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ニーチェ図鑑

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詳細 2016年12月4日 22:44更新

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツの哲学者・古典文献学者。後世に影響を与えた思想家。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による哲学の試みには文学的価値も認められる。




青年時代(1844年 - 1869年)

1861年のニーチェニーチェは1844年10月15日にドイツ(当時はプロイセン)・ザクセン州ライプツィヒ近郊の小村レッケンにルター派の裕福な牧師で元教師の父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの子として生まれ、同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんでフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェと名付けられた(ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている)。1846年には妹エリーザベトが、1848年には弟ルートヴィヒ・ジョセフが生まれているが、ニーチェが5歳の時(1849年)、頭の怪我が原因で父親が早世。それを追うように1850年には2歳の弟ヨーゼフが病死。これを機に、ニーチェ一家はレッケンを去り、近郊のナウムブルクへ転居し、ニーチェはここで母方の祖母や父方の叔母たちと同居することになる。

ニーチェは、1854年から転居先ナウムブルクのギムナジウムへ通うが、ここで音楽と国語の優れた才能を認められてドイツ屈指の名門校プフォルタ学院(卒業生にはライプニッツ、フィヒテ、ランケ、シュレーゲル兄弟などがいる)に特待生として入学、初めて田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。1858年から1864年までここで古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。また詩の執筆や作曲を手がけてみたり、パウル・ドイッセン(en:Paul Deussen)と友人になったりしたのもこの学校時代のことである。

1864年にプフォルタ学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで神学と古典文献学を学び始める。大学在学中にニーチェは友人ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わって高歌放吟に明け暮れ、最初の学期を終えたころには信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で牧師の息子が信仰を放棄するというのはスキャンダルでさえある。ましてや夫を亡くした母にとっては一家の一大事であった)。ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのはダーヴィト・シュトラウスの著書『イエスの生涯』を読んだことである。


1868年のニーチェ。従軍後、強度の近視と怪我のため除隊するさいに撮影またボン大学では古典文献学の権威フリードリヒ・リッチュル(en:Friedrich Wilhelm Ritschl)と出会い師事する。リッチュルはまだ大学一年生にすぎなかったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけるなど、絶大な信頼を置いていた。このリッチュルのもとで文献学を修得していたニーチェは、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて自分もライプツィヒ大学へ転学する。このライプツィヒ大学では、のちにイェーナ大学やハイデルベルク大学などで教鞭を取ることになるギリシア宗教史家エルヴィン・ローデ(en:Erwin Rohde)と知り合い親友となる。1867年には砲兵師団へ志願入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊。再び学問へ没頭することになる。

ライプチヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で重要な出会いが、他にも2つあった。ひとつは、1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったこと。もうひとつは1868年11月、リッチュルの紹介でライプツィヒ滞在中の音楽家リヒャルト・ヴァーグナーと面識を得ることができたことである。ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナーと論じ合ったことや、「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。

バーゼル大学教授時代(1869年 - 1879年)

ニーチェはまだ24歳の若さで博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、なんとバーゼル大学から古典文献学教授として招聘されるという異例の大抜擢を受けた。バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考えプロシア国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる。ただし普仏戦争(1870年 - 1871年)中の一時期だけはプロシア軍に従軍し、トラウマにもなる経験をしたうえにジフテリアや赤痢を患ったりもしている。戦後バーゼルへ戻ってまもない1871年、故郷ではドイツ帝国が成立しビスマルクが台頭するが、こうした動きに対してニーチェの向ける眼はきわめて懐疑的なものだった)。本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアにかんする古典文献学を専門とすることとなる。講義は就任講演「ホメロスと古典文献学」に始まるが、自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。研究者としては、古代の詩における基本単位は音節の長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なるということを発見した。終生の友人となる神学教授フランツ・オーヴァーベック(en:Franz Overbeck)と出会ったほか、古代ギリシアやルネサンス時代の文化史を講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交が始まり、その講義に出席するなどして深い影響を受けたのもバーゼル大学でのことである。

