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人間論および人間学コミュの他のサイトから人間論を紹介するトピック

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おもしろいサイトがありましたので、紹介します。

http://www.sfc.wide.ad.jp/~kenken/interface/h-cDef.html
人間とは、コンピュータとは
1998年6月1日、SFCインタフェース設計論の講義後に行われたミニレポートに出された問題、「人間は、---な---である。 コンピュータは、---な---である。」に対する答えです。
人間は、主観的なコンピュータである。
コンピュータは、客観的な人間である。

人間は、柔軟な大工である。
コンピュータは、頑固な職人である。

人間は、複雑な生物である。
コンピュータは、聡明な機械である。

人間は、頭の柔軟な警察官である。
コンピュータは、口の重さで有名な容疑者である。

人間は、学習的な動物である。
コンピュータは、学習的な道具である。

人間は、達成感を求める好奇心の強い(心理的満足を求める)知的存在である。
コンピュータは、感情を持たず、予定された通りにタスクを実行する機械である。

人間は、自制心をもった寄生虫である。
コンピュータは、電気的な頭である。

人間は、経験的な存在である。
コンピュータは、バイナリーなツールである。

人間は、わがままで間違いばかり犯す不良品的な計算機である。
コンピュータは、自分の意見を持たない優等生的な計算機である。

人間は、創造的な生き物である。
コンピュータは、単純な物体である。

人間は、ものぐさな生き物である。
コンピュータは、まじめで忠実な物体である。

人間は、わがままな動物である。
コンピュータは、従順な機械である。

人間は、「気まぐれ」な「生き物」である。
コンピュータは、「リチギ」な「労働者」である。

人間は、不正確なアナログである。
コンピュータは、正確なデジタルである。

人間は、愚かな自動車である。
コンピュータは、賢い電車である。

人間は、不安定なコンピュータである。
コンピュータは、バカ正直な人間である。 (何でも言われた通りにするという意味から)

人間は、有機的な思考体である。
コンピュータは、無機的な計算機である。

人間は、道具とのインタラクションが可能な学習進化できる動物である。
コンピュータは、、道具を一方的に利用することが可能な記憶進化できる物である。

人間は、応用の効く高等動物である。
コンピュータは、、融通のきかないただの箱である。

人間は、不合理な生き物だ。
コンピュータは、忠実な機械だ。

人間は、インターフェイスがないとコンピュータを使えない親である。
コンピュータは、インターフェイスがないと何をしていいかわからない子供である。

人間は、ブヨブヨなことである。
コンピュータは、ガラガラなものである。

人間は、心豊かな凡人である。
コンピュータは、冷酷な天才である。

人間は、無限の可能性を秘めた面倒くさがり屋である。
コンピュータは、無限の可能性を伸ばそうとする努力家である。

人間は、説明をしても分かってくれない愚か者である。
コンピュータは、説明しなければ分かってくれない愚か者である。

人間は、単純なものである。
コンピュータは、、複雑なモノである。

人間は、気まぐれな怠け者である。
コンピュータは、賢物な働きものである。

人間は、誤りをおかす生き物である。
コンピュータは、誤りをおかす生き物によって生み出された、誤りをおかさないはずの道具である。

人間は、不完全な完成作品である。
コンピュータは、完全な未完成作品である。

「人間」は、忘れっぽいコンピュータだ。
「コンピュータ」は頑固な生命だ。

人間は、理知的な葦である。
コンピュータは、無知な葦である。

人間は、気まぐれな使い手である。
コンピュータは、融通の効かない使われ手である。

人間は、単純な反復作業を嫌う飽きやすい生物である。
コンピュータは、反復作業を苦もなくこなす我慢強いものである。

人間は、創造的な機械である。
コンピュータは、功績を人間にとられる不運なおもちゃである。

人間は、臆病な動物である。
コンピュータは、こわれやすそうな道具である。

人間は、自分勝手な生き物である。
コンピュータは、融通のきかない道具である。

人間は、ゆで卵のような、2層構造生物である。
コンピュータは、心を持たない頭脳である。

人間は、賢い怠け者である。
コンピュータは、頭の悪い働き者である。

人間は、あいまいな存在である。
コンピュータは、凝り固まった存在である。

人間は、不正確な複雑マシンである。
コンピュータは、正確な単純マシンである。

人間は、おせっかいなパートナーである。
コンピュータは、無愛想なパートナーである。

人間は、不真面目で狂ったコンピュータである。
コンピュータは、真面目でぶきっちょな人間である。

人間は、能動的な存在である。
コンピュータは、受動的な存在である。

人間は、非現実的な生き物である。
コンピュータは、現実的な道具である。

人間は、ガンコな生き物である。
コンピュータは、素直なペットである。

人間は、利己的な上司である。
コンピュータは、忠実な部下である。

人間は、サルのような動物である。
コンピュータは、静かな機械である。

人間は、知恵のある個性、無能な群体である。
コンピュータは、従順な下僕である。

人間は、variableな旅人。
コンピュータは、staticな地図。

人間は、複雑な遅いものである。
コンピュータは、単純な速いものである。

コメント(12)

http://www.d1.dion.ne.jp/~wangcha/hitoge001.html

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人間

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にんげんとは M001
「人間は、この宇宙の不良少年である」
★オッペンハイム
『戦争と笑い』

M001
「人間は人間にとって狼である」
★プラウトゥス
『アシナリア』

M001
「人間とは、道具を使う動物である」
★カーライル
『衣裳哲学』

M001
「人間とは道具を作る動物である」
★フランクリン
-

M001
「人間とは笑う唯一の動物である」
★ベルグソン
-

M001
「人間は考える葦である」
★パスカル
『パンセ』「人間は一本の葦にすぎない。自然の中で一番弱いものだ。だが、それは考える葦である」

M001
「人間は万物の尺度である」
★プロタゴラス
≪PROTAGORAS BC.485-410? ギリシアの哲学者≫

M001
「人間は社会的動物である」
★セネカ
『愚悲について』

M001
「人間とは取引をする動物なり。犬は骨を交換せず」
★アダム・スミス
『国富論』

M001
「人間は安物買いをする動物である。他の動物はそんなことしない」
★アダム・スミス
-

M001
「人間は薄らバカのような行動をする、賢い動物である」
★アルベルト・シュバイツァー
≪1875-1965 ドイツの哲学者≫

M001
「人間とは他人の経験を利用するという特殊能力を持った動物である」
★R・G・コリングウッド
≪イギリスの哲学者、歴史学者≫

L001
「この世のあらゆる動物のうち人が猿にいちばん近い」
★リヒテンベルグ
-

M001
「人間は猿よりも一ミリ上である。豚よりも一センチ下でないとすればだが」
★ピオ・パロジャ
『世界の大渦巻』≪1872-1956 スペインの作家≫

M001
「人間は祖先が猿であることを自慢している。しかし、猿は祖先が人間だと決して自慢しないだろう」
★ジョルジョ・エルゴズィー
-

M001
「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である」
★芥川龍之介
『侏儒の言葉』

M001
「人間は顔を赤らめる唯一の動物である。あるいはそうする必要のある唯一の動物である」
★マーク・トウェイン
『赤道をまわって』

M001
「人間とは、二本足の、羽根のない動物である」
★プラトン
-

M001
「これほど多くの証拠があっては、人類と他の動物とが共通のものから進化したものであることを、どうしても認めざるを得ない」
★ダーウィン
-

M001
「人間というものは、消化器と生殖器から成り立っている」
★レミ・ド・グールモン
『随想』≪1858-1915 フランスの作家≫

M001
「人間とはもっとも利口な動物であるがまた、もっとも愚かな動物である」
★ディオゲネス
-

M001
「人間は神か動物かだ」
★アリストテレス
『政治学』

M001
「人間は、天国を思い出す失墜の神である」
★ラマルティーヌ
『瞑想詩集』≪ALPHONSE MARIE LOUIS DE PART DE LAMARTINE 1790-1869 フランスの詩人≫

M001
「神は自分の姿に似せて人間を作ったのだと言われる。それで我々は彼の魅力についてお粗末な考えを抱いてしまったのだ」
★ポール=ジャン・トゥーレ
-

M001
「人間は神を創造した。その逆はまだ証明されていない」
★セルジュ・ギャンズブール
-

M001
「人間は神がつくったということは僕は信じられない。神がつくったものとしては人間は無常すぎ、不完全すぎる。しかし、自然が生んだとしたら、あまりに傑作すぎるように思うのだ」
★武者小路実篤
『人生論』

M001
「神は我々をへり下った人間にすることができなかったので、屈従する人間にしているのだ」
★ジュリアン・グリーン
『日記』≪1900-アメリカ出身のフランス作家≫

M001
「人間は神の私生児、捨て子の私生兄である。それなのにあなたは人間にパパを愛するように求めるのか」
★ガブリエル・シュヴァリエ
-

M001
「人間は神にもなれずさりとて悪魔となりて満足することもできず、つまり五里霧中に彷徨する哀れな生物である」
★西田幾太郎
『人心の疑惑』

M001
「神は、もし突然、彼が人間に課している生を生きるよう命じられたら、自殺してしまうだろう」
★アレクサンドル・デュマ・フィス
-

M001
「人間が神のしくじりなのか、神が人間のしくじりなのかどちらかだ」
★ニーチェ
-

M001
「不思議なものは多いが、人間ほど不思議なものはない」
★ソフォクレス
『アンチゴーネ』BC.496-BC.406 ギリシア悲劇の完成者 

M001
「人類は、下り坂をライトも付けずに猛スピードで疾走する車にギュウギュウ詰めにされている人間のようなものだ。しかもその車を運転しているのは四歳のちいさな子供で、路傍の標識にはどれも“進歩”と書かれている」
★ダンセイニ
1878-1957 アイルランドの作家

