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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART1

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「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART1

「アンチ日蓮正宗」の大石寺「本門戒壇の大御本尊」偽作追及は
「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」
「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮正宗大石寺9世法主・日有の偽作だ」
の二段になっています。ここの
「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」
は、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は日蓮の真筆・真造ではなく、後世の偽作であることを明らかにするトピックです。

日蓮正宗や創価学会、顕正会をはじめ、その分派の者に至るまで、自分たちこそ唯一正当な宗教団体であると主張してやまない。そして返す刀で、キリスト教や他の仏教・宗教はもちろん、同じ系列の日蓮宗や富士門流各派すらも徹底的に「邪教」と攻撃・排斥する。
 こうした極端な原理主義・独善的・閉鎖的な思想の根幹にあるのが、現在、日蓮正宗総本山大石寺の奉安堂にある「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や、「二箇相承書」「日興跡条条事」や「百六箇抄」「本因妙抄」等々といった「相伝書」と呼ばれている文書だ。
日蓮正宗では、大石寺奉安堂に鎮座している「本門戒壇の大御本尊」こそが日蓮の出世の本懐であり、日蓮入滅後の日蓮の当体そのものであり、この「本門戒壇の大御本尊」に信伏随従しない一切の他宗派・他宗教を「邪教」「邪宗」「無間地獄行き」と非難・攻撃する。
日蓮正宗大石寺から破門された創価学会、顕正会、正信会・・・といった分派団体も、現在でも大石寺の「本門戒壇の大御本尊」への絶対的な信仰は続けており、自分達こそが、日蓮正宗の正統であると主張している。・・・・・

日蓮正宗大石寺も創価学会も顕正会も・・・この本尊を楯にとって自分達を正当化し、そればかりか毎年のように、数千億円ともいわれる大金を信者から集めているのである。

日蓮正宗と創価学会の『宗創和合時代』は、昭和40(1965)年の正本堂供養で360億円を集めたことはあまりにも有名で、さらに創価学会や法華講の団体登山会・個人登山が毎日のようにおこなわれており、昭和40年代前半は年間300万人、500万人、800万人が登山していた。
昭和47(1972)年の正本堂落慶のときは1000万人登山が行われている。一人1000円の御開扉供養だけでなんと100億円の大金が大石寺に転がり込んでいた。昭和47年当時の100億円は、総務省の消費者物価指数の統計から計算すると315億円、昭和47年当時の360億円は、今の1132億円に相当する金額である。
さらに昭和五十二年路線以降においても、年間で200万人の登山者がいたので、供養金が2000円に値上がりになって一人2000円の御開扉供養で40億円の収入が大石寺に転がり込んできていた。
日蓮正宗は、平成3(1991)年の宗創戦争以降も、平成6(1994)年の広布坊供養で6億円、平成10(1998)年の客殿供養で41億円、平成14(2002)年の奉安堂供養で168億円以上の特別供養金を集め、さらに2009年の「日蓮・立正安国論750年」では50万総登山を行い、一人2000円の御開扉供養を取っているので、これだけで10億円。これらと別途に特別供養金として90億円にものぼる金集めを行っている。

さらに創価学会が毎年行っている財務や広布基金、特別財務と称するカネ集め。毎年恒例の財務は一度に1500億円を越えるカネを集めていると言われている。
顕正会でも広布御供養と称するカネ集めを毎年12月に行っていて、こちらも莫大な額を集めている。
つまり日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の金集めの中心には、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊がいるのである。

日蓮正宗大石寺も創価学会も、顕正会も正信会も、このように「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を盾にとって、声高く自分たちの正統性を叫んではいるが、しかし「本門戒壇の大御本尊」も「相伝書」も、日蓮の真筆であり、日蓮から相伝された本物である証拠は何一つない。
逆に後世の人の偽作であるとする証拠は、あちらこちらから山のように出てくる。つまり真っ赤なニセ物。日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、後世の偽作なのである。
このように後世の偽作板本尊を以て「日蓮真筆」と詐称し、この「本門戒壇の大御本尊」に信伏随従しない一切の他宗派・他宗教のみならず、「本門戒壇の大御本尊」に参詣しようとしない自宗の信者までもを「邪教」「邪宗」「無間地獄行き」と非難・攻撃したあげく、「この本門戒壇の大御本尊に差し上げる供養金」と称して、莫大な金額の金集めをしている日蓮正宗。
こんなことが果たして許されていいのか?

よく言われる例えだが、ただの石ころを「ダイヤの原石だ」と言って人に売りつければこれは詐欺だ。ニセモノの一万円札を「本物だ」と偽って買物に使うことは犯罪になる。
同じように本当は後世の偽作であるにも関わらず「日蓮真筆の本物だ」として内拝料を取り、それを安置する建造物を建設するとて供養金を集めれば、これも詐欺ではないのだろうか?。

近代になってからでも、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」等は後世の偽作なのではないかとの指摘が各方面からなされてきた。当初は他宗派からのものであったが、近年は日蓮正宗の内部にいた人たちから偽作論が沸き上がっている。
しかし過去に「本門戒壇の大御本尊」偽作説を唱えた安永弁哲氏の「板本尊偽作論」、木下日順氏の「板本尊偽作の研究」、窪田哲城氏の「日蓮聖人の本懐」、高田聖泉氏の「興尊雪冤録」、鴨宮成介氏の「板本尊の真偽について」、日蓮宗宗務院の「創価学会批判」、宮崎英修氏の「大石寺・板曼荼羅について」、松本勝弥氏の「訴訟された創価学会」、久保川法章氏の「弘安二年の大御本尊」、美濃周人氏の「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」、柳沢宏道氏の「石山本尊の研究」、犀角独歩氏の「大石寺彫刻本尊の鑑別」「大石寺漫荼羅本尊の真偽について」、東祐介氏の「大石寺門流における本門戒壇之大御本尊の考察」、金原明彦氏の「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」等々の著書を見ると、所々、部分的に評価される研究内容もあることはあるのだが、しかしながら極端な感情論や罰論、宗教論等々に傾斜していたりして、全体的な、一般に対して説得力のある科学的・客観的証拠・根拠という点については、大きく欠けている箇所があることも事実である。

そこで「アンチ日蓮正宗」としては、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊について、もういちど1からスタートして、科学的見地、学問的見地、文献、史料、歴史学、楠木、漆加工、金箔加工、日蓮正宗の「出世の本懐」論、堀日亨の見解等々、徹底的に検証を加え、さらに日本全国各地の寺院・大学・図書館・博物館・工芸館・資料館・歴史館・金鉱・遺構・関係各所を訪ね歩き、各界学術研究者や学者、教育委員会、学芸員の見解を聞き、取材・調査を重ねた上で、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠を整理した。
この「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART1では、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠として

□1日蓮一門に楠木、漆、金を入手できる経済力はなかった
□2昔も今も身延山に自生の楠木はない
□3 鎌倉時代の日本は小氷期で身延山に自生の楠木は存在しない
□4 日蓮は「神木」である楠木を伐り倒していない
□5日蓮一門に漆加工・金箔加工は不可能だった
□6日蓮一門は金を入手できなかった
□7紙墨の戒壇本尊・後代彫刻・漆金箔加工説を大石寺法主自ら否定している
□8 「本門戒壇の大御本尊」は身延の草庵に安置できない
□9日法は「本門戒壇の大御本尊」を彫刻していない
□10干支が記されていない「弘安二年十月十二日」は日蓮の筆ではない

この10の証拠について徹底検証を加えている。

世の中にニセモノ、偽作はけこうたくさんある。それこそ、カッパのミイラ、人魚のミイラ等々の類も含めると、山のようにたくさんあると言われている。ではなぜ日蓮正宗の「本門戒壇の大御本尊」偽作、偽作教義、偽作相伝書が問題なのか、というと、

□これらで日蓮正宗が過去数百年間に数千億円の金集めを行ってきて、これが日蓮正宗をはじめ創価学会、顕正会というカルトの主要財源になっていること
□これらが日蓮正宗の堕地獄論など、日蓮正宗、創価学会、顕正会などカルトの教義的な根源になっていること
□これらが日本ないし全世界の数千万人及ぶ信者を隷属せしめる宗教的権威・権力の根源になっていること

です。だから問題なのです。
カッパのミイラ、人魚のミイラ等々は、これで年間数十億円の金集めをしているわけでもないし、堕地獄論の根源になっているわけでもない。全世界の数千万人の人たちを隷属させる宗教的権威・権力の根源には、なっていないのである。
だから日蓮正宗の欺瞞性を追及する第一歩が、この「本門戒壇の大御本尊」偽作の徹底追及なのである。

そころで、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作であることを証明・検証をする上において、大きなポイントが三点ほどある。それは

■1 日蓮正宗大石寺に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀っている日蓮正宗のみならず、かつて日蓮正宗に属して、その後、対立・破門された分派である創価学会、富士大石寺顕正会、日蓮正宗正信会のいずれもが、今でも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を自分たちの信仰活動の根本、教義の根本に置いているということ。

これらは、日蓮正宗、創価学会、富士大石寺顕正会、正信会の正式文献や公式ウェブサイト等を見れば、明らかである。

「末法の御本仏日蓮大聖人は、一切衆生の成仏得道のために、弘安2年(1279)10月12日、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされました」
「大石寺には、日蓮大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊が厳護されています」
(日蓮正宗の公式HPより)
「本宗は、宗祖(日蓮)所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰妙依止の本尊とする」
(日蓮正宗宗規第1章第3条)
「日蓮大聖人は・・・・弘安2年10月12日に一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ=全世界の人々に授与するとの意)の大御本尊を建立されたのです」
(創価学会の公式HPより)
「日蓮大聖人の一閻浮提(いちえんぶだい)総与・三大秘法の大御本尊を信受し・・・」
(創価学会の会則・規則)
「第三条 この法人は、日蓮大聖人を末法下種の本仏と崇敬し、大聖人出世の本懐たる弘安二年の『本門戒壇の大御本尊』を帰命依止の本尊とし…」
(宗教法人顕正会規則)
第四条 本会は、日蓮大聖人を末法下種の本仏と崇敬し、大聖人出世の本懐たる 本門戒壇の大御本尊を帰命依止の本尊とし…」
(日蓮正宗顕正会規約)
「日蓮正宗は末法の御本仏日蓮大聖人の仏法を、七百年来清純に伝持してきた、世界唯一の仏法の正統門家である」
(浅井昭衛著「学会宗門抗争の根本原因」より)
「正信会は大石寺を離脱したのではない」「もとより富士の本流を自認する正信会であるから、阿部宗門に対抗するために一宗一派を旗揚げするという必要など毛頭ない」
(正信会の公式文書「富士の清流を問う2」より)

日蓮正宗のみならず、日蓮正宗から破門されて分派した創価学会、顕正会、正信会は、破門によって「本門戒壇の大御本尊」への信仰を捨て去ったのではなく、大石寺に登山・内拝はできなくなったものの、「本門戒壇の大御本尊」への信仰そのものは、以前と変わらず、つづけているのである。

■2日蓮正宗は、他の日蓮宗や宗教学者・研究者らから出されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「筆跡鑑定」「写真鑑定」や「炭素14年代測定法」「デジタルカメラ測定」等の科学鑑定をする要求を一切、拒否していること。

したがって、一部の学者が言っているように、「本門戒壇の大御本尊を科学鑑定すれば済むのではないか」という指摘は、日蓮正宗が学者らの科学鑑定の要求に対しては、拒否あるいは黙殺している以上、当たらないのである。
よって、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作であることを立証するには、楠木、漆、金箔、経済力、文献等々といった所から立証していく以外にないのである。

■3 「アンチ日蓮正宗」が2005年3月から展開している「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は後世の偽作だ」「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティにおいて、ことごとく日蓮正宗側の妄説・妄言を完全論破し、日蓮正宗側はことごとく反論不能に陥って、降伏宣言をせざるを得なくなったのである。

日蓮正宗側の反論の内容たるや感情的議論を展開しているだけ。
理に詰まると、至る所で平気で大ウソをついたり、ハッタリやデマカセを述べたり、相手の些細なことの揚げ足取りをしたり、さらには頭が悪いだの気がふれているだの物の怪に憑かれているだのと、ただ感情的に相手を罵って議論を煙に巻こうとしているだけで、内容的には、まるで破折にも反論にもなっていないものである。
日蓮正宗大石寺も創価学会も顕正会も正信会も、その他のいずれの分派団体も、信者に対して、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」に絶対的服従することを強要していながら、それが日蓮真筆である証拠を何一つ示していない。ただ「信じろ」の一点張りなのである。

 そうでないとするならば、日蓮正宗は「本門戒壇の大御本尊」等は本物であるという証拠と道理を示す義務と責任がある。又、科学鑑定をして本物だと証明してみせるべきだ。
しかし日蓮正宗大石寺は、まったくそれをしていない。
 それができない日蓮正宗は数千万人の人の心を手玉にとって、その心を騙す巨大な宗教詐欺だということだ。
よって、この「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」において、日蓮正宗の本門戒壇大御本尊偽作・血脈偽作の真実を明らかにしていきたい。

このトピックに書かれている内容について、質問その他のコメント(絶賛でもOK)をしたい方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『本門戒壇の大御本尊』日蓮真造論者からの反論・文句は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊の真偽について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41378641&comm_id=4011664


(写真左・大石寺奉安堂にある「本門戒壇の大御本尊」と称している「板本尊」/写真中・日蓮正宗某末寺本堂にある日蓮真筆「紫宸殿の御本尊」を模写彫刻した「板本尊」。黒漆に金箔文字は戒壇板本尊と同じだが、筆跡が明らかに違っている。/写真右・戒壇板本尊を煤払いする66世法主細井日達(左奥)

出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」
堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」

取材調査協力/
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■検証48・鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった13

□鎌倉時代の日蓮一門は金(きん)を入手できなかった2

金銀の貨幣化は、甲斐の国(山梨県)の戦国大名・武田信玄が湯之奥金山など自国の領地内にあった金山から産出した金を使って「甲州金」という貨幣制度をつくった室町時代後期以降のことで、鎌倉時代の金銀は、まだ素材価値的商品の域を脱していなかった。
その理由は、中世中期までは、社会全体がまだ一般に自給自足的荘園経済(土地の直接的生産力に依存する)の上に立っており、土地こそが社会の経済的基礎であり、個人にとっては財産そのものの代表的形態であったためである。
もちろん、時代が進むにつれて商業が発展し、それにともなって商品・貨幣の流通化は進んで行ったとはいえ、全国的に見れば、その取引規模はきわめて限られており、したがって、巨額の通貨はまだ不要で、取引の手段は、銅銭で十分賄いうるものだった。

かくて金銀は、当時の日本においても貴重な財貨ではあったが、しかしそれらはもっぱら天皇・皇族・貴族・将軍家・得宗家・武家・富豪等の権威・財力・経済力の象徴か、贈答・進献用、または中国の銅銭(宋銭)輸入の対価物の域にとどまり、国内一般社会において流通機能を果たしたのは、主に銅銭であった。

日本銀行金融研究所貨幣博物館が所蔵している日本銀行調査局編「図録・日本の貨幣1」によると、日本では平安時代から室町時代末期まで、金銀比価はおおむね一対五前後で推移したが、中国の場合は、次のように、常に日本に対して、金高傾向で推移したという。

西暦1000年 金1両=5000文 銀1両=800文
金銀比価 1対6.3
西暦1126年 金1両=20000文 銀1両=1500文
金銀比価 1対13.3
西暦1134年 金1両=30000文 銀1両=2300文
金銀比価 1対13
西暦1200年 金1両=40000文 銀1両=3300文
金銀比価 1対12.1

銀と銅の対価は、日中両国ともほぼ同じ程度に推移したため、結局、日本では、銅銭価値が中国に比べて相対的に高く、これが銭安金高の宋(中国)にむかって日本の金が流出し、中国の銅銭が日本に流入する一因となった。

