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卑弥呼=神功皇后説

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コミュ内全体

詳細 2017年5月2日 16:04更新

息長足姫(おきながたらしひめ、神功皇后)は卑弥呼を意識して創作されたとされますが、卑弥呼は実際に瀬戸内海の海運を司る海の女王だったという説のファン倶楽部です。

基本的に邪馬台国畿内説になります。
北九州やその他の地域の場合でも、海を自由に動き回っていたとされる方、「卑弥呼=熊襲女酋長説」、「卑弥呼=天照大神説」は、地味でちょっと物足りないかなと思われる方、ついでに彼女は絶世の美人、生涯独身だったと思われる方も大歓迎です。
卑弥呼と神功皇后の伝承や神社、ご利益について興味のある方、ご存知の郷土歴史家の方もどうぞ。


○方針
あくまでも趣味で、神代とされる弥生時代後期から古墳時代の考古学と古代史における最高のヒロイン、卑弥呼と息長足姫を中心に、歴史物や考古学物の漫画や小説などで、明日から使えるムダ知識や、思い切った自説を発表する場所として親しみ、利用できる歴史ロマンのためのコミュニティが方針です。


○卑弥呼=息長足姫説一例
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14221167&comm_id=1168251

○卑弥呼
魏志倭人伝に記される、倭国大乱から王不在の期間を経て、諸国に推戴され、1000人の侍女が仕えていたとされるシャーマネス。
公孫氏の一族とも、周王家の姫氏の末裔とも言われる。
天照大神や神功皇后に比定される。

238年(景初二年) - 6月、難升米らを帯方郡太守の劉夏の元に派遣。12月に洛陽の魏皇帝に謁見する。親魏倭王の金印と紺錦、毛織物、白絹、金、刀、銅鏡100枚、真珠、鉛などの大量の財宝を与えられる。
5〜6世紀に編纂された梁書や日本書紀での記述が景初三年(239年)6月に謁見とされており、238年時点の公孫氏の乱の影響や太守の劉夏と劉キ([日斤])が別人である可能性、謁見した12月に魏明帝曹叡が病に臥し翌239年正月に崩御している事が考慮され、こちらが通説とされる事も多いが、新羅出兵や長期間の滞在の可能性も考え、このコミュニティでは238年説は使いどころです。

243年 - 魏に遣使。
魏の皇帝に生口(捕虜・職人)男4人女6人と、斑布(染物)を献上しており、恒に白装束というわけではないと思われます。

245年 - 難升米が魏の旗を与えられる。帯方郡で辰韓(新羅)の部族による反乱が起きている。

247-248年頃 - 没す。それまでには齢を重ね、弟が補佐していたとされます。弟とおぼしき男王が後を継ぐが纏まらず、すぐに台与という卑弥呼の一族の娘に代わる。
九州説であれば、卑弥呼=甕依姫と台与=田油津媛、畿内説であれば、卑弥呼=7代孝霊天皇の皇女で吉備津彦の姉で大物主神に嫁ぎ降霊させ命令を下した倭迹迹日百襲姫と台与=11代垂仁天皇の皇女の豊鍬入姫命と見られる事が多いようです。
卑弥呼=天照大神では、台与=下照姫命です。

同世代で長生きの三国志の武将に、魏の司馬懿、呉の孫権、陸遜などがいます。

ピミヲ、イメコ、キミカ(比売命、姫美穂、神人、澪、三輪、日彌保、費明華?)など。
狗那国の男王の名は卑弥弓呼で、ここから卑弥呼は役職名ではなかったかとも言われています。

○息長足姫(神功姫)
古事記(息長帯比売命、おきながたらしひめのみこと)、日本書紀(氣長足姫尊)による記載では、卑弥呼が現存した時代に政務を執っていたとされる女性で、その他の風土記などでは神功天皇。170年生-269年没。享年100歳。
父は近江米原の氣長宿禰王。母は新羅皇子の天之日矛の後代の、出雲系で但馬の出石(いずし)族の葛城高額比売命。妹に音楽舞踏の神とされる玉妃命(豊姫)、弟に虚空津比売命と息長日子王、異母弟に大多牟坂王。
倭建命の子である仲哀天皇の妻とされます。
陵墓は、奈良大学の隣の奈良市山陵町宮ノ谷の狭城盾列池上陵(五社神古墳)に比定。平安時代は、佐紀陵山古墳(狭木之寺間陵)が陵墓とされていたが、日葉酢媛命のものと改められている。

