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白洲次郎 。

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詳細 2016年11月9日 19:36更新

服装や、見た目だけの格好つけるんじゃない。 生き方で、差をつける。

日本を愛し続けた「野蛮な紳士」 白洲次郎へ捧ぐ。

〜〜〜〜〜〜JIRO・SHIRASU〜〜〜〜〜〜〜

1902年(明治35年)2月17日兵庫縣武庫郡精道村(現、兵庫県芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる(別邸は兵庫縣川邉郡伊丹町:現、兵庫県伊丹市)。白洲家は、摂津国三田藩(現、兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵:(1828年、文政12年7月15日現,兵庫県三田市屋敷町にて出生。父は白洲文五郎(曽祖父)、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現、兵庫県小野市)一柳家の家老黒石氏の女、里子)は、三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また、神戸ホーム(神戸女学院の前身)の創立にも尽力した。父文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。父親は「20世紀の商人」と豪語するほど羽振りの良い貿易商人であった。。

次郎は、父の薦めで17歳から26歳までの9年間を英国のケンブリッジ大学で過ごす。このとき白洲は、「俺は手のつけられない不良だったから島流しにされた」と語った記録がある。ただ、個性を伸ばす英国式の教育は次郎を大きく成長させた。

次郎の父がいかに富を築いていたかは彼のイギリスでの生活を見てもわかる。
英国留学時代乗っていたBENTLEY 3LITTER XT7471。当時の日本の金で6万円。
当時は、その金で飛行機が買えたらしい。

当時の次郎は、今の紙幣価値に換算すると一ヶ月/5000万円ぐらいの仕送りを日本からもらっていたという。当時英国の貴族の子弟でも持つのは難しかった最高級のスポーツカーを2台も所有してた。 

大学を卒業後帰国。

1929年(昭和4年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。友人樺山丑二の紹介で妹の正子と知り合い、結婚する。(京都ホテルで白洲は正子との華燭の典を挙げた。樺山正子との婚姻届は兵庫縣川邉郡伊丹町役場に提出されています。)その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館をみずからの定宿とするまでになった。

昭和15年には、すでに英米と日本の間に戦争が起こり、もし「日本が敗戦すれば東京は焼け野原となり食糧難になる」といい、会社を辞め、町田市の鶴川村・武相荘(ぶあいそう)に疎開兼、隠居。。
カントリー・ジェントルマンを自称する。
食糧不足に対処して農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と勝ち続けてきた当時の日本では、ほとんどの人は日本の敗戦など夢にも考えていなかったであろう。

しかし、一年の大半を海外で暮らす次郎には、正確な世界観があったと思われる。 いつの時代も、正確に時代を読む力は大切。
彼は疎開をしがら農業を営むことで空襲や食糧難を回避しているが、単なる疎開ではなく、戦況を見極め、戦後の日本のために行動していた。

昭和20年日本敗戦。戦後処理の為、当時の外務大臣であった吉田茂氏の要請を受け、終戦連絡事務局参与となり、GHQ(連合国総司令部)との交渉にあたる。

この時、白州はGHQの内部にて、「昨日まで鬼畜米英と言っていた連中が、今日は手をすり、ゴマを擦る」と妻に皮肉っていたという。
日本政府が憲法改正にあたり、GHQに振り回される中、次郎はケンブリッジ仕込みの英語でGHQと渡り合った。

ここから、白洲次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を相手にした戦いの火蓋が切られる。

白洲は、GHQ/SCAPに対して当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、英国仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、プレゼントがぞんざいに扱われたために憤激し「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。

マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、次郎に申し訳ないと謝った。

当時アメリカは戦勝国であり、「無条件降伏」を地でいかない日本人は、GHQに現場から排除された時代である。

ほとんどの日本人は、卑屈になり、アメリカに従った。
その中で唯一白洲次郎は、「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」と言って毅然とした態度を貫き通した。

次郎は、免職になることなく職務を全うした。
これは、決して戦時中の思想に影響を受けたものではなく、
白洲次郎の発言には筋が通っていたからに違いない。

ただ、GHQの日本の統治政策の進行は計画通り進行されていき、昭和20年、GHQは憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に新憲法への改正を早期に進めるよう督促し、1946年(昭和21年)2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)が新憲法としてGHQへ提案されたたがGHQ/SCAPはそれを拒否し、GHQ/SCAP草案(マッカーサー案)が提示された。

白洲は、新案が拒否された、後の2月15日に、GHQ/SCAPの提示した新憲法の草案の検討には時間を要すると、GHQ民政局の局長のホイットニーに宛てて書簡(いわゆる「ジープウェイ・レター」)を出し、日本独自のやり方で国を立て直すことを強く主張し、「明治の政党政治の中、国を守る軍部がないがしろにされた。そして、軍部が反発し軍閥政治が行われた。あなたたちのやり方ではだめだ。」と強く訴えた。

しかしGHQからは、新国家樹立に不必要な遅滞は許されない
「もし、時間をかければロシア等がもっと理不尽な侵略を仕掛けてくる。
時間はない。。白洲さん。貴方と我々の状況を考えたまえ。我々は、原子の陽光を楽しんでいたのだよ。」と言明され、日本の立場に愕然としたという。

その後、GHQの考案した憲法制定へ。 
次郎は1946年3月に終戦連絡中央事務局(終連)次長に就任。
8月経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)終連次長を退任する。

当時のエピソードでGHQの民政局長であるホイットニーと初めて対面した時、ホイットニーから、「白州さん、あなたの英語は大変立派な英語ですね」と言われると、白洲次郎は、「あなたも、もう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたらしい。