鎌倉時代には日本船も盛んに宋(中国)に渡航し、九州を拠点に貿易を行った。
貿易船ははじめは幕府や有力寺社の委託船であったが、後には鎌倉や京都の商人の船も参加し、ここに貿易商人の発生をみた。
日本からの有力な輸出品であった金を産出する陸奥の国の産金地帯は、鎌倉幕府は直轄領としており、特に執権・北条氏は得宗家の得宗領としていた。鎌倉時代において、金の権益は、鎌倉幕府が実質的に独占していたのである。
その鎌倉幕府と終始きびしい対立関係にあった日蓮一門が「金」を鎌倉幕府から入手するなどとは、絶対に不可能であった。





■検証49・鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった14

□鎌倉時代の日蓮一門は金(きん)を入手できなかった3

砂金は奈良時代から日本国内でも、きわめて高価なものとして珍重され、遣唐使や中国留学生が、中国での滞在費として天皇から下賜されて携行したり、平安・鎌倉時代には、天皇・朝廷や寺社に対する奉献用、貴族間の贈答用、将軍の下賜用などにしばしば用いられた。
具体的な事例を挙げてみたい。

803(延暦22)年3月29日、葛野麻呂の出発に際して、桓武天皇が御衣のほか、大使には砂金200両、副使には150両を与えたとある。(日本紀略)
836(承和3)年4月24日、任明天皇は、遣唐使の大使藤原常嗣に砂金200両、副使の小野篁に100両を与えている。(続日本後紀)
1173(承安3)年3月、後白河法皇は宋への返礼として、砂金100両を贈っている。
1186(文治2)年10月1日、奥州・平泉の藤原秀衡が鎌倉の源頼朝に送達した黄金450両が、鎌倉を経て京都の朝廷に進献された。
1190(建久1)年11月13日、源頼朝が入洛したおりに砂金800両が進献された。
1195(建久6)年3月11日、奈良の東大寺の修造費として、鎌倉から砂金1000両を施入している。
1218(建保6)年3月24日、将軍・源実朝が京都からの勅使・中原重継に砂金100両を贈る。

これらの事例は、枚挙に暇がない。
伊勢大神宮の奉幣にさいしては、朝廷から砂金を賜るのが通例とされ、征夷大将軍宣下のさいに、武家から朝廷に砂金を献上することは、源頼朝以来の慣例となった。
源頼朝のときは100両、後に10両包1つとなったが、足利義満のときに2包となり、以降、江戸時代まで続いたという。

「平治物語」によれば、1174(承安4)年に奥州(東北地方)の金商人の吉次という者が、奥州平泉に牛若丸を案内した時、藤原秀衡が吉次に引き出物として、金30両を与えたとある。
当時は、奥州から砂金を運んで京都で売り、その見返りとして、宋銭や京都の商品を入手し、さらにこれをもって奥州へ砂金を仕入れにいく金商人が多かったという。
吉次なる人物も、その成功者の一人と思われ、おそらくは京都で両替商を営み、すでに「かわし」と称する送金業務も行っていたのではないかと、言われている。

これらのさまざまな歴史的事実や事例から明らかなように、平安時代から鎌倉時代にかけて、当時の唯一の産金地帯であった奥州の金山は、はじめは京都の朝廷がその権益を握り、次いで奥州平泉の藤原氏が握り、鎌倉時代は、幕府の将軍家が、後に執権・北条氏の時代になってからは、北条得宗家の得宗領となり、北条得宗家がその権益を独占していた。

したがって、鎌倉時代に金が入手できたのは、天皇家・朝廷の貴族・公家・鎌倉幕府の将軍家・執権・北条氏の得宗家。そして当時の有力寺社や金を取り扱って宋(中国)との貿易や両替商を営んでいた豪商や商人たちだけだ。

生涯にわたって鎌倉幕府ときびしい対立関係にあり、しかも身延山中で極貧の質素な生活をしていた日蓮をはじめ日蓮一門の人たちの手には、金は絶対に入らなかったものだと言って良い。
日蓮の手に金が入る道理が、どこにもないではないか。鎌倉時代の日蓮一門は金が全く入手できなかったことは、もはや明らかであろう。




■検証50・鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった15

□仏教の権威の象徴であり現世での富や豊かさの象徴・権力の象徴であった金1

日蓮正宗大石寺48世法主日量が書いた「富士大石寺明細誌」には、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が「黒漆金文字」とはっきり書いてある。
つまり、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は表面に黒漆が塗ってあって、文字のところが彫刻で掘り下げてあり、そこに金箔加工がしてある、ということである。したがって「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の表面は、漆で黒光りし、文字が金ピカに輝いて見えるのである。

日蓮正宗大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」の金箔加工の謎を解明していくに当たって、そもそも「金」というものがいかなるものであるのかという、「金」の本質を解明していく必要がある。

それは「金」というものが、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあったということである。

日本ではじめて自然金が確認されたのは奈良時代中期のことである。
それ以前の弥生・古墳・飛鳥時代の金製品・金メッキ・金箔製品の金は、海外から輸入されたものである。弥生・古墳時代の金の装飾品は、まさに権力者の富の象徴だった。
日本では滋賀県野洲町の甲山古墳(6世紀前半)から日本最古の金糸が発見されている。
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀はじめ)では、天文図の星が金箔で表現されていることが確認されている。
仏教伝来後の飛鳥時代になって、仏の三十二相の中の「金色相」の考えに基づき、仏像・仏具で金が使われはじめた。

ちなみに日本では、戦国時代まで、そのほとんどが東北産の金であった。戦国時代になると戦費調達や家来への報奨のために金山が開発された。甲州・湯之奥金山もまさにそれらの金山の中のひとつであったのであり、戦国時代から江戸時代初期まで、日本の金の生産はひとつのピークを迎える。
仏教は「日本書紀」によれば、552年に百済国から金銅の仏像や経典が日本に伝わり、飛鳥時代から造仏が盛んになった。
当時の仏像・仏具は銅で鋳造され、金メッキが施された。仏像や仏殿での金の使用は、仏の三十二相の「金色相」があり、仏像は金色とされ、西方浄土の世界も金色と記されているためである。
現在も日本を含め仏像・仏具には金色が尊ばれ、金箔が張られている。

743(天平15)年、聖武天皇は奈良・東大寺の大仏造営を決定し、仏像に金箔を飾ろうとしたところ、749年に陸奥国(宮城県)で「金」が発見され、900両の金が天皇に献上された。
天皇は年号を天平感宝と改め、歌人・大伴家持は
「すめろぎの 御代栄えむと東なる みちのくの山に 黄金花咲く」
と詠んだ。




■検証51・鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった16

□仏教の権威の象徴であり現世での富や豊かさの象徴・権力の象徴であった金2

平安時代末の12世紀、平泉・中尊寺金色堂に代表されるように、奥州には藤原氏により約100年にわたって、華やかな黄金文化が栄えた。
1124(天治元)年、奥州の実力者・藤原清衡が平泉に中尊寺金色堂を完成させたのである。光堂とも呼ばれる中尊寺金色堂の内外には金箔が張りめぐらされた。
奥州藤原氏初代・清衡が建立した中尊寺には、寺や塔が40余り、奥州藤原氏二代・基衡が建立した毛越寺にも40に及ぶ寺や塔があった。これらの寺や塔の内部も金箔が張りめぐらされ金色に輝いていたと言われている。
中尊寺に蔵されている、仏教の全てを集大成した6000巻を超える経典である一切経には、初代・藤原清衡による金銀字交書一切経や三代・藤原秀衡の金字一切経がある。
金泥で写経した経典には、奈良の大仏が建立された天平時代の写経、平清盛の平家納経や奥州藤原三代の中尊寺経などがある。
藤原秀衡は、金字一切経のテキストである中国の宋版・一切経を金10万5000両を支払って購入したとされている。
奈良時代の日本における金発見以来、室町・戦国時代まで、日本の金のほとんどが奥州から産出したものであり、藤原清衡の棺の中には、32グラムの金塊が納められていた。

一方、当時の日本の首都・京都では、仏師定朝によって1053(天喜元)年に造られた京都・宇治の平等院・鳳凰堂の阿弥陀如来座像には、座像と光背、さらに光背を固定する吊り金具に金箔が施されている。
また日蓮正宗大石寺9世法主・日有の時代、全国に守護大名・戦国大名が勃興しつつあったが、それらの権力者・大名たちも、金や銀を権力の象徴・富の象徴として建築や調度品等々に多用した。それほどまでに金は、仏教権威の象徴であるばかりでなく、権力と富の象徴だったのである。

室町時代にあった金を張りめぐらせた代表的な建築物は、京都の鹿苑寺金閣である。
この鹿苑寺金閣の地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでおり、公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。西園寺氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によってこれを一新。舎利殿としての金閣もこの時に建立され、足利義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。
1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。

このように「金」というものが、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあったということである。

身延山の山中で
「米一合もない。餓死するかもしれない。僧たちも養うことができないので、皆、里に送り返した。 食は乏しく信者から供養もない。下痢が起こっている。小袖がなかったら、凍死していたかもしれない。・・・」
と極貧生活を遺文に綴っていた日蓮が、これほどまでに「現世での富や豊かさの象徴」であり、仏教権威の象徴」「権力と富の象徴」「権威・権力の象徴」であった「金」を入手できる道理があるはずがないではないか。
日蓮正宗は、「本門戒壇の大御本尊」の金箔加工にまつわる疑惑と謎について、口をつぐんだまま、全く答えていない。



■検証52・鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった17

□日蓮一門に金箔加工ができた職人はいない

漆加工や金箔加工という技術は、誰にでもできるというものでは、もちろん、ない。
石川県金沢市にある石川県立安江金箔工芸館の学芸員によれば、素人には、金箔の扱いそのものが、むずかしいという。さらに漆の上に金箔を塗る技術となると、高度な技術で、少なくとも、誰にでもできるものではないことだけは確かであるという。
そうすると、弘安二年十月に身延山中で漆加工や金箔加工を施した「本門戒壇の大御本尊」を造立するとなると、鎌倉時代当時の日蓮一門の中に、漆加工や金箔加工ができる職人がいなくてはならないが、そのような職人は、当時の僧侶や信徒の中には、いないのである。

鎌倉時代の当時、こうした技術を持った職人は、現代のようにどこにでもいたわけではない。漆や金(きん)を扱えるのは、一部の権力者や大伽藍を持つ寺院に限られていたわけだから、その職人も当然、そういう権力者が住んでいる京都・鎌倉、ないしは大寺院周辺でなければ、いなかった。したがって日蓮一門が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に漆加工や金箔加工を施そうとすれば、漆加工の職人に身延山中まで工賃を支払って来てもらうか、ないしは京都か鎌倉か、その職人のところにまで、「本門戒壇の大御本尊」を運んでいかなければならなかったことは、疑いない。
しかしながら、前述の如く、日蓮一門には漆加工の職人に工賃を支払える経済力はなかった。

当時の身延街道・東海道・鎌倉街道は、それこと山賊・盗賊・落ち武者・浪人、追はぎ、引きはぎ、大規模な盗賊団たちが続出する、おそろしく治安の悪い危険に満ちた「けもの道」だった。旅する人たちはみな、必要やむをえず旅立っていたのだ。しかも道路はよくない。東海道でもけっしてよい道ばかりでなく、雨でも降れば、それこそ目もあてられない。雨にあえばほかに通る道もないので、水田のようになった中をそのままわたっていったという。
さらに川もまた大きな障害物であった。江戸時代でも東海道の大井川の渡しが難所として知られていたが、この時代に橋があったところといえば、浜名湖の入り口の橋本の橋、相模川の橋ぐらいで、その他の河川は舟でわたるか、舟をつなぎとめたあぶなっかしい浮き橋でわたることになっていた。だからひとたび大雨でも降れば、たちまち交通不能におちいる。なかでも急流としておそれられた天竜川では、渡し舟がしばしば転覆したという。これは鎌倉時代当時の記録である「十六夜日記」や金沢文庫に蔵されている鎌倉時代の多数の手紙などの書物に明らかだ。

しかも「本門戒壇の大御本尊」は一人や二人では、絶対に持ち運びができない。それは近年行われた、正本堂遷座、奉安殿遷座、奉安堂遷座のときの写真を見ればわかる。日蓮正宗機関誌の『大日蓮』や信徒団体の機関紙を見ると、十人前後の僧侶が、「本門戒壇の大御本尊」を台座にのせてかついて運んでいる姿が、丸写しに写っている。そうすると、弘安二年十月、やはり十人前後の僧侶が、あの板本尊をかついで身延と京都か鎌倉を往復しなければならなかったことになる。しかし弘安二年十月当時、日蓮一門の僧俗が、「本門戒壇の大御本尊」をかついで身延と京都か鎌倉を往復したなどという記録は全く残っていない。そんな事実はないのである。

よく考えてほしい。弘安二年十月といえば、あの熱原法難の真っ只中のことである。漆加工や金箔加工のために京都や鎌倉を往復するどころではなかった。日蓮も日興もは熱原法難の対応に追われて、日蓮一門の僧俗は、おおわらわ、てんてこまいだったのである。

どうだろうか?。鎌倉時代の身延山中において、弘安二年十月に「本門戒壇の大御本尊」を漆塗りして金箔加工を施すということは絶対に不可能だった。これはまちがいない。
したがって、「鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」ということも、「本門戒壇の大御本尊」が後世の偽作だという証拠のひとつなのである。


■検証53・日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった18

□平安・鎌倉・室町時代の長期保存のための木材防腐加工とは漆加工・金箔加工だった

中国における漆器の製作は、およそ六千年前と言われ、中国の殷(いん)(紀元前1600年頃 - 紀元前1046年)の遺跡から漆器の一部が発掘されている。
日本では、北海道垣ノ島B遺跡で、約9000年前(縄文時代早期)のものとみとめられる腕輪などの漆製品が発見されている。島根県夫手遺跡(それていせき)では、6800年前という縄文時代前期初めとみられる土器の底に付着した漆が発見されている。
このように日本でも、かなり古い段階から漆工芸の技術を習得していたことがわかる。
漆には光沢や防水性や粘着性があるため、縄文時代晩期(前1000〜前300)になると土器・弓・装身具(→装身具の「日本」)などに塗料としてもちいられた。なかでも晩期を代表する東北地方の亀ヶ岡文化圏では赤色・黒色の漆をぬった土器・飾り刀(たち)・弓・耳飾り・櫛(くし)・腕輪・竹をつかった籃胎漆器(らんたいしっき)などが多数出土している。青森県是川(これかわ)中居遺跡では漆をつめた土器や、漆の色彩料として赤色顔料のベンガラ(酸化第二鉄)をつめた土器などもみつかり、かなり大規模に漆工芸がおこなわれていたことがわかる。

奈良時代の正倉院宝物には、漆絵、平文(ひょうもん)、漆皮(しっぴ)、螺鈿、密陀絵(みつだえ)など、さまざまな漆技法をつかった楽器や調度品が残っており、唐代の漆芸技法が日本に伝わったことを示している。国内でも、当麻寺の「当麻曼荼羅厨子」に金銀泥絵を施し、金平文による飛天文があらわされた例がみえる。また乾漆による仏像や器物も盛んに造られた。 漆塗り加工が成されている正倉院宝物は、全く腐食劣化せずに、今日、当時のままの姿で残されている。
奈良時代になると、蒔絵技法がおこり、貴族の生活調度や経箱などをやまと絵風の文様でかざるようになった。中尊寺金色堂の内陣や須弥壇は、黒漆塗に金銀、螺鈿、蒔絵で名高い。
鎌倉時代になると、浮彫彫刻に漆をかけた鎌倉彫が考案され、また、平蒔絵、高蒔絵など、蒔絵の基本的な技法が完成した。一方、朱漆に黒漆をかけた根来(ねごろ)塗、透漆(すきうるし:透明度の高い精製漆)の春慶塗などの無文漆器や、沈金もこのころ生まれた。