夫の死後、201年から政務をとる。新羅(斯盧国、しんら、辰韓、秦韓)にも出兵し、戦わずして勝ったとされます。
その頃に生田、住吉など、各地に社をを建立したとされます。
親も首をかしげるほど美しい姫君とされ、八幡神社の応神天皇(別名に大鞆和気命、おおともわけのみこと)の母としてなど、全国で最も多く祀られている女性です。

彼女に纏わる伝説は、卑弥呼をベースとし、(日本書紀に書かれる年代とは重なるものの、実際には干支が2周する120年後の人物と見られる)応神・仁徳天皇の時代や、推古天皇、持統天皇など、(倭武尊同様に)様々な時代の一族の伝説の混じったものが、シムコとなったとも考えられます。
中国では則天武后(武則天:在位690〜705年)の時代の697年(歴代天皇の漢風諡号は淡海三船722-785の若い頃に一括して撰進された)に、「神功」の元号が短期間使用されています。

ベルばらKidsぷらざ
http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2006/05/post_04b9.html

息長足姫の歌
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jingu.html

息長足姫と関わりのありそうな人物。
姥津媛、奥津姫、興津姫、大宜都比売、大気津姫 辛國息長大姫大目命 多岐津比売 瑞津姫 吾娥津媛命 御饌津神(稲荷神)。

・息長氏について
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-9.html

倭武尊の両親になる景行天皇と吉備氏出身の播磨稲日大郎姫の仲人に息長命が登場する。
垂仁天皇の皇后の、狭穂姫命や日葉酢媛命なども一族。
竹取物語に出る普賢寺の山号が息長山であり、垂仁天皇の妃の中に迦具夜比売がある事から関わりがあるのではないかと考えられています。
火浣布という、石綿を使った灰にならない布が、240年に西域から魏帝に献上されたという記録があります。
現代の富士山の噴火史は、3世紀と6世紀にあり、竹取物語の描写に一致します。浅間大社の伝承にも、孝霊天皇の代に富士山の鳴動があったとあります。

息長足姫の父の息長宿禰王は、隋書倭国伝に「魏の時代に三十餘国が中国に朝貢し、皆王と称している。夷人は里数を知らず日をもって計る」とある事から、中小のクニの王であったとも考えられます。

・住吉神社について
三大住吉神社は、最古の福岡、下関、本社の摂津にある。
摂津の住吉大社は211年に鎮斎されたと伝えられ、遅くとも5世紀頃には産業の中心地として存在したと考えられる。
同敷地内の住吉神宮寺(新羅寺)は廃仏毀釈により廃寺。
祭神は住吉三神と息長足姫。住吉三神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命と言われ、かつての役職の名残であったとすれば、瀬戸内海北岸・南岸・太平洋岸などの交易ルートを監視していたなどとも考えられるでしょうか。

生田神社は201年に稚日女の神託を受けて鎮斎されたと伝えられます。


○天照大神
弟神須佐之男(スサノオ、伊勢神宮では月読尊)の歪んだ愛情に耐えかねて天の戸に引きこもった女神。対決時には、矢を後背に1000本、前に500本を身につけていました。
卑弥呼や九州の筑紫や畿内の伊勢などの古い女王とも言われます。
158年か、または247年248年の二年連続の日蝕が、天戸隠れに比定するとされています(日蝕は無かったとも言われています)。201年にも欠けの小さな部分日蝕が起きています。
あるいは、日蝕から太陽神の位置付けがなされた可能性もあります。
周呉の太伯の後系とも言われ、この説は林羅山などに支持されました。
弟神の建速須佐之男は、出雲や新羅の神話に纏わるともされています。後漢書東夷伝に現れる、日本史史上最初に名前が現れる帥升(スサ)と比定する説があります。
天照大神=神功皇后説を取らないのであれば、大日女尊、稚日女尊、クニアレ姫といったようになるでしょうか。
当初は皇居内で祀られていましたが、崇神天皇の時代に国が乱れた際、倭迹迹日百襲姫が、豊鍬入姫に後事を託し、20数ヶ国を巡り、美濃、尾張を経て、最終的に伊勢神宮で祀られました。皇祖神とされたのは明治以降で、全国の一宮では主祭神としては祀られていません。
http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2006/04/post_a63b.html


