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加藤文太郎

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詳細 2016年5月17日 14:05更新

加藤文太郎   
浜坂町立加藤文太郎記念図書館の展示より
加藤文太郎は、1905年(明治38年)3月11日兵庫県美方郡浜坂町浜坂552番地 加藤岩太郎と、よねの四男として生まれる。

1919年(大正8年)3月11日 浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸市の三菱内燃機神戸製作所(現在は三菱神戸造船所)に製図修業生として入社、設計課員として精励するかたわら、兵庫県立工業学校別科機械科(修業年限2ヶ年)を卒業、更に神戸工業高等専修学校電気科(修業年限3ヶ年)の課程を卒業、技能の向上に専念した。
1923年(大正12年)から登山を始め、1925年(大正14年)夏、白馬岳登山が始まりで、1928年(昭和3年)ごろから単独行を重ね、積雪期の八ヶ岳、槍ヶ岳、立山、穂高岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳など果敢な山登りを展開する。
なかでも冬の槍ヶ岳単独登頂は、当時の新聞や岳人たちをアッといわせる驚異的な足跡を残す。
彼のその沈着と用意周到かつ独創的にして勇猛果敢不屈の岳人として、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」と呼ばれ、日本の登山界に不滅の足跡を残し、国宝的存在とまで賞賛されるに至る。
やがて、加藤もより困難な山登りに挑むため、良き同伴者を求め、1934年(昭和9年)4月、吉田富久君と共に前穂高北尾根をめざす。翌年1月には、単独で立山から針ノ木岳を越えて大町に出た。そして、1936年(昭和11年)1月初旬、再び吉田君と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑み、猛吹雪にあい、天上沢に31歳の青春を終える。
ヒマラヤへの夢を実現できなかったのが惜しまれる。彼の死をある新聞は、「国宝的山の猛者、槍で遭難」と伝える。
これらの山行と劇的な生涯が新田次郎著「孤高の人」に克明に描かれ、山を愛する人々の中に全国的な感動を呼び起こしている。
不世出の単独登山家を挙げれば
明治の加藤文太郎、昭和の植村直己、平成の山野井泰史となるんじゃないかなと思います。

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