蒔絵(まきえ)とは、蒔絵筆によって漆で模様を描き、その漆が乾かないうちに金粉や銀粉をまき、研ぎ出しや磨きを行うことで模様を作り上げる。平蒔絵、研出蒔絵、高蒔絵などの技法がある。
沈金(ちんきん)とは、沈金刀で漆の表面を線刻し、その彫り跡に金箔や銀箔をすり込んで文様をつくるもの。
これからわかるように、漆加工と金箔が押されるなどの金による加工は一体のものなのである。

国宝や重要文化財として残っている正倉院宝物、中尊寺金色堂の内陣や須弥壇などは、黒漆塗りに金の加工が施されている代表的なものである。
このように、縄文時代・弥生時代からはじまった漆加工であるが、平安・鎌倉・室町時代の長期保存のための木材防腐加工とは漆加工・金箔加工と決まっていた。

したがって、こういった歴史的事実からしても、大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊を、板に彫刻させた時点において漆加工・金箔加工をその時に完成させていなれれば、教義との整合性に矛盾が出る。又板に彫刻させた時点において漆加工・金箔加工をその時に完成させていなれれば、板本尊の板そのものが湿気等の原因で腐敗していくからである。

しかし、当時の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった。すなわち、これは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作であるということに他ならないのである。




■検証54・日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった19

□日蓮正宗の「本門戒壇の大御本尊」弘安二年造立説は板本尊の漆・金箔加工と完全に矛盾する

もし仮に、日蓮正宗側が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の漆・金箔加工が、日蓮の時代に行われた漆・金箔加工ではなく、日興の時代以降になされたものであると言うならば、今までの「弘安2年10月12日に今の本門戒壇の大御本尊が造立された」とする日蓮正宗側の公式見解との矛盾が明らかとなる。

さらに後世の誰かが日蓮が書写した(?)「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の文字の部分を掘り下げて彫刻したとするならば、その人物は、勝手に宗祖日蓮の本尊を加工したということになる。
もしそうならそうで、その彫刻・加工した人物は、日蓮の「魂」を木屑とともに捨ててしまったことになる。それこそ日蓮正宗が言うところの大謗法(最大の悪行・バチ当たりの行為)を行ったことになる。 そんなことは日蓮正宗内の常識としても、全くあり得ないことだ。

又、日蓮が板本尊の彫刻だけ行って、漆加工や金箔加工を行わなかったとすれば、「末法万年にわたって格蔵していくべき」板本尊に何ら防腐加工を施さなかったことになる。防腐加工を施さないということは、木材の性質からして、百年も経過しないうちに腐食して朽ち果ててしまうことになる。そういうことになれば、日蓮正宗が「末法の御本仏」と崇拝している日蓮は、まさに「日蓮、一生の不覚」を行ったことになる。
末法万年・尽未来際にわたって、半永久的に大石寺に格蔵すべく「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、わずか数十年の間に腐食して朽ち果ててしまったら、笑い話にもならない。こんな矛盾した話もあるまい。

そうなると、日蓮正宗とすれば、やはり日蓮が生きていた時代に、誰かが彫刻し、漆加工・金箔加工をしたことにしないとまずいということだろう。日蓮正宗が唱えている「本門戒壇の大御本尊・日法彫刻説」なるものは、そんなところから生れてきたものなのだろうが、そうなると、疑惑がまた振り出しに戻ることになる。

あくまでも日蓮の時代に彫刻・漆加工・金箔加工がなされたと言い張るならば、
「当時の日蓮一門が漆や金を入手できる経済力がなかった」
「漆加工・金箔加工ができる職人も日蓮一門の中にいなかった」
「鎌倉時代の身延山中において、1279(弘安二)年十月に本門戒壇の大御本尊を漆塗りして金箔加工を施すということは絶対に不可能だった」
という、私たちの指摘に対する明確な回答が必要である。

未だかつて、この疑問に対する日蓮正宗側からの回答…法主の公式見解や住職の説法、信者の返答などすべてを含めて…は、全くない。 今日に至るまで、全く沈黙したままだ。
これに答えられないと言うならば、今の「本門戒壇の大御本尊」そのものが、私たちの指摘どおり、後世の偽作であることを率直に認めるべきだ。

もしそうならば、今日まで、何千万人というおびただしい数にのぼる信者を騙し、莫大な供養金を搾取してきた重罪をどうするのか?
この「本門戒壇の大御本尊」を楯にとって、やれ破門だのなんだのと、人々の信仰心を弄んできた責任をどうとるのか?
ただ沈黙するだけでは、済まされないだろう。






■検証55・日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった20

□「日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」証拠のまとめ

それではここで「日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」の証拠をまとめてみたい。

□日蓮には、漆、金、漆加工職人、金箔加工職人を外部から調達できるほどの経済力・財力を持っていなかった。(証拠は数ある日蓮の遺文(御書))

◇日蓮一門に漆加工は不可能だった

□鎌倉時代においても、漆・漆加工は非常に高価だったため、日蓮一門に漆加工は経済的に不可能だった。
□漆は素人には非常に取り扱いがむずかしいものであるため、日蓮一門に漆加工は技術的に不可能だった。

仮に身延山周辺で漆の生産が行われていたとしても、漆そのものが素人には取り扱いがむずかしいものであるため、工賃を支払って漆職人に漆加工を依頼しなくてはならなかった。
しかし日蓮一門に、漆を入手し、漆職人に漆加工を依頼できる経済力はなかった。したがって日蓮一門に漆加工は不可能だった

◇日蓮一門に金箔加工は不可能だった

□身延山中で極貧の生活をしていた日蓮は、絶対に金を入手できなかった。
□日蓮が金を入手できるほどの経済力を持っていたならば、身延山中で極貧の生活をするはずがない。
□鎌倉時代において、金の権益は、鎌倉幕府が実質的に独占していた。鎌倉幕府と終始きびしい対立関係にあった日蓮一門が「金」を鎌倉幕府から入手するなどとは、絶対に不可能。
□平安時代から鎌倉時代にかけて、当時の唯一の産金地帯であった奥州の金山は、はじめは京都の朝廷がその権益を握り、次いで奥州平泉の藤原氏が握り、鎌倉時代は、幕府の将軍家が、後に執権・北条氏の時代になってからは、北条得宗家の得宗領となり、北条得宗家がその権益を独占していた。 したがって、鎌倉時代に金が入手できたのは、天皇家・朝廷の貴族・公家・鎌倉幕府の将軍家・執権・北条氏の得宗家。そして当時の有力寺社や金を取り扱って宋(中国)との貿易や両替商を営んでいた豪商や商人たちだけ。
生涯にわたって鎌倉幕府ときびしい対立関係にあり、しかも身延山中で極貧の質素な生活をしていた日蓮をはじめ日蓮一門の人たちの手には、金は絶対に入らなかった。
□金は、仏教権威の象徴であるばかりでなく、権力と富の象徴だった。極貧生活をしていた日蓮が入手できる道理は全くない。
□鎌倉時代の日蓮一門に、漆加工や金箔加工ができる職人は、僧侶や信徒の中には、いない。
日蓮一門には漆加工の職人に工賃を支払える経済力はなかった

以上のことから「日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」と結論づけられ、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の漆加工・金箔加工は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠ということになるのである。





■検証56・鎌倉時代の日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった21

□日蓮正宗の「本門戒壇の大御本尊衣替え」の言い訳は欺瞞だ

「日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった」「日蓮一門は金(きん)を入手できなかった」
「日蓮一門に金箔加工ができた職人はいない」「あんなに立派に金ピカで黒光りしている大御本尊さまが鎌倉時代に建立されたなんて信じられない」…
こういった指摘に対して、日蓮正宗法主による「衣替え」の説法を持ち出してきて、反論・言い訳をする日蓮正宗信者がいる。「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の衣替えは、数百年の歴史の中で大石寺が、「本門戒壇の大御本尊」の黒漆を塗り直し、金箔を張り治してきたことを指す。
たとえば日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、「本門戒壇の大御本尊」の「衣替え」について、次のように説法している。

「ここに少々申し述べたいことは、近頃、戒壇の大御本尊様に不敬のことを申す人がある様に見受けられます。
この戒壇の御本尊は、先程の正本堂における説法の如く、宗祖大聖人様が身延において本門戒壇の事の御本尊として、弘安二年十月十二日御書写遊ばされた御本尊様でございます。長い間当山に格護しておりましたのでございます。
その六百何年の間の御本尊様でございますから、その間に御本尊様の御衣替と申しまして、漆を塗り、中に金箔を入れましたことが再度ございます。その前に、大石寺の本堂並びに丑寅について昨年少々本にして出したことがございますが、それにもある通り、戒壇の大御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置してありましたように思われるのでございます。
勿論、この只今の御影堂は三百四十年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます。
そしてその間に、いろいろ汚れたりしますものですから、中に、只今戒壇の御本尊様を拝すとよくわかる通りに、外は宮殿(くでん)と申しまして、ここに只今ある様な御宮造りがございます。その中には宝篋(ほうきょう)と申しまして、御本尊様を直接包む箱がございます。
この様に二重になっておるのでございまして、只今は今度あの大きな正本堂が出来た為に、今までの宮殿並びに宝篋では小さいので宮殿を大きくなしたのでございます。
その以前の宮殿は只今、今までの奉安殿に安置してございます。その宮殿の中の宝篋は寛永十四年に修理され出来上がったのでございます。その宝篋を包む宮殿はそれより十二年後の慶安二年と言う年に造られております。
それから後、再々宮殿並びに御本尊様の御衣替がございまして、享保十五年、日詳上人という方の時にまた修理させられております。今から二百四十二年前のことでございます。
それから後、昭和六年、(日蓮)大聖人の六百五十年御遠忌の時にまた金箔を塗り直して衣替を致しました。
今回(1972年・昭和47年)あの大きな正本堂の為に今までの宮殿では小さいので、ここに改めて大きな宮殿となしたので御座います。それについて御本尊様に御衣替を願って、漆を塗り金箔を塗ったのでございます。その御本尊様は、もう六百八十年も前に出来た板御本尊でございまして、これは当時鉋(かんな)というものがなかった、鎌倉時代でございますから、あの板御本尊様は明らかに鉋では造ってないのであります。みんな手斧(てちょうな)、手斧といっても戦国時代あるいは室町時代に出来た丁鉋(ちょうな)でなくて、もっと古いまさかりみたいな手斧で削られておるのでございます。それが歴然としてあの板御本尊様に残っておるので御座います。
それを見ても鎌倉時代、大聖人の時代にお造りになった御本尊様であることがはっきりしておるのでございます。これは私一人が見て言うのではなく、皆様の代表として、正宗信徒の代表として池田先生にも拝させたのでございます。決して間違いございません。
どうかあの御本尊様において、近頃の様な新聞などでいろいろなことを言われても、信徒としての皆様は少しも動揺することなく、大聖人様の魂魄ここにあるの深い信念のもとに信心に励まれんことをお願いする次第でございます。」 (日蓮正宗機関誌「大日蓮」昭和48年2月号 )

つまり日蓮正宗側の言い分は、「今日までの大石寺の七百年以上の歴史の中で、何度も『本門戒壇の大御本尊』は御衣替えをしてきている。だから『本門戒壇の大御本尊』はあのように金ピカで黒光りしているように立派に見えるのだ」と…。
しかしこれはゴマカシと欺瞞に満ちた、苦し紛れの言い訳だ。



■検証57・日蓮一門に漆・金箔加工は不可能だった22

□する必要がない「本門戒壇の大御本尊」化粧直しを繰り返している日蓮正宗大石寺

日蓮正宗では、大石寺に格蔵している「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を、数百年の間に何度か、化粧直しをしてきていると言っている。化粧直しとは、板本尊の黒漆を塗り直し、金箔を貼り替えることである。
日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、次のように言っている。

「…それから後、再々、宮殿並びに(戒壇の)御本尊様の御衣替えがございまして、享保十五年、日詳上人という方の時にまた修理させられております。今から二百四十二年前のことでございます。
それから後、昭和六年、大聖人六百五十年遠忌の時にまた金箔を塗り直して衣替えを致しました。今回あの正本堂のために今までの宮殿では小さいので、ここに改めて大きな宮殿となしたのでございます。それについて(戒壇の)御本尊様に御衣替えを願って、漆を塗り、金箔を塗ったのでございます・・・」(「大日蓮」昭和48年2月号・「蓮華」昭和48年1月号)

この細井日達法主の説法によれば、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、今までの日蓮正宗の歴史の中で、化粧直しないしは衣替えという名目で、漆を塗り替え金箔を塗り替えてきたことは事実と思われます。

ではなぜ、こういうことをする必要があるのか?ということだ。
「必要に応じて」と言えば、なるほど聞こえはいいですが、その「必要」とは一体、何なのか?
そもそも漆とは、ウルシの木の樹液を原料にした、乾くとつやのでる黒色の天然塗料ですが、なぜこれを木工製品や木製の工芸品などの表面に塗ったかといえば、そもそも腐らせないで長持ちさせるために塗ったということです。つまり木は放っておけば、どんどん腐食していきます。
それを防止するため、つまり防腐塗料として木の表面に塗った。
その強度はたいへんなもので、漆工芸の専門家の話しでは、硫酸をかけても、全くびくともしないというのです。しかも日本でも漆工芸の歴史は古く、奈良の法隆寺や正倉院に蔵している漆工芸品が最古のものだそうで、これらのものは漆を塗り替えたりせず、そのままの姿で残っている。
中国では漆工芸の歴史はもっと古く、三千年前からあるそうで、日光のうるし博物館には中国前漢時代につくられた漆工芸品が展示されています。そうすると日本でも奈良時代の漆工芸品がそのままの姿で残っているのに、なぜ日蓮正宗が鎌倉時代に造立されたとしている…私はもっと後世の偽造と見ていますが…「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、今までに何度も漆を塗り替える「必要」があるのか?
専門家が言う「硫酸をかけてもビクともしない」強度とは、たいへんなものです。ではその必要とは、本来の「腐食を防止する」目的ではない、と考えられる。
そうすると、日蓮正宗大石寺が行っている「化粧直し」の目的は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「見栄えを良くする」ためということになるのではないか。
そうであるならば、日蓮正宗大石寺は参詣信徒を、単なる『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊をダシにした“カネづる”としか見ていないのではないかというハナシになる。

あともうひとつの見方を言うと、仮に万が一?「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊から一部の楠木か漆を取り出して「科学鑑定」をする事態になった場合に備えて、証拠隠滅を謀っているのではないかとも考えられる。
いずれにせよ、日蓮正宗大石寺の欺瞞性を物語って余りあるものがあると言える。






■検証58・「コスト面から偽作は不可能」というなら「日蓮は『本門戒壇の大御本尊』を造立できなかった」

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(不埒な洗脳法華講員・国賊せまし(仮名)の妄説)
戒壇の大御本尊を後世に造るのは不可能である。
日有上人の時代は、室町時代でるが、この時代はまだ、照明と言うのは、電気ではないのは当たり前である。写し書きしたなら、照明を照らし文字をなぞるやり方が考えられるが?そんな技術はない。真似をして書いただろうと言う事も考えられるが、字の癖は一人一人あるから当時は、鉛筆なんてない。墨で書いていて、一つ一つ真似した事は、考えにくい。形木にして?これは一番コストがかかる。技術的にコストや、人間心理からも、模写は不可能ですね。戒壇の大御本尊が偽だと言うなら、まず、根拠となる証拠ですね。
(楽天ブログ・国賊せまし(仮名) 日記より)
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技術やコストの面についての反論は、よくよく頭をひねって、やっと考え出したんでしょうな。
また例によって不埒な洗脳法華講員は「証拠を出せ」を連呼しているが、しかし「アンチ日蓮正宗」では、技術やコストの点については、とっくに証拠を出して論証している。

結論から言うと、日蓮には「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立する経済力も技術力もなかった。
しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作する経済力・技術力を持っていた。
よしんば技術が不足していたとしても、これを偽作する技術を調達すべく充分な経済力を持っていた。だから日有には「本門戒壇の大御本尊」偽作が可能だったのである。