M001
「人間は人間性を超越しなければ卑劣なものである」
★セネカ
『自然学問題集』

M001
「もし人が天使より少ししか劣っていないとしたら、天使を作り直さなければならない」
★メアリー・ウィルソン・リトル
-

M001
「人間は天使でもなければ、獣でもない。しかし不幸なことに人間は天使のように行動しようと欲しながら獣のように行動する」
★パスカル
『パンセ』

M001
「人間にもっとも災禍をもたらすのは人間だ」
★プリニウス
『自然史』

M001
「人類の歴史は、失敗した設計の物語、そして失望に終わった希望にすぎない」
★サミュエル・ジヨンソン
-

M001
「地球上には人間より弱いものはいない」
★ホメロス
『オデッセイア』

M001
「人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためではなく、幸福になるためである。」
★スタンダール
『文芸余論』

M001
「人間文化は遊びの中において、遊びとして発生し展開してきたのだ」
★ホイジンガ
『ホモ・ルーデンス』

M001
「人間においては蝶が毛虫になるのだ」
★アンリ・ド・モンテルラン
『死せる女王』

M001
「世界は人類で始まった。そして人類なしで終わるだろう」
★レヴィストロース
『』≪フランスの人類学者≫

M001
「地球は皮膚を持っている。そしてその皮膚はさまざな病気をもっている。その病気が人間である」
★ニーチェ
『ツァラトゥストラはこういった』

M001
「なぜ人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか」
★カフカ
-

M001
「私達は、一生自分の皮という独房に監禁される判決をうけているのだ」
★テネシー・ウィリアムズ
-

M001
「肉体っていうのは精神が借りている着物だっていうのがバーンと見えちゃったんだね」
★ビートたけし
-

M001
「わたしは人間をさがしている」
★ディオゲネス
簡素で無欲で自由に暮らす生活を理想とし、樽の中に住んでいた哲学者。昼間なのにランプをつけて街を歩くディオゲネスになにをしているのかたずねたときにこう答えた。本当に人間の名に値する有徳な人物がいないことを皮肉った。

M001
「人間は原理によって生きるものでもないし生きられるものでもない」
★小林秀雄
-

M001
「人間とはわれわれが食物と称するものを供給することと、思想と称するものを生産する機械である」
★R・G・インガソル
『神々』

M001
「人間はいまや彼らの用いている道具の道具になってしまった」
★ソーロー
-

M001
「人間とは一つの統合――“無限と有限”、“時間的なものと永遠的なもの”、“自由と必然”――である」
★キルケゴール
『死にいたる病』

M001
「人間よ。汝、微笑と涙との間の振子よ」
★バイロン
-

M001
「人間は自らをあまりにも深刻に考えすぎる――すなわちこれを原罪という」
★オスカー・ワイルド
-

M001
「人類はいわば、不断に学ぶ唯一の存在である」
★パスカル
『真空論』

M001
「人間一般を知ることは、ひとりひとりの人間を知ることよりやさしい」
★ラ・ロシュフコー
-

M001
「すべての定義が失敗するほど、人間は幅広く、多岐多様なものである」
★シェラー
『宇宙における人間の地位』

M001
「ヒトは一時的な生存のための機械にすぎない。だれか別の相手のためにプログラムされたロボットのような乗り物なんだ」
★リチャード・ドーキンス
≪生物学者≫

M001
「人々は人間を実際以上に危険だと思いがちである」
★ゲーテ
『親和力』
http://www2.gol.com/users/mughal/ningen.html
ーーーーーーーーーーーーイスラームの生き方ーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーー人間とは!ーーーーーーーーーーーー

 人間はアッラーの創造されたものの中の一つで、その意味では他の被造物である木とか石などと少しも変わりません。

 しかし、人間には地上におけるアッラーの代権者としての地位と責任を与えられています。

 それゆえ、人間は欲望や虚構にとらわれず、現世でのアッラーの代権者にふさわしい知恵と権威を身につけて、調和ある生き方と理想的な世界への実現への努力をしなければなりません。

 この信仰の中では、人間はすべて平等です。王も臣民も、富者も貧者も、男性も女性も、大人も子供もすべて平等で、違いがあるとすればそれは敬信の念の差だけです。

  またイスラームでは、キリスト教における原罪や、仏教における輪廻のような考えはありません。

 人間は白紙の状態でこの世に生を受け、アッラーの導きを得ながら生きています。

 そして彼の行為の責任は彼のみにあり、過去であれ未来であれ、他人のやった行為についての責任が問われることはありません。また人間とアッラーとの関係は直接的かつ個人的なもので、そこに聖職者などの介在する余地もないのです。
http://www.ne.jp/asahi/ningenzen/gakunan/zuihitu/z1-ningentowa.htm


-------------------------------人間とは?-------------------------

今から二十数年前の初夏、ある新聞のコラム欄に、『お母さん!このカブト虫、壊れてるよ。』と、子供が。母親 曰く、『バカだね。この子は、カブト虫はオモチャじゃないよ。』と。
  あるデパートでの、母親と子供との会話の一場面を引用した文章でした。

同様な内容が、数年前、やはり、新聞のコラム欄に掲載されていました。

子供の質問は、以前と同様に、『お母さん。このカブト虫、壊れているよ。』と。 しかし、母親の返事が変わっていました。『おかしいわね。どこが壊れているのかしら。』と。

さらに、昨年末、12月中旬の新聞の記事に『中3、鉄棒で妹を殴る』と。 少年 曰く、『インターネットで殺人フロファイリングのサイトを見ていた。殴って試したかった。』と。

以上、3つの事例で、最初の事例は、カブト虫という昆虫である「生命体」をオモチャと思った子供に対し、母親が「生き物」であることを諭した会話であり、さらに、次の事例は、その母親も、「人工物」と「生命体」との区別がつかない状態にきてしまった例です。
  3番目の事例は、まさに、「生命体:人間」である妹さんを、殺しかけてしまった例です。

最近の情報では、ある大手の電機メーカーが、両足同時に飛び跳ねる「ロボット」を作成したという。「ロボット」も段々と「人間」に似てきている。数年先には、多分「クローン人間」なるものも実現してくるかもしれない。現に羊や、牛では、実在している。

さて、人間とは、人間らしさとは、いったい 何でしょうか?
父親と母親とのそれぞれの遺伝子が結合し、一個の生命が誕生し、母親の中で胎児となり、それから10ヶ月程度経過後、地球上に「赤ちゃん」となって生まれてきます。その後、まわりの環境から、五感(目、口、耳、鼻、皮膚、等)を通じていろいろな情報を吸収し、その人なりの『個性、価値観、論理体系、人生観、感受性、等々』を形作っていくことになるのでしょう。

その結果、人間として、【男性、女性。頭脳的には、頭の良い人、悪い人。知識の豊富な人、無知な人。論理的な思考のできる人、直感的な人。肉体的には、運動神経抜群な人、鈍い人。綺麗な人、醜い人。健康な人、病気の人。職業的には、会社の社長さん、社員さん、フリーターさん。学校の先生、お医者さん、お坊さん、農家のお百姓さん、漁師さん、代議士さん、役人さん、芸術家さん、職人さん、・・・・・】その他いろいろな人間が存在してきます。

さて、これが、『人間』という生命体の全てでしょうか?
いや、違います。もし、これだけのことであれば、上記の3つの事例に対する解決策がありません。己自身と、ロボットや、クローン人間との違いはどこにあるのでしょうか?

DNA本体の組換えも可能となり、知識や、論理的思考も、コンピュターにより、ロボットのいわゆる「人工頭脳」に組み込むことが可能なって来ている現在、『人間』とは、一体 何なのでしょうか?

『人間の尊厳性』、『生命の尊厳性』については、相対的な一個人の領域から、さらに、絶対的な領域に踏み込む必要があると思います。まさに、宗教の世界です。

しかし、多くの日本人、特に、知性と教養を多く身につけている現代人は、「宗教とは、自己に自信が無い人達が行うものである。」とか、「自分は、科学的ものの見方をしているので、そういうものは、受け入れられない。」等々、他人にも、自分にも言い聞かせ、納得してしまい、はたまた、その状態が現代人の「現代人としての誇り」のように感じているようです。しかし、はたしてどうでしょうか?

  実際は、そういうように、感じたり、思ったり、思考したりする【その『心』の問題】なのです。『我 思う 故に 我 あり。』の以前に『我』は、厳然として存在するのです。

己が、自己に対し、本当に、正直に、『人間とは?』、 『生命とは?』、 『宗教とは?』、『神とは?』、 『大道とは?』と、投げかけることが出来ているのでしょうか?

実は、『科学と、本当の宗教とは、相反しない。』のです。なぜなら、科学は、大自然のしくみに対し分析し、解析し、そのしくみに対し、大自然の法則を発見し、解明する「How」及び「Why」の世界です。その原理を応用し人類のある意味の発展に寄与してきています。しかし、その場合、その探求者である「己」に対しては、その系の外(対象外)に身をおいているわけです。
【この自己の内面を対象外とするか否かが重要です。】

本当の宗教では、大自然の法則に対し、『自己自身』も含め、そのしくみ自体《 大自然の真理【大道】 》を追究していくわけです。そのしくみ自体に対する「What」及び「Why」の世界です。まさに、『自己とは、何ぞや。』『人間とは何ぞや。』と、自分自身に問いかけ、追究していくのです。

  『大自然の法則と、己自身の「生きざま」とは、相反しない。』はずです。そういう「生きざま」が必ずあるはずです。

『中庸』の中の言葉で、【天命之を性と謂い、性に率う之を道と謂い、道を修むる之を教と謂う】の「道」。【まことは天の道なり、これをまことにするは人の道なり】の「道」です。禅の修行は、まさに、この「人間とは?」、「自己とは?」という根源的な問題に対し、堂々とぶつかって行くものです。

しかし、なかなか、どうして、「 言うは易し、行うは難し!」です。 ついつい、「論語読みの論語知らず」 になってしまいます。 恥ずかしいかぎりです。しかし、勇気を持って、一緒に頑張りましょう。 必ずや 人間のもっている根源的な問題に対して、自己自身の五臓六腑より、堂々と、その回答が吹き出てくるはずです。

