mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

宰相 リシュリュー

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
詳細 2022年10月17日 23:40更新

枢機卿およびリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585年9月9日 - 1642年12月4日)は、フランス王国の政治家。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。

生涯
リシュリューは西部フランスの小貴族でアンリ4世に仕えた父フランソワと母シュザンヌ・ド・ポルトの間に生まれた。1609年に家業の司教職をついでリュソン司教になった。1614年の全国三部会に聖職者代表として出席。そのときの活躍が、国王ルイ13世の母であり摂政であったマリー・ド・メディシス(メディチ家出身)に認められ、彼女の推挙により政界入り。ルイ13世とマリーとの政争に巻き込まれ一時失脚するが、1622年政治家としての才腕を国王に見込まれて枢機卿となり、2年後の1624年主席国務大臣(事実上の宰相)に任じられた。当時、ドイツを舞台に起こっていた三十年戦争をめぐる外交姿勢(リシュリューは介入に積極的)などをめぐって王太后マリーと対立したが、1631年にマリーがロレーヌ公のもとへと逃れていった。

中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて後年の絶対王政の基礎を築いた。また、国内のプロテスタントを抑圧し1628年にはフランスにおける新教勢力の重要な拠点であったラ・ロシェルを攻略した。

対外的には、勢力均衡の観点から同じカトリック勢力であるオーストリア=ハプスブルク家、スペイン=ハプスブルク家に対抗する姿勢をとった。そのため、国内ではラ・ロシェルを攻略したように反国王の立場をとるプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、三十年戦争に際してプロテスタント側(反ハプスブルク家)で参戦した。

一方で、文化政策にも力をそそぎ1635年には「フランス語の純化」を目標にアカデミー・フランセーズを創設した。

これらの諸政策は一部の王族や封建的な大貴族の強い反発を招き、幾度となくリシュリューを排除しようとする陰謀が企てられたが、その度に発覚して関係者が処刑された。しかし、これらの動きはリシュリューの死の直前まで続いた。

1642年12月4日に居館のパレ・カルディナル(現パレ・ロワイヤル)で没し、後にたてられたパリのソルボンヌ教会に葬られている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コミュニティにつぶやきを投稿

最近の投稿がありません泣き顔
つぶやき・トピック・イベント・アンケートを作成して参加者と交流しようわーい(嬉しい顔)
参加メンバー 39人

もっと見る

開設日
2006年8月19日

6458日間運営

カテゴリ
学問、研究
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!