王平(おうへい、?−248年)は、中国の三国時代の人物で、蜀の武将。字は子均。子は王訓。母方の姓である何平と称していた時期もある。
巴西郡宕渠県の人。最初は魏の曹操に郷導使として仕えていたが、漢中攻防戦で同僚の徐晃と仲違いしたのを契機に劉備に降った。そして以後は、牙門将に任命され蜀の武将として仕えるようになる。漢中の地理に詳しく、蜀ではかなり重宝された。
228年、街亭の戦いで馬謖の副将を命じられる。このとき、馬謖が山の上に陣を布こうとするのに反対したが、馬謖はその諌めを聞かずに山上に布陣してしまう。結果、魏の武将・張郃の猛攻の前に大敗してしまうが、このとき王平の部隊だけが踏みとどまって殿軍を務めたため、全滅だけは免れたという。馬謖はその後、軍令違反で処刑されたが、王平だけは馬謖の愚行を諌め、殿軍を務めた功績により、討寇将軍の地位を与えられている。
234年の諸葛亮の死後も蜀の将軍として活躍し、後典軍、安漢将軍と昇進を続ける。姜維や夏侯覇同様、魏から投降組であったため、蜀が魏に負ければ間違いなく戦犯として処刑される立場にあったため、必死になっていたことがうかがえる。そのため、魏の曹爽が蜀に侵攻してきた時があったが、王平はこれを漢中にて迎え撃ち、撃退した。三国志演義では他にも南蛮戦(南征)にも参加し活躍した。
248年に病死し、嫡子の王訓が継いだ。
文盲であったにもかかわらず、書物の知識は耳学問で相当に得ていた。知勇兼備であったが、職人気質で短気だったらしく細かいことにこだわり狭量であったとされる。
紹介文・Wikipediaより抜粋。
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