古人曰く、【 門より入るものは、家珍にあらず。】と言っています。

他から与えられたものは、結局、自分の宝物にはならないのです。(他人に自慢できても、残念ながら、自分には、自慢できません。)

日本が、世界中が、上記の事例のような現象が発生しないように、心から願います。


(閑徹記)
http://www.journey-k.com/~riku/article/012.html

人間とは何か

 
 人間とは、「人の間」と書く。
 哲学を専攻していた知人によると、論理的に思考するにはフランス語で考えるといいそうである。しかし、英語さえもおぼつかない身の上のわたしは、日本語で考えるしかない。

 で、負け惜しみで言うわけではないが、日本語もなかなか奥深いものがあると思う。わたしは「人の『間』」と書いて「人間」という存在を表現することに「洗練」を感じる。なぜなら、「間」こそ人間の本質だと思うからだ。

「人間とは何か」という問題は、古代から人々を悩ませている。
 ソクラテスは「理性をもった動物」、アリストテレスは「社会的動物」、フランクリンは「道具を使う動物」と定義したそうだ。

 どれも当たっていると思う。ただ、現代の人々が行き詰まりを感じているという状況からからみてみると、いま考えなければならないのは「社会的動物」という観点からなのだと思う。いまの環境、戦争、経済の問題は、すべて社会的な問題を抱えている。

 まず、人間を生物学的観点から考えてみると、人間にとって最も重要なのは社会であるということがわかる。
 たとえば、カエルの子は元はオタマジャクシで親と形は違っているが、成長すればおのずとカエルになる。カエルとして生きるために必要な技術はすべて備わっている。
 しかし、人間の場合はそうではない。人間は親をはじめとして他者から生き方を学ばなければ人間として生きていく術を得ることができないのである。

 かつて、インドのジャングルでオオカミに育てられた姉妹が発見されたことがある。彼女たちは四つ足で走り、生肉しか食べず、オオカミと同じ習性をもち、オオカミと同じ寿命しか生きることができなかったそうだ。発見された後、イギリスの宣教師夫妻に育てられたが、言葉は50ほどの単語しか理解できなかったということだ。

 人間は人(ヒト)として生まれてきても、オオカミに育てられればオオカミになってしまうのである。
 オオカミとして生きるのも悪くはないかもしれないが、せっかく人(ヒト)として生まれてきたのに、その特性を生かせないのはもったいないと思う。

 で、その特性とは何かというと、「言葉」などをツールとして他者と交流することで「新しい認識」を得ていくことができることだと、わたしは考えている。

「認識論」の祖は、「われ思う、ゆえにわれあり」で知られるデカルトだ。彼は自明とされているものをすべて疑い吟味したあげく、世界で唯一確かなものは、思考している「わたし」そのものであるという結論に達した。

 そこでデカルトは、世界を自分を中心とする「内的世界(精神)」と自分以外の外界「外的世界(自然)」とを分けて思考を進めることになる。この二元論は、その後、多くの哲学者を悩ませる問題となる。それはどういうことかというと、はたして「わたし」ひとりの「理性」だけで世界を認識できるものだろうかという疑問が残ったからである。
 要するに、ただの「思い込み(妄想)」か「実相」かという判断をどうするかという問題である。下手をすれば、ただの「自己中」になってしまう可能性が多い。

 デカルトの認識モデルは、単純化すると次のようになる。
 感覚→感覚の統合→推論→判断
 このモデルをロボットのAIに応用すれば、問題がどこにあるか明らかになる。 ロボットに応用すると次のようになる。
 感覚→解釈→指令→実行

 で、以上のようなモデルでロボットをプログラムしたところ、まともに動くことができないことがわかった。
 なぜかというと、ロボットが「行為」することによって同時に起こる環境の変化が考慮されていないからである。
 要するに、環境の変化に対応するには、「知覚」と「行為」が同時に行われていなければならないということがわかったのだ。よくよく考えてみればあたりまえのことである。「理性」だけで環境(外界)を認識するのは不可能である。

 人間が赤ちゃんから大人へと、どのように成長していくかを考えてみればよくわかることだ。言葉にしても、必ず周囲の大人との間で反復することで覚えているはずだ。2本の足で立つにしても、トライ&エラーという「行為」を反復することで立つことができるようになる。つまり、人間は他者(外界)に対して「行為」を反復し、確認作業を繰り返すことによって、自らの知覚システムをより複雑に「洗練」させていくのだ。

 以上のような知覚システムのとらえ方は、『アフォーダンス』理論として知られ、「人工知能(AI)の設計原理」について研究している認知科学者たちに注目されて実証されている。

 カントはデカルトのような「内的世界」と「外的世界」の二元論的世界観を疑い続け、ついに「内的世界は外的世界に依存する【※1】」という考えに達したそうだが、その方向性は正しかったといえるのではないだろうか。
 つまり、人間は外界との「間」に絶え間なく「橋をかけ」、自分と外界との間に「折り合いをつける」ことで、目的までの行為が実行されていく。「わたし」は外的世界との「やりとり」がなければ成り立たないのだ。

 重要なキーワードは「橋をかける」と「折り合いをつける」である。

 で、そんなことをつらつらと考えながら書店をぶらぶらしていたところ、わたしの目に飛び込んできた本があった。タイトルがそのものズバリ『橋をかける―子供時代の読書の思い出―』【※2】だったのである。
 しかも、その著者の名前を見て驚いた。なんと、あの美智子皇后さまなのである。興味津々で読んでみてまたまた驚いた。内容もズバリ「アフォーダンス」だったのだ。次にその一節を紹介する。

「生まれて以来、人は自分と周囲との間に、一つ一つ『橋をかけ』、人とも、物ともつながりを深め、それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を果たさなかったり、時として橋をかける意志を失った時、人は孤立し、平和を失います。この橋は外に向かうだけでなく、内にも向かい、自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ、本当の自分を発見し、自己の確立をうながしていくように思います」

「私の子ども時代は、戦争による疎開生活をはさみながらも、年長者の手に護られた、比較的平穏なものであったと思います。そのような中でも、度重なる生活環境の変化は、子供には負担であり、私は時に周囲との関係に不安を覚えたり、なかなか『折り合い』のつかない自分自身との関係に、疲れてしまったりしていたことを覚えています。そのような時、何冊かの本が身近にあったことが、どんなに自分を楽しませ、励まし、個々の問題を解かないまでも、自分を歩き続けさせてくれたか」

 たぶん美智子さまは「アフォーダンス」理論をご存知ないと思う。しかし、自分の頭で考えることができる人がまっとうに考えると、的確にこういうところへたどり着くのである。彼女も哲学の達人だと思う。

 また、美智子さまは今トレンドのキーワード「複雑系」的な問題についても、次のように言及されている。「複雑系」とは、世界の中に単純化できる法則を求めるより、世界の複雑さを複雑のまま理解しようという方向性のことである。

「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。…(中略)…子ども達が、自分の中に、しっかりとした根を持つために。子ども達が、喜びと想像の強い翼を持つために。子ども達が、痛みを伴う愛を知るために。そして、子ども達が人生の複雑さに耐え、それぞれに与えられた人生を受け入れて生き、やがて一人一人、私ども全てのふるさとであるこの地球で、平和の道具となっていくために」

 素晴らしい。美智子さまは民間人から皇室に入られ、まさに民間と皇室の間に橋をかけられた方なのだと思う。そして、その「間」で「折り合い」について、たぶん苦労されたのではないかと思う。その「間」を生き、見つめ続けてきたことでたどり着いた境地に、わたしは感動した。

 精神は人と人の「間」にあり、人が人として輝くのは「間」の生成に成功したときなのである。




--------------------------------------------------------------------------------

人間にとって大切なのは「間」ですが、いま世界の人間関係がおかしくなっているのは、その「間」がおかしくなっているからだと思います。なぜかというと、その「間」に「貨幣」が介在しているからだとわたしは考えています。次回はそのあたりについて語ります。
【※1】
『哲学の道場』中島義道 ちくま新書 より
中島氏は、わたしとは考え方が違う部分もありますが、同意できるところも多いです。彼はカントの解説には定評があり、この著書での「純粋理性批判」の解説も素晴らしいです。あまりにも一所懸命に解説されているので、疲れるだろうなあと思いながら読み進めていたところ、最後にほんとに「シンからくたびれました」と書かれていて、笑ってしまいました。お茶目で正直な方なんですね。わたしのように原語で読むことのできない人間にとって、彼のように誠実かつ的確に解説してくださる方の存在はありがたいです。

【※2】
『橋をかける―子供時代の読書の思い出―』美智子 すえもりブックス

【参考文献】
『アフォーダンス―新しい認知の理論―』佐々木正人 岩波科学ライブラリー

【今週の言葉】
「生きることは呼吸することではない、行為をすることだ」ルソー

【余談】
映画『マトリックス レボリューションズ』を観てきました。拙文『006.「決断(努力)」したところで、うまくいくとは限らない』で予想したとおり、「選択」と「目的」について語られていました。やはり監督は「自由意志」について、それなりの考察をしていることはわかりました。「愛」についても、『愛とは「関係」のことだ』と述べています。ただ、以上のことをセリフでは語っているのですが、その内容について表現できたかというと、ちょっと……というところです。ま、それができれば、歴史に残る名画になったわけでしょうが、現実とは厳しいものですね。わたしも人ごとではありませんので自戒します。
以上のことをふまえたうえでご覧になると、また違った発見があるかもせれませんので、興味のある方はどうぞ。

アクションシーンも、かなりお金をかけたみたいですが、ロジックが中途半端なため必然性が感じられず、わたしはあまり楽しめませんでした。
アクションなら、コスチュームが似ているためマトリックスのパクリなどと言われて一般マスコミでは虐げられている『リベリオン』の方が面白いです。もちろん、マトリックスのパクリなどではありません。黒のロングコートというコスチュームも『リベリオン』の方が必然性があります。
物語の設定がゆるいため、突っ込みどころ満載なのですが、クリスチャン・ベールの名演と、ロジックがしっかりしたアクションで、すべてを許してしまえる不思議な映画です。とても興味深いテーマが込められた映画なので、いずれ語ろうと思っています。
http://www.galstown.ne.jp/9/dokusho_writing/frosupi/novel/tanpen/fukanzen.htm

不完全人間論


完璧など、この世界にありえない。

人に限らず……この世に存在するモノは、何かが不完全で。

それを補えるモノと共存しているから、自分の欠点を隠せて、今のような位置に落ち着いている。

ただそれだけ。



その中でも。

人間ほど、矛盾に富んだ存在はないのではないだろうか。

自我を確立しているつもりだから、感情の起伏も激しく。

最終的には自己中心、間違いを平然と犯す。

悩みはいつも絶えなくて、不満を言えばきりがない。

それが、人間。

完全を装う――れっきとした不完全。



私は、そんな人間。

そして……あなたも、そんな人間。



だから。



自分を誇張する前に、自分の限界を思い知ろう。

そして……もっと、素直に生きていこう。

出来ることがあれば、出来ないことだって必ず存在する。

全てを抱え込むなんて、不可能だから。



閉め切った室内、空気を入れ換えるために……窓でも開けてみませんか?