1872年、ニーチェは第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。これはショーペンハウエルの厭世主義思想の助けを借りながら、アポロ的/ディオニュソス的という対立概念によって「ギリシア悲劇の誕生と歴史的展開の分析」および「現代音楽による悲劇的精神の再生」を統一的な観点から考察するという試みであるが、結論としては現代におけるギリシア精神の体現者(正確に言うならば、ニーチェによるギリシア観の体現者)としてのヴァーグナーを称揚するというものである。

しかしリッチュルや同僚をはじめとする文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。特にウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは『未来の文献学』と題した(ヴァーグナーが自分の音楽を「未来の音楽」と称していたことにあてつけた題である)強烈な批判論文を発表し、まったくの主観性に彩られた『悲劇の誕生』は文献学という学問に対する裏切りであるとしてこの本を全否定した。好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられたヴァーグナーの他にはボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみである。こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名(いずれも他学部)となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。


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ヴァーグナーへの心酔と決別

リヒャルト・ヴァーグナー生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈なヴァーグナーのファンであり、1868年にはすでにライプツィヒでヴァーグナーとの対面を果たしている。やがてヴァーグナーの妻コジマとも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、バーゼルへ移住してからというもの、同じくスイスのルツェルン市トリプシェンに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ(23回も通ったことが記録されている)。ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、バイロイト祝祭劇場の建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させ、一方ニーチェは1870年のコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文の手稿をプレゼントするなど、二人は年齢差を越えて親交を深めた。

近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン以来の伝統があった。当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、ドイツ3月革命に参加した革命家でもあるヴァーグナーもまたこの系譜に属している。『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、とのロマン主義的思想が述べられている。そしてニーチェにとって(またヴァーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそヴァーグナーその人に他ならなかった。

ヴァーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、処女作『悲劇の誕生』(1872年)において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであった。しかし、やがてヴァーグナーの音楽が徐々に大衆迎合的な低俗さを増しつつあると感じるようになり、ヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。

そして1876年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会の道徳や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなくブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信。また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。

この一件と前後して書かれた『バイロイトにおけるヴァーグナー』ではまだ抑えられているが、ヴァーグナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、二人が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなった。1878年、ニーチェはヴァーグナーから『パルジファル』の台本を贈られるが、ニーチェからみれば通俗的なおとぎ話にすぎない『聖杯伝説』を題材としたこの作品の構想を得意げに語るヴァーグナーへの反感はいよいよ募り、この年に書かれた『人間的な、あまりにも人間的な』でついに決別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判を始めることとなる。ヴァーグナーからも反論を受けたこの書をもって両者は決別し、再会することはなかった。

しかし晩年、狂気のさなかにあったニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたという。また同じく発狂後、ヴァーグナー夫人コジマに宛てて「アリアドネ、余は御身を愛す、ディオニュソス」と謎めいた愛の手紙を送っていることから、コジマへの横恋慕がヴァーグナーとの決裂に関係していたと見る向きもある。一方のコジマは、ニーチェを夫ヴァーグナーを侮辱した男と見ており、マイゼンブーグ充ての書簡では「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いている。


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1875年、バーゼル大学教授時代のニーチェ1873年から1876年にかけて、ニーチェは4本の長い評論を発表した。『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対する歴史の利害』(1874年)、『教育者としてのショーペンハウアー』(1874年)、『バイロイトにおけるヴァーグナー』(1876年)である。これらの4本(のちに『反時代的考察』(1876年)の標題のもとに一冊にまとめられる)はいずれも発展途上にあるドイツ文化に挑みかかる文明批評であり、その志向性はショーペンハウエルとヴァーグナーの思想を下敷きにしている。死後に『ギリシア人の悲劇時代における哲学』として刊行される草稿をまとめはじめたのも1873年以降のことである。

