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川島芳子

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詳細 2016年8月2日 05:45更新

川島 芳子(かわしま よしこ、愛新覚羅 顕紓、1907年5月24日 - 1948年3月25日)は清朝粛親王の王女。別名、金壁輝。日本人に育てられ、日本のスパイとして暗躍、「東洋のマタハリ」と呼ばれた。

経歴
生い立ち
粛親王善耆の第十四王女として光緒33年旧暦4月12日(西暦1907年5月24日)北京に生まれた。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子武粛親王豪格を祖とし、親王位の世襲を認められた名門であった。(通常は皇族の爵位は一代ごとに降格する)

本名愛新覚羅顕シ(王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。辛亥革命後、日本人の川島浪速の養女となり日本で教育を受ける。川島浪速は信州松本藩士の子として生まれ、外国語学校支那語科で中国語を学び、1900年の義和団事件で陸軍通訳官として従軍。日本軍の占領地域における警察機構の創設を評価され、日本軍の撤退後も清朝から雇用され中国初の近代的警察官養成学校である北京警務学堂の総監督に就任した。それが縁となり、警察行政を管轄する工巡局管理大臣(後に民政部尚書)粛親王善耆と親交を結んだ。

1911年10月に辛亥革命が勃発し、1912年2月清朝皇帝が退位すると粛親王は川島浪速の手引きで北京を脱出し旅順に渡り、日本の援助を受けて清朝復辟運動を行った。(1912年と1916年の二度にわたり画策された挙兵計画はいずれも日本側の方針転換により中止命令が出され失敗に終わっている。第一次・第二次満堂独立運動とよばれている)

粛親王の第十四王女顕シは、粛親王が日本政府との交渉人として川島浪速を指定した際、川島の身分を補完し両者の密接な関係を示す目的で川島の養女となり、1915年に来日した。川島芳子と改名し、東京の豊島師範付属小学校を卒業、跡見女学校に進んだ後、川島の転居にともない長野県松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に転校した。松本高女まで馬で通ったエピソードは有名である。1922年に実父粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず松本高女を中退している。17歳で自殺未遂事件を起こし断髪、男装となる。断髪の原因は山家亨少尉との恋愛問題であるとも、養父浪速に関係を迫られたためであるともいわれている。

東洋のマタハリ
1927年20歳の時、旅順で蒙古族の将軍パプチャップの息子カンジュルジャップと結婚するが、夫の親族となじめず、2年ほどで離婚。その後上海に渡り、上海駐在武官の田中隆吉少佐と交際したことから特務工作に関わるようになり、上海事変の謀略工作に関わったといわれている。うりざね顔、黒いつぶらな瞳の美貌で、作家村松梢風の小説『男装の麗人』のモデルとなり、「東洋のマタハリ」、「東洋のジャンヌダルク」、「満洲のジャンヌダルク」、「男装の麗人」などと呼ばれ新聞などのメディアを賑わせた。

関東軍との関係
1931年9月満洲事件が勃発し、11月にまず溥儀が関東軍の手引きで天津から満洲に連れ出された。川島芳子は残された溥儀の皇后婉容を天津から連れ出すことを軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。1932年、清朝最後の皇帝であった溥儀を担いだ満洲国が成立すると、川島芳子は新京で満洲国女官長(満洲皇室の護衛係ともいう)に任命された。1933年には関東軍に担がれて満洲国安国軍(定国軍ともいう)総司令となり、熱河作戦に従軍し、「東洋のジャンヌダルク」、「東洋のマタハリ」とよばれた。

しかし、やがて関東軍は芳子をもてあますようになり、芳子は1936年日本に送り返された。芳子は日本軍の満洲での振る舞いなどを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視され暗殺計画もあったという。その一方で、「昭和の天一坊」と騒がれた相場師・伊東ハンニと同棲したり、天津で中華料理屋を経営したりしていた(この頃笹川良一らの日本人右翼とのつながりがあった)。

処刑
1945年の第二次世界大戦(大東亜戦争)の日本の敗戦とともに北平で中国国民党軍に逮捕され、漢奸(中国語の“国賊”、“売国奴”)として訴追された。1947年に死刑判決を受け、1948年3月25日に北平第一監獄で銃殺刑に処された。日本国籍があれば漢奸罪は適用されなかったが、養父川島浪速が芳子の帰化手続きを行っていなかったため日本人とは認められず、漢奸罪が適用されてしまった。同様に漢奸裁判にかけられた李香蘭こと山口淑子は日本国籍が認められ釈放されている。
川島芳子の遺骨は日本人僧侶古川大航の手によって信州の川島浪速のもとへ届けられた。1949年に川島浪速が死去すると、芳子の遺骨はともに松本市の正鱗寺にある川島家の墓に葬られた。
その一方で、銃殺執行直後から替え玉説が報じられ、その後長く生存説がささやかれた。事態を重視したGHQが調査を行ったが真相を究明することはできなかった。

辞世の句
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん


この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた川島芳子の辞世の句であるという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という前半の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、彼女の孤独な心情を表している。

家族
川島芳子の父粛親王善耆には5人の夫人との間に38人の子女がいた。川島芳子の妹愛新覚羅顕(あいしんかくら・けんき)は、自伝『清朝の王女に生れて』(1986年、中央公論)を出版している。また、川島芳子の姪廉鋁(日本名川島廉子)の娘が母の伝記『望郷』(川島尚子 著 集英社 2002年)を出版している。

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2006年6月22日

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カテゴリ
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