今ならきっと、心地よい風が入ってくるはずです。



私達は不完全。



でも、それ故に……支え合える。



不完全なままで、いい。



一人じゃなくて、いい。





今回はこっちに後書き〜
はてさて。いきなし登場突発短編っ!

こういう形式、やっぱり大好きなので……思った通り、指がキーボードを弾きます。

今回のタイトル……不完全人間論ですが、勿論、たいした意味もなく。

ただ、「漢字が並んでいてかっこいいな〜」……と、安易なことを思ったからでした。

どんな印象ですか? やっぱしネガティブ!?

みゅ〜……これでも結構、ポジティブシンキングで書いたつもりなんですけどねぇ……。(嘘ぉ!?)

とりあえず。

不完全で何が悪い!(開き直り)

完全なんて大嫌いだ!(逆ギレ)

嗚呼、質悪すぎ……すいません、では、今回はこの辺で……。(書き逃げ)
http://www.azusa-syuppan.co.jp/tetugaku-ningen/tetugaku-ningen-keifu.html
奥谷浩一著『哲学的人間学の系譜ーシェーラー、プレスナー、ゲーレンの人間学』(梓出版社)の本文抜粋より

 生命はその基本単位である細胞からして、生体膜によって外界からおのれを遮断するとともに、これを通じて外界と交流しあうが、ここに生命特有の二重アスペクト性がある。

 植物が環境にたいして取る位置は「開放性」である。植物はおのれの栄養や生殖などの活動にかんしては環境まかせだからである。

 これにたいして動物は、外部環境にたいしては「閉鎖性」という位置形式を取る。動物は発達した中枢神経系によって身体諸器官を自らの中心に結び付け、外部からの刺激にたいしては実行器官によって機敏に反応する行動図式を発達させている。

 だが、動物は中心につながれ、(ここ−今)のうちに埋没し、事物を真に対象化することもこれから距離を取ることもできない。

 これに対して、人間の位置性は「脱中心性」である。人間は、動物とは異なって、おのれの中心から距離を取り、たえずこれから離脱しようとする。

 植物も動物も自己をもつが、人間は自己の背後に「消失点」または「眺望点」をもち、事物とおのれを真に対象化することができる。

 この脱中心的な位置形式のゆえに、人間は自然によって束縛されず、そのために「自然的技巧性」を用いて道具を作り、文化を創造せざるをえない。

 また人間は、「媒介された無媒介性」によって、意識内在と表現性を獲得し、歴史をおのれの背後に残す存在である。

 しかし人間は、本質的にバランスを欠いており、(ここ−今)に規定されない自由な存在であるがゆえに、この世に定められた場所をもたず、故郷喪失の状態にある。だから人間は、自分と世界の空無性を自覚し、世界の絶対的根拠、神、またはこの世にない場所=ユートピアを求めて、この世を無限に超越しようとする。
 
  
http://www5e.biglobe.ne.jp/~oregaku/iroiro011.html

人間とは何なのか?

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人間とは一体何なのか?
それはつまり自分は一体何の為に存在するのかを問うこととなる
人間の存在意義
自然を破壊するということは、人間の存在を知らしめていることになるのではないだろうか?
また、それを修復しようとするのも、存在を知らせていることになる
いつまで流れるのかわからない時間の歴史に
戦争という、人間独自の行動を刻んでいくのも人間の存在意義
動物を殺し、減少させていくのも人間
逆に、人工的に増加させていくことができるのも人間

一体人間とは何なのだろうか?

壊すのも人間、直すのも人間・・・

この矛盾
人間とは矛盾している存在だと思う
一体どっちが本当はしたいのだろうか?

人間の本能って?
理性がそうさせているのだろうか?
ならば理性とは?

基本的には、本能を抑制するのが理性ではないかと私は思う
じゃぁやっぱり本能が?
非常にやっかいな問題である

では話題を変え、人間は何の為に生きているのか?
自分のため? それとも誰かのため?
それとも存在しない神のため?
それは個々人思いがあるかもしれない

ハッキリ言おう
人間は誰かのためになぞ生きれない
自分のために生きているのだ
こんな事に奇麗事を言っても仕方がない
違うと否定する人がいたら、是非とも意見を聞きたいものだ

何故誰かの為に生きれないのか?
今まで多かれ少なかれ幾年も生きてきた中で
腹が減ったら食べ物を食べる
遊ぶ
寝る
などといった日常の動作に
誰かの為にといった感情があるわけがない
自分の為に飯を食い、自分が楽しむために遊び、自分が眠たいから寝るのだ
誰のためではない、自分のためだ

何の変哲もない日常動作ではあるが生きるということには変わりない
誰かの為に生きるというのではなく
誰かの為に何かをしてあげるということはできる
勿論それは、自分に余裕がある人間だけだ

余裕がなければ人のことより自分を心配しなければ、結局は何もしてあげられないのだから

世の中には、神に人生を託している人間がいる
神を信じる信じないは人の勝手で、それこそ自分のために信じているわけだから文句はないが
人生を託し、神のために生きるという人間は認めることはできない
自分にかかる責任を、架空の神という存在に託しているようでは
ただの責任転嫁、現実逃避である

そもそも神という存在がやっかいだ
神の奇跡、神のお告げなどと言ってはいるが
お告げが人間の口から伝わったものなら
それは神の言葉ではなく、人間の言葉になる
何故神自身が信じる全ての人間に言わないのだろうか?

神は平等なら、一定の人だけにお告げをするということは、そこですでに差別しているではないか!

自分の目で見て確かめないと人間は容易に信じることはできない
そこで、目に見えるようにしたのが神の像、肖像画である
見たこともない人間が、想像で神を作り、描いているのだ
それこそ神は作ったものだと証明しているようなもの

目に見える作られた神を崇めるより
自分の信念を貫き通せる心のほうが、よっぽど神的存在である
しかも人間は勝手なもので
困った時はすがり
その困ったことが解決されなければ
「神よ・・・何故?」
などと言いやがる・・・

結局、困難は自分で立ち向かえってことです

さて、ここまで話した結果、ますます人間というものがわからなくなってきました
しかし、人間にも役割というものがあると思うんです

この世に存在する全ての物には意味がある

例えば
消しゴムは書いた字を消すために存在するという意味がある
鉛筆は、字を書くために・・・
空気は、全ての動物を生きさせるために・・・
動物にだって意味はあると思います

今までの人間の作り出した歴史の中で
人間のしてきたことといえば
破壊
これが主にやってきたことです
ということは人間の役目とは
地球を破壊することなのでしょうか?

それとも、周りの全てを犠牲にしながら滅びていくのが役目なのでしょうか?

そうではないと信じたいものです
人間の存在意義は
人生を追求していく上で
とても大切なことなのだと思います
http://www.venus.sannet.ne.jp/y-okamura/philosophy1/contents_column_2.htm

人間の本質についてHOME > 弁証法的唯物論講座 Column-2

人間の本質について

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 レーニンの『カール・マルクス』のなかに、人間の本質は社会諸関係の総和であるということが書かれていますが、これはどういうことですか。


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確かに、レーニンは『カール・マ ルクス』のなかで、古い唯物論者は 「″人間の本質”を抽象的に理解して、これを(具体的=歴史的に特定の)”社会諸関係の総和”と理解せず、従って世界を”変革する”ことがかんじんであるのに、世界を”解釈する”だけにとどまった。すなわち”革命的・実践的活動の意義を理解しなかった」(国民文庫『マルクス=エンゲルス=マルクス主義』1−19?)と書いています。

ここでのべられている人間の本質が社会諸関係の総和だというのは、どういうことなのか考えていきましょう。

レーニンがここで引用しているのは、「フォイエルバッハについてのテーゼ」でマルクスが述べている次のことばです――「人間の本質は個々人に内在するどのような抽象物でもない。それは、その現実の姿においては、社会諸関係の総和である」(国民文庫『フォイエルバッハ論』80?、その他の引用もやはりこの「テーゼ」からのものです)。

かいつまんでいえば、このことばの意味は、およそ次のようなことになるでしょう――「人間には、生まれながらにして永遠普遍の人間性と言ったものが備わっているのではない。社会生活の中で具体的な人間につくられていくのだ」。

実際、そのとおりではないでしょうか。例えば、人間は直立二足歩行を特徴とする動物ですが、生まれたばかりの子馬がだれに教わることもなしに母馬のまわりを四つ足で歩きまわるのとは違って、生まれて直ぐに本能的に直立二足歩行をはじめる人間の赤ん坊など、どこにもいません。時間さえ掛ければほっておいても本能が働きだして直立二足歩行するようになる訳でもありません。社会的な「学習」によってはじめて、直立二足歩行も可能になるのです。