それからコスト面を言うなら、日蓮門下に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立する経済力がなかったことは、日蓮自身が執筆した遺文(御書)に明らかである。
「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(富木殿御書・御書全集p730・日蓮53才・文永11年5月17日)
「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・・(御書全集p1294)
「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)
「去年の十二月の三十日より、はらのけ(下痢)の候ひしが、春夏やむことなし。秋すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、少しく平癒つかまつりて候へども、ややもすれば起こり候に・・・」
「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・(御書全集p1295)
(兵衛志殿御返事・日蓮57才・弘安元年11月29日)
「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(日蓮58才・御書全集p1437・上野殿御返事・弘安2年12月27日)
身延山で極貧の生活を送っていた日蓮に、高価な漆加工・金箔加工を施した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立する経済力がなかったことは明らか。
「コストがかかるから偽作できない」というなら、日蓮が「本門戒壇の大御本尊」を造立できなかったことは認めますね。




■検証59・日蓮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立・漆・金箔加工する経済力はなかった1

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(不埒な洗脳法華講員・国賊せまし(仮名)の妄説)
宗祖の御書に書かれた供養のうち、銭(ぜに)に関しては、二十数人から「百六十数貫」にのぼっており、昭和51年当時で一千万円を超える莫大な金額となっている。(聖教新書32『御書に見る鎌倉時代・167頁』)
真書が滅した御書も相当数あるからおそらくこの倍近い金額が具わっていたと考えられる。当時のカネは日本で鋳造されたものではなく「宋銭」、つまり中国の貨幣が信用され、使用されていた。
昭和三十二年、大石寺の大講堂を新築するさい、木箱に詰められた古銭が二千枚ほど発掘された。明治初年まで「遠信坊」のあったところだが、この場所こそ、日興上人が大石ヶ原に建立した大坊(六壺)が建立された場所であったと推定されている。
古銭の種類としては、大聖人の時代に使用された「北宋銭」や足利時代に流通した「唐銭」が混入しており、大聖人・日興上人の御遺物に歴代の上人が広布の日に備えて蓄えられたものが、大事にされすぎて手つかずになったものと推察される。
分量の基準を云えば、日本酒の標準的な容器(一升瓶)が約1800ミリリットル。その10分の1が1合、10倍が一斗、さらに10斗を「一石」 である。つまり、よく御書にある米一石とは、一升瓶に米を入れて百本分という分量となる。米一石が銭一貫文で、現在に換算すると約10万円くらいである。 宗祖の信者はけっこうな量の御供養をしていたものです。
(楽天ブログ・国賊せまし(仮名) 日記より)
御書に見ると、多くの信徒から沢山供養されてました。その供養は、現在に換算すると一千万円以上になります。つまり資金は、豊富にあるわけです。金箔にしても、数グラムあれば可能です。
 技術的にも資金があるわけですから、不可能はありません。
(国賊せまし(仮名)mixi 日記より)
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「アンチ日蓮正宗」の「日蓮には『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊を造立すべく楠木を入手し、漆・金箔加工を施す経済力はなかった」という指摘に対しての、洗脳法華講員・国賊せまし(仮名)の反論がこれ。
日蓮は二十数人から「百六十数貫」の供養を受け、これは昭和51年当時で一千万円を超える莫大な金額になるだとか、米一石が銭一貫文で、現在に換算すると約10万円くらいになるだとか、何の根拠も算定基準も示さず、現代価値の金額をはじき出しているが、これが全くのデタラメ。
日蓮が9年間の身延山中での生活で、信者から受けた供養金の総計は、現代価値にして約100万円程度。9年間の1年平均にすると、たった11万1000円にしかならない。
「散逸した御書もあるから、この倍はあったはず」という法華講員の不埒な説を入れたとしても1年で、たった22万円にしかならない。

それから昭和三十二年、大石寺の大講堂を新築するさい、木箱に詰められた古銭が二千枚ほど発掘されたことを以て、これがあたかも日蓮や日興の時代の古銭であるかのように言っているが、日蓮とは何の関係もない。
だいたい大石寺は1290年の開創から700年以上経っているが、古銭というものは、何も日蓮在世の時代だけではなく、平安・鎌倉・室町・戦国・安土桃山・江戸時代にかけて広く使われていたものである。これが日蓮在世の、しかも身延山にいた日蓮のものとする証拠は何一つない。
全く関係ないものを、何が何でも自分たちの都合の良いように、こじつけようとする日蓮正宗の欺瞞的体質の最たるものと言えよう。
日蓮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立・漆・金箔加工する経済力はなかった。このことをさらに深く検証していく。




■検証60・日蓮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立・漆・金箔加工する経済力はなかった2

□日蓮が身延山9年間で信者から受けた供養は合計で121貫500文である

では日蓮が身延山にいた9年間で、信者からいくらの供養を受けたのかというと、それは日蓮正宗が発刊している「御書全集」から拾っていけばいいわけで、合計で121貫500文になる。

文永11年6月19日 阿仏尼御前 銭300文 p739
文永11年7月26日 南条後家尼 我目10貫文 p741
文永11年9月26日 四条金吾 銭2貫文 p743
文永11年 南条後家尼 銭1貫文 p751
文永12年 富木尼御前 我目1貫文 p796
建治1年7月22日 四条金吾 我目5貫文 p892
建治1年11月23日 富木常忍 我目1貫文 p914
建治2年3月27日 富木尼御前 我目1貫文 p955
建治2年閏3月5日 妙密上人 銭5貫文 p964
建治2年4月12日 四条金吾 銭1貫500文 p974
建治2年12月9日 松野殿 我目1貫文 p1045
建治2年12月13日 ? 我目5貫文 p1052
建治2年 西山殿 銭5貫文 p1072
建治3年4月 ? 銭1貫文 p1111
建治3年4月12日 乗明聖人 銭2貫文 p1116
建治3年6月18日 池上兄弟 銭5貫文 p1126
建治3年8月21日 池上兄弟 銭2貫文 p1166
建治3年8月23日 富木常忍 銭1貫文 p1169
建治3年9月9日 松野殿 銭1貫文 p1169
建治3年9月11日 四条金吾 銭1貫文 p1170
建治3年11月28日 曽谷入道 我目10貫文 p1186
建治3年 ? 我目1貫文 p1190
弘安1年4月23日 太田左衛門 我目10貫文 p1221
弘安1年6月25日 日女御前 銭7貫文 p1230
弘安1年10月 四条金吾 我目1貫文 p1286
弘安1閏10月19日 千日尼御前 我目1貫文 p1289
弘安1閏10月22日 四条金吾 銭3貫文 p1291
弘安1年11月29日 池上兄弟 銭6貫文 雪堅くなること金剛のごとし。いまに消ゆることなし。 p1294
弘安2年5月17日 富木常忍 我目1貫文 p1368
弘安2年8月8日 南条時光 我目1貫文 p1379
弘安2年8月23日 日女御前 我目5貫文 p1387
弘安2年9月15日 四条金吾 銭1貫文 p1390
弘安2年11月30日 中興入道 我目1貫文 p1430
弘安3年1月27日 太田入道 我目3貫文 p1454
弘安3年4月10日 富木常忍 我目1貫文 p1465
弘安3年7月2日 千日尼 我目1貫500文 p1474
弘安3年8月14日 内房女房 銭10貫文 p1489
弘安3年10月24日 南条母尼 我目2貫文 p1507
弘安3年11月29日 日厳尼 銭1貫文 p1519
弘安3年12月18日 智妙房 我目1貫文 p1526
弘安3年12月27日 南条時光 我目1貫文 p1528
弘安3年 王日殿 銭200文 p1545
弘安4年11月29日 富木常忍 我目1貫文 p1578
121貫500文



■検証61・日蓮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立・漆・金箔加工する経済力はなかった3

□日蓮が身延山で信者から受けた供養は1年で約20万円弱だった

このように日蓮正宗発刊の「御書全集」から゜拾っていくと、日蓮が身延山にいた9年間で信者から受けた供養金は合計で121貫500文になる。
これは「御書全集」に載っているだけの分だが、日蓮正宗の信者は、散逸した分があるだの何だのと160貫あると言い続けるだろう。そこで、仮に日蓮が身延山にいた9年間で信者から受けた供養金の合計を160貫と仮定することにする。
それではこの160貫が現代価値にしていくらになるかと言うことだが、鎌倉時代と現代の共通するもので比較しなくてはならないが、最も一般的な共通品目と言えば、それは「米」である。よって、米を基準に算定することにする。
日本における米の単位とは、昔から1石と決まっている。
1石とは、1年間に一人が消費する米の量 のことで、単位別に見ると、10合が1升(しょう)、10升が1斗(と)、10斗が1石(こく)で、すなわち1石は2.5俵に相当する。
1石=1,000合 (1年に一人が消費する米の量)で、1合は約150グラムであるので、1年では150キログラムとなる。1俵とは60キログラムのことであり、約4斗に相当する。
ではその米価であるが、日本銀行金融研究所貨幣博物館の説によれば、米価は凶作の時は激しく変動することがあったが、江戸時代を通じて1石=1両(小判一枚)で安定していた。
足尾銅山博物館の説によれば、平安時代の米価は米1石=3000文であったという。
その1両とは、日本銀行金融研究所貨幣博物館の説によれば、江戸時代の1600〜1800年ころまでは1両=4000文=4貫文。これが幕府の財政悪化により寛政の改革、天保の改革を経た1842年には1両=6500文、江戸幕府が崩壊した1869年には1両=10000文にまでなったという。
すると鎌倉時代の米価はいくらぐらいだったのかということになる。平安時代の米価は米1石=3000文。江戸時代は1石=1両(小判一枚) =4000文=4貫文だから、鎌倉時代の米価を、中間の米1石=3500文と仮定してみる。この計算によると、日蓮が受けた供養金の合計160貫文は、45.7石分に相当することになる。

国賊せまし(仮名)は、「日本酒の標準的な容器(一升瓶)が約1800ミリリットル。その10分の1が1合、10倍が一斗、さらに10斗を「一石」 である。つまり、よく御書にある米一石とは、一升瓶に米を入れて百本分という分量となる。米一石が銭一貫文で、現在に換算すると約10万円くらいである。」
などと書いているが、この分量の基準値からして、大きく間違えたことを書いている。

さて現代の米価だが、卸売り米価は1俵=15169円を中心に値動きしている。ライフストアでは白米10キロがだいたい2780円くらいである。なぜ卸売り米価かというと、小売りは白米で販売しているが、卸売りは、今でも玄米60キロ=1俵で取引しているからである。
ちなみに日本人が白米を食べるようになったのは江戸時代以降のことであり、それ以前は玄米で食べていた。そうすると日蓮が受けた供養金の合計160貫文を現代価値に計算し直すと
卸売り米価・1俵=15169円×2.5俵(1石)×45.7石=173万3000円
ということになる。
これは日蓮が身延山にいた9年間の合計であり、1年ではたった19万2500円にしかならない。
1ヶ月にするとたったの1万6000円である。
法華講員が言う「他にも散逸した御書があるから、この倍はあるはず」という説を入れたとしても1年で38万5000円。1ヶ月でたった3万2000円にしかならないのである。





■検証62・日蓮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立・漆・金箔加工する経済力はなかった4

□身延山中で食うや食わずの極貧生活をしていた日蓮に漆・金箔加工をする経済力は絶無だった

日蓮が身延山にいた9年間で信者から受けた供養金の1年平均ではたった19万2500円では、身延山での日蓮の生活は、ほとんど食うや食わずの生活だったことが明らかである。
と言うか、日蓮自身が、身延山中での食うや食わずの極貧生活をいくつもの遺文(御書)に書き綴っているのである。

「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(『富木殿御書』・御書全集p730・日蓮53才・文永11年5月17日)
---「飢餓状態はひどいものだ。米一合も売ってもらえない。餓死するかもしれない。ここにいる僧たちも養うことができないので、皆、里へ帰した。今はただ一人この山にいる」---
日蓮54才の時の「乙御前御消息」(御書全集p898〜899・建治元年8月4日)では
「日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ」
---「それぞれの僧にはかわいそうだとは思うが、(貧困の極致にいる今は)助けることもできない」
日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年11月29日)では
「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・(御書全集p1294)
---「薄い着物しかなく、食べるものも乏しい。信者からの差し入れもないような状態だ」---
「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)
「去年の十二月の三十日より、はらのけ(下痢)の候ひしが、春夏やむことなし。秋すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、少しく平癒つかまつりて候へども、ややもすれば起こり候に・・・」
「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・ (御書全集p1295)
これは窮状という甘いものではなく、凄惨な困窮生活が書きとどめられている。
さらに日蓮が「本門戒壇の大御本尊」を造ったと日蓮正宗が言っている日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安2年12月27日)の中で次のように述べている。
「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(御書全集p1437)

つまり身延山中での食うや食わずの極貧生活を送っていることを日蓮自身が認めているのである。こういう極限の極貧生活をしていた日蓮には、漆加工や金箔加工を行う経済力は絶無である。
ガラクタ(仮名)なる洗脳法華講員は
「金箔というのは、約一グラム程度の金を打ち伸ばして90センチメートルくらいにまで伸ばしていわばアルミホイルを作るようなもので、日本酒などに入っている金箔は厚さがミクロン単位の微少なもので、つまり、御本尊のコストとしては一グラム程度の金があれば、あとは漆の生乾き状態のときに、文字のぶんだけ金箔を貼り付ければよく、案外にコストはかからないのである」
などという奇妙な言い訳をしているが、そのわずかの金箔、漆すらも日蓮は入手できなかったことは明らかである。
それでも尚、日蓮正宗は、日蓮に漆・金箔加工をする経済力があったとでも言い張るのか。ならば日蓮は信者に遺文(御書)にウソを書いていたということになる。日蓮正宗が本仏と言っている日蓮がウソを言っているという矛盾を、日蓮正宗はどう説明するのか。
否、説明できるわけがない。身延山中で食うや食わずの極貧生活を送っていた日蓮に漆・金箔加工をする経済力は絶無だった。よって日蓮が漆・金箔加工をしたとしなければ説明がつかない「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、後世の偽作なのである。







■検証63・彫刻・漆加工・金箔加工が日蓮存命中に完成していたどしている日蓮正宗の正式見解2

□日蓮正宗の正式見解と矛盾している漆・金箔加工の慧妙や法華講員たちの言い訳

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(日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』の妄説)
「弘安二年十月十二日」というのは、当然のことながら御聖筆をもっての大御本尊御図顕の日であって、彫刻や塗箔のなされた日ではないからである。この点を指摘しておけば、十分に事足りるであろう。
(平成19年10月16日付け日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』p4)
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(洗脳法華講員・ブルーフィルム(仮名)の妄説)
大聖人の時代に経済的に金箔加工が不可能だとして、それがどうしたというんでしょうね?
最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工されたということだって十分ありえるじゃないですか。現代でも、御本尊様をしたためてから、それを金箔加工するまでに、かなりのタイムラグがあることは珍しくありません。
大聖人の経済力の無さは、大御本尊様偽作の証拠にはなりません。
(洗脳法華講員・ブルーフィルム(仮名)の2011年1月22日のmixi日記)
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日蓮自らが経済力がないことを遺文(御書)で認めているにも関わらず、あくまでも「日蓮には経済力があった」などと強弁しようとするのが洗脳法華講員・国賊せまし(仮名)やガラクタ(仮名)なる者の妄説であるのに対して、上記の日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』や洗脳法華講員・ブルーフィルム(仮名)の妄説は、日蓮には経済力がなかったことを認めた上で、図顕の日と彫刻や塗箔の日は別の日だとか、図顕したのは日蓮だが、金箔加工は後の時代になされたというものである。
一見してもっともらしく見える『慧妙』やブルーフィルム(仮名)の妄説は、大石寺歴代法主の説法や日蓮正宗宗務院の見解と、真っ向から食い違っているものである。