○倭人・倭國
紀元前より存在は知られ、帯方郡(現在の北朝鮮南西)の南東、会稽の東方の大海の中で、前漢の頃には100余のクニに分かれ、山城などに拠って暮らしていました。
人口は60万人と推定されています。奈良時代までに450万人にまで増加しました。急激な経済発展が伺えます。
漁猟の他、1年中生野菜を食べる。真珠や勾玉の原石の採取、養蚕、冶金などが、大陸に近い地域では始まっていました。
漁のための隈取りや入墨から呉越や南方系の影響も指摘されます。
また、弁韓(任那、水間那)を始めとする海岸沿いにも倭人の邑がありました。
弁韓を建国した伊珍阿鼓(イゾナコ)を伊邪那岐(イザナギ)とする説があります。新羅の脱解尼師今王は倭の但馬や丹波とも考えられている多婆那国から来たとされています。

卑弥呼以前は大乱により倭に王は不在で、それ以前には男王が治めていたとされます。かつて金印を授かった奴国の王とも考えられます。
http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/ka60130a.htm


後漢霊帝光和年中(178年〜184年の間)に倭國で大きな内乱が始まりました。
倭國の周旋5千里(1里は450m)です。半島は広く見られていたようです。
大陸からは室町時代まで東北地方がマ東だと見られてたと、多くの古地図から伺えます。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/gaiyou/kochizu.htm
http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/maps.htm


○邪馬台国
帯方郡から1万2千里。20数ヶ国を従える。7万戸(魏の洛陽周辺は11万戸。1戸は4人以上、奈良時代には20人以上)を抱える倭国の大国でした。
「女王国の東の海」は、畿内説では、東海地方を挟む近江(淡海)平野を満たした琵琶湖か伊勢湾に、九州説では豊後水道となります。


○倭人の航海術
古代の日本語は、アイヌ語を含む航海民族のポリネシア系の言語だと言われ、日本と南太平洋の神話の共通性も指摘されています。
また、倭人が隈取りや入墨をしていた事からも、海女などが多かったと推察されます。
弥生時代には大陸の周王朝などの揚子江の水稲文化も、有明海や畿内などの湖沼地帯入ってきましたが、魚貝類が食文化の重要な位置づけを持っていたことは、遺跡の発掘からも伺えます。
北陸東北と豆満港との交易の可能性も示唆されています。

ポリネシア人は、20mものカヌーを用いて、島に巣作りをする種類の海鳥や、太陽や星座を見ての遠洋航海も行い、ハワイ、イースター島、南米にまで進出したといいます。

帆船は紀元前4000年にはエジプトで帆船が作られており、カイと補助のムシロの帆を組み合わせた推進力の高い船が存在したとも考えられます。
そこから、小さな部族であっても、南西諸島を伝ったり、東シナ海を横断して五島列島に達する事も不可能ではなかったとは思われます。

秦は、排水量50トン乗船可能人数100名以上の造船技術を持っていた事が伺える遺構が見つかっており、蓬莱へ不死の秘薬とされる水銀や鉄などを求めた徐福は、そういった船で会稽から済州島へ渡ったと考えられています。

但馬で発掘された4世紀ごろの土器には、帆船の船団が描かれています。
日本書紀に7世紀には奄美諸島と交流があった事が記され、8世紀は遣唐使船が経由しています。
船の材木は何処にでもありますが、日向や大隈が産地として有名です。
淀川は饒速日命が交野市まで天磐船で遡ったと伝えられ、江戸時代に使われた三十石船は、上りは時速5キロです。
http://www.mlit.go.jp/river/rekishibunka/kasengijutsu07-11.html

しかし、奈良時代になっても、鑑真が12年間、日本への航海を失敗し続けたと言い伝えられています。
ポリネシア人も、大航海時代になっても漂流し救助された記録が多く、イースター島ほどではないにせよ、南西諸島航路、日本海縦断航路を使う航海には高度な造船術と航海術が必要で、よほどの食料難や、罪人が追放されでもしない限りは危険性が高いと判断されたようで、徐福を始めとして多くの失敗が記されており、卑弥呼も公孫氏が滅んでから初めて魏と直接国交を持ちました。
命知らずの冒険商人たちもいたでしょうが、倭人や渡来人も、小型商船などで交易を行う場合は、海流や風を使いながらも、沿岸航法を用いて、対海国(対馬)から半島経由で行うのが一般的だったと思われます。