きちんとした英国英語を話し、きちんと英国スーツを着こなし、身長も180センチ以上あり体格的にもアメリカ人に決して劣らなかった次郎は、アメリカ人にとっても一目置かれる存在であったであろう。

昭和15年から晩年までを過ごした町田市にある武相荘。町田市が武蔵の国と相模原の国にまたがるのと「無愛想」をかけて名付けられた。昭和3年、フィアンセの正子に「君こそ僕の発想の源、究極の理想だ」とメッセージを添えてポートレートを送る。 次郎は苦しい戦後処理の中、弱音を誰にも吐かなかった。

しかし、妻の正子は、次郎が眠ってから寝言で怒りをぶちまけているのを何度も耳にしている。

”Shut up!””Get out!”と英語での寝言だったという。

また、次郎は、日本で初めてジーンズをはいた男としても知られている。
サンフランシスコの講和会議のためにアメリカへ行く飛行機での中、周りの日本人は皆きちんとしたスーツの身なりであったが、白州次郎は機内をジーパンにTシャツで過ごした。

「これから行くアメリカなんてたかだかジーンズにTシャツの国だ。たいしたことなんてない」という次郎の気概が感じられる。

シラスは英国に対しては特別な愛情をもっていたが、
米国には「いつかみていろ」と公文書にもしたためている。

また、日常会話では、「アメ公」と言う言葉をよく使ったらしい。

サンフランシスコ平和条約では、首相の吉田茂はGHQから英文の演説文を渡されていた。これをアメリカで知った次郎は、「相手国から与えられた文章を英語で読むのはおかしい。講和条約は対等の関係であるべきだ。日本語で演説をすべきだ」と指示を出す。

また、講和条約の原稿を書くにあたり、近くのチャイナタウンに筆と巻紙を買いに行かせ、演説文を日本語に書き直させた。巻紙は全長30メートル、直径10センチにもなったという。巻物風にかかれ、当時「吉田のトイレットペーパー」と欧米諸国に揶揄されたが、吉田茂は、羽織袴姿で朗々と日本語で演説文を読み上げ、日本の自主性・尊厳を保った。

いつの時代もとかく勝ち負けで色分けしがちな人間が多いが、
次郎の思想は常に誰に対しても、尊厳が失れていなかった。 

サンフランシスコ平和条約調印終了後の夜、次郎は男泣きに泣いたという。

サンフランシスコ講和会議から帰国し、日本の敗戦処理を終えた次郎は、「僕は政治家じゃない」と言って政界に未練を残すことなくあっさりと身を引き、この後、東北電力会長など、実業界に身を置くことになる。 

晩年は、伝統ある軽井沢ゴルフ倶楽部の運営に情熱を注いだ。

白洲次郎は、ここでも自分の生き方を貫いた。

当時、首相であった田中角栄がこのクラブでプレイをしたいと、田中角栄の秘書官「早坂茂三」らしき人から挨拶があったらしい。

「これから田中がプレイしますのでよろしく」

だいたい事情を察した次郎は、
「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ?」

「総理の田中です」
 
「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」
 
「いえ、会員ではありませんが、総理です」

「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」

そう言うと次郎はそっぽを向いてしまったという。 
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえも、一歩も引かなかった。

首相であろうと誰であろうと、ルールを守るということを第一にしたのだ。

しかし、次郎は単に意地を張っていたのではない。田中角栄に対しても、公平な物の見方をしている。

プレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。白洲は、田中に対してはその人物を認めつつも、余りに金銭的に苦労したことを惜しんでいた。

その後、ロッキード事件が起こると、新聞はこぞって「容疑者の田中は・・・」という書き方をしているのを見て、新聞社の社長に白州次郎は、「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は四年前彼を今様太閤として、戦後日本が生んだ英雄とおだてていました。今、容疑者田中と書くなら、なぜその前に本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした、とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか?」
と言ったそうだ。 

この発言もまた次郎らしい。

車好きの次郎は、晩年になっても80歳まで、1600ccのエンジンを2400ccに積み替えたポルシェ911に乗っていた。

当時、白洲次郎はポルシェ911には、1600ccのエンジンでなく2400ccのエンジンが望ましいという見解を持って積み替えていたのだが、現在は、ポルシェ911に最初から2400ccのエンジンが積まれているという。白洲次郎の車に対する見識の高さが、このことからも窺(うかが)える。

 自分で車の修理が出来るほど車にも詳しかった白洲次郎は、トヨタのソアラの批評をし、トヨタ自動車社長の豊田は次郎の忠告を生かしたいと思い、ソアラ開発責任者の岡田を次郎に紹介した。岡田は、次郎の車に対する見識の深さに驚いたという。白洲次郎が気に入った車を作りたいと何度も次郎のもとを訪れた。

次郎は、自分の愛車ポルシェ911で東富士試験場に乗り込み、これを分解してソアラを作るときの参考にしたまえと言って愛車を提供した。という。

その後の、1985年11月。 白洲次郎はこの世を去る。享年83歳 
遺言は、「葬式無用、戒名不用」のわずか二行だった。

翌年、ソアラは完成する。ソアラを完成させた豊田と岡田は、開発したニューソアラに乗って次郎の墓を訪れ、完成を報告したという。

富や権力や名声に固執する卑しさを嫌い、
彼なりの「Principle」を貫いた人生。

「貴族に生まれし宿命ならば、万人の幸福を考えるべし」と語らう。

野蛮なジェントル。混乱の時代に駆け抜けた風。

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