「大聖、戒壇院の本尊を書し、日法之を彫刻す。今の板本尊是れなり」
(堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻P244収録/日蓮正宗大石寺17世法主日精の著書『家中抄』
「蓮祖満悦し、本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫刻せしむ」
(堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻P320収録/日蓮正宗大石寺48世法主日量の著書『富士大石寺明細誌』
「弘安二年(1279)十月十二日に出世の本懐として『本門戒壇の大御本尊』を顕されたのです。この御本尊は末法万年の流布を慮られて、楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(「日蓮正宗入門」p112)
このように、日蓮正宗の正式見解として、日蓮は紙幅の本尊ではなく、楠の板に直接、本尊を図顕し、弟子の日法に彫刻を命じたものであると言っている。

日蓮正宗宗務院教学部発行の「戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す」では
「もとより戒壇の大御本尊は大聖人の出世の本懐であり、将来的に本門の戒壇に御安置し、末法万年に伝持されるべき御本尊であることを拝せば、塗漆や金箔による装飾がなされることは、むしろ当然と言うべきである」(「戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す」p104)
と書かれていて、はっきりとは明示していないものの、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「塗漆や金箔による装飾」は、日蓮の生きていた時代になされていたことを示唆している。

17世法主日精や48世法主日量の文、あるいは「日蓮正宗入門」の日蓮正宗の公式見解に書かれた「日蓮が弟子の日法に板本尊の彫刻を命じた」とすれば、その彫刻は、遅くとも日蓮が生きていた時代には、完成させていたと結論づけるべきである。当時の時代における、師弟関係の常識からすれば、当然のことだろう。日蓮が彫刻を命じたのに、日法が彫刻を日蓮の存命中に完成していなかったなど、有りえない。
したがって、「慧妙」やブルーフィルム(仮名)は、ゴマカシに躍起になろうとしているが、日蓮正宗大石寺法主や宗務院の見解は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「彫刻」「漆加工」「金箔加工」は、日蓮が生きていた時代に完成していたという見解を示しているとしか、考えられないだろう。




■検証64・彫刻・漆加工・金箔加工が日蓮存命中に完成していたどしている日蓮正宗の正式見解3

□日蓮真筆本尊の本体を日蓮に無断で加工した板本尊は一つも存在しない

「最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工されたということだって十分ありえるじゃないですか。現代でも、御本尊様をしたためてから、それを金箔加工するまでに、かなりのタイムラグがあることは珍しくありません」などという洗脳法華講員・ブルーフィルム(仮名)の妄説は、よくよく検証していくと、まるで矛盾に満ちた妄説である。

まず第一に、日蓮正宗はおろか、日蓮宗や富士門流など、日蓮を宗祖とする宗旨の寺院で、日蓮真筆本尊の本体を板に彫刻・加工したり、板に彫刻・加工したものを漆加工・金箔加工したなどという板本尊は全く存在していない。そんな本尊は一体もないのである。
「慧妙」やブルーフィルム(仮名)が言うように「最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」ということなら、これは日蓮が墨で認めた紙幅の本尊を後代の法主が板に加工、ないしは日蓮が板に墨で認めた本尊を後代の法主が漆加工・金箔加工したことになる。
日蓮真筆の本体の本尊を模写してそれを板に彫刻した板本尊とはわけが違う。
ならば日蓮は自らが認めた本尊を後代に加工して漆・金箔加工せよと命じたのか。日蓮は自らが認めた本尊を後代に加工して漆・金箔加工することを認めたのか。
そんなことを日蓮が書きとどめた遺文(御書)は、どこにもない。そんな遺文(御書)はひとつも存在しないのである。

第二に、後代の大石寺の法主が日蓮に無断で日蓮が墨で認めた本尊の本体を後代に漆・金箔加工したことになる。これは日蓮正宗が言うところの「大謗法」の行為ではないか。
日蓮正宗は、昭和五十二年路線の創価学会が、当時の日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の許可もなく、八体の紙幅の本尊を勝手に板本尊に模刻したとして「これは宗門七百年の歴史で未曾有の大謗法」と言って創価学会を口を極めて非難していた。
又、1980(昭和55)年ころの正信会問題の頃、正信会寺院の住職が大石寺法主に無断で寺院本堂に祀られている板本尊の金文字を「漆で消したのは大謗法」等々と非難していた。
それならば、後代の大石寺の法主が日蓮に無断で日蓮が墨で認めた本尊の本体を後代に漆・金箔加工したことは、「大謗法」ということになる。日蓮正宗は、かつて創価学会や正信会を「大謗法」と非難した行為を、自分たちが行っていたことになる。

こう言うと日蓮正宗は「大聖人の許可などいらない。御法主猊下の許可が有ればいいのだ」と抗弁するだろうが、これは当たらない。
これは「僧侶社会の常識」で考えればすぐにわかることだ。
日蓮正宗の宗祖である日蓮は、後代の大石寺法主よりも「上位」にある。ましてや日蓮正宗は日蓮を「仏宝」、日興を「僧宝」などと言っているわけだから、日蓮は、後代の大石寺法主よりも「上位」にあることについて異論はあるまい。
ならば、日蓮が墨で認めた本尊の本体を後代に漆・金箔加工するには、日蓮の許可が要るのであって、「後代の法主が許可した」といくら言い張っても、それは許可したことにならない。
これが僧侶社会の上下関係であり、僧侶社会の常識である。
日蓮が墨で認めた紙幅の本尊を後代の法主が模写彫刻して板本尊にするのは、後代の者が行っても良いが、日蓮が墨で認めた本尊の本体を、日蓮に無断で後代に漆・金箔加工するのは許されないのである。だから日蓮を宗祖とする宗旨の寺院で、日蓮真筆本尊の本体を板に彫刻・加工したり、板に彫刻・加工したものを漆加工・金箔加工したなどという板本尊は全く存在しないのである。
したがって、「慧妙」やブルーフィルム(仮名)が言うように「最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説は、完全に破綻しているのである。



■検証65・彫刻・漆加工・金箔加工が日蓮存命中に完成していたどしている日蓮正宗の正式見解4

□大石寺法主が否定している「紙墨の戒壇本尊・後代彫刻・漆金箔加工説」

日蓮正宗謀略機関紙「慧妙」や洗脳法華講員・ブルーフィルム(仮名)が「最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説は、「日蓮が紙墨に認めた紙幅の本尊を9代日有が彫刻した」と言った大石寺34代学頭・久遠院日騰の妄説と同じである。
日蓮正宗大石寺52世法主鈴木日霑が35代大石寺学頭だったので、久遠院日騰は鈴木日霑よりも一つ前の学頭ということになる。学頭とは大石寺次期法主に内定した人物のことで、久遠院日騰は大石寺51世日英から学頭に任命されたが、法主には登座せず、鈴木日霑が35代大石寺学頭になり、そのまま大石寺52世法主に登座している。
その後、久遠院日騰は1854(安政1)年11月の安政の大地震でのケガが元で、翌1855(安政2)年10月に48才の若さで死去している。
明治初期に北山本門寺34代貫首・玉野日志氏と日蓮正宗大石寺52世法主鈴木日霑との間の「霑志問答」で、玉野日志が鈴木日霑に、久遠院日騰の説についてこのように書いている。

「其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠―今尚存生―に語って云く、大石寺に戒壇の本尊有り、惜しいかな九代日有師之を彫刻して其の本紙を失すと」
(『両山問答・本門寺問の部』日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』7巻p44)

これに対して大石寺の鈴木日霑は、次のように答えている。

「其の彫刻は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語って云くとは死人に口なし、能き証人なり。彼の便妙なる者、吾が信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず。是れ必ず死して其の人の亡きを幸いとし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か。若し万が一彼の人にして此の語あらば、彼の人の殃死は必ず此の妄言を出せし現報なるべし」
(『両山問答・大石寺答の部』日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』7巻p101)

鈴木日霑は、もし万が一にも久遠院日騰が本当に国学の友大堀有忠に「大石寺に戒壇の本尊があるが、これは大石寺九代日有が彫刻した本尊で、日有は日蓮が紙墨に認めた戒壇本尊を失してしまった」と語ったならば、久遠院日騰が安政の大地震でのケガが元で死去したのは、この妄言を言った仏罰の報いなのだ、と言っているわけである。
つまり鈴木日霑は、久遠院日騰が言ったとされる「日蓮が紙墨に認めた戒壇本尊を大石寺九代日有が彫刻した」という説を言下に否定しているのである。

又、日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕はかつて
「まず、『直筆である紙幅の本門戒壇の御本尊は、現在宝蔵に保管されています』と言っていますが、大石寺の御宝蔵にはもちろんのこと、この世のいずこを探しても、彼等の言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません。このような“前代未聞”の珍説がどこから生まれたか判りませんが、これも創価学会お得意の、ないものをあったが如く偽る、悪しき体質の一例です。」
(『創価学会の偽造本尊義を破す』に載っている阿部日顕の説法)
と説法して、「最初に戒壇の本尊を紙墨にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説を否定している。
「慧妙」や洗脳法華講員・ブルーフィルム(仮名)が唱える「最初に戒壇の本尊をしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説は、大石寺法主の鈴木日霑や阿部日顕によって完全に否定されているという自己矛盾に陥っているのである。
ここに彼等の妄説の破綻は明らかであろう。






■検証66・「本門戒壇の大御本尊」なる巨大な板本尊は身延の草庵に安置できない1

大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、正面から見ると人間の身長ほどもある、巨大な板本尊のようである。御開扉のとき、「本門戒壇の大御本尊」が祀られている厨子の扉を開ける僧侶の身長と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の丈はほぼ等しく見える。 毎年4月には大石寺で「霊宝御虫払い大法会」が執行され、法主自らこの「本門戒壇の大御本尊」の煤払いをするが、その写真を見ても、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の丈は法主の身長とほぼ等しい。
日蓮正宗総本山大石寺48世法主日量の著書『富士大石寺明細誌』には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の丈・幅・奥行きについて具体的な数字が書いてあるが、ここでは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は人間の身長とほぼ等しいほど、巨大な板本尊だ、とだけ書いておく。

□本当にあの巨大な「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を身延の草庵に安置できたのか?

日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」が造立されたと主張する弘安二年(1279)十月当時、身延山中で暮らす日蓮の住まいは「草庵」であった。身延山中に十間四面の堂宇(身延山久遠寺)が完成したのは、弘安四年(1281)十一月のことだ。
身延山久遠寺の境内地内には、現在、日蓮の草庵跡が残っているが、決して広い敷地ではない。草庵のたたずまいも、日蓮一門の当時の極貧状態の生活から推するに、かなり質素なものだったであろう。そうすると、その質素な草庵のどこに「本門戒壇の大御本尊」を安置できたのだろうか?
あれだけ巨大な板本尊なら重量だけでも相当なものになる。 日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の昭和52年(1977)5月26日の大石寺大講堂・寺族同心会における説法によれば、
「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれど、まわりは丸木です。まん丸い木です。その丸い木を、前を削って板にしたにすぎません・・・」(昭和52年5月26日の大石寺大講堂・寺族同心会の指南)
と言っており、「本門戒壇の大御本尊」は楠木でできていて、半丸太状の板だという。

 ではこの半丸木本尊とも言うべき「本門戒壇の大御本尊」の重量を試算してみよう。寸法は日蓮正宗大石寺四十八世日量法主が書した『富士大石寺明細誌』に縦・横の寸法が書いてある。
それによると「本門戒壇の大御本尊」の縦は約143センチ、横は約65センチである。
元日蓮正宗信徒(法華講員)の文筆家・美濃周人氏は、自らの著書「虚構の大教団」等の中で、楠木の平均重量を1立法メートル当り1.2トン(森林組合調べ)半径を約32.5センチで計算し推計している。その計算式は

32.5×32.5×3.14÷2×143÷1000000×1200

となる。この計算式で算出すると、「本門戒壇の大御本尊」の重量は推定280キログラム。
これだけのものは、巨漢の横綱力士やプロレスラーでも一人では運べない。実際に1972(昭和47)年10月や1998(平成10)年4月に行われた「本門戒壇の大御本尊」遷座の写真を見ると、十人前後の僧侶が本門戒壇の大御本尊を蓮台に乗せて担いでいる様子が見て取れる。そうしないと運べないだろう。他の人の推計でも、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の重量は少なく見積もっても百キロ以上、二百キロ前後ぐらいとする計算もある。

「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の遷座の時の写真を見てもわかるとおり、十人前後の僧侶が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を台座にのせて、かついで運んでいる。これだけの重量物は、大勢でかつがないと無理だろう。 そうしないと運べない、これだけの重量の巨大な板本尊を質素なつくりの草庵に安置しようとすれば、この重量だけで底がぬけてしまう危険にさらされる。まるで矛盾したハナシであり、有り得ないことだ。
総重量100キロ〜200キロというと、大相撲の関取やプロレスラーなみだ。ましてや美濃周人氏の計算のように280キロということになれば、元関取の小錦・曙・武蔵丸に等しい。現代の建築物でも、これらの人の重量で建物が痛んだり、底がぬけたという話しをたまに聞くくらいである。
したがって、身延山中の狭い草庵に、こんなに巨大で重量のある「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊など安置できなかったはずだ。




■検証67・「本門戒壇の大御本尊」なる巨大な板本尊は身延の草庵に安置できない2

□質素だった身延山の日蓮の草庵に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は安置できない

日蓮が身延山中に自ら結んだ草庵は、驚くほど質素な造りだった。そのことは、日蓮自身が遺文(御書)の中で述べている。
1277(建治3)年冬、日蓮が56歳のときに書いた「庵室修復書」には
「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、木を打ち切りて、かりそめに庵室をつくりて候ひしが…」(平成新編御書全集p1189・堀日亨編纂・御書全集p1542)
と書いている。
この草庵は、日蓮自身が「かりそめの庵室」と言っている。「かりそめ」(仮初)とは、「ほんの、その時だけの。一時的な」という意味だ。しかもその草庵は、
「夜、火を灯さねども、月の光にて聖教を読みまいらせ」(庵室修復書・平成新編御書全集p1189)
と日蓮が記しているように、草庵の屋根は天井がないほどの草葺であった。
さらに日蓮59歳の1280(弘安3)年1月27日に書いた遺文(御書)である「秋元御書」には、
「ここに庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし…」(平成新編御書全集p1453・堀日亨編纂・御書全集p1078)
と記している。日蓮の草庵は身延山に生育している樹木の皮で四方の壁を造ったというくらい、質素なものだった。
草庵の広さについては、日蓮が「庵室修復書」の中で「十二のはしら(柱)」と書いていることから、三間四方であったということは想像できるが、鎌倉時代の一間は、現在の一間と違っているということで、はっきりとした広さは特定できない。
こうしてできあがった草庵に、日蓮は1274(文永11)年6月17日より、十間四面の大坊が完成した1281(弘安4)年11月24日までの足掛け八年間、住んだ。
しかし簡単な造りであったために、数年もたたないうちに傷みが目立ちはじめ、そして草庵完成より四年後の1277(建治3)年冬にはついに、
「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は、一所に倒れぬ」(『庵室修復書』平成新編御書全集p1189・堀日亨編纂・御書全集p1542)
と、日蓮が嘆くほどのありさまとなり、修復せざるをえないような状況となった。
しかし草庵の修復とはいっても、当時、日蓮といっしょに身延山の草庵に住んでいたと思われる数人の弟子の僧侶による急ごしらえのもので、完成したとは言っても、日蓮が満足できるものではなかった。日蓮は、修復後の草庵について1278(弘安1)年11月29日に武州池上の池上兄弟にあてた「兵衛志殿御返事」(日蓮57歳)の中で
「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし」((平成新編御書全集p1295・堀日亨編纂・御書全集p1098)
と、「坊はまだ半分しかできておらず、風や雪を防ぎきれず、草庵の中には床に敷いてある敷物もなにもない」と言っている。
また日蓮は、1280(弘安3)年12月16日に、四条金吾に宛てた手紙「四条金吾許御文」では
「処は山中の風はげしく、庵室は籠の目の如し」(平成新編御書全集p1523・堀日亨編纂・御書全集p1195)
と、草庵の壁は籠の目のように隙間だらけだと言っている。

これだけ日蓮の草庵の造りは質素なものだったようなのである。こういう質素な草庵には、丈が人間の身長とほぼ同じくらいあり、総重量が200キロ前後もあるほど巨大で、黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な「本門戒壇の大御本尊」の丈と重量に耐えられるほどの丈夫な建築ではなかったことが明らかではないか。こんな質素な草庵に総重量が200キロ前後もある板本尊を祀れば、たちまちのうちに底が抜け、草庵そのものが壊滅してしまうだろう。
したがって、広さ的にも、高さ的にも、重量的にも、日蓮の草庵に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀ることができなかったことは明白ではないか。







■検証68・「本門戒壇の大御本尊」なる巨大な板本尊は身延の草庵に安置できない3

□「本門戒壇の大御本尊」は身延山時代は秘蔵されていなかったと認めている?細井日達法主の説法

日蓮正宗では「本門戒壇の大御本尊」は「広宣流布の暁まで蔵の中に秘蔵する御本尊で、篤信の信徒の願いがあれば特別に内拝を許している」と言っているが、では弘安二年(1279)十月当時、身延山のどこに、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を秘蔵していたのか?