大王と海(準構造船での航海)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/

○末盧国
現在の佐賀県唐津市や長崎県平戸市にまたがる松浦郡一帯。4千余戸。水軍で有名な松浦(まつら)党の本拠地。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、東松浦半島の先端の名護屋に本営が設けられている。
なお、まつらの訛りから、別節に記される裸国が、うら国であると考える事も出来るのでしょうか。魏志倭人伝の記述が、末盧国の近辺で得られた知識に拠る物と考えるのはどうでしょうか。

○伊都国
現在の福岡県前原市糸島半島一帯。1千余戸(魏略では万余戸)。ここに北九州を督率する邪馬台国の一軍が派遣されました。海軍力を備えていたと考えられます。邪馬台国直轄のクニであるとも、ここが倭国における邪馬台国の起源だともされます。
長官に爾支(ネギ)、副官に泄謨觚・柄渠觚(シムコ・ヒクコ)という役職があります。邇邇芸命、神功皇后、天之日矛との関係はあるのでしょうか。

○奴国
2万余戸。那の津がある博多一帯。
長官は兕馬觚(シマコ)、副官は卑奴母離(ヒナモリ)。『魏略』では伊都国と重複する

○不弥国
千余の家。
長官は多模(タモ)、副官は奴国と同じく卑奴母離(ヒナモリ)。 玉妃命(豊姫)と関わりはあるのでしょうか?

○投馬国
邪馬台国の手前にある国。5万戸。 王はミミ(弥弥、彌彌)と呼ばれています。
畿内説では、大伴氏に関係する吉備国(岡山県)の丘陵部、鞆の浦や但馬が比定されています。
邪馬台国と同時代の3世紀初頭の吉備の古墳から最大量の水銀の使用が確認され、交易などで大きな勢力を持ち、畿内に影響力を持っていた事が伺え、邪馬台国中国説では吉備が女王国とされているほどです。
巻向の三輪山の大神神社との繋がりや、卑弥呼を姫大神として考えることも考えられます。
投馬国は、九州説では比定地を探すのが難しい国です。


○狗奴国(拘奴国)
邪馬台国の東の海を渡った場所にある国。魏志倭人伝では、女王国の南、その後に書かれた後漢書倭伝では、東とされる。
東部の養老山系や鈴鹿山系など、まだ邪馬台国の勢力が及んでいない地域。あるいは愛知高原や東海、関東などなど更に遠方です。
似た地名から探せば、畿内説では揖斐川・長良川・木曽川水系の桑名・加納(岐阜市金津園)、静岡県の久能、より遠方には上野国の荒川水系の毛野までが候補地となります。九州説では熊本が比定されるでしょうか。
男王の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)が治め、狗古智卑狗という官職が置かれています。東海地方であれば、額田(カクタ?)彦や幸田彦でしょうか? 桑津彦、河内彦とも読めます。
西上免遺跡(邪馬台国期の土器が多数出土)
http://www.isekiwalker.com/iseki/223688/
朝日遺跡(東西1.4km、南北0.8km)
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/asahi/
方保田東原遺跡(東西1200m、南北350m)
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-11katoudahigasibaru.html

○魏
三国志の曹操の息子の曹丕が220年に建国。

238年(景初二年) - 8月に司馬懿仲達が公孫氏を滅ぼす。

239年(景初三年) - 正月に明帝曹叡が崩御。

240年(景初四年・正始元年) - 暦が改まり、景初四年の二月に当たる月が正始元年正月となる。斉王曹芳が即位。

245年 - 帯方郡太守弓遵が辰韓(新羅)の部族に討たれるが、その後、鎮圧する。難升米に魏の旗を与えている。

248年 - 邪馬台国と狗奴國の不和により張政を派遣する。

265年 - 西晋を建国する司馬氏により滅ぼされる
西晋も302年にフン族(匈奴・モンゴル系)の前趙に滅ぼされ、大陸は諸民族が割拠する。

○公孫氏
一族の中の公孫淵は、魏からは遼東半島と(難民の国の帯方郡を含む)楽浪郡の太守に任じられていた。233年に呉と結んで燕国(北京を含む河北省北部地域)の王を名乗り、236年に魏に反旗を翻すが238年に司馬懿に討たれる。卑弥呼も連なるとされます。

