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越前屋アカデミー

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詳細 2016年3月9日 16:15更新

まず、「越前屋アカデミー」を語るには「ポンチ倶楽部」について語らなければならない。
「ポンチ倶楽部」は、92年の秋から冬にかけて、関西テレビの「モーレツ!科学教室」放送中に、番組のファンクラブの形をとって創設された。番組のタイトルで会員の名前が放送されるという事や、メンバーが「ポンチ倶楽部ミドリムシ隊」など、テレビに出演できるという魅力もあり、会員数はうなぎのぼりに増加し、全盛時には、700人以上になったと思われる。
 93年に番組終了後、「ポンチ倶楽部」は、越前屋俵太&平智之ファンクラブとして活動を継続し、越前屋電視社が主体として運営した。会員数は300名程度であったと思われる。この時の電視社社員以外の主なスタッフは、越前屋アカデミー創設時には、ほとんど姿を消す。
  そして、93・94年、さまざまなイベントを行った「ポンチ倶楽部」であるが、この年の暮れにはほぼ活動が限界に達していた。低予算番組「キュティクル・ハニー」の制作と「ポンチ倶楽部」の運営という業務を電視社とスタッフでまかなうという事に無理があり、また、同じ活動を繰り返し継続していくという事に越前屋俵太も不満をもち、新しい活動を模索していた。
 94年秋に各地の学園祭で講演を行う際に、越前屋俵太は、「あらゆる人にあらゆる出会いを」という「越前屋アカデミー構想」のチラシを配布するとともに、その構想を語り、また、桂小枝と共に創設する予定の「放送映像研究会」の構想についても語った。

年末にかけて、越前屋電視社では、数次にわたって話し合いがもたれ、新組織のあるべき姿について検討がかさねられた。越前屋俵太の構想にはいくつものイメージがあり、あるいは既成の団体(越前屋電視社専務の小林氏の別会社「ベンゲット」の会員組織、近畿アニメーション協議会)の取り込み、団体の新設(「スノコクラブ」「段違い平行棒部」「放送映像研究会」「環瀬戸内海アニメーション技術研究所」など)「ポンチ倶楽部」はどうするか、あるいはそれらの団体に入らない会員はどうするか、運営はどうするか、責任はどうするか、についてさまざまなアイデアが出された。しかし、最大の問題は、「越前屋アカデミー」の目的は何かということで、結局この点は最後まであやふやであった。
 はっきりしていたのは、将来的に数千・数万人の会員を持つ大組織とし、会員の会費で維持されるしゃれた事務局と専従のスタッフをもち、相当の経済的収益をもたらす組織がイメージされていたという事である。残念ながら会員数はついに千人にも達する事なく、全盛時で500人程度であったと思われる。
 そして、「安く遊ぶ・工夫して遊ぶ」という点も強調され、月例イベントに集まれば安く遊べていろいろな人と出会えるというイメージもあったが、その月例イベントを誰が企画して誰が運営するのか、という点があいまいであり、「なんとかなるやろ」という事ですんでしまっていた。「ポンチ倶楽部」がその月例イベントを維持できなくなった所に「越前屋アカデミー」創設のいとつの動機があったのだが。
 また、組織の暴走とそれに伴う責任問題の回避にも相当の配慮がされ、会員は所定の手続きをすれば「越前屋アカデミー」内にクラブを設立する事ができるようになっていたが、その手続きがまた面倒であり、結局公認クラブとなったのは、インドア系スポーツクラブ「勘違い平行棒部」のみで、しかもクラブになっても補助金がでるとかのメリットもなく、責任問題への異常な過敏さが活動低迷の一因となったのではないかと思われる。
 結局外部組織の取り込みは取り止めとなり、旧ポンチ・学園祭でのチラシに反応した学生たちを主に集める事になった。
 名称についても、越前屋俵太の名前を出す事による責任関係の問題より、「Eネット」などの名称も検討されたが、結局平智之氏の「名前をださないと却って責任関係があやふやになり、問題が発生する可能性がある。」というアドバイスにより、当初チラシで発表した「越前屋アカデミー」に落ち着いた。
 95年1月16日、学園祭のチラシに反応した人々を集めて、説明会が開催され、百数十人の入会申込みがあった。このうちアニメ技研への入会者は十数人で、宝塚造形芸術大学の学園祭で俵太氏の呼びかけに応えた方々と、ポンチ倶楽部のメンバーが主であつた。
 翌日が阪神大震災で、スタッフはじめ会員にも被災者はあったが、幸い、人的被害はなかった。
 その後、「スノコクラブ」は立ち消えとなった。
 また、放送映像研究会は、「テレビに出れるのでは」「テレビ業界に入れるのでは」という期待を持った人間がいっぱい集まり、3月にはイベントも開催されたが、このイベントは桂小枝氏の関係もあり、公式には「越前屋アカデミー」とは無関係という事だった。その後、数回話題にはなったが、結局クラブとしては発足せず、立ち消えとなった。
 さて、3月には越前屋俵太が「探偵ナイトスクープ」を降りる事になり、本人の以降で、越前屋アカデミーは総がかりで「引退記念チャリティフェスティバル」を実施する事になった。越前屋電視社は準備でごった返し、多数の会員・スタッフが内外を走り回り、大いに盛り上がった。いまにして思えば、越前屋アカデミーの全盛時ではなかったかと思われる。金がかからない(忙しくて使う暇がない)いろんな人と出会える(会わないと仕事にならない)など、アカデミーの目標の一部も達成されていた。イベント自体も越前屋俵太がテレビで告知した事もあり、多数の来場者があり、運営面での課題は残しつつ、成功裏に終了した。アニメ技研では驚き盤を内蔵した「覗き箱」を制作し、一回10円で見せた。また、驚き盤の体験コーナーも作ったが、こちらはあまりはやらなかった様である。