またこの間にヴァーグナー宅での集まりにおいてマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという女性解放運動に携わるリベラルな女性(ニーチェやレーにルー・ザロメ(後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である音楽家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レーらとの交友を深めている。特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともにイタリアのソレントにあるマイゼンブークの別荘まで旅行に行き、哲学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の起源』をニーチェは高く評価していた。またソレント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していたヴァーグナーと邂逅しており、これが二人があいまみえた最後の機会となる)。レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作に見られたショーペンハウエルに由来するペシミズムからの脱却に大きな影響を与えている。

1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』出版。形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェの思想における初期から中期への分岐点とみなされる。また、初期ニーチェのよき理解者であったドイッセンやローデとの交友もこのころから途絶えがちになっている。

翌1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。ニーチェは極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのである。バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。

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在野の哲学者として(1879年 - 1888年)
病気の療養のために気候のよい土地を求めて、ニーチェは1889年までさまざまな都市を旅しながら在野の哲学者として生活した。夏の多くはスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村ジルス・マリアで、冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースといった都市で過ごした。ときおりナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとのあいだで衝突と和解を繰り返すことが多かった。ニーチェはバーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることもあった。かつての生徒である音楽家のペーター・ガスト(本名はHeinrich Köselitz、ペーター・ガストというペンネームはニーチェが与えたものである)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ニーチェの生涯を通じて、ガストとオーヴァーベックは誠実な友人であった。またマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークもニーチェがヴァーグナーのサークルを抜け出たのちもニーチェに対しては母性的なパトロンでありつづけた。音楽評論家のカール・フックスとも連絡を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。そしてこのころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行したのを皮切りとして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に執筆生活最後となる1888年には5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。1879年には『人間的な』と同様のアフォリズム形式による『さまざまな意見と箴言』を、翌1880年には『漂泊者とその影』を出版。これらはいずれも『人間的な』の第2版からはその第2部として組み込まれるようになった。


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ルー・ザロメとの交友

左からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882年ルツェルンにてニーチェは1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知恵』の第1部を発表した。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてルー・ザロメと知り合った。ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くためひそかに企てた策略も一役買っている。後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。結果としてザロメとレーの二人はニーチェを置いてベルリンへ去り、同棲生活を始めることとなった。失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアのラパッロへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる(ただし、ニーチェ本人が『この人を見よ』の中で「インスピレーションを得てから10日もあれば充分だった」と豪語してはいるものの、遺された手稿を精査する限りでは、本当に10日で一息に書いたかどうかは疑わしい)。


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ショーペンハウエルとの哲学的つながりもヴァーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。『ツァラトゥストラ』の新しいスタイルを手にしたいまとなっては、彼の著作はますます親しみやすさを失い、読者の反応もおざなりで慇懃無礼なものとなっていった。ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。1885年には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その一部を親しい友人へ献本するだけにとどめた。

1886年にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知恵』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから ―― 本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが ―― 高まりはじめていた。メータ・フォン・ザーリス(Meta von Salis)やカール・シュピッテラー(Carl Spitteler、1919年にノーベル文学賞を受賞した作家。処女作『プロメテウスとエピメテウス』はしばしば『ツァラトゥストラ』からの影響が指摘される)、ゴットフリート・ケラー(Gottfried Keller、ニーチェはケラーの教養小説『緑のハインリヒ』を、ゲーテ作『ヴィルヘルム・マイスター』やシュティフター作『晩夏』とともにドイツ文学の中で最も高く評価している)と知り合ったのはこのころである。1886年、妹エリーザベトが反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスターと結婚し、パラグアイに「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで二人が顔を合わせることはなかった。

