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オールディーズ&ロカビリー

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詳細 2017年11月16日 13:13更新

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=106487049&owner_id=3533796



オールディーズとは
 第2次世界大戦後から、ヒッピーによるフラワー・ムーヴメントが爆発的に広がった60年代半ばまで――。この間に発表されたドゥー・ワップ/50's・60'sロックンロール/スタンダートなヴォーカル・ジャズ/グレン・ミラーのようなビッグバンド……これらすべてをアメリカでは"オールディーズ"と呼んでいる。
実際のところオールディーズ特有のモダンな味わいや回顧主義は、退屈そうな印象もありついつい遠ざけてしまいがちなのではなかろうか? しかし――このジャンルのもっとも素晴らしい点は、表向きは無邪気な内容を歌っているように見えて実は思いがけない過激なメッセージが込められていることである。例えば50年代のステレオタイプであった性的抑圧は、ファッツ・ドミノの「60 minute Man」のどぎつい歌詞が吹き飛ばしてしまったし、ザ・コースターズは「framed」や「Riot in Cell Block #9」といった曲で、ナット・キング・コールの商業主義やアル・ジョンソンのあからさまな人種差別を見事に皮肉っている。
このカテゴリーに属する楽曲群は、40年代〜60年代中期にかけて多様なスタイルを築いたものの、CDショップに行くと"オールディーズ"とひとまとめにされて陳列されているのが現状である。
チャック・ベリー、リトル・リチャードらと共にロックンロールを世界に広めた。その影響を受けたビートルズ、レッド・ツェッペリンらスーパースターは多い。黒人のブルースと白人のカントリーを融合させたロックを広め人種の壁を打ち壊した人物として知られ、世界の大衆音楽のみならず人類の思想にまで多大な影響を及ぼした。

彼は最初、「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」の愛称で呼ばれる。品位を欠くミュージシャンとして非難されたことでも知られる。アメリカのバラエティー番組『エド・サリバン・ショー』の出演の際には、視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。また、フロリダの演奏では体を動かすなとPTAだかYMCAだかに言われ、小指を動かして歌った。

彼の持つ記録は様々あり、例えば、最も成功したソロ・アーティスト、最も長時間ナンバー1にエントリーさせたアーティスト(80週)、最多ヒットシングル記録(151回)、一日に売れたレコード枚数の最高(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。CD/レコードの総売上は正確な数を把握できていないが、1977年に「6億枚以上」、死後数ヶ月間だけで「2億枚」、1985年に「10億枚以上」という推定数字が発表されている。「売上データ無し」がRCA/BMGの公式発表であるが、現在は推定10数億-30億枚と言われ、世界NO.1といわれている。

なお、彼は2005年10月27日発表の米経済誌フォーブスによると、2004年10月から1年間の印税等の収入は4500万ドル(約51億9000万円)に上っている。故人長者番付である同調査では現在5年連続でトップを維持しており、今なお伝説的な存在である事を証明している。

生い立ち
エルヴィスはミシシッピ州トゥーペロの小さな家で、ヴァーノン・エルヴィス・プレスリーおよびグラディス・ラヴ・スミス・プレスリー夫妻の間に1935年1月8日午前4時35分に生まれた。彼はトゥーペロで幼年期を過ごし、13の時に一家はテネシー州メンフィスに転居した。彼には双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。一家は1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居するが、そこはエルヴィスがビール・ストリート、エリス・オーディトリウム、サン・スタジオといったメンフィス・ミュージックや文化的な影響を受けた施設から1マイル程度の距離であった。エルヴィスは11歳からギターを始め、ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をした。彼はそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。エルヴィスは高校卒業後に精密金型会社で働き、次にクラウン・エレクトリック社のトラック運転手となる。

スコットランド人作家アラン・モリソンはエルヴィスがスコットランド系であったと主張する。彼はその著書でエルヴィスの先祖が1700年代にアバディーンシャーのロンメイで暮らしていたことを発見したとする。また、記録によるとアンドリュー・プレスリーが1713年にロンメイでエルスペス・レッグと結婚したとしている。彼らの息子アンドリューが1745年にイギリスの植民地に移住したとのことである。

1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。例え同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが一般的だった。エルヴィスは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。


