悪いことには、赤軍の大部分は独ソ国境に集結させられていた。国土は寸土であっても渡さないといった硬直化した思想のため戦闘開始の数時間でほとんどが撃破されたのである。ドイツが編み出した電撃戦に対しての有効な防御はまだ編み出されたわけではなかった。

人口、生産設備や農地の大半を失った後でもソ連がドイツを破った事実は、ソ連が決して弱くなく、指導者達は十分に賢明だったことを証明した。

しかしながらこの敗北はソ連の宣伝姿勢の変化を引き起こした。戦前赤軍は非常に強力であるとされていたが、1941年の秋には人々に赤軍は弱かった、戦争の準備をする十分な時間がなかった、ドイツの攻撃は驚くべきものだったと伝え始めた。このことはソ連崩壊後の現在のロシアの学校では、スターリンの1930年代の粛清で多くの熟練した士官を失ったことを付け加えて教えられている。同時に戦争が終わった何十年も後である現在でも、1939年から41年の赤軍のほとんど全てに秘密が存在することに関係がある。

なお、近年になって「スターリンがドイツを出し抜き先制攻撃を行おうとしていた」とする説が、ロシアの歴史家から提出され、論争となっている。赤軍の独ソ国境配備もそのためであるとする。

結果
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首都モスクワ陥落によるソビエトとの和平はタイフーン作戦の失敗とそれにともなうモスクワ方面の防衛の強化により不可能となる。 ソビエトによる冬期攻勢からの恐慌的な敗走・戦線の崩壊はヒトラーの厳命と兵士・将軍達によって持ちこたえた。ただ、ヒトラーの退却不可命令に従わない将軍の大量更迭は、国防軍内で大いに不評であった。

翌1942年、ドイツはスターリングラード攻防戦に繋がる、石油資源地域であるコーカサス地方を主戦場としたブラウ作戦を発動することとなる(作戦立案段階では、スターリングラードは制圧対象ではなかった)。(しかし、ケルチ海峡を挟んでカフカス地方に隣接するクリミア半島の制圧が難航しており、セヴァストポリの戦いが、青作戦発動前後に行われた。)

ただし、首都モスクワ及びレニングラードを陥落させたとして、ソビエトが講和に応じるかは別の話である。仮にモスクワを落としたとしても、工業などの多くをウラル以東に疎開させており、また野戦軍が壊滅するわけではない。実際のところはスターリン健在な限りは、恐らくモスクワ及びレニングラードの陥落がソビエトの敗北を意味するわけではないであろう。むしろ場合によっては冬季反抗によってモスクワやレニングラードが奪還される可能性もある。

ただし、モスクワはソビエトの戦略上の理由から全ての鉄道線の集中点となっており、ドイツ軍が保持し続けていたならば、その政略・戦略上の価値は計り知れないのは確かである。

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