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スプートニクショック

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詳細 2017年7月28日 20:25更新

スプートニク計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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スプートニク計画 (スプートニクけいかく) は、1950年代後半に旧ソ連によって地球を回る軌道上に打ち上げられた、人類初の無人人工衛星の計画である。 スプートニク (Спутник, Sputnik) という言葉は「旅の道連れ」(転じて衛星)という意味のロシア語から来ている。

スプートニクはどれもR-7型ロケットによって軌道上に打ち上げられた。これは、元々は弾道ミサイル打ち上げ用に設計・開発されたものである。

これらの打ち上げ成功はソ連国民を勇気付ける一方、冷戦の相手であるアメリカ国民にショックを与え、宇宙開発競争の幕を切って落とすこととなった。

スプートニク1号

スプートニク1号は1957年10月4日打ち上げられた、世界初の人工衛星である。重量約83kg (184 pounds)、直径約58cmの球体に4本の棒状アンテナが付いている。 遠地点約950km、近地点約230km、軌道傾斜角65°の楕円軌道を96.2分で周回した。衛星本体から40.02MHzと20.05MHzの電波を発信することで電離層の観測を行った。この電波は世界各地で受信された。スプートニク1号は打ち上げ57日後、大気圏に再突入し消滅した。


スプートニク・ショック
人工衛星打ち上げでソ連に先を越されたアメリカではスプートニク・ショックが走った。これは、アメリカが科学技術の分野で最先端であるという意識が、人工衛星打ち上げの事実により覆されたためである。その影響で、教育・軍事・科学技術部門の改革の必要性が認識され、アメリカ航空宇宙局(NASA:1958年)設立と、アポロ計画(1961年)、アーパネット構築(1958年)へとつながっていった。なお、アメリカはスプートニクに対抗して、1958年1月31日にエクスプローラー1号(重量14kg)を打ち上げている。


スプートニク2号
スプートニク1号の打上げの1ヶ月後である1957年11月3日にスプートニク2号が打ち上げられた。スプートニク2号は生物を宇宙へと連れ出すことを目的とし、搭乗席(気密室)が備えられた。このため本体の重量は1号と比較して約6倍の 508kg となった。

史上初の宇宙船クルーとして“クドリャフカ”という名の雌の犬が搭乗し、人類に先がけて宇宙を旅することになった。研究者達には“ライカ”、アメリカなど西側諸国では“マットニク”などのニックネームで呼ばれていた。
当日の候補には3頭いたが、この犬を選びだすとき【ロシア原産の犬であること】、【見栄えのするかわいい犬であること】、【健康であり、かつおとなしいこと】を念頭に置いたとの説もある。また、この犬はもともとは野良犬だったという噂もある。
クドリャフカは、10日分のみの酸素と食料を積んだスプートニク2号で、人類の憧れである宇宙へ旅立った。最初から帰り道のない旅だった。

スプートニク3号
スプートニク3号は1958年2月3日、打ち上げ失敗。1958年5月15日、打ち上げ成功、重量約1327kg。 地球物理学研究のための計測器を搭載。 ただし、テープレコーダが故障し、バン・アレン帯の計測は失敗に終わった。

スプートニク4号
1960年5月15日、打ち上げ。

スプートニク5号
1960年8月19日、打ち上げ。 犬2匹、ネズミ40匹、ラット2匹、いろいろな植物などを積んでいた。 宇宙船は翌日回収され、動物たちは全て無事帰還した。


スプートニクショック
スプートニク・ショック(Sputnik crisis、スプートニク危機)とは、1957年10月4日のソビエト連邦による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功の報によりアメリカ合衆国の政府や社会に走った衝撃や危機感である。スプートニク計画以前、アメリカは自国を宇宙開発のリーダーであり、それゆえミサイル開発のリーダーでもあると信じていた。しかしスプートニク1号成功の突然のニュースと、それに続くアメリカの人工衛星計画「ヴァンガード計画」の失敗は、アメリカの自信を覆し全米をパニックに陥れた。

この時期、ソ連が戦略弾道ミサイル搭載潜水艦をアメリカに先駆けて配備するなど、軍事技術でアメリカが圧倒される出来事が相次いでいた。スプートニク・ショックを受けて、ソ連の脅威とアメリカの劣勢を覆すため宇宙開発競争が始まり、科学教育や研究の重要性が再認識されて大きな予算と努力が割かれるなど、危機感の中でアメリカの軍事・科学・教育が大きく再編された。スプートニク・ショックはアポロ計画、および1969年の月面着陸成功によって収束したが、冷戦のターニングポイントとなった出来事であった。

スプートニク・ショックは、アメリカ合衆国による政策提案を、大きなものから小さなものまで連鎖的に引き出した。そのほとんどは国防総省が発議したものだった。

1.スプートニク1号成功からわずか2日で、スプートニクの軌道の計算が開始された。(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校宇宙物理学科とデジタル・コンピュータ・ラボのドナルド・ギリーズ(en:Donald B. Gillies)が共同で、ILLIAC Iコンピュータを使用して行ったものである。)

2.アメリカは宇宙開発競争に突入した。1958年のアメリカ航空宇宙局(NASA)設立とマーキュリー計画の開始が含まれる。

3.新世代の技術者を養成するため、様々な教育計画が開始された。この中で今日もっとも記憶されている、また注目すべきものは、初等教育における算数教育を根本から改革し、集合論や十進法以外の位取りなど抽象的な数学的構造を早い年齢から導入してアメリカ人の数学能力向上を目指した「新しい数学(en:New math)」というカリキュラムであろう。

4.科学研究に対する支援が劇的に増加した。1959年、連邦議会は米国科学財団(en:National Science Foundation)に対し、前年度より1億ドルも高い1億3400万ドルの歳出割当承認を行った。1968年までに、米国科学財団の年間予算は約5億ドルに達した。
国防総省は潜水艦発射弾道ミサイル・ポラリス計画を開始した。

5.プロジェクトマネジメントの手法が研究され精査の対象となり、より現代的なプロジェクトマネジメントや標準計画モデルが確立された。例えばポラリスミサイル開発のために、複雑なプロジェクトを相互に関連した簡単な作業にまで分解し、その前後関係などの関連性を調べた上で作業の見積や管理を行う手法であるPERT(en:Program Evaluation and Review Technique)が生み出された。
ジョン・F・ケネディ大統領は、1960年の選挙運動で米ソの「ミサイル・ギャップ」を埋めることに触れ、1,000基のミニットマン・ミサイルをはじめ、当時ソ連が保有していた以上の大陸間弾道ミサイルを配備することを決めた。また1961年5月25日、特別両院合同会議の席上で10年以内に人間を月に送ると声明し、アポロ計画の目標を月面着陸に変更させた。

6.国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在の防衛高等研究計画局)は1969年、アーパネットと呼ばれるコンピュータ網を開発し、これが今日のインターネットのもととなっている。

またこの事件によってアメリカ国民の科学に対する興味・関心が高まり、一般人にも解りやすい内容の科学解説書のニーズが急増した。この恩恵を最も受けた人物のひとりが、当時ボストン大学を辞して専業作家となったSF作家アイザック・アジモフであり、以後の著作がSFから科学解説などのノンフィクション中心へと移行する契機となった。

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2006年10月13日

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