サン・レコード
1953年の夏にエルヴィスはサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード"My Happiness"と"That's When Your Heartaches Begin,"であった。エルヴィスは母親への誕生日プレゼントとしてアセテート盤を録音したと語ったが、グラディス・プレスリーの誕生日は4月であり、録音は7月に行われたためこれは事実ではないと考えられる。サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてエルヴィスを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にエルヴィスを売り出すこととした。1954年7月5日のリハーサル休憩中にエルヴィスは"That's All Right, Mama"をいじくり始め、サムはエルヴィスが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが居なかったため、ベースをかき鳴らしている。B面に"Blue Moon Of Kentucky"が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。また、公演旅行は彼の評判をテネシー中に広げることとなった。

サンとの契約下でエルヴィスは5枚のシングルをリリースした。

That's All Right / Blue Moon Of Kentucky - Sun 209, 1954年7月19日
Good Rockin' Tonight / I Don't Care if the Sun Don't Shine - Sun 210, 1954年9月25日
Milkcow Blues Boogie / You're A Heartbreaker - Sun 215, 1954年12月28日
Baby Let's Play House / I'm Left, You're Right, She's Gone - Sun 217, 1955年4月10日
Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget - Sun 223, 1955年8月6日
これらの多くはリズム・アンド・ブルースまたはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のエネルギッシュなカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1.55"、最長のもので2.38"である。

1955年8月18日にエルヴィスの両親はトム・パーカー大佐との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。

RCA
エルヴィスは1955年11月21日にRCAレコードと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこで彼は白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、これこそが自分達のための音楽なのであると感じエルヴィスのファンになっていった。

1956年1月27日に第6弾シングル「Heartbreak Hotel / I Was the One」がリリースされた。これは1956年4月にチャートの一位に達した。(Heartbeark Hotelはその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。)エルヴィスが1977年に死去するまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、40曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続でNo.1を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にエルヴィスはNo.1から遠ざかった。しかし、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」がNo.1を獲得し、「エルヴィスの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたがチャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から二週連続No.1)に阻止され70年代でエルヴィスはNo.1を取る事が出来ず、「サスピシャス・マインド」が最後のNo.1となった(Billboard誌に準拠)。

「イン・ザ・ゲットー」、「バーニング・ラヴ」はCashBox, Record Worldなど他紙ではNo.1になっている。
「Heartbreak Hotel」の発表から50年が経ち、日本ではパブリックドメインとなり、著作権保護期間は終了した。

1957年レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用した事があったが、エルヴィスのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所でもっとも利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になるとレコーディング自体に関心が薄れ、RCAスタッフがエルヴィスの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行わなければならなかった。

後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのはRCAのミキシングがエルヴィスの意向とそぐわなかったり、体調不良等様々な理由があると思われるが、はっきりとした理由はわからない。しかし、エルヴィスのレコーディング・スタイルは(現在ではいくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式もあるが、エルヴィスはこの形式を選択出来たにも関わらず彼はこの形式を嫌い、現在まで発表された曲数は700以上あるがそのような形式で発表した曲は少ない)最後まで一発撮りといわれる1テイク完成型にこだわった。その為、エルヴィスの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘された。その中には発表されたテイクと違った趣向もあり興味深い。

Follow That Dreamレーベル
エルヴィスがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在する。未発表テイクを収録したアルバムが何枚も公式にリリースされたが、今後、商業的目的もある公式アルバムですべてを聴くには不可能。また、録音された公演も数多く存在しており、すべての未発表テイクを含めて、それらは公式にリリースしても一部のファン達にしか需要がない為、長年、海賊版でしか聴く事しか出来なかった。プライヴェート録音を含め、すべての残されたエルヴィスの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した「Follow That Dream」レーベルである。このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファン・クラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾「Barbank'68」(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされ続けている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴く事が出来たり、コンサートアルバムはエルヴィスのコンサートを体験する事が出来なかったファンにも(音声だけだが)追体験出来るような内容になっている。


軍歴
1958年1月20日に、彼はアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。彼は特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。この愛国的な貢献は当時の多くの米国人にとって賞賛された。家族をはじめとする多くのものが、平時におけるこの徴兵をいぶかしみ、中には「彼の徴兵は、その思想や行動を危険視されたことによる政治的なもの」と考えたものもいた。なお、彼は軍在籍中に、空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスを遣して頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。

また、軍に在籍中に、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師は彼の声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかった。扁桃腺の切除手術は行われなかったものの、彼は回復し健康を取り戻した。

