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ディエゴ・A・マラドーナ

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詳細 2017年1月16日 18:23更新

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona、1960年10月30日 - )は、アルゼンチン出身のサッカー選手。身長166cm、体重の変動は激しく、現役時代は60kg台で、最も体重があった時で150kg台であったといわれる。

不世出の天才レフティー。サッカーの歴史上ペレとともに別格のプレーヤーとされる。現役時代は神の子、カーリーヘアの天才児とよばれた。


略歴
8歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズに入団。1976年、15歳で対ジェレス・デ・コルドバ戦でトップチームの公式戦に初出場する。そのわずか4ヶ月後の1977年2月27日にはアルゼンチン代表に選ばれ対ハンガリー戦に出場した。しかし翌1978年の、母国アルゼンチンで開かれたワールドカップには年齢を理由に代表チームには選ばれなかった。その翌年に日本で開催された第2回ワールドユースでは、W杯不出場の鬱憤を晴らすような活躍でアルゼンチンを優勝に導く。

1981年にアルゼンチンの名門でありマラドーナ自身も熱狂的なサポーターであるボカ・ジュニアーズに移籍した。翌シーズンにはスペインのFCバルセロナ、1984年にはナポリに移籍する。ヨーロッパでもマラドーナのプレーは人々を魅了し、ナポリではサポーターから「ナポリの王」と呼ばれ愛された。彼が入団を決めた直後から、ナポリのシーズンシートが瞬く間に売れ、莫大な移籍金および給料を払ってもなお、数年後にこれまた超大物のカレカを獲得出来るほどナポリの財政は潤った。

また、アルゼンチン代表でも1986年メキシコワールドカップ、準々決勝イングランド戦において、『神の手』ゴール(ゴールする際に手でボールを叩いていた(反則)にもかかわらず審判がゴールを認めた)や『5人抜きドリブル』はサッカー史上に残るプレーとなり、チームも優勝したことから『マラドーナのための大会』と呼ばれた(後述)。

しかし、1990年イタリアワールドカップはマラドーナにとって不幸な大会となった。準決勝でアルゼンチンはイタリアとナポリで対戦、マラドーナの活躍で同点に追いつき、PK戦でアルゼンチンが勝利した。この試合の後マラドーナとナポリサポーターの関係は悪化し翌年セビージャに移籍した。

1994年アメリカワールドカップでは大会途中に薬物使用で大会を追放された。この件で一度日本への入国を拒否されていたため、2002年のワールドカップではアルゼンチン政府代表という肩書きで日本に入国した。

2003年、見る影もないほどの極度の肥満と薬物の影響か一時危篤状態となったが、一命を取り留めた。2004年には20歳のキューバ人女性との婚約を発表した。また胃の切除手術を行い、ダイエットにも成功している。

2006年、ドイツW杯では、アルゼンチン代表のサポーターとして、ユニフォームを頭上で振り回しながら応援する姿が放送されている。ドイツW杯終了後、アルゼンチン代表の次期代表監督候補として名前が挙がっている。

現在経済危機に陥ったアルゼンチンでは、マラドーナを復活と再生のシンボルとして崇めている。

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