「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊秘蔵する蔵など、身延山中にはなかった。蔵が身延山中にあったなどという記録は全くない。
では草庵の中に秘蔵?していたということになるが、あの狭い草庵の中に、巨大な「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を秘蔵するなど、どう考えても不可能である。

ところが、である。弘安四年(1281)十一月、身延山中に十間四面の堂宇、つまり身延山久遠寺が完成した後のことになると、日蓮正宗大石寺第66世細井日達法主の説法によると次のようになる。

「戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)
「身延の日興上人御在住の時の十間四面の堂には、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』即ち戒壇の大御本尊を安置してあったことは明らかであります。その大御本尊を日興上人が大石寺の本堂に安置され、大聖人生身の御影は御影堂に安置せられましたが、その後、本山の陵夷により本堂御影堂が一堂となり、戒壇の大御本尊は御影とともに安置されてあったようであります。しかしその後、御宝蔵が大きく造立せられてから、大御本尊は御宝蔵にお移し申し、御影堂には日精上人の板本尊が安置せられたと思われます」(昭和47年1月号『大白蓮華』に寄せた指南)

日蓮正宗大石寺第66世細井日達法主の説法によれば、弘安4年(1281)11月の十間四面の堂宇ができて以降は、本堂に安置されていて、参拝の信者はだれでも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を拝めたのだというのである。なんと秘蔵されていなかった、ということを公式に認めているのだ。

こうでも言わなければ、日蓮正宗としても「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「日蓮造立説」を維持できないということだろう。しかし細井日達法主も、十間四面の堂宇が身延山中に完成する以前の、質素な草庵だった時に、どうやって「本門戒壇の大御本尊」を安置していたのか?という疑問に対しては、全く答えていない。




■検証69・「本門戒壇の大御本尊」なる巨大な板本尊は身延の草庵に安置できない4

□自らの過去の説法と矛盾している日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の自語相違説法

またこの日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の説だと、別の矛盾が出て来る。
かつて細井日達法主は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊についてかく説法していた。

「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立ということになるのでございます。それまでは戒壇の御本尊をおしまい申しかたく護る。先師方が客殿の後ろの奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すということを仰せられております。わが本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後ろに奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までは、しまっておくということになる。・・・・戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。誰がみても今の奉安殿は外から見ても立派である。しかし戒壇の御本尊様のまわりをご覧なさい。石である。石で囲ってあるきりで、蔵ではないか。そこに何を供えてあるか。・・・シキミの花を供えるのが本意であります。奉安殿の中にシキミがありますか。ないじゃあないですか・・・そのシキミは客殿にあります。客殿にみなさまが(丑寅)勤行において二回目に唱える奉安殿に向かって遥拝する、あそこにシキミがある。だからこれを以て推していくと、戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にしまってある。蔵してあって拝むのは、外から遥拝する。ただ特別に内拝のために(戒壇の御本尊の)そばまで行って拝めるというのである。だから今度はその戒壇の御本尊のお出ましを願って、はじめてそこに本門寺の戒壇建立ということが出来上がるのでございます。お出ましは先程から申すところの、いわゆる広宣流布の暁である」(日蓮正宗機関誌『大日蓮』163号)

 つまり細井日達法主は、広宣流布の暁までは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を客殿の後ろの奥深くの蔵の中にしまっておくのが日蓮正宗大石寺の化儀だと言っているのだが、それならば、身延山時代は蔵の中にしまっていなくて本堂に安置されていたというのは、明らかな矛盾ではないか。

そうならば、客殿の後ろの蔵に板本尊をしまっておくというのは、日蓮の化儀ではないということになる。広宣流布の暁までは蔵の中に板本尊をしまっておくはずなのに、宗祖日蓮自らこれを破っていたということになるではないか。

 また、片一方で、広宣流布の暁まで「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を客殿の後ろの蔵にしまっておく、これが先師方の心だ、と言っておきながら、もう片一方では、本山の陵夷によって「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は御影とともに安置されていたが、その後、御宝蔵が大きく造立してから「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊をそっちに移した、などと言っているのである。
細井日達法主の説法はまったく矛盾だらけである。 こんな妄説は、最初から破綻していることが明らかである。





■検証70・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である1

日蓮正宗大石寺では、奉安堂の須弥壇に、「最初仏」と称する高さ9.1センチの楠木で造った日蓮の小さな木像(御影像)を、「本門戒壇の大御本尊」と称する板本尊とともに祀っている。
日蓮正宗の公式文献に依れば、日蓮正宗では、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と「最初仏」と称する日蓮木像(御影像)は、日興の弟子で法華宗本門流本山・光長寺(静岡県沼津市岡宮)の開祖である日法(和泉阿闍梨日法・和泉公日法・彫刻阿闍梨日法・1258〜1341)が彫刻したと自称している。日法とは日蓮から見ると孫弟子にあたり、静岡県沼津市岡宮・光長寺の開祖である。
日蓮正宗の公式文献を紐解いていくと、次のようなことが書かれている。

「或る時日法御影を造り奉らんと欲す。七面大明神に祈念し給ふ、感応の至りか浮木出来せり、此の木を以て戒壇院の本尊を造立し、次に大聖の御影を造ること己上三躰なり。其の一躰は纔に三寸なり、上行所伝抄の意なり。大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す。今の板本尊是れなり。又、師細工に長ずる故に大聖の御影一体三寸に造立して是れを袖裏に入れ御前に出て言上して云く、願くは末代の聖人未聞未見の者の為に御影を写し奉らんと欲す、免許に於ては不日に造立すべしと、聖人此の像を取り掌上に置き之れを視なはし、笑みを含みて許諾す。日法、仏師鳥養助二郎、太郎太夫と云ふ者と共に日法之を彫刻し等身の影像即成す。但し背脊甚だ痛しとの給ふ故に御影の後皆釿名なり。此の因縁に因て生御影とも正御影とも号し奉ると申すなり。板本尊、生御影並に三寸御影、今富士に在るなり」
(日蓮正宗大石寺17世法主日精の著書『家中抄』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集5巻』p244)

「蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫刻せしむ。日法材端を以て蓮祖の小影を作る。作り初の御影とも最初仏とも号す。右二種大石寺宝庫に安ず。蓮祖又日法に命じて等身の像を模刻せしむ。生御影と号し重須の寺に安ず。此の三種を師に付与せらる」
(日蓮正宗大石寺48世法主日量の著書『富士大石寺明細誌』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集5巻』p320)
「一、 日蓮聖人御影 居長三寸 一体
作初の御影と号す。又最初仏と称す。弘安二年、日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此の像を造り蓮祖の尊覧に備ふ」
(日蓮正宗大石寺48世法主日量の著書『富士大石寺明細誌』/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集5巻』p334)

□和泉公日法は静岡県や神奈川県から楠木をかき集めて日蓮に供養していない

このように法主自らが書いた著書に、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と「最初仏」なる日蓮木像は、日法が彫刻したと書いてある。
最近では洗脳法華講員が、「日法が静岡県や神奈川県から楠木をかき集めてきて日蓮大聖人にご供養している」などという、全く根も葉もない、証拠もない妄説を平気で言う者まで現れてきている始末である。
日法は大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊も「最初仏」なる日蓮木像も全く彫刻していない。又、静岡県や神奈川県から楠木をかき集めて来て日蓮に供養してもいない。
そのような証拠は全く存在していない。日法が静岡県や神奈川県から楠木をかき集めて来たなどというのは、全く根も葉もない法華講員のでっち上げにすぎない。
日蓮の孫弟子である和泉公日法と日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊・「最初仏」・楠木は全くの無関係なのである。






■検証71・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である2

□岡宮・光長寺に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊彫刻の木屑は存在しない

明治時代、日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑と北山本門寺34代住職・玉野日志が弁舌をたたかわせた「霑志問答」で、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作を玉野日志からさんざんに追及された日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑が、こんなことを北山本門寺への公式回答として言っている。

「旧く伝聞す、岡の宮、光長寺に戒壇の本尊の刻屑を蔵し、彼の徒常に誇り言ふ、“宗祖曰く、日蓮が魂を墨に染め流すと。大石寺に戒壇の本尊を蔵すといえども、法魂は我にあり、彼は蝉蛻のみ”と。此の言、伝説にして未だ其の実を正さざれば微するに足らざれども取る所有るが如し」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』第7巻問答部「両山問答」p102)
――――古くから伝聞するところによれば、静岡県沼津市岡宮の光長寺には、「本門戒壇の大御本尊」を、光長寺の開祖・日法が彫刻した時の木屑を格蔵していて、光長寺の僧俗は常に誇らしげに言うには『宗祖日蓮は遺文(御書)の中に“日蓮が魂を墨に染め流す”と言っておられるが、それから言うと、大石寺は「本門戒壇の大御本尊」を格蔵しているが、板本尊の墨で書いた文字を削り取ったので、宗祖日蓮の法魂は木屑のある岡宮・光長寺にあることになる。大石寺にあるのは、蝉(せみ)の蛻(ぬけがら)だけみたいなものだ』。これは伝説で、真偽を確認していないので、取るに足らない話しかもしれないが、いくらか見るところのある話しなのではないか。---------

鈴木日霑はここではまだ「此の言、伝説にして未だ其の実を正さざれば」と言って、「これは伝説であり、真偽を確かめていない」と遠慮がちに回答しているが、代が下って日蓮正宗大石寺66世法主・細井日達になると、これが以下のように断定的な証拠となってしまっているのだから驚きだ。

「日法上人の系流(法華宗・光長寺)においては、昔から、大石寺の板御本尊は日法上人が彫刻をしてその墨を彫り取った、大聖人の御魂はその墨にあるから、すでに御本尊には魂はない、と悪口をいっているというが、その魂の有無は別問題として、日法上人の彫刻は認めているところである」(細井日達の著書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』より)

日蓮正宗としては、彼らが「邪宗」「邪教」呼ばわりしている法華宗の本山・光長寺までも持ち出して、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が日蓮真筆・日法彫刻であるということを言いたいようである。
しかしこういう日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑や66世法主・細井日達の言っていることが真実なのかどうか、岡宮・光長寺に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を開祖・日法が彫刻した木屑が本当に存在しているのかどうかは、静岡県沼津市岡宮にある法華宗の本山寺院である光長寺に確認してみれば、すぐに判明することだ。
こちらで取材・調査したところ、法華宗の本山寺院・光長寺は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の彫刻の木屑の存在を全面的に否定している。
「そういうものは、ない。存在していない」という回答である。又、日法は「大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は彫刻していない」とのこと。
したがって、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は日法が彫刻したという事実は存在していない。
日蓮正宗の「本門戒壇の大御本尊」日法彫刻説は、全くのウソ。
したがって、日蓮正宗法主であった鈴木日霑や細井日達の言っていることは、全くのウソであり、全くのデタラメな話しということだ。






■検証72・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である3

□1279(弘安2)年10月当時、和泉公日法はまだ所化僧だった1

和泉公日法と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊・「最初仏」・楠木は全くの無関係であることを徹底的に検証していく上において、その第一歩は、和泉公日法という人物が、一体いかなる人物であるかという検証からはじまる。
それでは和泉公日法という人物の、簡単な来歴を箇条書きに書き出してみることにする。

□和泉公日法(1258〜1341)

○1258(正嘉2)年  下野国(栃木県)小山に生まれる
○1275(建治1)年  日法が日興を介して日蓮の室に18才で入門する。この1275(建治1)年に日蓮門下に入門した者には、熱原法難で活躍した日秀、日弁、日禅らがおり、日法はこれらの僧たちと同期ということになる。
○1276(建治2)年  今の静岡県沼津市岡宮の光長寺を開創したと言われている。しかし入門1年目の所化僧が寺を開創したとは考えられず、後年の創作と思われる。
尚、この年に伊豆の走湯山円蔵坊で長年修学していた日目が日興により日蓮の元で正式に得度している。このとき日目は17才。
○1279(弘安2)年7月、日法は日蓮から「沙門日法」と脇書が入った本尊を授与される。日法22才。日蓮門下に入門して5年目のことである。
又、この年の2月、日蓮は日目に「釈子日目」と脇書が入った本尊を授与している。日目20才。日蓮の元で得度してから3年目だが、伊豆の走湯山円蔵坊での修学から数えると8年目になる。
○1280(弘安3)年11月、日法は日蓮から「比丘日法」と脇書が入った本尊を授与される。日法23才。日蓮門下に入門して6年目。日蓮から授与された本尊は二体めになる。
○1282(弘安5)年10月、日蓮の葬送の行列に「和泉公」の名前で日蓮の棺桶のそばに立って参列していることが「御遷化記録」に記されている。
日法は、日蓮在世において1280(弘安3)年11月から1282(弘安5)年10月までの間に、「和泉公」の道号を日蓮から授与されていたと思われる。
○1298(永仁6)年2月15日、日興が重須に御影堂を建立して大石寺から重須本門寺に移る。
日興は「本尊分与帳」を記しているが、その中で日法がすでに日興に背いていることを記している。
○1311(応長1)年3月16日、岡宮・光長寺2代住職・日春が死去。
6月26日には、日法と同期で年は19才年上の大石寺蓮成坊開基・日弁が死去。73才。
1341(興国2)年1月5日、日法が84才で死去。

和泉公日法の来歴とは、概ねこんなところである。
日蓮正宗が「日法が『本門戒壇の大御本尊』を彫刻した」と自称している1279(弘安2)年10月には、日法は数え年で22才(満21才)。日蓮門下に入門して5年目ということになる。

この中で特筆すべき事は、1280(弘安3)年11月、日蓮が日法に授与した本尊の脇書に、日蓮が日法のことを「比丘日法」と呼んでいることである。





■検証73・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である4

□1279(弘安2)年10月当時、和泉公日法はまだ所化僧だった2

1280(弘安3)年11月、日蓮が日法に授与した本尊の脇書に、日蓮が日法のことを「比丘日法」と呼んでいることは、まことに注目すべき事である。
日蓮は、本尊や遺文(御書)で弟子の僧侶を呼ぶ場合、上位の僧、下位の僧、所化僧を区別して呼んでいる。僧侶の世界は、昔も今もそうだが、僧階、法臈(僧尼の出家受戒後の年数などの身分制の厳しい世界であるので、日蓮もこれに倣って区別して呼んでいたと思われる。

例えば、日蓮は上位の僧侶、日昭、日向、日頂、日目には、「釈子」「法師」「上人」といった言葉を使い、下位の所化僧には、「沙弥」「比丘」、僧侶を包括して呼ぶ言葉としては「沙門」という言葉を使っている。
中でも「比丘」という言葉だが、一般的には、出家得度して戒を受けた男子僧侶のことを指すのだが、僧侶の法名として使う場合は、所化僧の意味で使う。
どういうことかというと、具体例を示すと、例えば能化の場合は「観妙院日慈上人」といったふうに
「○○院日□上人」ないしは「○○院日□贈上人」。
普通の教師僧侶の場合は、「妙観阿闍梨精道房日達」といった具合に、「○○阿闍梨□△房日●大徳」というふうになる。
これが所化僧の場合は、「○○房日□比丘」となる。つまり「比丘」の言葉を僧侶の法名として使う場合は、所化僧の名前として使うのである。