1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ビューリーと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父を説得して、未成年であったプリシラとグレースランドで同棲していた。1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー(Lisa Marie Presley)が生まれる。

映画とエルヴィス
もともとエルヴィスは歌手より映画俳優になりたかったらしい。(彼の憧れはジェイムス・ディーンやマーロン・ブランドであった。)父親であるヴァーノンが歌手では一生飯が食えないので、エルヴィスに歌手を勧めなかったといわれている。少なからずエルヴィスもこの考えには同調していた。有名になる近道として歌手の道を選んだ。有名になっていくにつれて映画会社数社から出演の依頼が彼のもとに届いた。エルヴィスは大変喜んで、映画館に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がエルヴィスを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。エルヴィスはシリアスな演技派の俳優になりたかったので、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。エルヴィスは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ。」と不満を漏らしている。陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたがいずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だった為、当時のショウビジネス界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は映画会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付のものが多かったが、「G.I. Blues」や「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas(ラスヴェガス万歳)」等の話題になったものもある。結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開されたが、エルヴィスが望んだ歌なしの映画は1969年公開の「Charro(殺し屋の烙印)」しかなかった。この映画が製作された頃のエルヴィスは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあったが、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為あごひげまではやし撮影された。しかし、エルヴィスが力を入れて撮影したシーンがカットされたり、すでにエルヴィスの主演映画の世間の注目度も低かったので映画自体は振るわなかった。数多く撮影されたにも関わらず、台本に恵まれずミュージカル映画の枠を超える事はなく、彼の仕事への不満が貯まる要因を作り、歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。

コンサート活動後も1970年8月のラスヴェガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画「Elvis: That's the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)」や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、エルヴィスの死去後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成した彼のライフ・ストーリー的映画「This Is ELVIS」が公開された。これらをあわせると、エルヴィスが主演した映画は合計34本となる。

歴史にもし、あの時…はタブーだがエルヴィスの映画スタイルが固定される1950年代に何本かシリアスな映画に出演して話題作になっていたならば、その後も作品に恵まれ彼の映画人生も違ったものになっていたかもしれない。(ただし、そのような映画出演をパーカー大佐が認めていればの話だが…)映画俳優としても有名になっていたならば若くして死去することもなかった可能性があるが、1970年代に歌手としてコンサート等での彼の歌声を聴く事もなかった可能性もある。

1974年8月19日ラスヴェガス公演中のエルヴィスの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れ、彼女が主演する映画「A Star Is Born(スター誕生)」の共演を依頼しエルヴィス自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。

1970年代半ばエルヴィス自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、後年エルヴィスは体調が悪くなる事が多く空手を続けられる環境でなくなった為、8段だった空手自体をやめてしまった事があげられる。因みに空手の後の趣味はラケットボールで、自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。死去する1977年8月16日の早朝も友人達とプレーし、汗を流した。

コンサート・ツアー
1969年からエルヴィスはそれまでの映画への不満を爆発させるように自虐的とも言える過密スケジュールでライヴ活動を再開する。しかし、それは彼を完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。 死ぬ前の7年間に行ったライヴは1000回以上であり、平均すると一ヶ月におよそ35回のペースだった。 そのため彼はしばしば薬物を用い、自身のストレスから逃れようとしたと言われている。使用された薬物はデメロール(睡眠薬)、アンフェタミン(覚醒剤)、ステロイド系鎮痛剤、ビタミン剤等々。いずれもヤブ医者が処方した薬だったので敬虔なクリスチャンであるエルヴィス自身が薬物に手を出したのではないとされる。しかしその薬物の影響からか、映画『エルヴィス・オン・ステージ』や『アロハ・フロム・ハワイ』では彼が歌詞を覚えられないことをぼやいて不安がるシーンや、リハーサルコンサートで歌詞を間違えてしまうシーンが見られる。『エルヴィス・オン・ステージ』のリハーサルで「リトル・シスター」の歌詞を間違え、本番での「君を信じたい」と「ポーク・サラダ・アニー」では歌詞を見ながら歌っている。映像では発表されていないが同ライブの12日ミッドナイトショーでは「ただ一人の男」を途中で歌い終え、“これ以上は覚えてないんだ”と言っている。「やさしく愛して」の頃は共演者の台詞を全て覚えるほど記憶力が良い事でも知られていた。