病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。同じ年、ニーチェはドストエフスキーの著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想に共鳴している。またイポリット・テーヌ(Hippolyte Taine、ニーチェは1886年に『善悪の彼岸』をテーヌに寄贈し、後日テーヌから好意的な礼状を受け取っている)やゲオルク・ブランデス(同じく『道徳の系譜』を寄贈されたことがニーチェとの交流の契機となった)とも文通を始めている。ブランデスはニーチェとキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代からコペンハーゲン大学でキェルケゴール哲学を講義していたが、1888年には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義を行なってニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んでみてはどうかとの手紙を書き送り、ニーチェは薦めにしたがってみようと返事をしている(キェルケゴールはニーチェが著述活動を始める前の1855年に亡くなっており、またニーチェはこの後すぐに発狂してしまったため、ともに「実存主義の始祖」として知られる二人は互いの思想に触れることがなかったと長らく信じられてきた。しかしその後の研究によって、キェルケゴールの思想を解説・批評した二次資料のいくつかをニーチェが読んでいたことが明らかになっている)。

ニーチェは1888年に5冊の著作を書き上げた(著作一覧参照)。これらはいずれも、長らく計画中の大作『力への意志』のための膨大な草稿をもとにしたものである。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿して間もない44歳の誕生日には自伝『この人を見よ』の執筆を開始、序文には「私の言葉を聞きたまえ! 私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」とまで書き記す。12月、ニーチェはストリンドベリとの文通を始める。またこのころのニーチェは国際的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに『ニーチェ対ヴァーグナー』と『ディオニュソス賛歌』の合本を出版しようとの計画も立てた。また『力への意志』も精力的に加筆や推敲を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げる。

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狂気と死(1889年 - 1900年)

晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899年1889年1月3日にニーチェの精神は崩壊した。この日、ニーチェがトリノ市の往来で騒動を引き起して二人の警察官の厄介になったということ以外の正確な事情は明らかになっていない。しばしば繰り返される逸話は、カルロ・アルベルト広場で御者に鞭打たれる馬を見て奮い立ったニーチェがそこへ駆け寄り、馬を守ろうとしてその首を抱きしめながら泣き崩れ、やがて昏倒したというものである(偶然ながら、ドストエフスキーの『罪と罰』で主人公のラスコーリニコフが少年時代に鞭打たれる痩せ馬を見て泣き喚いたときのことを夢に見てうなされるというまったく同様の場面がある)。

数日後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナーやブルクハルトほか何人かの友人に短い手紙を送るが、それらはいずれも狂気の徴候を示すものであった。ブルクハルト宛の手紙では「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」と不可思議な内容を書き綴った。

1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せた。翌日にはオーヴァーベックのもとへも同様の不可解な手紙が届き、友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。このころニーチェはすでに完全な狂気の淵へ陥っており、母フランツィスカはイェーナの病院でオットー・ビンスワンガー(Otto Binswanger)に診てもらうことを決める。その後1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーン(Julius Langbehn)が治療に当たり、ニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失い、フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。初期の解説者はしばしば梅毒への感染を精神崩壊の原因とみなしているが、ニーチェの示している徴候は梅毒の症例とは矛盾しているところも見られ、脳腫瘍と診断する向きもある。大方の解説者はニーチェの狂気と哲学を無関係なものと考えているが、ジョルジュ・バタイユやルネ・ジラールなどのように、ニーチェの狂気は彼の哲学によってもたらされた精神的失調だと考えるものもある。


エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ヴァーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。ニーチェの受容と認知が最初の波を迎えようとしていた。

1893年、エリーザベトが帰国。パラグアイでの「ドイツ的」コロニー経営に失敗した夫が自殺したためである。彼女はニーチェの著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を振るうようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。1897年にフランツィスカが亡くなったのち兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトはニーチェの面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。

1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で没した。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは発狂前に「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトはニーチェの友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。

―― 「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」(ニーチェ自身がいかに神聖視されたくないかを『この人を見よ』の中で語っていることに注意。「私は聖者にはなりたくない。道化のほうがまだましだ」)
エリーザベトはニーチェの死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。のちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となったエリーザベトの恣意的な編集(次節参照)がニーチェの意図を正確に反映したものでないことは広く知られており、決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィノ・モンティネリは「贋作」とまで言い切っている。