立って歩くということでさえそうなのですから、まして人間の「内面」についてはなおさらです。

人間の脳は、社会的に訓練されて始めて、人間の脳としての機能をいとなむことができます。人間の赤ん坊の脳は、社会から切り離されて育った場合には、決して人間らしい働きを示すようになることは出来ません。

生後ほどなく狼の群れに連れ去られ、そこで育った「狼少女」の実例がそれをしめしています。

彼女の脳は、立派に人間の脳としての素質を持っていたにもかかわらず、人間の社会によってではなく、狼の群れによって狼的に訓練されてしまい、その結果、狼的な意識と習性を身につけてしまったのでした。

これで分かるように、人間は生まれながらにして「人間性」といったものを備えている訳ではないのです。つまり、人間は生まれながらにして人間であるのでは無く、それだけでは未だ可能的に人間であるにすぎず、社会との関係の中で始めて、現実に人間となっていくのです。

ですから、人間は他の動物とは違って、たんに生物的・生理的な存在であるのではなく、特に社会的な存在だと言うところにその本質を持つものだ、と言うことが出来ます。

そもそもこうした人間の特質そのものが、道具をもちいた共同労働によって生きると言う道に人間の先祖が入り込む中で、次第に歴史的に形成されて来たものでした。

道具は人間の身体器官そのものではなく、従って遺伝子によって、親から伝えられた生理的な本能によって作ったり使ったりすることの出来ないものです。道具の製作・使用は社会的な学習によってのみ習得されます。

だからこそまた、それは社会的、歴史的にどこまででも進歩させていくことが出来、ここに人間が他の動物と違って、限りない進歩を実現させていくことが出来る源があるのです。

「人間性」と言うものは、このようにして歴史的、社会的に形成されてきたものであり、作り出されていくものであって、歴史や社会から切り離されたどのような抽象物でもないのです。

だからこそ又、それは具体的な社会との関わりの中でのみ、個々人にとって現実のものとなっていくのです。

ところで、個々人が現実の人間として成長していく過程で関わってくる社会とは、レーニンが注意しているように、常に「具体的=歴史的に特定の」社会です。

ですから、どんな社会とのどのような関わりの中におかれているのかと言うことによって、生理的な素質としては同じ人間でも、その「内面」は大きく変わってくる、と言うことになります。

縄文式土器の時代の人間の脳が、生理的な素質・構造の点では殆ど変わりないのに、その脳の営みとしての意識の内容はひどく違ってくる、と言うように。

とすれば、「人間性」を発展させ、その健やかな成長を実現する為には、何よりも先ずそれにふさわしい社会関係を作り出すことが必要です。人間の能動的な力がそこに発揮されなければならないのです。ところ
http://www13.ocn.ne.jp/~kjgsmd/contents/text/opinions/opinions_008.html


008、人間の本質


 さて、人間はどうして生きているのでしょう?

 勿論細胞による生への執着が一番に考えられるのですが、まぁ、そんな連続時間的な話はやめて、個人が生きる理由を模索していきたいと思います。なぜ、自己実現を果たそうとするのか、動物から人間への進化の過程で捨ててきたものと得たもの、そして人間のこれからの展望を述べられるだけ述べていこうと思います。

 人間が社会の中で生きていて、その中で出来る事と出来ない事があるが最低レベルであれば実現不可能な事など知ることもないし、むしろ本能的に思ったことしかしないのではないか。レベルが上がるというのは現段階では実現不可能な事を発想し、それを実現に持って行ける事であり、またレベルが上がるにつれて実現可能性が低くなることばかり実現しようとする。実現不可能な事を思いつくのと同様に他人の発想を我が物にする事でもレベルは上がっているということになる。それは知というものです。

 楽してレベルを上げるにはレベルの高い他人に乗っかればいいのです。ただ、レベルアップには発想とともに実現力が必要になる。それは努力等で得ることができる。他人から形は学べど、それをそっくりに再現できないしやり方がそんな真似っ子に合うかも分からない。

 そう考えると、レベルを上げるには独力で地道に上げていく人と他人を上手く利用しながらも実力を形成していく人の2種類の方法がある。

 そんな中から自然淘汰(自然選択)を繰り返し、おそらくはハイレベルな存在が人間らしさを形成したのだと。社会的で理性的な人間像。それをもつ事が人間としてのアイデンティティー。

 しかし、億年単位の本能も捨てきれはしない。レベルアップにも、間違いなく、本能が関連しているからだ。計算から求められる四次元には限界がある。知らない公式や公理をデータなしに解析するなど無理に等しいので、そんな時は直感に頼っていたと推測する。直感も経験データから決定する一種の公式的感覚なのだけれど、そのデータからのみの決断とは言いにくい部分がある。理屈なしに感じる感覚を持っているんだと思う。その感覚は必ずしも生きたい道に進ませてくれるわけではないので、勿論実現できない方向に連れて行ってくれることもある。

 そんな失敗や挫折を繰り返し過ぎると周りのレベルアップに付いていけず、自然選択に漏れることとなる。崖を登れない子ライオンは死ねみたいな発想です。

 そうして崖を這い上がった強者共が現在に繋がる人間性を獲得したのではないか。対人も共同も社会も、全ては実現不可を実現するために成された共栄システムなのであろう。

 人間の本質はシステムにあらず、もっと深い永久真理的なところにあるのであろう。

 ぶっちゃけ、今の僕らはレベルアップがかなり滞っているのではないかと思うことがある。それが人間の限界かどうかは分からない。発想が足りないのか、実現力が無いのか。それよりも誰もがシステムに依存しすぎて新しい独力発想が生まれてこないのだと思う。

発想能力も実現力も持っている人はいる。しかし、社会という一番大きな枠組みに囚われているのか、巣食っているのか分からないが、そのあまりの居心地の良さに不可視の領域に手を伸ばしきれないのではないか。

基本的にはルールや習慣を守り、対人に好嫌を感じるが好に手を差し伸べ続けることはしないし、嫌に対しても拳を振るい続けることをしない。方向性と執着性がレベルアップを生み出すとは言い切れないが、少なくとも僕らが、どんな僕らだろうと、社会システムにその大部分を飲み込まれていることに気がつく。

特に自立できずに生まれてくる赤ん坊なんかその典型例だ。それは本能的であるのだけれど、実現可能王国を形成するための本能的プログラム(単細胞レベルから続く本能ではない。)ではないか。

 自己実現を目指した結果、共栄システムを構築していった方が良いと考え、それが遺伝子レベルで僕らに伝道されている。それが人類の、いや生物の成せる業か。

 意識を遺伝に変えることで自然選択に合格するような超根本能力を100万年先の子孫に伝える。口頭でもない文章でもない、遺伝子によって伝達するのが確実で変化量が少なくて済む。独力で活路を探すよりも親子というシステムに入り込んだ方が明らかに生き易い。そのために未熟なまま生まれ、徐々に完成していく。

システムに入った方が、現段階での最高レベルに近づける近道である。老化には勝てないので出来るだけ短時間でレベルを上げるしかレベルアップの方法は無く、またそのために共栄していく方がラクである。つまりは他人に引っ張っていってもらっているのである。

 すると独力での発想というアイディアすら無くなってしまう。きっと遺伝子レベルでは存在しているのだけれど、自然選択的にシステムが最高のレベルアップ用の啓蒙手段であると判断したのか。または現在の寿命(人間の年齢に関連する体力)では、地球上最高レベルにはたどり着けないのかもしれない。

 つまり(現在においての)限界はあるのに、限界が見えないまま死んでいくということ。それはかなり手ごわいギネス記録なので超越するには大変である。

 実現不可なことを発想し、実現を目指す。そのチャレンジ心は一体なんなのか。それは征服性である。(根本の)本能のどこかに自分の意のままにしたいという欲が生まれる。征服することは、やはりというか必然的に、遺伝本能による勝ち残りたい気持ちの表出です。自分の配下に全てを持って来る事が身の安全を示す。それが生存競争に勝つ術である。

 ただ、自分でチャレンジ事項を作る事と勝ち残る事は本質的に関係がないように見える。しかし、時代がレベルアップするにつれて社会システム制度により血を流してまで勝ち残る事を必要とされなくなった。すると遺伝的な勝利を手にするような支配感は日常では得れなくなった。その支配感を味わうために自ら課題を創造する。

 支配感はある種の快楽感であるので、それを求め続ける事が人間の生を支えているのではないか。かつての哲学者たちが人間の本質を求めたときに快楽という言葉が多く出てくるところにはこういったバックグラウンドがあるのではないか。システムの中で快楽(支配感)を得るには自分で作る以外には見つからないのである。

 さて、そういった自分で課題を見つけることによって、ある程度支配による快楽を調整できるようになった人間がその過程で失ってきたものはなんだろうか。先ほど出てきたが、血を流す事を頻繁に行なわなくなった。特に文明が進んだと言われる先進社会ではそうだ。戦争は政策なので血を流すという事ではない。またそれと同時にテロも然り。

 共栄を支えるには互いの信頼が必要で、無ければ共栄ではなくなる。同類の人間の血を求めずに生きていくことは支配感の欠如ではない。むしろもっと大量の血を求める事に繋がるのかもしれない。

 実現不可能だった地球の支配を求めて、共栄と自己実現を行い、そのシナジーでもって地球の支配に向かうのではないか。生き残るために血を求めて戦っていた人間が血以上のものを手に入れるために、個人を捨て人類として生き始めた。それが社会システムを形成して新たな目標へと進み始めた。実現力を手に入れるために個人よりも団体を選んだ。その団体の中で個人としてのアイデンティティーを求める動きも現在、よく起こっている。

 これからは一体どんな未来が待っているのか。人類的な中央集権が起こり、それが集まり終わった後の話。まぁ、社会システムに参加できない者、啓蒙しても蒙のままの者ははじき出される。人間のレベルアップの最低限を満たせない者がはじき出される社会である。

 そして動き出した戦艦Human号は新たなる支配快楽を得るために新しい大目標を掲げるだろう。個人はHuman号の一員として個人的な目標を達成しつつ、社会レベルの大きな目標を達成するために協力し合う。