1970年代には、ビートルズの登場とその隆盛に伴い、その人気にかつてほどの勢いが失われたように見られていたが、熱狂的なファンは世界中に存在し、数々のアルバムをリリースした。また、1960年代後半よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになっていたが、同じくラスベガスを中心にショーを行っていた人気ピアニストのリベラーチェが、その派手な衣装をエルヴィスに勧めた事により、エルヴィスのショーの舞台衣装がこの頃よりどんどん派手になって行くことになり、後に後期のエルヴィスを回想するときには、その派手な衣装が必ず紹介されるようになった。エルヴィスの日本での認識は袖の部分に布端の房を付けているというイメージが強いが、エルヴィスはその衣装を死ぬまでに1度しか着ていない。その房の付いたジャンプスーツは「動きの邪魔だ」と言って、切ってしまったようで、もっぱらボン・ジョヴィなどがそのテのジャケットを着ていた。

エルヴィスのコンサートは時代を経て、大規模なものになっていった。1950年代はエルヴィスのヴォーカルにギター、ベース、ドラムスの一つのグループのような編成でロックロール色を前面に出す構成だったが、瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以後、翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからは、ロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダート・ナンバー等を取り入れたエンタテイメント性を前面に出す構成に移行していった。バック・ミュージシャンもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、フルオーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。ラスヴェガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。彼の幅広い音楽性を最大限引き出すにはここまで必要だったといえよう。

エルヴィスは1969年のコンサート活動再開後、最後にコンサートを行った1977年6月26日インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続いた。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。後年、体調不良となってくると主治医から処方された薬でスケジュールをこなすよう体調を維持したが、残念ながら体調が回復しない事もあったのだろうコンサート自体の出来、不出来の差があった事は否めない。

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死と埋葬

エルヴィスの墓エルヴィスは1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレースランドで死去した。ガールフレンドのジンジャー・オールデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3:30に死亡を確認した。享年42であった。検死後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。

エルヴィスはメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬された。しかし、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレースランドに再埋葬された。グレースランドには、彼の様々な遺品やピンクに塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型、「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。

若くして死んだため(そして、エルヴィスの物真似を生業としているものがアメリカ国内だけで数百人いるため)か、今日に至るまでエルヴィスを見かけたという目撃者が多くいる。またそれは冗談のネタにもなっており、コメディー番組などでもよく使われる。一つ例を挙げるとエルヴィスのミドル・ネームはアーロン(Aron)であり(身分証明書に基づく)、ミドル・ネームの綴りが墓の綴りと違う為、生きている人間の墓を作る訳にもいかず、あえて綴りを変えたのではないかとの噂になった事もあり「エルヴィスは生きている!(Elvis is Alive!)」というフレーズがアメリカ国内で一時期週刊誌等に過熱気味に報道され、テレビで検証番組を放送する事もあった。しかし、(当然のことながら)エルヴィス本人が現れなかったり、エルヴィスの側近だった人物(メンフィス・マフィア)が否定的な見解を示すなど具体的な物証等が話題が続くほど出てこなかったので、そのような報道は少なくなったが今日でもアメリカのタブロイド新聞の見出しを飾ることがあるほか、日本の東京スポーツもよく引用した記事を掲載する

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世界に与えた影響
エルヴィス・プレスリーはヨーロッパにおいて、ロックンロールに対する興味を生じさせた。冷戦下で、鉄のカーテンで隔たれていたソ連や東ドイツなどの共産主義圏の人々にも知られているほどであった。彼はヨーロッパ進出を考えていたアメリカのミュージシャンの先駆者になった。世界中のティーンエイジャーは彼の「ダックテール」と呼ばれるヘアスタイルをこぞって真似し始めた。また、彼の曲を聴くためのトランジスターラジオの爆発的な需要は、日本の小さな電器メーカーであったソニーを巨大でグローバルな複合企業へと成長させた。そして、黒いズボンや緩い開襟シャツといった彼のニュールックは、ファッションの新たな潮流を作り、その大きな需要を生み出した。エルヴィスの影響は、経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出した。さらに現在でもエルヴィスを慕って彼を演じる人々が世界中にいる。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。

1977年にカーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。」と語った。エルヴィスの存在はそれほど唯一無二の存在で、何物にも代え難かった。彼の音楽とその個性は白人の国家と、黒人特有のリズム、ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼の存在は巨大であった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。