4月には、越前屋アカデミーの開校式があったが、参加者は70名ほどであつた。
 このころまでにクラブ制度、運営委員制度などが定まり、一応組織として動くようにはなりつつあった越前屋アカデミーであったが、すべてを理事長である越前屋俵太が決裁しないとなにも出来ないという組織的弱点があり、下部組織の充実と権限の委譲、管理システムの構築などが必要であったが、この時点になってもその作業は進んでいなかった。この組織を構築できないという点が越前屋アカデミーの最大の弱点になった。
 5月頃には、越前屋俵太は「釣り池」の話に熱中しだす。
  この間、「ポンチ倶楽部」は、越前屋アカデミーの姉妹団体という形で活動している。当初は従来のイベントは負担が大きいのでやめて、越前屋俵太・平智之のカセットテープマガジンを定期発行するという形で進めるはずだったが、「イベントがないのはいや」という会員の意見で、(事実会費の更新時の案内には、イベントをします、と書いてあったそうだ)越前屋俵太も「ほなやろか」という事でイベントもやる羽目になってしまい、結局もとのままになってしまった。以前とちがうのは、以前は越前屋電視社の社員が仕切っていたが、今回は無給のスタッフがやるという位である。今回のスタッフは前回のスタッフとほぼ完全に入れ替えとなった。(前回のスタッフがみんないなくなったので)蔦屋書店から越前屋俵太シリーズのビデオが出る事になり、そのビデオにポンチ倶楽部の募集を入れたので、「今度こそポンチ倶楽部は10000人になるぞ」と、ポンチ倶楽部の事務局には「10000人まで後9***人」というカウントが出たが、結局最終的にはいつもの300人前後という限界は超えられなかった。96年4月からは越前屋アカデミーのクラブとなった。カセットテープマガジンは取り止めとなり、ビデオマガジンにするという案もあったが、結局印刷媒体による会報を隔月に発行するようになった。その後、越前屋アカデミーが97年3月末で2年間の活動を終えると、スタッフは「もうやりません」と言ってアカデミーを去った。
 さて、当初電視社の5階にあった越前屋アカデミーの事務局は、同居していた日本アイランダージャパンの活動が凍結し、5階を解約した時点で2階に移動した。と、同じく、環瀬戸内海アニメーション技術研究所は2階から外部に移動し、定例の越前屋アカデミー運営委員会は5階から外の喫茶店に移動した。これらは、越前屋アカデミーが当初期待していた数千人の会員を集められなかったため、経済的にほとんど無力であった事、また、活動も理事長の期待していたレベルに達しなかった事にも原因があるだろう。
 7月の第2回チャリティフェスティバルは低調に終り、一部会員スタッフより「こんだけしんどい思いをしてこれだけしか寄付できないのなら、最初から金を出して寄付したほうがまし」という意見が見られた。その後1年8カ月の間、ついにフェスティバルは再度開催されることなく、アカデミーは終了した。

かにの社長HPより抜粋及び修正、

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2006年7月31日

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