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歎異抄

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詳細 2017年1月29日 15:22更新

仏教、歎異抄、親鸞聖人,悪人正機、浄土真宗、
宗教全般などに興味関心をお持ちの方は
どなたでも参加できます。

【歎異抄】

 親鸞聖人が亡くなられた後、門下中に教義を誤解して異説を唱えるものがあることを嘆き、正しい他力信心を明らかにするために記されたもので、18章のうち、第9章までは聖人の直説が書かれてあると言われ、第10章からは当時の異説が正されている。著者については、弟子の唯円という説が最も有力である。
 
 歎異抄には、他力信心の極意が流れるような名文で書かれており、信心の浅い人が読むと誤解する箇所が多いと言われている。第2章では命がけで親鸞聖人を尋ねてきた関東の同行に対して、第9章では唯円に対して親鸞聖人がおっしゃったお言葉であり、特定の人物に対して、特定の状況で話をされていることを理解した上で読まないと大変な誤解を生じる可能性が高い。実際、誤解を正すために書かれた歎異抄が、親鸞聖人の教えについて多くの誤解を招いている。
 
 蓮如上人は「無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからず」と奥書に付け加えられ、誰でも彼でも見せないように忠告されている。
 
 歎異抄の解釈においては、親鸞聖人が直接書かれた『教行信証』や『ご和讃』などに基づいて、文意を解釈することがきわめて重要である。


【有名なご文】
・たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。(第2章)
・いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(第2章)
・善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。(第3章)
・親鸞は父母の孝養の為とて念仏一遍にても申したること未だ候わず。(第5章)
・親鸞は弟子一人も持たず候。(第6章)
・念仏者は無碍の一道なり。(第7章)
・さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし。(第13章)
・一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。(第16章)
・弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。(後序)
・煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は萬のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します。(後序)

【関連コミュニティ】

○ ★親鸞聖人★ 
   http://mixi.jp/view_community.pl?id=1770759
○ 蓮如上人
  http://mixi.jp/view_community.pl?id=1714297

【歎異抄を読むためのキーワード】

■悪人正機

 悪人こそが阿弥陀仏の本願の救いの対象であると言うこと。ここで言われる「悪人」とは、欲や怒りなどの煩悩がいっぱいで、仏教ですすめられている善行ができない人間のこと。「いづれの行も及びがたき身」という意味である。世間一般の道徳や倫理でいう「悪人」ではない。

 それに対して、善人とは仏教で教えられている善行が
できる人、またはできると思っている人のこと。
「自力作善の人」のことである。そんな人は、弥陀の本願をあてにする心がないということになる。

 
【第1章】

■【弥陀の誓願】 

阿弥陀仏の本願のことで、阿弥陀仏は48の願いを建てておられるので、これを阿弥陀仏の48願と言う。その中で阿弥陀仏の真意が誓われているのが、18番目の願でこれを選択本願、王本願と言われる。阿弥陀仏は18願で「大宇宙の生きとし生けるもの全てを救う」と約束されている。
 総じて言うときは48願を指すが、ここでは18願のことを言われている。

 親鸞聖人は弥陀の本願を、苦しみの海を安々と渡す、大きな船にたとえておられる。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」 『教行信証信巻』

生きている平生に、弥陀の本願に救われて、「苦しみの人生が光明の人生に転じたぞ」と高らかに叫ばれた、親鸞聖人のお言葉である。救われたことがこの世ではっきりする教えであって、これを【平生業成】と言う。

死ぬまで、往生がはっきりしないのを【臨終業成】と言い、これは親鸞聖人の教えではない。

■【念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき】
「念仏を称えよう」という心の起こる時であるから、念仏を称える前である。念仏を称えて救われるのではないことがここからも分かる。
他力の信心を決定した時のこと。

親鸞聖人は『末燈鈔』に、
「信心定まるとき、往生また定まるなり」
と言われている。

『安心決定鈔』には
「帰命の信心おこりぬる上は、たとい声を出さずして終わるともなお往生すべし」
と書かれている。このことを蓮如上人は『領解文』に
「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定と存じ」と教えておられる。

いづれも信心決定したその時に、往生がはっきり定まることを教えておられる言葉である。

歎異抄の第14章には
「摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏申さずしておわるとも、
 すみやかに往生をとぐべし」
とあり、往生に必要なのは【本願をたのむこと】であり、たとえ念仏を一回も称えなくても、本願をたのんだ人(信心を獲得した人)は往生できると教えられている。


【摂取不捨の利益】
他力の信心を獲得した者は、阿弥陀仏にがっちりおさめとられて捨てられない身になるということ。「摂取不捨」は『観無量寿経』に出ている言葉。親鸞聖人は『正像末和讃』に、
「弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」と書かれ、弥陀の本願を疑いなく信じること(信心決定)を強調されている。

【ただ信心を要とす】

信心一つで浄土往生が決まる(信心正因)ことを言われたもので、浄土真宗の根本教義である。第1章の題名も「唯信心を要とする事」とあり、信心を以って本とすることを前面に打ち出したものと考えられる。

親鸞聖人は、同じ法然門下の聖覚法印を尊敬され、彼の著書である「唯信抄」を解釈した「唯信抄文意」という本を書いておられる。「唯信」とは「ただ信心のみ」ということで、信心一つで助かることを教えたお言葉は枚挙にいとまがない。
「涅槃の真因は唯信心を以ってす」(教行信証信巻)
「信心の業識にあらずば、光明土に至ることなし」(教行信証信巻)
「正定の因は唯信心なり」(正信偈)
「信心定まるとき、往生また定まるなり」(末燈鈔)
「真実信心をうれば、実報土に生まると教えたまえるを浄土真宗とす」(唯信鈔文意)

このように「他力の信心一つで助かる」と親鸞聖人は
教えられたので、蓮如上人は「御文章」に
「聖人一流のご勧化のおもむきは、信心のをもって本とせられ候」と教えておられる。

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