一方で、ベトナム戦争を支持する有力派としても知られ、そんな彼の一面を忌み嫌う者もいた。

アメリカ内務省長官のゲイル・ノートンは2006年3月27日にエルヴィスが約20年間を過ごした、アメリカ合衆国テネシー州メンフィスの邸宅「グレースランド」を国の国定史跡に認定した。歴史的建造物に指定される場所は主に、歴史的イベントが行われた場所、著名なアメリカ人が住んでいた場所,国家を形作る理念を象徴する場所である。 認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。

今日、エルビス発見に莫大な懸賞金がかけられ、映画作成のためらしいがまだエルビスは生存していると考えるエルビスファンも多い。

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アフター・ライフ
エルヴィスの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。彼はステージ以外の事は人任せであった。肖像権は一応、管理はされていたのだがズサンだった為、金儲けの道具され、エルヴィスのイメージを損なうものであっても簡単に商品化出来る状態だった。死去後まもなくして遺族らが膨大なエルヴィスの物的財産を管理する組織が作られ、肖像権も管理しようと訴訟を起こした。(当時、亡くなった有名人の肖像権の取り扱いは、帰属等はっきりしていなかった。)遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までキチンと管理されている。

肖像権が管理できるようになって、エルヴィス・プレスリーという名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。エルヴィスのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年であるが、そのキャリアより死去後経過した期間が長いのに、(エルヴィスに関連した物も含めて)エルヴィスほど死去後も活字や映像等で様々な話題を提供し続ける人物も珍しい。エルヴィス自身は、もし僕が死んだらファン達は僕の事などすぐに忘れるだろうね、と語っていた。ここ数年、亡くなった有名人がこの一年で最も稼いだNo.1の座は彼の指定席となっている。本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘され、それらを収めたものや、音質の向上されたアルバム等が現在も現役のアーティスト並みのペースで発表されている。最近の話題だと新編集された曲が2002年FIFA World Cup KOREA/JAPANの公式テーマソングになったり、それらを収録したアルバムがNo.1(ビルボート・ポップ・アルバム・チャート)に輝いた。未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評だった。その他、側近や友人、家族らが語るエルヴィスの人物像に焦点をあてた物や、エルヴィスのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。2005年1月には「監獄ロック」「ワン・ナイト/アイガッタ・スタング」「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」が全英チャートを制覇している。

それ以外にもエルヴィスをモチーフにした映画の製作や彼の曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。エルヴィスに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知らない。エルヴィスが残した物や素晴らしさ、人間性を伝えていこうという姿勢がこれらの根底にあるようだ。

彼の物まね、又は成りきる(演じる)事を生業とする人々が全世界に存在する他、エルヴィスを尊敬する有名ビッグ・アーティストも多く、そのようなアーティスト達が一同に会したトリビュート・コンサートやトリビュート・アルバムの発売が何度も企画され実現した。更に1997年には新たなる試みとして、エルヴィスのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏する「ELVIS THE CONCERT(エルヴィス・ザ・コンサート)」(最近「ELVIS PRESLEY IN CONCERT(エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)」に名称変更された)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。公演先はヨーロッパが多く、オーストラリアや日本でも公演があった。

