mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 加藤高明

加藤高明

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2012年5月31日 15:11更新

復活しました。


加藤 高明(かとう たかあき、万延元年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正三位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。

尾張藩の下級藩士・服部重文の子として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京帝国大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。1887年より官界入りした。

大隈重信外相の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任し、1900年には第4次伊藤博文内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺公望内閣の外相、駐英大使、第3次桂太郎内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を2期務め、後に貴族院勅撰議員となった。大正2年(1913年)、桂の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総裁となった。翌年第2次大隈重信内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。しかし、同志会結成の過程で犬養毅らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った。

第二次護憲運動で清浦内閣が倒れ、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の所謂、護憲三派が新しく組閣することになった。比較第一党となった加藤は内閣総理大臣となった。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。この法は後に、言論弾圧法規として猛威をふるうことになる。

また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、大正デモクラシーの成果が実った内閣でもあった。

翌年、憲政会と政友会の内紛から護憲三派連立は崩れ、加藤の憲政会単独内閣となる(1925年8月2日、一般的にはこれを内閣改造とみなすが、加藤はこの際に2度目の大命降下を受けているため一度内閣は総辞職しているものとみなして、この日以後を「第2次内閣」とする説もある)が、その翌年に加藤は病死してしまい、若槻内閣へと交代する。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コミュニティにつぶやきを投稿

最近の投稿がありません泣き顔
つぶやき・トピック・イベント・アンケートを作成して参加者と交流しようわーい(嬉しい顔)
参加メンバー 10人

もっと見る

開設日
2006年11月11日

4030日間運営

カテゴリ
学問、研究
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!