 大きなレベルを達成するには個人の力ではどうにもならなくなっていることはもう述べた。大きな達成感を得るため社会的な貢献もする。その達成感という支配感を得るには時間がかかるので、その間の快楽を個人レベルでの小さな達成感で賄う。小さな達成感は今現在の達成課題を延々と達成していくことで得、コツコツと社会的な大きな目標を達成するためにこれまた努力する。それが個人の生きる道である。

 こうして、人間はある種の快楽を得るために今日も日夜動き続けるのではないだろうか。




<007<     ■Opinions■     >009>
http://www.nwjc.ac.jp/~yamashiro/yamashiro/txt/pilg/1.htm

1  人間存在への問い

先年、洗濯桶の熱湯でやけどを負ったソ連の子供コンスタンチン君が札幌医科病院で手当を受け6回もの皮膚移植手術を受けて回復したことは、心暖まるニュースでした。80パーセント以上のやけどで、助かるか助からないか五分五分であったが、幼児の生命力と医療技術の進歩、そして日ソの国家を超えた協力による賜物である。このように素晴らしい協力を実らせる人間が、数え切れない命を奪ってしまう。戦争によってたやすく奪われる命、飽食によって食を奪われて死に行く第三世界の飢餓状況を見なければならない。人はなんと美しくかつ醜い存在なのだろうか。聖書は「人よ、おまえはどこにいるのか」と問われなければならない人間世界を示している。また、目覚めてみるとあまりにも重大な任務の前に「人は何者なのでしょうか」と問う人を語っている。聖書の人間理解を通して私達の人間存在をたずねたい。


? 人間存在についての問い


主よ、人間とは何ものなのでしょう あなたがこれに親しまれるとは。 人の子とは何ものなのでしょう あなたが思いやってくださるとは。

人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影。  (詩編 144:3)


 本詩はダビデの作とされる。彼は戦場で自らの弱さとはかなさを痛感し、「人間とは何者なのでしょう」と問い、神に助けを求めている。神の助けは私を支え、私の砦となる。神が私の逃れ場であり、盾であり、避けどころである。

 それにくらべて「人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影」。彼は自分がどういう存在であるか熟知している。しかも、このような小さい存在を神が親しみ、思いやってくださる。その故に、わたしは今を存在している。そのような驚き、生命の充足感が満ちている。


 ここに聖書の人間理解の典型が見られる。

その特徴は創造者である神と出会い、神との対話の中で人間をとらえる点である。彼は第一に創造の神秘を問う。第二に、自らの生存の秘義を問い、第三に創造の目的を問う。問いに対する答は、即ち救いの道でもあった。


□ ヨブ


 ヨブ記に目を向けて見よう。ヨブは苦しみの極限で神を問う。自らの存在の意味を問う。彼の苦しみは、ヨブ記1章と2章にある。即ちヨブは、?財産を略奪され?子どもたちと妻を失い、?ついに自分自身不治と思われる病に苦しんだ。ヨブは自分の人生を問う。3章から42章で、その問答は展開する。苦しむ者がなぜ生きながらえなければならないのか。悩む者がなぜ生を受けたのか。彼は、生まれない内に流産した子どもを幸せだと思った。かいつまんで物語の展開を見よう。


なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死  んでしまわなかったのか。せめて、生ま  れてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、

膝があってわたしを抱き、乳房があって  乳を飲ませたのか。   (ヨブ 3:11)


 極度の苦しみは生を否定する。生まれなかった方が良かったのである。最愛の子ヨセフを失ったヤコ  (ヨブ:ウイリアム・ブレイク作)

ブは「わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府(よみ)へ下って行こう」と言い(創世記37:35)、「慰められる」ことさえ拒むラケルの嘆きは子を失った母性を表している。(マタイ1:18)


なぜわたしは、葬り去られた流産の子、光を見ない子とならなかった のか。  (ヨブ 3:16)


悩み多き人生を生きることにどのような意味があるのか。死こそ、苦しみの解決ではないか。死こそ慕い求める目的と思われた。彼は死を捜し求めた。死に場を見つけたらどんなによかろうともいう。それほどの苦しみが訴えられる。


なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。 彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって、 死を探し求めているのに。墓を見いだすことさえできれば、喜び躍 り、歓喜するだろうに。   (ヨブ 3:20-22)


 私は生き長らえることを厭う。もうたくさんだ。このように苦しみ、消え行く者に、どうして神は心を向けられるのか。いらぬお節介ではないか。このような経験をしないで一生を終わる人があるだろうか。人生はいばらが多い。順調に行かない人生を人はいばらのせいにする。


もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてくだ さい、わたしの一生は空しいのです。人間とは何なのか。なぜあなた はこれを大いなる者とし、これに心を向けられるのか。     (ヨブ 7:16 下線筆者)

大いなる者とは悩み多い人間のことである。大いなる者、人間が、自ら被造物でありながら、他の被造物に対して優位性をもっていることを意味する。即ち、人は自分自身とすべての被造物を「支配せよ」(創世記1:27)と命じられた。人は造られた世界を治める責任を負う。人は神の代理人として被造世界を治める責任を委ねられた。人は神に代ることが許されても、神になるのではない。ところが、人はあたかも神自身の如く振る舞った。人間の高慢はとどまるところをしらず、自らを制し、治めることに失敗し、何度も滅亡の危機を招いた。現在の地球の生態系の破壊状態を見よ。時代錯誤もはなはだしい天皇神格化をもくろむ大嘗祭を見よ。ヨブの嘆きは、私達の嘆きでもある。

 

 ヨブは極限まで問い続け、ついにその答を引き出す。第一に存在の秘密が解き明かされる。しかし、その答はどこからくるのだろうか。


主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もな いのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯 をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地 を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解 していることを言ってみよ。 (ヨブ38:1-4)


ヨブの立場は「問う者」から「問われる者」へと逆転する。問いの極限で、彼は逆転する。自らの問いに対して答えなければならない者として向かい合う。即ち、神の創造の秘密をお前はどれほど知っているのか。大地の広さはどのように定められているか。星が輝く時をだれが定めるのか。天地万物の営みについて、ヨブは問われる。そして動物たちの生命誕生、その習性の不思議、昆虫の特質などがあげられる。ヨブはこれらの問いかけに圧倒され、主に答えて言った。


わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などでき ましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、も う主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。 (ヨブ40:4,5)


次の箇所は興味深い。前の聖書はベヘモットを「かば」と訳している。


見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。これ は牛のように草を食べる。見よ、腰の力と腹筋の勢いを。尾は杉の枝 のようにたわみ、腿の筋は固く絡み合っている。骨は青銅の管、骨組 みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。これこそ神の傑作、造り主をお いて剣をそれに突きつける者はない。 (ヨブ40:15-19)


 福岡南動物園のかばが子どもを生んだ時の事である。かばはどのようにして母乳を飲むだろうか。園の係りの人が水槽の中で子どもがもぐって母乳を飲むと説明するのを聞いて、ひどく感動したことがある。そうしないと母は子どもを押しつぶすのである。実によく造られている。そのような感動をもってヨブ記の記述を読むと、造られたものの特徴を非常によくとらえていることが分かる。さらに、ワニがどのように造られているかという記述である。ここに出てくる「レビヤタン」とは神話的な海の怪物で、前の聖書訳では「わに」である。


お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて、屈服 させることができるか。・・・・・

彼のからだの各部について、わたしは黙ってはいられない。力のこもっ た背と見事な体格について。誰が彼の身ごしらえを正面から解き、上下 の顎の間に押し入ることができようか。誰がその顔の扉を開くことがで きようか。歯の周りには殺気がある。背中は盾の列、封印され、固く閉 ざされている。その盾は次々と連なって、風の吹き込む透き間もない。 一つの盾はその仲間に結びつき、つながりあって、決して離れない。彼 がくしゃみをすれば、両眼は、曙のまばたきのように、光を放ち始める。 口からは火炎が噴き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで、 鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る。・・ ・・この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬもの として造られている。驕り高ぶる者すべてを見下し、誇り高い獣すべて の上に君臨している。 (ヨブ40より抜粋)


 レビヤタンを見たことはないが、「わに」として考えると、そのからだの各部がどのように出来ているかを観察し述べている描写に驚かされる。そのからだ全体は鎧(よろい)で武装されている。その一つ一つのつなぎめはしっかりと結ばれている。くしゃみをすると、両眼は光を出し、口からは火炎が吹き出す。かれは驕り高ぶる者すべてを見下し、誇り高い獣すべての上に君臨している。

 なんという描写であろうか。被造物の造られた美しい構造に感嘆する人でなければ、このような表現はできだろう。即ち、このように観察し、このように理解する人自身の人間理解をも語っているのである。野の花の美しさ、空の鳥の自由を示し、それ以上に与えられている人の能力を教えたキリストの観察は、ヨブの見たものと同一である(マタイ6:25-30)。このように、神が造った被造物がどのように作られているか、その「美しい構造」を知るということは、即ち、創造者なる神に対する認識を新たにする。


ヨブは主に答えて言った。

あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そ のとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を越えた驚くべき 御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、 わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しか し今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。

(ヨブ42)

 ヨブが問いつづける間、彼は答を見いだすことはできなかった。ではどのようして解決を見たのだろうか。彼は示され、問われて、被造物がどのように造られたか、その美しくも見事な構造に目覚めた時、それと同時に自分自身の造られた様を知り、そのかけがえのない特質を認識する。即ち、自らを知ることによって、創造主なる神を新たに認識する。かくて、次のように言うことができる。「神を知ることは自分自身を知ることである。自分自身を知るということは神を知ることである。」(カルヴァン)。

 神を知るということは神が造られた被造物の構造を知ること、造られた秩序を知るということ、造られた目的を知るということにほかならない。これらを理解し、その創造の秩序を我が秩序として生きることを意味する。創造の目的を我が目的とするにいたることを意味する。このような神理解が、神の創造世界への関心の扉を開いたのが、近代である。ここに近代へのキリスト教の転換点があり、キリスト教の科学への開眼を見る。パスカルの自然法則への深い関心と、次々に見いだされた定理や公理を見よ。かの時代人の自然界への集中を見よ。