思想
ソクラテス以前も含むギリシア哲学やスピノザやショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。近代の終焉を告げる思想家ともされる。

神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

そのなかには、有名な永劫回帰(永遠回帰)説がある。古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

「神は死んだ」と宣し、西洋文明が始まって以来、哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、恨みという負の感情ルサンチマンによって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩や矮小化の原因であり、それを超越した超人をめざすことによって解決されるべきとした。

その思想は、ナチスのイデオロギーに利用されたが、多くのニーチェ主義者が喝破していたように、それはニーチェ哲学の曲解、通俗化でしかなかった。そもそもニーチェは、反ユダヤ主義に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていたベルンハルト・フェルスターと結婚したのち、1887年には次のような手紙を書いて叱責している。

お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』(引用者注:ニーチェの思想を歪曲して利用した反ユダヤ主義文書らしい)は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。
また、1889年1月6日ヤーコプ・ブルクハルト宛てのおよそ気が確かだと思われる最後の書簡は、「ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」で結んである。主著『善悪の彼岸』では「ドイツ的なもの」とその喧伝者への批判に一章を割き、死後に刊行された草稿ではドイツ人のいう「偉大な伝統」なるものを揶揄して「ユダヤ人こそがヨーロッパで最も長い伝統をもつ、最も高貴な民族である」と、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いており、ヒトラーはおろかナチス高官の誰一人としてニーチェをまともに読んですらいなかったことは自明である。にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。しかし、たとえこれほどの悪意的な操作がなかったとしても、〈善悪の彼岸〉〈超人〉〈力への意志〉など、文字面だけを見れば強権に迎合するものとも見えかねないキーワードをニーチェ自身が多用していたことも問題を紛糾させた一因である。

ニーチェの思想がナチズムや反ユダヤ主義と相容れないものであるという主張は、第二次世界大戦前からすでになされており、比較的早いものとしてはジョルジュ・バタイユをはじめピエール・クロソウスキー、アンドレ・マッソン、ロジェ・カイヨワらによる同人誌『無頭人(アセファル)』(1936年 - 1939年)などが有名である。


著作


『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(『悲劇の誕生』)(Die Geburt der Tragoedie,1872)
『反時代的考察』(以下の論文所収)(Unzeitgemässe Betrachtungen, 1876)
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873)
「生に対する歴史の利害」(Vom Nutzen und Nachtheil der Historie für das Leben, 1874)
「教育者としてのショーペンハウアー」(Schopenhauer als Erzieher, 1874)
「バイロイトにおけるヴァーグナー」(Richard Wagner in Bayreuth, 1876)
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches, 1878)
『曙光』(Morgenröte, 1881)
『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)
『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1885)
『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse, 1886)
『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887)
『偶像の黄昏』(Götzen-Dämmerung, 1888)
『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888)
『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist, 1888)
『この人を見よ』(Ecce Homo, 1888)
『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
『権力への意志』(遺稿。妹が編纂)(Der Wille zur Macht, 1901)
邦訳でニーチェを読む場合、白水社・筑摩書房から全集がでている。ちくま学芸文庫版全集には上に掲げた全ての作品の他にも別巻として書簡や遺稿、その他マイナーな作品も収録されている。『ツァラトゥストラはかく語りき』、『悲劇の誕生』など主要なものは岩波文庫などでも手に入る。