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メディア・芸術作品の中のエルヴィス
『フォレスト・ガンプ』 - 無名時代のエルヴィスがガンプの家に泊まり、背骨の固定装置を足に着けたガンプの動きにヒントを得て独自のステージパフォーマンスを編み出すというくだりがある。また、劇中でフォレストの母親が「子どもの見るものではない」と当時のエルヴィスに対する親の考えが表されている。
『ミステリー・トレイン』(ジム・ジャームッシュ) - エルヴィスのゆかりの地としてメンフィスを訪れる若い日本人観光客のカップルのエピソードが含まれている。女の子のジュンはエルヴィスに心酔している。エルヴィスの亡霊が登場したり、ラジオからエルヴィスの曲が流れたりもする。
『スコーピオン』という映画では主人公ら五人の強盗グループがラスベガスで開催されているエルヴィス・プレスリーそっくりさんコンテストの会場にジャンプスーツ姿で現れ、騒ぎに乗じて金を盗み出す場面がある。
『ババ・ホ=テップ』(Bubba Ho-Tep)という映画の主人公は、人知れず南部のとある老人ホームで余生を送るエルヴィスである。亡くなったのは実はそっくりさんだったという設定。
ジャック・ウォマックの小説AmbientやElvissey(ともに未訳)で描かれる近未来世界では、エルヴィスの復活を信じるE教会(the Chirch of E)という宗教が登場する。Elvisseyでは、E教会の信者たちが、エルヴィスのそっくりさんファッションに身を固めて、"Elcon"という集会を開催するシーンがある。
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豆知識
1965年8月27日に、ロサンゼルスのエルヴィスの邸宅でエルヴィスとビートルズは一度きりの会見を果たす。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとエルヴィスのマネージャーであるパーカー大佐の間での極秘の打ち合わせという名目だったが、実際自宅周辺には野次馬が集まった。エルヴィスは習いたてのベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏してはいない。そしてその会見に実際に立ち会ったという、記者クリス・ハッチンスによればジョンはエルヴィスのベトナム戦争に賛同する姿勢と、彼のマンネリ気味であった映画を痛烈に批判したということらしい。ジョン・レノンを快く思っていなかったエルヴィスは激怒したとされる(ジョン・レノンは1970年代のエルヴィスのプロデュースをやりたかったらしい)。しかし、この証言は当時の他の同席者達がそれぞれ微妙に食い違った証言をしていることから真実であるかは疑わしい。そしてなにより惜しい事は、当時音楽界に於いて最も注目すべきこの会見を録音したテープが存在しないことである。
ニュージーランドのタズマンベイ(湾)にはエルヴィス・プレスリーの横顔によく似た小島がある。
エルヴィスは終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない。エルヴィス自身は世界中から寄せられる公演希望に応えたいと思っていたのだが、パーカー大佐がこれを許さず、海外公演は出来なかった。その為、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、ナマのエルヴィスを世界へ送った。日本のゴールデンタイムにあわせて?ハワイ時間深夜1時からコンサートを開始した。また、チャリティ・ショーだった為、エルヴィスをはじめバンド・メンバーはノーギャラでコンサートを行った。この公演の収入は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。この公演のチケットには値段が付いておらず、客が献金したい分だけ払えば、購入することが出来た。6000席の会場で7万5000ドル集まったわけだから、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。
「アロハ・フロム・ハワイ」での世界衛星中継後、エルヴィスはそのプレッシャーにより、吐きどおしだったという。エルヴィスはこの公演を誇りに思い、アメリカの象徴であるイーグルを刺繍したジャンプスーツを作った。
エルヴィスは昔、飛行機事故を経験しており、その後のハリウッドでの映画撮影を行っていた1960年代はトレーラーバスを購入し、メンフィスとハリウッドの移動手段に利用する等数年間は飛行機嫌いになった。「アロハ・フロム・ハワイ」での到着シーンでも若干顔色が悪いのが伺える。後年、飛行機嫌いを克服したのかは不明だが、全米各地でのコンサートの移動用に自家用ジェットを購入し、頻繁に使用した。