? 考える葦


人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱い者である。 だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武 装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。 だが、たとい宇宙全が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺す者より尊 いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優 勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。(パンセ 347)

  (ブレーズ・パスカルは1623年フランス生まれ、39才の若さで世を去った)


□パスカルは弱く卑小な人間の存在を「蒸気や一滴の水でも彼を殺すに十分」であり、大げさに「武装するには及ばない」と説明する。臨終の人の口に湿ったガーゼがかぶせられ、乾燥した空気を和らげ、呼吸の具合で痰が詰まったりしないように細心の注意がほどこされるが、そのような時、人は弱くて卑小である。人は、確かに、一滴の水でも死ぬ。弱い存在である。しかし、パスカルは、その弱さの中に人の尊さを説く。人は自分の弱さを直視し、凝視する。即ち考える。人は自分の弱さと宇宙の優勢について、考え、了解する。そこに人間の本質がある。宇宙全体は弱い人間に対して圧倒的な力がある。人間はそのことを十分に知っている。自分の弱さと卑小を知っている。そこに人間の偉大がある。宇宙は何も知らない。

□パスカルの時代から400年近くがたった現在、人間は本当に宇宙の優勢を知っていると言えるだろうか。宇宙の優勢に対する人間の弱さを認識しているだろうか。私達は地球の生態系が破壊されているという報告を聞いている。そこに、科学万能の神話が築いてきたバベルの塔の崩壊を感じないであろうか。今一度、人は宇宙の優勢と自らの弱さについて「考える葦」とならなければならない。

□満天の星−アブラハム


 人は異質なものに触れて自分を知る。暖かい心に触れて、自分の冷たさを見つめる。「善きサマリヤ人」のたとえ(ルカ10:25-37)はそのことを教える。偉大な存在に触れて自らの卑小を知る。永遠不変なるものに出会って、自分の限界を認めるのである。アブラハムはこのことを語る。創世記15章を見るとアブラハム(アブラム)が神に出会い、自らを知る経験が記されている。


主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることが できるなら、数えてみるがよい。」・・・・・・・・・・

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

創世記 15:5

□アブラハムは100才になって一人子イサクを授かった時、心から笑った(イサク)。それまで、彼は跡継ぎを得られない虚しさを神に訴えて来た。どんなに神の祝福を得て財産に恵まれ、健康で、長寿を保っても、自分の人生というもの、信仰とその実りを継承発展させてくれる子供を得なければ、その人生は空虚に思われた。彼が次善の策として考えたのはエジプトから連れてきた仕え女ハガルに生ませた子供にあとを嗣がせることであった。しかし、神はアブラハムと交わした約束通り、妻サラからの子供でなければならいという。結局、約束の子が誕生した時、アブラハムは100才となり、妻サラは90才であった。人間的には不可能な妊娠出産についてアブラハムは疑うどころか笑いとばしていた。子どもを賜るという神の約束を、彼は問題にしなかった。そのような不信仰にたいして、神はアブラハムに言う。


天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。       (創世記15:5)

 満天の星を人は数えることが出来るだろうか。不可能である。その星を創造した神は、満天の星の数が無限であるように、無限なる方である。無限なる存在に触れるとき、人は自分の限界を認める。それは人間への否定として対立するというより、有限なる人間を包み込む。許容するのである。その大いなる許容、大いなる赦しの中で人は自分の限界を了解する。

 神の不変性とこの世の無常とは明確な対比である。しかし、人は自分を無限だと思い、明日も分からぬ無常性を、ともすれば、いつまでも変わらないものと錯覚する。だから、人は不変なるものに触れ、無限なるものに出会い、英知を認め、それが指し示す所の存在に導かれ、こうして自らの不明と、卑小、そして弱さを認識し、偉大なるものに促され行く自分へと転換しなければ、自らの捕らわれから逃れることは出来ない。

 パスカルが言うように、アブラハムは偉大なる存在に触れて、自らの卑小を知った。アブラハムは神の偉大さを、即ち全能を容認した。神の全能に身を委ねるという信仰に達した。即ち、神の偉大さに触れ、その全能をアブラハムは彼の人生に宿したと言える。これがアブラハムの偉大である。それは神のよしとするところであった。


アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(15:6)


 偉大なるものに触れる経験を、人は軽んじてはならない。ともすれば、偉大なるものに眼をつぶり、良いものを避けようとする。嫉妬心、高慢な心に妨げられる。


? 「問う者」から「問われる者」へ


 周知のように、フランクルはオーストリアに生まれたユダヤ人であり、精神科の医者として働いていた。彼はナチス・ドイツのユダヤ人撲滅運動(ホロコ-スト)のために、強制収容所に送り込まれた。しかし、奇跡的な生還を遂げて、その体験を精神科医の目から書き綴った。(「夜と霧」みすず書房)

 強制収容所に連行された人々はみな一様に自分の運命を悲しみ、生きる意味を問う。しかし、過酷な現実の中で多くの人は感受性を失っていく。何も感じなくなることが生きのびる道と考えられるようになる。しかし、クリスマスが近づくと恩赦の発表があって、解放されるのではないか。こういう期待をもつものである。そのクリスマスが来て解放されないと、新年にはとかすかな希望を持つ。その日を過ぎると死亡者が続出するという事実は、人が如何に希望に支えられて生きているかということを示している。フランクルは言う。人生の意味についての問いに対して、答はなかった。なぜ、私はユダヤ人に生まれたのか。なぜ他の民族に生まれなかったのか。収容所に入れられ、虐待を受け、最後にはガス室で毒殺されるために生まれて来たのか。この人生にどのような意味があるのか。このような問いに答はなかった。そして、フランクルは言う。私達は人生を問う存在ではなく、人生から問われる存在である。その問いに全力を傾けて応えることが許されているだけである。次のように言う。


ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。 すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく て、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。 そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えな ければならないのである。(フランクル 「夜と霧」みすず書房)


たとえば、わずかばかりの日々の配給を人々は争って受ける。しかし、病弱の人や気の弱い人は配給に与れなかった。そういう時に、自分のわずかのパンを分け合っている人が見られた。そういう人は人生を生きているのだった。なぜなら、そこには感謝される喜びがあり、生命的な交わりの現実が見られた。

・・・人生はわれわれに毎日問いを提出し、われわれはその問いに詮 索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないので ある。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答える事、人生 が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行なうことに対する責任 を担うことにほかならない。     (フランクル 「夜と霧」みすず書房)



? 生命現象と命 生命科学の時代−現象としての生命と命


 科学技術の進歩は人工授精、遺伝子操作、臓器移植などの分野に手をのばし、人間存在に対する全く新しい問いをなげかけている。

□生命の始まりについての問い

人はどこからくるのか。一般に私たちは男と女の結びつき、性交によって精子が卵子に授精して生命現象が起こり、人は生まれるという「生命現象」を考える。ある条件が整って生命現象が成立する。科学は現象としての命が成立するぎりぎりのところまで解明してきたと言われる。例えば、日本では馬や豚、牛などの家畜は90パーセント以上が人工授精の技術によって繁殖されている。その技術が人間に適用されるようになり、自然に受精できない人に対して、人工授精の技術がすでに成功しており、体外受精児が誕生するようになった。いわゆる試験管ベビーである。更に、受精卵を冷凍保存する技術が成功し、それは人なのか物なのかと言う新しい議論が起こっている。また代理母による子どもはアメリカでは過去10年間に600人以上を数えている。南アフリカでは1987年10月に、48才の母親が娘の受精卵を宿して三つ子を出産した。つまり、おばあさんが孫を生むという現実が起こり、親と子の関係について問題を提起している。

 今日の科学は生命現象をそのぎりぎりのところまで解明して来た。遺伝子についての研究は、遺伝子組み替えの技術が開発され、同じ遺伝子をもつ、いわゆる「クローン人間」をつくることは理論的には可能となって来ているといわれる。こういう問題を学問の対象とした「生命倫理(bio-ethics)」という新しい学問が生まれている。生命工学と倫理学を合わせ、あらゆる学問を組み合わせた新しい学問であり、生命に関する倫理的な規定を論じ、生命工学の逸脱を防ごうとするものである。

 例えば、東北大学で人工授精によってうまれた子供の親の名前を明かさないという約束であったのに某報道機関が名前をもらしたと言う事例は、倫理的な問題を提起した。つまり、日本の特有な精神風土を考えると、現時点では名前を明かすと報道関係者が私生活を踏みにじってまでも入り込み、そのような人を特殊化し、差別していくという社会風土がある。その限り、欧米のものまねをしてなんでも知る権利だから報道してよいというわけにはいかない。そのような面からも最低の倫理を守らなければならない。一方では札幌医科大学で最初の心臓移植が行われた時、その秘密主義が問題にされ、臓器移植の論議を遅らせてしまった。

科学技術の進歩はこのように生命に関する新しい問題を提起している。この問題を論じるとき、私たちは「命」そのものと「現象としての命」との区別と、両者の関係を厳密に理解していなければならない。

「現象としての命」は、私たちが生まれて死ぬまでの間、生かされている命である。それは確かに男と女の肉体的性的交わりを通して生まれてくる。私たちは「縁」と言う。縁がなければ出会いはないし、縁を起こすきっかけがなければ、確かに生命誕生はない。そして、その条件を整えて環境をよくし、生命誕生に備える準備がなければならない。

 大事なことは生命現象がそこから始まる「命」そのものと、人の営みによって縁を通して「現象する生命」とは区別されなければならない。どういう条件にすれば命がよく育つか、また宿った命が育つためにはどういう条件が必要であるか、という観点から、人は最善の努力をする必要がある。けれども、そのことが命そのものをつくり出したり、命をコントロールすると言う事ではない。

 パウロは次のように言っている。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(1コリント3:6,7)。

