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覆面世界一 ザ・デストロイヤー

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詳細 2021年11月18日 18:17更新

1963年、アメリカ武者修行中のジャイアント馬場の挑戦を受けた試合は3試合ともソールドアウト。日本でも大きな話題となって、同じ年、日本プロレスに初来日。5月17日の力道山×キラー・コワルスキー戦の試合前、羽田空港から会場へ直行しリング挨拶に立ったデストロイヤーは、なんと黒覆面をつけていた。羽田のタラップでは白覆面だったので、お色直しのつもりだったのか。いずれにせよ、デストロイヤーが黒覆面を被ったのは日本ではこのときだけである。
1週間後、ついに力道山との一騎打ちを迎える。5月24日、東京・千駄ヶ谷スタジアムにおける一戦は1万6000人の観衆と、東京駅前の街頭テレビにも1万人余を集め、当時のテレビ最高視聴率64パーセントを記録(日本テレビ)。これは現在でもスポーツ番組史上、3位に輝くスーパーレコードである。
同年12月4日、大阪に場所を移して行われた力道山との因縁の対決は、力道山最後の試合となった。
「1ドル360円の時代だったな。タクシー初乗りが60円、1ドルでたいていのところへ行けたんだ」
1973年には、ジャイアント馬場が日プロを脱退して設立した全日本プロレスに、日本側のメンバーとして定着。設立まもない全日プロは、馬場の顔で外国人レスラーの招聘ルートには事欠かなかったものの、日本陣営の戦力が手薄だったのだ。デストロイヤーはヒールを捨てたわけだが、実際にはその前にロサンゼルスでもベビーフェースを経験し、成功をおさめていた。
全日マットでのデストロイヤーは、持ち前の実力で大活躍。ジャック・ブリスコのNWA世界のベルトにも、指先がかかった。とくにミル・マスカラスとの覆面世界一決定戦から始まった「覆面十番勝負」は、ジャイアント馬場の「世界選手権争覇十番勝負」に継ぐ十番勝負企画として大きな成功をおさめ、その後さまざまな選手が行うことになる十番勝負の先駆け的なものとなった。日本にいる間、デストロイヤーはそのほとんどの期間を麻布十番に住んでいたのだが、なんとも「十番」勝負の先駆者にふさわしい地名ではないか。
そして1979年、全日本プロレスをサポートしつづけた功労者は、そのつとめを果たしてアメリカへ戻っていった。

帰国後はカナダで、ボブ・バックランド、アンドレ・ザ・ジャイアント、ファンクス、ニック・ボックウィンクル、マッドドック・バションなどといった名レスラーたちとともに試合をしている。1983年1月10日にはビル・ロビンソンを破って、モントリオール地区のインターナショナル王座にも輝く。同タイトルは80年代のローカルタイトルのひとつで、ディノ・ブラボーが代表的なチャンプとして有名だ。そして1984年にセミリタイアしてからは、地元NYのアクロン・セントラル・スクールで体育教師の道を選んだ。

1993年、日本武道館での試合を最後にデストロイヤーはリングに上がらなくなった。デビュー後の素顔時代、そして1967年からAWA圏で演じたドクターX時代やシャドー時代をのぞき、約40年におよぶキャリアのほとんどをデストロイヤーとして走った。
また、彼は1995年に体育教師を退任した後も、引き続き子どもたちに水泳の指導などをしている。愛する子どもたちに囲まれ、やさしい笑顔を見せるデストロイヤーに、破壊者のおもかげはすでにない。しかし、マスク越しに時折見せる強い意志を持ったまなざしには、世界の超一流レスラーでありつづけた実力者の誇りと風格が息づいている。

「私は、もっとも強くないかもしれないし、大きくないかもしれない。だが、もっともすばやく、機知に富む」

すでに70歳を越えたデストロイヤーだが、"覆面世界一"の称号は永遠に彼のものだ。

ボクはそう思います!!!

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