リチャード・ニクソン大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)世界中のエルヴィスのファン、ファンクラブからの募金のみで運営している病院がある。その病院はメンフィスにあるエルヴィス・プレスリー記念病院である。
ロックン・ロール、リズム&ブルース、ゴスペル・ミュージックの3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ3度グラミー賞を受賞しているが、3度ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、エルヴィスは終生この事を誇りにした。
警察官等のバッジ・コレクションをしており、珍しいバッジが欲しいというだけの理由ではないが、1970年12月20日にはわざわざワシントンD.C.に一人で行き、アポなしでリチャード・ニクソン大統領に会った。右のツーショット写真はその際撮影されたものである。
「アロハ・フロム・ハワイ」で日本人の“オーディエンス”から手ぬぐいを首にかけてもらい、「これはなんだろう?」という眼差しで見つめている。
70年8月12日のミッドナイト・ショーでエルヴィスは首飾りをつけていたが、「ラブ・ミー・テンダー」で会場を回った後、ステージに戻り「誰か僕の首飾りを切っちゃった」とMCしていた。
「ハウンド・ドッグ」を歌う際には、「僕はまだほんのガキでした」とMCするのがお約束。
パーカー大佐はエルヴィスのギャラの半分を自分のコミッションとしていた。彼はエルヴィスを脅迫していたと言われている。
モハメド・アリと交流があり、彼に金色のマントを送ったが、それを初めて着用して登場した試合で敗れたので、以後2度と着用することはなかったが、アリはそれを大事にした。アリは金色のマントをもらったので、お返しにエルヴィスに金色のアリのサイン入りグローヴを送った。エルヴィスもこれを大事にした。
「今夜はひとりかい?」のレコーディングの際、エルヴィスは雰囲気を出すためにライトを消して収録した。その為かラストで、譜面台に頭をぶつける音が入っている。
エルヴィスはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付した。殆どが非公式や匿名で行われたものだった為、はっきりと把握出来ていない。ホノルルのパール・ハーバーにあるアリゾナ記念館はエルヴィスが1961年に行ったチャリティ・ショーによって建てられたものである。
エルヴィス・プレスリー・エンタープライズは映画やテレビでエルヴィスが間違った認識で扱われることにピリピリきている。そのため、エルヴィスを好意的に捉える映画やテレビには積極的に協力し、使用料も比較的安くしてもらえる。
ステージやリハーサル風景では分かりにくいが、本人は真面目で几帳面である。
酒も煙草もやらない。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。ステージ上で飲んでいるものは水かゲータレードである。
コーヒーや炭酸飲料が大好きである。
現在、パーカー大佐はその横暴ぶりばかりが目立っているが、彼は確かに売り出しの天才ではあった。数ヶ月を掛けて宣伝材料を集め、各部門へ細かく指示し、配布した。
70年代のエルヴィスは真っ白なジャンプスーツが思い出されるが、それ以外にも紺や青、水色、赤などのジャンプスーツも着ている。
「監獄ロック」のダンスシーンの撮影中、エルヴィスの歯に被せてあった銀歯が取れ、誤って飲み飲んでしまう事故が起きた。銀歯は胃に行かずに肺へ行ったため、肺から銀歯を取り出す大手術を受けた。幸い、彼自身にも喉にも影響はなかった。
70年代のエルヴィスのバックバンドを勤めたベースのジェリー・シェフはエルヴィスから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。ジェリーはブルース以外の音楽には興味がなかったからだ。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはエルヴィスの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。
日本の小泉純一郎首相が大ファンであり、エルヴィスと誕生日が同じである。ブッシュ大統領と共にその生家を訪ねた。このとき遺族から借りたサングラスを首相ははめておどけて見せ、米国民から失笑された。皮肉的な記事を書く傾向のあるニューヨーク・タイムズは「小泉は英語は話せないが英語の歌はうたえるようだ」と皮肉った。(※小泉首相はおかしな発音で単語の羅列しか出来ない。ロンドン大学政経学部に二年間留学したとして選挙に立候補したがロンドン大学には政権学部が存在せず経歴詐称がばれた。)
メンフィスにはエルヴィス・プレスリー・ブルーバード(大通り)という名の道路がある。
ピアノのグレン・ハーデンはエルヴィスがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、エルヴィスにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。
エルヴィスは演奏者にソロを振るとき、ジェームズ・バートンには「Play it, James.」などと言い、グレンには「Hit it, Glen.」などと、ロニーには「Ronnie!」と、ベースのジェリーには「Play blues!」と言うことが多い。ジェリーにだけはブルースと具体的に言うため、ジェリーはブルースに飽きても変更できなかった。ある日、ブルースを振られたジェリーはアドリブでケイジャンを弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベースのジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。
「エルヴィス・オン・ステージ」の冒頭で見られる観客は70年8月の公演のものではない。
「アロハ・フロム・ハワイ」の記者会見でパーカー大佐は1000ドルを寄付(チケット購入)した。
エルヴィスの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、エルヴィスは葬儀の資金を全額 負担し、バックコーラスであったJ.D.サムナー&スタンプス・カルテットにゴスペルを歌わせた。葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、エルヴィスは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。
[編集]
家族
父:ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー/Vernon Elvis Presley (1916年4月19日 - 1979年6月26日)
母:グラディス・ラヴ・プレスリー/Gladys Love Smith Presley (1912年4月25日 - 1958年8月14日)
兄:ジェシー・ギャロン・プレスリー/Jesse Garon Presley (エルヴィスの双子の兄に当たり30分早く生まれたが、生後まもなく死去)
娘:リサ・マリー・プレスリー/Lisa Marie Presley (1968年2月1日 - )
妻:プリシラ・プレスリー/Priscilla Beaulieu Presley (1945年5月24日 - )