わたしたち人の営みは、土を耕し、水を注ぎ、あるいは種をまいて、命がよく成長するようにその条件を整え、成長を妨げるものを取り除くことである。成長させてくださるのは神である。人はそれ以上でも以下の者でもない。あたかも人が命を作るとか、支配すると思うのは人間の傲慢であり逸脱である。神のたまものである生命の尊厳を踏みにじることになる。この厳密な限界線を十分に理解し、認識しておかなければならない。


? 人の一生


□人生は短いか


「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費 しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされる ならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」             (「人生の短さについて」セネカ 9頁)


 永遠の中で過ぎ去る息のように短く感じられる人生も、労苦多い人にあっては永遠の地獄のようにながく感じられ、無意味な延命の治療や痴呆状態で何年も生きなければならない人の現実は、生への欲求と、苦痛の現実と、安楽への求めの間を逡巡する。「人間は絶対的な無為と休息を求める」(「ファウスト」ゲーテ)。それは人間としての魂と引き換えでなければならないとゲーテはいい、悪魔メフイストフエレスの誘いによってこの世を旅するファウスト博士の魂の巡礼を描く。まさに人生は旅である。しかし、どのような旅であるか。それは一人一人それぞれにことなる道でなければならない。

□旅人として


人生への出発点はいつかと言えば、まさに受胎の瞬間とみなすべきであ ろう。もちろん本人も母親も、まして父親もそれを自覚しているわけで はない。このことは、考えてみれば、おどろくべきことである。自覚的 存在であるのが特徴といわれる人間なのに、その生の出発点が、自分に も他人にも気づかれないのだ。人生は発端からして人間の意識を超え、 同じく終末も意識のまどろみの中で迎えるようにできているらしい。自 覚的存在などとは簡単に言えなくなる。」 (「こころの旅」神谷美恵子)


 「こころの旅」は旅人としての人生を、その出発から旅の終わりまで10章とし、精神科の医者の立場から記している。目次にそって内容を紹介すると、?遊びや言葉の習得によって人間らしさを獲得し ?反抗と自律、性の分化、社会化の過程は三つ子の魂百までと言われるように、幼児期に形成されるものがある。 ?学ぶこと ?自意識の発達と友を得て飛躍する心、人間性の開花を見る。 ?職業の選択、配偶者の選択は通らなければならない人生の本番への関所である。 ?働き盛りの壮年期の長さについて、子どもと家庭問題。?老いを感じる人生の秋、隠退し新しい生き方の工夫が求められる。第三のコペルニクス的転回が起こる。?病について、苦痛と苦悩。病と心、不安。?旅の終わり、老年の心、恍惚恐怖、旅をかえりみる。


 現代を生きる私達の旅路はどのような道であるか、恐れとおののきとをもって進む不安な人生を多くの導き手がとり囲んで励ましている。あなたが人生を十全に生きるものであれかしと。


わたしの旅路の年月は130年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多 く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。

(創世記47:9)


 ヤコブは晩年エジプトのヨセフのところに身を寄せることになった。それまでの130年を振り返って苦しみ多く先祖たちに及ばないという。彼はそれから17年の年月を子どもと孫に囲まれた幸いを得ることができた。

 

  これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けて いなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人 であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(ヘブル11:13)

 

旅人思想は聖書の民族イスラエルが多くの時代を難民として過ごした民族的歴史の中からでてくる。聖書に登場する最初の歴史的人物アブラハムは難民であったと犬養道子はいう。(「人間の大地」63頁)。ヨセフもモーセもそしてイエス難民経験者である。旅人をもてなすという掟は人を制約するものでない。いたわり励まして再生する恵みの掟である。人はこのような掟に生かされて生きるのでなければならない。

 聖書は人生を旅人と教える。迷いに満ち、傷つき倒れやすい旅人をもてなすことを命じている。キリストは終わりの日について教え、次のように言っている。お前たちは「わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた」。だから神の国を受け継ぎ、永遠の命に与る。しかし、わたしが旅をしていた時、宿を貸してくれなかったもの達は永遠の刑罰を受ける(マタイ25:31-46)。


□人生の四季


トゥルニエはこれまでの人間理解の変遷を批判し次のように言う。


私達は動き、成長していきつつある一人の人間を見ます。自己の運命を 担った人間を、その誕生から死に至るまでの出来事のプロセスの中で見 るのです」   (「人生の四季」P.トゥルニエ17頁)。


 長い間人間に関する学問が人間を静止の状態で扱って来た。また子どもは大人のひな型であると考えられた。しかし、子どもには子ども固有の心理を見るべきで、絶えざる成長の中で捕らえなければならない。人生の四季にはそれぞれ固有の特徴がある。


四季とは、それぞれが固有の特徴と独自の法則とを示している時期の区 切りのことです。思春期、更年期、そして死の接近という危機的な時期 が、四季の変わり目の特徴です。   (「人生の四季」P.トゥルニエ22頁)


こうして全体から人生の四季を概観する視点を与える。それは人間を前進する生成過程の中で理解する視点であり、それは人生の目標は何かという問いに方向を与えようとする。即ち、人生の目標とは真に成熟した人間になることと言う。では真に成熟した人間とはなにか。その年令、その時期の求めや義務に対して誠実生き、人生の春には服従を学び、夏には自律的活動に邁進し、秋には断念を学ぶ。トゥルニエは言う。


人間は変わることができます。

最後の一呼吸にいたるまで変わり続けます。(同上書143)


 私達の教会で最初の受洗者は死の床で洗礼を受けた。その翌日息を引き取ったという記録が残されている。人は変わることが出来る。最後の一呼吸まで変わり続けるという真実は、人にだけ許されている救いである。キリストが招いているのは最後まで変わる可能性を残している人である。


後にいる者が先になり、先にいる者が後になる (マタイ20:16)


人は最後の一瞬まで真の自己へと変わることができる。そして変わらなければならない義務を負うている。これから聖書を通して真の自己探求をこころみたい。




新聞記事 コンスタンチン
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/ace/ningenron.htm

定年後の読書ノートより

人間とは何か、マーク・トウェイン著、中野好夫著、岩波文庫

 「ハクルベリ・フィンの冒険」とか「乞食と王子」の作者マーク・トエインは60才後半、彼の思想において、極めて人間不信・決定論的人間論が色濃くなった。

 彼の思想のこうした背景として、長女の死、末娘のテンカン発作、莫大な借金、妻の重病等の幾つかのマイナス条件があげられる。

 しかし、彼の深層心理の苦悩には、訳者中野好夫氏も、「ある程度共感するところがあり耳を傾けるべきだ」と指摘する。

 ここでは、彼の人間論の幾つかの断片をメモした。論理の一貫性はないが、言葉は原典に出来るだけそっている。

 物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。それが家族に与えるうれしそうな顔、それを見ている精神的満足に喜びがある。

 なにも金そのものに物質的価値なんてありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちゃえば、あとに残るのはカナクソだけさ。

 すべての物がそうなんだ。物質的価値なんてあるものか。精神を満足させる限りは貴重だが、それがなくなりゃ一文の価値もない。

 人間の善になんか、無関心だよ。関心があるのは、自分の欲望を満足させること。

 人間のためになる行為を選択させる教育・訓練によって、人間はより自らを満足させてくれるものを選ぶようにはなるね。

 仮に高い理想へ教育したところで、求めるものは相変わらず自己満足感だけで、人間の為なんかじゃないよ。自分の満足がえられれば、人間への結果など、考えもしない、要するに盲目・無理性の本能さ。

 人間なんて機械だよ―人間も非人格的な機械に過ぎないさ。外的諸力によって動かされ、導かれ、左右されるだけよ。自ら創り出すものなんてありゃしない。

 手本という過去からあるものの真似だけで、外からの力で人間は衝動が促され、行動にでるのさ。そんな行為に人間的価値なんてコレッポッチもありゃしない。

 衝動から行動にでる。その奥には心の慰めがある。人間は己の心の満足を求めているということさ。

 同情、それは自分自身の気休め行為さ。宗教の教えも、家族愛も、そして心のやさしさも、高い信条も、ひとたびそれが心の平安ってことと背馳しだすと、もはやなんのお役にもたたないんだな。

 心の平安につながらないものは、誰が何といおうと何ひとつやらせることは出来ん。自分でまず良しとしなければ、人間、とうてい安心はえられんのだ。

 我が身を犠牲にして、燃えている建物から子供を救いだすのは、その男の性格が持っている掟だってことだろう。

 結局その男にしてみりゃ、彼自身による掟ってこと。つまり己れ自身の自己是認を得なければならんという主衝動、強制力というものは、ただひとつ、自分自身の満足を得なければならんということだ。愛だって同じ衝動さ。

 義務ってのはね、なにも義務だからやるってなもんじゃない。それを怠ることが、その人間を不安にさせるからやるに過ぎない。
 
 人間は自己犠牲なんてことを口にする。だが言葉の通常の意味からすれば、そんなものは存在しないし、かって存在したこともない。我々人間って奴は、心の満足を買う為に、どんなことでもやるものだよー例えば他人の命を奪うことだってやるって風にな。

 わたしたち人間の良心って奴はだよ、それがわたしたち自身に苦痛を与えん限り、他人の苦痛なんてことは、てんで念頭にはない。それが私達自身までを不愉快にしないかぎり、他人の苦痛なんて例外無く無関心ってことよ。

 思想を口にする奴がいるが、みんな要するに、セコハンで言っているに決まっている。人間誰一人、自分の頭で思想をつくりだすなんて、そんなこと絶対にありえっこない。つまり行為って行為は、すべて自己満足の衝動から生まれるものさ。

 他人のために自己犠牲をやる人間なんて絶対にいない。つまり他人の為だけの自己犠牲なんてものは有り得ない。

 確かに人間他人の為に自己犠牲はやっている。だがそれもまず第一には自分のためなんだよ。なによりもまずその行為は、常に自分を満足させるものでなくちゃならないんだ。

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