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板垣退助

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詳細 2017年2月11日 05:29更新

板垣死すとも自由は死せず。



板垣 退助(いたがき たいすけ、男性、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日は、幕末、明治時代の政治家。自由民権運動の主導者として知られる。幼名は猪之助。通称は退助。無形と号した。伯爵(華族一代論を主張したため没後襲爵手続きをなさず)。

天保8年4月17日(1837年5月21日) 板垣退助は、高知城下(現・高知市)に土佐藩士・乾正成の子として生まれた。乾家は上士であり先祖は戦国時代に甲斐の武田信玄に仕えた武将板垣信方であると称している。藩主・山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。
板垣退助は、討幕運動に参加し、戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで藩の大隊司令として出征、土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として会津藩などの攻略を行った。この時期から、乾姓から先祖の旧姓である板垣を名乗るようになった。

1867年に明治新政府の参与となる。
1870年に高知藩の大参事となる。
1871年に参議となる。
1873年に征韓論を主張するが破れて、西郷隆盛とともに下野(明治六年政変)。
1874年に愛国公党を組織し、後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議したが却下された。
1875年に参議に復帰したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
1881年、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)を結成して総理(党首)となる。
1882年、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した。その際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという説が流布している。しかし、実際には板垣はこのようなことは言っていない。この事件の直後、小室信介(案外堂)というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものである。なお、このとき板垣を診察した後藤新平を、「彼を政治家にできないのが残念だ」と、語ったという。その後、後藤新平は、政治家となり、東京市長などを歴任した。
1884年、自由民権運動の激化で自由党を一旦解党した。
1890年の帝国議会開設後、旧自由党を立憲自由党として再興した。
1891年自由党に改称してその総理となった。
1898年、対立していた進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である大隈重信内閣の内相を歴任した(大隈重信内閣は隈板内閣とも呼ばれる)。
1900年、立憲政友会の創立とともに政界を隠退した。
大正8年(1919年)7月16日、死去
没後も、日本の民主政治の草分けとして人気が高く、戦後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





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