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平沼騏一郎

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詳細 2016年9月6日 19:20更新

複雑怪奇。復活なり。


平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)は明治、大正、昭和期の司法官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等男爵法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(現大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。

1908年、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪者異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となった。
1913年4月、司法相の松室致とはかり、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。この法律は、裁判官と検事を、司法界粛清の嵐と震え上がらせた。
政治姿勢はきわめて保守的かつ右翼国本主義的であり、ナチス・ドイツを範とした天皇制ファシズムの構築を最大の目標にしていた。経歴を生かして主に司法界と枢密院に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて日本型ナチズムを確立しようとしたが、あまりに官界に軸足を置きすぎたその政治姿勢は、庶民からはまったく支持されなかった。
過去、第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで、元老西園寺公望に嫌われており、本人のつよい希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また枢密院議長に就任する事も出来ずに副議長に留め置かれたままであった。そこで平沼は西園寺と彼が育てた立憲政友会を潰すためにスキャンダルの捜査(帝人事件)を行わせたが、彼の意向を受けた検事達の捜査は政友会幹部らの逮捕を優先して裏付けとなる証拠収集が余りにも杜撰であっために、公判では全員無実無根であるとして無罪判決が出されてしまった。
さすがに帝人事件後は慎重を期して西園寺が老齢により政治の表舞台から一歩引いた後に、枢密院議長に就任すると国本社を解散し、親米英派と妥協する事で漸く首相の座に就く事を得た。
平沼内閣は基本的に第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策、人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も無任所大臣として残留してこれに協力した。
最大の懸案である対中問題では、「自今国民党(蒋介石政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、汪兆銘政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法、国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。
平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結されるに至って、防共を至上命題としてドイツ、中国などの反共勢力との同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、8月28日、「欧州の天地は複雑怪奇」という珍声明とともに内閣は総辞職した。彼にとって規範となる国家像であったナチス第三帝国がその最も憎む社会主義国ソ連と同盟を結んだは、もはや彼の理解を超えていたのであろう。しかし枢軸派の一部には今こそがドイツ外相リッベントロップのとなえる日独伊ソ連四国同盟締結の好機と考えるものも多く、この時期から平沼は現状維持派と目され批判を受けるようになる。
近衛文麿の新体制運動に関しては皇道派軍人とともに批判的な立場をとった。11月の下旬に新体制推進派から手を引くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣で平沼を国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外におい、皇道派の柳川平助を法相、平沼を内相とした。平沼は財界から批判のあった経済新体制要綱を骨抜きにし、内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを共産主義運動、人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し、(企画院事件)その余波で岸信介商工次官を辞職に追い込んだ。さらに平沼は大政翼賛会を公事結社として政治活動を禁じ、有馬頼寧らを辞職させ、新体制推進勢力を後退させた。また平沼は米国駐日大使グルーらと面会して米国との関係修復を目指した。このような平沼の行動はそれまで彼が深くかかわってきた右翼革新勢力の批判を浴び、ドイツ、ソ連から帰国した松岡洋右外相は平沼を強く非難した。第三次近衛内閣においては参議・国務大臣となり、自分の代わりとして田辺治通を内務大臣に据えた。こうして平沼は対米関係修復を目指す第三次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体勤王まことむすびから狙撃され重傷を負った。弾丸は6発も打ち込まれたが彼は生還した。
その後は重臣として岡田啓介、近衛文麿、若槻礼次郎らとともに東条内閣倒閣に活躍東条内閣辞職後の重臣会議では『敬神家』として小磯國昭を推し、小磯内閣辞職後には他の重臣とともに鈴木貫太郎を推した。1945年には鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。この時期、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱え、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫せず、その態度は『昭和天皇独白録』で批判的に見られている。
後に「奇跡的な右翼」とまで言われた平沼は、太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、1952年、病気仮釈放。直後に死去した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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