日蓮は、自らが顕した本尊の脇書に「比丘」の言葉を使った弟子を見ると、日賢、日弁、日法、日禅の4人だが、このうち、日弁、日法、日禅の3人は、1275(建治1)年に日興の教化で日蓮門下に入門した同期である。
日弁は、 1275(建治1)年に数え年36才で日秀、日禅らと入門。1279(弘安2)年4月に「比丘日弁」との脇書が入った本尊を日蓮から授与されているが、このとき日弁は年齢が40才だったが、日蓮門下に入門してからまだ5年目。
日禅は、1275(建治1)年に日秀、日弁らと入門。1280(弘安3)年5月、「比丘日禅」との脇書が入った本尊を日蓮から授与されているが、このとき日禅は、日蓮門下に入門してからまだ6年目である。
日法も、日蓮門下に入門したのが日弁、日禅と同じ1275(建治1)年。「比丘日法」との脇書が入った本尊を日蓮から授与されたのが1280(弘安3)年11月。日蓮門下に入門してからまだ6年目のときである。
こういう入門から数えた時期から考えたとしても、入門5年目や6年目のころといえば、まだ所化僧だったと考えるのが妥当であろう。今の日蓮正宗でも、所化僧から教師僧侶に昇格するのは、入門・得度からおよそ13年前後ぐらいである。
したがって、これらのことを総合的に勘案するならば、日蓮正宗が「日法が『本門戒壇の大御本尊』を彫刻した」などと自称している1279(弘安2)年10月当時、日法はまだ所化僧だったと結論づけられるのである。








■検証74・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である5

□所化僧に師僧の重要な用務を命じるということは絶対にあり得ない

日蓮正宗が「日法が『本門戒壇の大御本尊』を彫刻した」などと自称している1279(弘安2)年10月当時、日法はまだ所化僧だったということは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作であることを解明していく上で、重要な要素になってくる。
つまりどういうことかというと、所化僧に師僧の重要な用務を命じるということは絶対にあり得ないということである。
もっと具体的に言うと、日蓮正宗が「日蓮・出世の本懐」「末法万年の根本の本尊」と自称する「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を彫刻するなどという重大な用務を、日蓮がまだ所化僧であった日法に命じるということは、あり得ないということである。
これは身分制度、僧階、法臈等の上下関係に実に厳しい僧侶社会の常識からそのように言える。

こういうことは、すこし冷静になって考えてみればすぐにわかることである。
日蓮正宗が「日蓮・出世の本懐」「末法万年の根本の本尊」と自称する「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が本当に実在していたとして、この本尊を彫刻するなどという用務は、絶対にミスが許されない重要な用務である。
このような重大用務で仮に彫刻のミスなどを犯せば、末代にまで残る汚点になってしまう。したがってミスは絶対に許されないということになる。
それほどまでに大事で重要な用務を、日蓮が一介の所化僧に命じるなどということは、絶対にあり得ないということだ。それが僧侶社会の常識である。

もし本当に、弘安二年十月の時点において、日蓮が「出世の本懐」を遂げようとしていたならば、その重大用務を日蓮から命じられたのは、所化僧の日法ではなく、最上足の六老僧のはずである。六老僧の中でも、すでに阿闍梨号を持っていた弁阿闍梨日昭のはずである。
こういうと日蓮正宗は「いや、日昭は他行で身延山にはいなかった」と言うであろうが、たとえ他行で身延山にいなかったとしても、「師僧・日蓮が出世の本懐を遂げる重大用務」となれば、日昭とて喜んで身延山に馳せ参じたであろう。

こう言うと今度は日蓮正宗は「いや、日昭は法門がわかっていなかった。重大用務を命じられるとすれば日興上人をおいて他にない」と言うであろう。
しかしその日興は、弘安二年十月、身延山にはおらず、熱原にいたのである。
日蓮は、弘安二年十月十二日付けで「伯耆殿御返事」という遺文(御書)を書いて日興の元に送っている。
さらにつづけて弘安二年十月十七日付けで「聖人等御返事」という遺文(御書)を書いて、熱原にいた日興に対して指南を与えている。
「師僧・日蓮が出世の本懐を遂げる重大用務」を命じられるべきはずの日興は、身延山にはいなかったのである。

このように日蓮正宗の「『本門戒壇の大御本尊』日法彫刻説を深く掘り下げていくと、あちらこちらから矛盾が噴出してくるのである。





■検証75・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である6

□「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を所化僧一人で彫刻することは不可能である1

すでに検証66で詳述していることであるが、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の昭和52年5月26日の総本山大石寺大講堂・寺族同心会における説法によれば、「本門戒壇の大御本尊」は楠木でできていて、半丸太状の板だという。
元日蓮正宗信徒(法華講員)の文筆家・美濃周人氏の計算によれば、縦は約143センチ、横は約65センチの楠木の半丸太状の「本門戒壇の大御本尊」なる巨大な板本尊の重量は、推定280キロにもなるという。
はたしてこんな巨大な板本尊の彫刻が、入門五年目の22才の所化僧一人で可能なのか、という問題が出てくる。もちろん、日法一人で「本門戒壇の大御本尊」なる巨大な板本尊を彫刻するなどということは絶対に不可能である。

その証拠として、まず第一に、日興・大石寺持仏堂本尊を模写彫刻した千葉県千葉市若葉区中田・真光寺の板本尊が1672(寛文12)年6月13日に造立されたときの例を挙げる。
この板本尊の裏書きには、板本造立に施主として参加した僧侶13名と彫刻の助手として参加した僧侶4名の名前が書いてある。「施主」とは、古語辞典によれば
「1 寺に物を寄進する人。僧に物を施す人、=檀那 2 葬式又は法事などをする当主 3 物を施す人 寄贈主」となっており、ここでは板本尊の彫刻・造立の当主ということ。
その施主の13名・彫刻の助手4名の顔ぶれを見ると、そうそうたる名前が連なっている。

「施主松園日俊(大石寺22世)、寿円日仁(要法寺31世日舒)、会応日窓、治雲日深、宣令日饒(要法寺30世)、長然日永(大石寺24世)、昌山日現、教学日縁、永順日覚、玄素日荘、智応日応、琢応日雄、順碩日玄、随宣日要」
「彫刻の助手 了心院日安(真光寺3世)、学然日円、通宣日安、唯然日治」
「願主の棟梁・本行院日優(真光寺2世)」(『富士宗学要集』8巻p201〜202)

板本尊の彫刻・造立に総勢17名が名を連ね、その施主の筆頭には、所化僧ではなく、僧階最上位の松園日俊(のちの大石寺22世法主)になっている。
1672(寛文12)年の大石寺の当代法主は20世日典であり、日俊はこの8年後の1680(延宝8)年に大石寺22世法主として登座している。

次に1706(宝永3)年6月15日の日興・座替わり本尊を模写彫刻した大石寺客殿板本尊の例を見ると、模写彫刻板本尊の裏書きには、施主・彫主・願主の名前が書いてある。

「施主 武州江戸 石田三郎右衛門  彫主 上野上条村 清三郎兵衛  
願主 二十四代富士阿闍梨日永五十七歳謹敬白」(『富士宗学要集』8巻p202〜203)

この中の彫主というのは、実際に板本尊の曼荼羅文字を彫刻した仏師ということか。日興・座替わり本尊を模写彫刻した板本尊の場合は、大石寺は彫刻の職人である仏師を雇っていることがわかる。
このように板本尊を彫刻するに当たっては、1672(寛文12)年6月の日興・大石寺持仏堂本尊を模写彫刻した中田・真光寺の板本尊の場合は、施主・助手あわせて17名が彫刻に携わっている。
1706(宝永3)年6月の日興・座替わり本尊を模写彫刻した大石寺客殿板本尊の場合は、彫刻の職人である仏師が携わっている。
こういう例からしても、推定280キロの半丸太状の「本門戒壇の大御本尊」を、入門五年目の22才の所化僧・日法が一人で彫刻したなどという話は、到底あり得ないものである。






■検証76・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である7

□「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を所化僧一人で彫刻することは不可能である2

それでは、日法一人が実際に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を彫刻したのではなく、1672(寛文12)年6月13日に造立された日興・大石寺持仏堂本尊を模写彫刻した千葉県千葉市若葉区中田・真光寺の板本尊のように、十人以上の僧侶が彫刻して、日法がその責任者だったという可能性はないのか。
あるいは、1706(宝永3)年6月15日に造立された日興・座替わり本尊を模写彫刻した大石寺客殿板本尊のように、外部から仏師を雇って仏師が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を彫刻し、日法が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊彫刻・造立の責任者を命じられていた可能性はないのか、という問題が発生する。

しかしこのいずれも絶対にあり得ないことなのであり、それは僧侶社会の常識からそのように断定できるのである。
もし仮に、中田・真光寺の板本尊のように、十人以上の僧侶が板本尊を彫刻したとして、その責任者に誰が任命されるかは、門下の上足の僧侶が任命されることは、僧侶社会の常識である。間違っても入門五年目の22才の所化僧が任命されるなどということは絶対にあり得ない。
あるいは大石寺客殿板本尊のように、外部から仏師を雇って仏師が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を彫刻したとしても、その責任者に任命されるのは、同じく門下の上足の僧侶であり、入門五年目の22才の日法が任命されるなどということは、絶対にあり得ない。
こういうことは、僧侶社会の常識を少しでも知っている人なら、簡単にわかることである。

それでは、僧侶社会の常識からして、彫刻の責任者に任命されるにふさわしい人物とは、最上足の六老僧。その六老僧の中でも、すでに阿闍梨号を持っていた弁阿闍梨日昭か、ないしは日法の師匠筋に当たる日興である。
しかし弁阿闍梨日昭は弘安二年十月、他行で身延山にはいなかった。
日興は、弘安二年十月、身延山にはおらず、熱原にいたのである。日蓮は、弘安二年十月十二日付けで「伯耆殿御返事」という遺文(御書)を書いて日興の元に送っている。
さらにつづけて弘安二年十月十七日付けで「聖人等御返事」という遺文(御書)を書いて、熱原にいた日興に対して指南を与えている。
「本門戒壇の大御本尊」彫刻の責任者を命じられるべきはずの日興は、身延山にはいなかったのである。

さらにもう一つ、実例を出すと、日蓮7回忌の1288年(正応元年)6月8日に彫刻したと伝承されている「日蓮聖人御尊像」と呼ばれている日蓮木像が、東京・池上本門寺の大堂に格蔵されている。この日蓮木像(祖師像)は、国の重要文化財に指定されている木像である。この日蓮木像の願主は、日法ではなく、六老僧の日持と中老・日浄となっている。
日蓮7回忌の1288年(正応元年)の時ですら、日蓮木像の願主は六老僧・日持と中老・日浄であった。いわんやそれより9年も前の1279(弘安2)年10月の、所化時代の日法が、彫刻の責任者に選ばれるはずが絶対にない。

このように日蓮正宗が言うところの「本門戒壇の大御本尊・日法彫刻説」なるものを公正な道理から検証していけば、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日法が彫刻したと言うことは絶対にあり得ないし、日法が責任者に任じられて「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の彫刻が行われたということも絶対にあり得ない。
又、日昭ないしは日興が責任者になって「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を日法が彫刻したと言うことも絶対にあり得ない。このような結論が導き出されるのである。



■検証77・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である8

□「本門戒壇の大御本尊」日法彫刻説の文証「松野殿御書」は後世の偽書1

さて日蓮正宗大石寺17世法主日精が捏造した「本門戒壇の大御本尊・日法彫刻説」のたたき台にされたのが、これまた後世の誰かがデッチ上げた偽書「松野殿御書」であった。日法は非常に彫刻が巧みであったので、日法没後の光長寺では、開祖日法を「彫刻阿闍梨」と呼んでおり、その偽書「松野殿御書」も光長寺開祖・日法を誉め称えたものである。
それではその「松野殿御書」とは、いかなる内容の文書なのか。ここにその全文を掲載する。


「松野殿御書」

「安房国東条小松原の道善坊持仏堂にして念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の姿を申し出し候へば数百人の兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打つ太刀は電光の如し、当座に弟子一人打死し既に日蓮は頭に疵を被り、法華経の御為に命を捨る事まのあたりなり。
殊に伊豆佐渡の大難は申すに及ばず、種々の難に値へり。先礼に申尽くし候間、今之を書かず等云々、依之命かなへ候て身延山に隠居せしむ。
法華経を読み奉る折節、我が弟子の中に和泉阿闍梨と申す僧一人御座候、朝夕身を離れず給使奉事致さるる事比類なく秘蔵の弟子なり。
然るに彼の泉阿闍梨行功をはげまし日蓮が形をあらわさんが為に七面の明神に祈念せし故か、又天道の至りか浮木出来せり。此の木を以て一体らず三尊まで造る。
一尊は大仏なれば身延山に安置せり、故に末世に於いて日蓮が形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし。爾も閻浮第一の弟子なり。
然るに予は妙法蓮華経の中の字を取て日蓮と名乗り候間、彼の泉の阿闍梨は法の字を取て日法となづけて候。
然る間、日蓮や前き、日法やさきと云ふ意を以て日法となづけて候。
定て弟子達うらやましくやもはんずらん、又はあだみそねみやすらん、免に角末代に於いて法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。
初宗の中には妙法蓮華経第一の良薬なり。一切衆生の中には日法一の人、第一の導師なり。
上行初伝の寿量肝心是好良薬の妙法を口に唱へ入れ候へば、悪人女人如何なる人非人成り共、是人於仏道、決定無有疑、豈唐捐ならんや。
是故に日蓮が弟子檀那は日法に不背、日本国の一切衆生の口の上に上行初伝の要法を入れんとはげまんこと肝要なり。日蓮もしきりに法華経をひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみまいらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使いか、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし。
日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり。
末世日蓮二度の出世とは此の木像を申すなり、頼母敷く思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言。
                                 日蓮在御判」





■検証78・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と和泉公日法は全くの無関係である9

□「本門戒壇の大御本尊」日法彫刻説の文証「松野殿御書」は後世の偽書2

「松野殿御書」なる文書は、一読して「こんなことを日蓮が書き残すはずがない」とわかる文書である。この文書の中に
「我が弟子の中に和泉阿闍梨と申す僧一人御座候、朝夕身を離れず給使奉事致さるる事比類なく秘蔵の弟子なり」
「定て弟子達うらやましくやもはんずらん、又はあだみそねみやすらん、免に角末代に於いて法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。」
「一切衆生の中には日法一の人、第一の導師なり。上行初伝の寿量肝心是好良薬の妙法を口に唱へ入れ候へば、悪人女人如何なる人非人成り共、是人於仏道、決定無有疑、豈唐捐ならんや」
「日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし。日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり。末世日蓮二度の出世とは此の木像を申すなり、頼母敷く思ひ候てをがませ玉へ」
と、これでもかこれでもかとばかりに日法讃歎の言葉が出てくる。あたかも日法が日蓮の後継者で、日法を信仰すれば成仏する。日法は六老僧の日興や日朗よりも上席だと言わんばかりである。
そもそも日蓮が、六老僧以外の一人の弟子をここまで讃歎した遺文(御書)は他に存在しない。
こんなことを日蓮が書き残すはずがないのである。