○呉
三国志の孫権により220年に建てられた国で首都は現在の南京。公孫氏を後援する。
226年にベトナムを直轄領化。
230年に海の中にある夷州・亶州に出兵し、夷州から数千人の人間を連れてくるが、亶州は見つけられなかった。
亶州は徐福伝が引用され、数万戸の国とされている。

神戸や山梨の古墳から、呉の元号である赤鳥元年(238年)と記年した鏡が見つかっている。

○古墳時代
前方後円墳などの大型古墳が出現した時代で、気温が2度ほど低い寒冷期。
最近の研究では、畿内説では開始時点が卑弥呼の末期頃までに遡るとされ、九州説では50年後の4世紀とされています。


○記紀
古事記と日本書紀の総称。
天武天皇が681年に川島皇子以下の貴族に大和王朝の正当性を示すための正史の編纂を命じた。
日本国内や東アジアだけではなく、ギリシャ神話、ミクロネシア民話、遊牧民族の伝承などの影響が伺える。
日本版のダヴィンチコードとも。

・古事記 - 稗田阿礼が各一族の伝承を研鑽し太安万侶が編纂し712年に献上した。

・日本書紀 - 721年に舎人親王などにより編撰された。
持統天皇や藤原不比等のなどの元で監修されたという説もある。
完成は、皇族以外の女性(藤原光明子)を長屋王の反対を押し切り初めて皇后に据え、道鏡との恋で有名な孝謙天皇の父でもある、聖武天皇の時代。

仏教の仏典や、冒頭ても引用されている淮南子など儒教の経典などの漢書や、学問の精神と共に入ってきたと思われる、男尊女卑の視点で書かれ、そのために、本来は王であった神功姫を、皇后と脚色した事なども考えられますし、ただ単に神功姫の家系が、王系に繋がらない蝦夷由来のためとも考えられます。

古事記と異なり、反新羅の視点で書かれ、新羅系の神功姫を皇后としたという説もあります。歴代天皇は神功皇后などの漢風諡号による見出しは、数十年後に書き加えられています。

○魏志倭人伝
280年代頃に纏められた中国の史書『三国志』の東夷伝倭人条の略。作者は魏に滅ぼされた蜀の役人で、魏の滅亡後に晋に登用された陳寿(233生〜297年没)。魚豢(ぎょけん)の著した「魏略」など(例として「魏書」「広志」「前漢書」「裴松之注」)から、多く引用されている。

倭国の描写には、九州が北西、東北地方が東南に伸びると捉えられている様子があります。
伝は、倭国ではなく倭人について陳べているのであるのだから、東国について陳べられていない、南海に浮かぶような描写がされる、遠方の黒歯国や裸国はそぐわない等といった理由からです。

他にも、呉の会稽の東にある、韓半島が大きいなど、正確性に欠ける記述もあります。
これは、陳寿が、張政など他の公務を持った外交官からの訊き取りによる不完全な調査による記述であるといった、新大陸をインドと間違えた、コロンブスのような状況が、理由に考えられます。

それとは別の説に、倭國が大陸と半島から遠ざかるように、それも大海の果てにあるように記されるのは、張精らが呉に圧力をかけるため、そのように報告したという説や、晋の役人の張華などが、司馬懿の功績を、魏の将軍の曹真のものより、大きいように見せようという説などもあります。

『魏志』の中で、個人の墓についての記載は、卑弥呼のものだけです。

リンク集

魏志倭人伝を読む
http://johokan.net/history/Rekishi/earlyjapan/Yamatai/gisi.html
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm

ALEXの寓居(漢書と記紀の原文)
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/genkan/index.html

邪馬台国とは何だろうか?(考古学ニュース)
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/index1.html

邪馬台国と大和朝廷(考古学・海部氏勘注系図)
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamataikoku.html

魏志倭人伝と謎解きの旅(古代史・畿内説)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/

邪馬台国の会ホームページ(古代史・諸説比較)
http://yamatai.cside.com/index.htm

Wikipedia - 倭・倭人関連の朝鮮文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%96%87%E7%8C%AE

新羅本紀(三国史記1145年製作)による半島情勢年表
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/shiragi.html

とんでもとらべる(神功陵を含む、京阪奈の寺社遺跡)
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/


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http://www.agarisk.com/product/history/0002.html

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