『悲劇の誕生』

初期の著作には『音楽の精神からの悲劇の誕生』(これは初版のタイトルであり、1886年の新版以降は『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』と改題)がある。この作品には執筆当時ニーチェが深い影響下にあった音楽家リヒャルト・ヴァーグナーの作品への賛美が読み取られる。この作品は哲学の著作ではなく、古典文献学の作品として書かれたものである。
ニーチェにしてみれば、厭世的と見られていた当時の古典ギリシア時代の常識を覆し、アポロン的、ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読していく、当時の古典文献学の手法からすれば暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さに欠く独断的ものとして受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、完全に学界からは黙殺あるいは批判された。
師匠のリッチュルからも、単にヴァーグナーの音楽を賛美したいがために古典文献学を利用したと受けとられ、『悲劇の誕生』を「才気を失った酔っ払い」の書と酷評された(これを機にリッチュルとの関係が悪化した)。この書の評判が響いて、発表した1872年の冬学期のニーチェの講義を聞くものはわずかに2名であった(古典文献学専攻の学生は皆無)。満を持して出版したニーチェは、大きなショックを受けた。
自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観にとらわれながら古典を読むといった当時の古典文献学の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。そして、『悲劇の誕生』で説いたような悲劇の精神から遊離して生というものを見ず、俗物的日常性に埋没したもの、つまり単に教養のみ蓄積するだけ蓄積してそれに自己満足し、その教養を自身の生にまったく活かそうとしない、当時のドイツに蔓延していた風潮を「教養俗物」(Bildungsphilister)として辛辣な批判を後の「反時代的考察」で展開していくことになる。
『反時代的考察』

これはヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(1873年):これはニーチェが当時のドイツ思想を代表するものとして例示したシュトラウスの著書『古き信仰と新しき信仰: A Confession』(1871年)への論駁である。ニーチェは科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスのいう「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な歴史読物にすぎないということを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。
「生に対する歴史の利害」(1874年):ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってこと足れりとする従来の考え方を退け、「生」を主要概念とする新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。
「教育者としてのショーペンハウアー」(1874年):ショーペンハウアーの天才的な哲学がドイツ文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェはショーペンハウアーの個人主義や誠実さ、あるいは不動の意志だけでなく、ペシミズムによって有名なこの哲学者の陽気さに注目している。
「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」(1876年):この論文ではヴァーグナーの心理学を探求しているが、ヴァーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていた時期に書かれたため、対象となっている人物との親密さのわりには追従めいたところがない。そのためニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はヴァーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。
『人間的な、あまりにも人間的な』
(1878年に初版を刊行、1886年の第2版からは『さまざまな意見と箴言』(1879年)と『漂泊者とその影』(1880年)をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な ―― 自由精神のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイツ・ロマン主義およびヴァーグナーとの決別や明瞭な実証主義的傾向が見て取られる。また本書の形式にも注目する必要がある。体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなるアフォリズム数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、本書は何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。ニーチェは、パースペクティヴィズムと力への意志の概念を(後者はのちの著作において開示されるほど練り上げられたものとはなっていないが)用いてみせる。
『曙光』
(詳細は別項『曙光』を参照)
『曙光』(1881年)において、ニーチェは動因としての快楽主義の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判もまた完成の域に達した。この明晰で穏やかで個人的な文体のアフォリズム集でニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりもみずからが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。

『悦ばしき知識』

『悦ばしき知識』(1882年)はニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら他の諸作よりも多くの詩作を含んでいる。中心となるテーマは悦ばしい生の肯定であり、また生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭である(タイトルは詩作法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。例えば、ニーチェは有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観を真っ向から対立するものである。永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知恵』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張であろう。
『ツァラトゥストラはかく語りき』
代表作は、『ツァラトゥストラはかく語りき』である。この作品は、リヒアルト・シュトラウスに有名な同名の交響詩を作曲させるきっかけとなった。映画『2001年宇宙の旅』で同曲が使用された。ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教(拝火教)の開祖ザラスシュトラの名前のドイツ語形の1つだが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。
『善悪の彼岸』

『道徳の系譜』
『偶像の黄昏』
『ヴァーグナーの場合』
『アンチクリスト』
『この人を見よ』

『ニーチェ対ヴァーグナー』

『権力への意志』

それ以後の哲学・思想への影響
ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリダらがいる。

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