60's オールディーズとは
 ブリティッシュ・ロックとサイケデリック・ロック以外の1960年代音楽は、すべて「60年代オールディーズ」の範疇だと考えていいだろう。
ビーチ・ボーイズ、またロネッツのようなガール・グループ、モータウン・サウンドを世間にもたらした先駆者スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ、ホット・ロッド・ロックンロールのデイトナやジャン&ディーンなどが、このジャンルの代表的存在だ。また、ビートルズが劇的にシーンに登場し、ローリング・ストーンズがアメリカのR&B市場でブレイクする以前に、全米のメイン・ラジオ局で流れていた音楽は基本的に全て60'sオールディーズに含まれる。
フィル・スペクターの贅沢な作品、ブリル・ビルディングのポップ職人気質、そして、あらゆるミュージシャンのバックで卓越した演奏を披露していた偉大なるブッカー・T. & THE MG'Sらの作品には、是非とも触れてみるべきだろう。




50's ロックンロールとは
1950年代のロックンロールは2つの見解に分けることができる。ロカビリーを基本とするアーリー・カントリーとデルタ・ブルースを融合したもので、50年代半ばのエルヴィス・プレスリーがその代表。何百人もの黒人ミュージシャンによるジャンピング・パーティ音楽。こちらはジョー・ターナーやワイノニー・ハリス、ルイ・ジョーダンらのが代表格――といった具合である。そして、彼らの音楽は双方ともラフでプリミティヴ。まるで安酒場のブルースを急テンポにしたような作りで、そこにはジャズやゴスペルのテイストもふんだんにちりばめられている。
ロックンロールは、プレスリーやジェリー・リー・ルイス、チャック・ベリーらの出現によって、50年代後半にはティーンエージャーを熱狂させる音楽となったが、その何年か前までは、酒場や街道沿いのナイトクラブがクローズする時にかける音楽――といった認識が一般的であったようだ。
知らず知らずのうちに体が揺れ、我を抑えきれずに嬌声を張り上げる――といったごくごくベーシックな人間の反応を誘い出すのがロックンロールである。そして、派手なパフォーマンスをまとったギタープレイ、露骨な流し目やセックス・アピール、学校や権威への不信感……といったおなじみの要素がロックンロールにさらなる魅力を加わっていったのは言うまでもないだろう。


STRAY CATS
1980年 ストレイキャッツ結成。G.vox.ブライアン・セッツァー
Wb.リー・ロッカー  Dr.スリム・ジム・ファントム
ロカッツとは逆に皮肉にもアメリカを捨てロンドンで好評を呼び、1981年にデビュー。
Rock This Town(ロックタウンは恋の街)が
ビルボード誌で5位を飾ると、ロンドンのパンクシーンは
ロカビリービートに注目。こうして英国産のネオ・ロカビリーを確立した。
ロンドンキッズはストレイキャッツの特異なファッションと、オーバー気味な
ロカビリーアクションの魅力にとりつかれていった。
1981年にセカンドアルバム名の「ごーいんDOWN TOWN」が日本でCMソングになり
TVでオンエアされると日本でも人気が上昇した。この年に早くも来日している。
アメリカの文化とイギリスの文化がクロスして、確立されたネオ・ロカビリーは
たくさんの有名アーティストまでもをクギ付けにした。
パンカビリーという造語まで作ったブームは83年にピークを迎え、
この年に活動中止となった。

1988年に再結成。1989年に発表された「ブラスト・オフ」(左)に
「ジーン&エディ」という曲があるが、ブライアンがロックンロールの王者
ジーン・ヴィンセントとエディ・コクランに捧げた作品になっている。
先人たちのヒット曲をちりばめていて、らしくアレンジされている。
また「オリジナル・クール」(右)ではブライアンのルーツでもあろう、
ロックンロールのカバー作品となっている。これはクール!!


(ピュア)ロカビリー
ジョニー・バーネット・トリオ、カール・パーキンス、エルヴィス・プレスリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、バディ・ホリー等。
ネオロカビリー
ロバート・ゴードン、13CATS、ストレイ・キャッツ、ロカッツ、ポールキャッツ、レストレス、ブルー・キャッツ、シェイキン・ピラミッズ等。

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開設日
2006年9月24日

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