さらにもっと「松野殿御書」という書物を深く検証していくと、歴史的史実に反する記載がいくつもある。
□1 「松野殿御書」の中に日法のことを「和泉阿闍梨」と呼んでいるが、日蓮在世の時代に、日法は日蓮から「阿闍梨」号を授かっていない。日蓮が日法に授与した本尊が二幅残っているが、いずれも「沙門日法」「比丘和泉公日法」と日蓮は書いている。
□2 1282(弘安5)年10月16日に日興が、日蓮の葬儀の様子を記した「宗祖御遷化記録」にも、日法を「和泉公」と書いているので、日蓮は日法に「阿闍梨」号を授与していなかったのは明らか。
□3 「松野殿御書」では日法のことを指して「朝夕身を離れず給使奉事致さるる事比類なく秘蔵の弟子なり・・・」とあるが、日法の師匠筋の日興や日弁が熱原法難の時など、身延山におらず熱原の現地に赴いていたのに、孫弟子の日法が身延山の日蓮の側で給使していたなどということは考えられない。
したがって「松野殿御書」にある、さまざまな史実に反する記述は、「松野殿御書」が後世の偽書である証拠である。

日蓮正宗大石寺31世法主日因は、この「松野殿御書」を「珍書」であると言って「最初仏」や「重須寺の御影像」の文証としているが、日因より後代の法主である日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、この「松野殿御書」に注を加えて、
「此書全ク偽書ナリ」(『富士宗学要集』1巻p251)
と言って、「偽書」と断定している。 日蓮正宗大石寺の法主を歴任している堀日亨も「松野殿御書」を偽書と断定しているのである。
これにより、偽書「松野殿御書」をたたき台にした「本門戒壇の大御本尊」日法彫刻説など、デタラメであると結論されるのは当然のことであろう。





■検証79・日蓮の孫弟子・日法は「本門戒壇の大御本尊」「最初仏」を彫刻していない

□日蓮正宗大石寺17世法主日精が捏造した「本門戒壇の大御本尊・日法彫刻説」

大石寺では「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や「最初仏」は、日興の弟子で熱原法難の時に活躍した日弁の弟子である日法(和泉阿闍梨日法・和泉公日法・1258〜1341)が彫刻したと宣伝している。日法とは日蓮から見ると孫弟子にあたり、静岡県沼津市岡宮・光長寺の開祖である。
ところが「最初仏」も「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と同様に、これまた日蓮や日興等の文証はどこにもない、真っ赤なニセ物であり、しかもこんな「日法彫刻説」は日蓮や日興が書き残したいずれの文献にも載っていない。

それではこの「本門戒壇の大御本尊・日法彫刻説」なるものを、大石寺門流で誰が最初に言い出したとかというと、これは日蓮正宗大石寺17世法主日精である。 「本門戒壇の大御本尊・日法彫刻説」なるものは、この日精の書いた文献にはじめて出てくるのである。
江戸時代初期、四代将軍徳川家綱の時代、1662(寛文2)年12月18日、日精は日蓮、日興、日目をはじめ、日蓮や日興の高弟や大石寺歴代法主などの伝記をまとめた「富士門家中見聞」(家中抄)3巻を著している。日精は、大石寺にある6世法主日時が造った日蓮の木像である「正御影」と、9世日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる「板本尊」と、その後大石寺が造り上げた「三寸御影」(最初仏と称している日蓮の木像)等を、すべて日蓮在世に、日蓮の弟子の日法が彫刻して造り上げたという、とほうもないデタラメな「伝説」を捏造し、これを「家中抄」に載せたのである。
以下の文が「家中抄」に載っている日精の捏造した文である。

「或る時日法御影を造り奉らんと欲す。七面大明神に祈念し給ふ、感応の至りか浮木出来せり、此の木を以て戒壇院の本尊を造立し、次に大聖の御影を造ること己上三躰なり。其の一躰は纔に三寸なり、上行所伝抄の意なり。大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す。今の板本尊是れなり。又、師細工に長ずる故に大聖の御影一体三寸に造立して是れを袖裏に入れ御前に出て言上して云く、願くは末代の聖人未聞未見の者の為に御影を写し奉らんと欲す、免許に於ては不日に造立すべしと、聖人此の像を取り掌上に置き之れを視なはし、笑みを含みて許諾す。日法、仏師鳥養助二郎、太郎太夫と云ふ者と共に日法之を彫刻し等身の影像即成す。但し背脊甚だ痛しとの給ふ故に御影の後皆釿名なり。此の因縁に因て生御影とも正御影とも号し奉ると申すなり。板本尊、生御影並に三寸御影、今富士に在るなり」
(日精の著書『家中抄』/堀日亨編纂『富士宗学要集5巻』p244)

この文をよくよく検証していくと、かの日法讃歎の偽書「松野殿御書」との共通性が見られる。
つまり日精・家中抄の
「或る時日法御影を造り奉らんと欲す。七面大明神に祈念し給ふ、感応の至りか浮木出来せり、此の木を以て戒壇院の本尊を造立し、次に大聖の御影を造ること己上三躰なり。」
の文は、明らかに「松野殿御書」の
「日蓮が形をあらわさんが為に七面の明神に祈念せし故か、又天道の至りか浮木出来せり。此の木を以て一体らず三尊まで造る」
の模倣である。つまりこれは日精が偽書「松野殿御書」をネタ本にして「日法彫刻説」をでっち上げたことが明白である。
つまり日精の言っている「日法彫刻説」は、デタラメな日法讃歎を書き綴った「松野殿御書」を元にした捏造説なのであり、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と日法は全くの無関係なのである。








■検証80・「冨士大石寺明細誌」の文は「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立・日法彫刻の証明ではない1

□洗脳法華講員の妄説は別の法華講員による別サイトの戯論の丸写しというお粗末

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(不埒な洗脳法華講員・国賊せまし(仮名)の妄説)
日蓮正宗大石寺において「本門戒壇の大御本尊」と呼称する板本尊の「全相貌」を、身延山で日蓮大聖人が認めたという証明。
「日法右板本尊並に此像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」(富士大石寺明細誌 原本)
要約
「日法師が板本尊・御影像を彫刻し、これを称賛するために、現職に彫尅阿闍梨を大聖人から頂いた。また御影像を彫刻した旨の手形(書状)これ有り」
日量上人はその手形をご覧遊ばされている。以上、富士大石寺明細誌に明らかである。
その板本尊を弟子の日法が彫刻したという証明。 同上、富士大石寺明細誌に明らかである。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板25に引用されている国賊せまし(仮名)なる者の妄説)
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洗脳法華講員・国賊せまし(仮名)なる者は、「『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は後世の偽作である」とさんざん批判・追及された挙げ句の果て、苦し紛れに「冨士大石寺明細誌」の文を引っ張り出してきて、自らのウソを織りまぜて、「板本尊を弟子の日法が彫刻したという証明」などと言い出してきた。
もちろん、国賊せまし(仮名)なる者が引用している「冨士大石寺明細誌」の文は「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立・日法彫刻の証明では全くない。
その辺のところを、国賊せまし(仮名)なる者のウソを暴きながら、順を追って国賊せまし(仮名)の妄説を論破していきたい。

まず国賊せまし(仮名)は、引用文献について
「富士大石寺明細誌 原本」
などと、いかにも勿体ぶった言い方をしているが、国賊せまし(仮名)のような「一信者」が、どれだけ法華講支部の中で支部役員か、本山認証役員の地位にあろうとも、「富士大石寺明細誌 原本」を披見することなど、ほとんど不可能であると言ってよい。
「富士大石寺明細誌 原本」など見たこともないのに、さも見てきたかのようなことを書くべきではなかろう。意図的なウソは止めるべきである。

というか、上記の国賊せまし(仮名)なる者の反論は、下記サイトに書いてある「冨士大石寺明細誌」に関する論述の丸写しである。

http://dakkai.org/nippou.html

まことにお粗末極まりないものであることを、まず指摘しておく。

したがって、国賊せまし(仮名)なる者の妄説の論破は、同時に上記「創価学会からの脱会を考える会」なるサイトの戯論に対する論破ということになろう。



■検証81・「冨士大石寺明細誌」の文は「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立・日法彫刻の証明ではない2

□「自筆の手形一通之有り」という「冨士大石寺明細誌」の記述の内容そのものがウソの記述

まず「冨士大石寺明細誌」の文であるが、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「冨士大石寺明細誌」を編纂して「富士宗学要集」5巻に一字の誤りもなく収録している。
それなので、そちらを引用したほうが正確である。

「一、日蓮聖人御影 居長三寸 一体……
…日法右板本尊並に此像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻p334〜335)

この「冨士大石寺明細誌」の記述によれば、和泉阿闍梨日法は、自らが「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と日蓮の御影を彫刻したことを証明する自筆の「手形」(証拠とする書き物・証文)を残したということになっているが、この「自筆の手形一通之有り」という「冨士大石寺明細誌」の記述の内容そのものがウソの記述である。
それはなぜか。

(1) 日蓮正宗では、板本尊・御影・棟札等々の彫刻者の署名・判形は、板本尊・御影そのものに刻名・彫刻するのであって、別に文書にして残すことなど有り得ない。

これは「御影堂・棟札」「御影堂・板本尊」「御影堂・日蓮御影」「客殿・御座替わり板本尊」「六壺・板本尊」「大講堂・板本尊」等々、皆そうなっており、特に板本尊の場合は、そうである。
近年では1973(昭和48)年に、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が池田大作に授与した「正本堂賞与本尊」を創価学会が模写・彫刻した板本尊とて、彫刻者の赤沢朝陽の署名が板本尊の「ほぞ」の部分に彫刻されていたことを、日蓮正宗自身が公表している。
板本尊・御影・棟札等々の彫刻者の署名・判形は、板本尊・御影そのものに刻名・彫刻するのであって、別に文書にして残すことなど、しないのである。

(2) 「冨士大石寺明細誌」を『富士宗学要集』に収録・編纂した日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨自身が、「自筆の手形」の五文字に○印を付けて、「自筆の手形」そのものに重大な疑問を呈している。

なぜ堀日亨が疑問を呈しているかといえば、まさに日蓮正宗では、板本尊・御影・棟札等々の彫刻者の署名・判形は、板本尊・御影そのものに刻名・彫刻するのであって、別に文書にして残すということはしないからである。

このように日蓮正宗大石寺の法主自身が重大な疑問を呈している文書を、「本門戒壇の大御本尊」の証明だと称して「証拠だ」と騒ぎ立てる日蓮正宗洗脳法華講員は哀れと言う以外にない。
以上二つの点からして「自筆の手形一通之有り」という「冨士大石寺明細誌」の記述の内容そのものがウソの記述なのであり、「冨士大石寺明細誌」の文は「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立・日法彫刻の証明ではないと断ずるものである。



■検証82・手斧削りを根拠にした日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の鎌倉時代造立説は欺瞞だ1

 先代の日蓮正宗大石寺66世法主・細井日達が、随所の説法の席で「本門戒壇の大御本尊」が手斧(ちょうな)で板の表面を削ってあることを根拠にして、「本門戒壇の大御本尊」が日蓮在世の鎌倉時代に造立されたことに間違いがない、などと説法している。その主なものをここに書き出してみるが、よく読んでいただければおわかりいただけることであるが、とんでもないウソをついて人々を欺瞞しているのである。        

「また戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にたまり今度御水洗いする事になり洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で其の時分ははカンナがなかった。鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。だからあの御本尊は手斧けずりである。それを見ればすぐ分かる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利時代に出来たとか最近は徳川時代に出来たなどととんでもない事を言う。ところがあれは後ろを見るとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それを見ても明らかに鎌倉時代である。 しかも手斧で、明治時代の人は知っている。丸いものではない。あの時代には鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。そういう事はこちらも誰も言わないけれども信者の人なら申しても差し支えないから申し上げます。表の方は本当は漆を塗ってあるから分からないけれども私は御虫払いでいつも、御拭きしますから分かります。今の板御本尊みたいに滑らかではない。ぎざぎざしている。それに漆を塗ったのである。そういう事を見てもはっきり鎌倉時代の板本尊である…」
(日達上人全集二輯五巻434,日興跡條々の事 昭和47年9月12日 日正寺竜口法難会の説法)

「戒壇の大御本尊様は……もう六百八十年も前に出来た板御本尊で御座いまして、これは当時鉋(かんな)というものが無かった、鎌倉時代で御座いますから、あの板御本尊様は明らかに鉋では造ってないのであります。みんな手斧(てちょうな)、手斧といっても戦国時代或いは室町時代できる丁鉋(ちょうな)でなくてもっと古い鉞(まさかり)みたいな手斧で削られて居るので御座います。それが歴然としてあの板御本尊様に残っておるので御座います。それを見ても鎌倉時代大聖人の時代に御造りになった御本尊様である事がはっきりしておるのでございます。…」
(日達上人全集二輯一巻368-371,大日蓮昭和48年2月号 、昭和47年11月20日 本山御大会の説法)

「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれども、まわりは丸木です。真ん丸い木です。その丸い木を前を削って板にしたにすぎません。しかも此れを削ったのは手斧、鑓手斧(やりちょうな)とも鑓鉋(やりかんな)ともいいますね。それで削った。それは赤沢朝陽氏がちゃんと言明しております。だから鎌倉時代のものである。この手斧の削り方は徳川時代以後のものではない。足利時代から今日使用のああいう手斧が出来ていますか。鑓手斧は鎌倉時代の絵を見れば分かります。そういう御本尊ですから決して最近できたものではない。 以下略 」                      
(日達上人全集二輯五巻446,日興跡條々の事 昭和52年5月26日 寺族同心会の指南、大日蓮昭和52年7月号 、蓮華昭和52年6月号 )

 こうしてやれ手斧(ちょうな)だ、やれ丁鉋(ちょうな)だ、やれ鑓手斧(やりちょうな)だ、などと言われると、はてそうかな?と思ってしまう日蓮正宗信者が大半なのではないだろうか。
しかしこれらの日蓮正宗66世法主細井日達の説法は、とんでもない欺瞞のトリックがあるのだ。





■検証83・手斧削りを根拠にした日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の鎌倉時代造立説は欺瞞だ2

□手斧・丁鉋・鑓手斧の使用跡だけで鎌倉時代のものと断定するのは信徒騙しの欺瞞だ

 現在でも木工作業に使われている鉋(かんな)は、江戸時代に発明されたものであることには間違いはない。この鉋(かんな)の発明は、かなり劇的なものだった。それは、それまでできなかった、木の表面をまっ平らに削ることを可能にしたのである。
 つまりそれ以前の手斧(てちょうな)丁鉋(ちょうな)鑓手斧(やりちょうな)といった木工工具では、まっ平らに削ることができなかった。どんなに削っても1ミリ〜2ミリ程度のデコボコ、乃至、凹凸がどうしてもできてしまうのである。
したがって木の表面を見て、完全なまっ平らなのか、多少のデコボコ、凹凸があるが、を見て取れば、江戸時代以降にできたものか、あるいはそれ以前にできたものかは、判別することができると言えよう。
つまり明確に判別できるのは、造立年代が、江戸時代以降か、それ以前か、なのである。

 しかし66世法主細井日達の説法のように、木の表面のデコボコ、凹凸だけで鎌倉時代のものだ、などとは断定できるものではない。
つまりこれから分かることは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は鉋(かんな)が普及した江戸時代以前に造立された、ということだけである。鎌倉時代に造立されたという証拠になるわけがない。

66世法主細井日達はなんとしても「本門戒壇の大御本尊」は鎌倉時代にできたものだ、と言いたいがために、こうした詭弁を言っているにすぎない。これは何も知らない信徒をだまそうとする欺瞞であると言わざるを得ない。

 これを裏付けるためにわかり易い一例を言おう。大石寺客殿の中央に鎮座する「譲座板本尊」をよく見ていただきたい。この譲座板本尊は二祖日興が書した「御座替わりの御本尊」を江戸時代初期の法主が板に模刻したものであるが、黒漆(うるし)が塗ってある表面にはかなりの凹凸が見える。これはもちろん鉋(かんな)ではなく、丁鉋(ちょうな)鑓手斧(やりちょうな)といった古来の木工工具で削ってあるからだ。

しかしこれは、鎌倉時代のものではなく、江戸時代初期に造立されたものだ。鉋(かんな)は、江戸時代に発明されたといっても、現代のように、何か便利なものが発明されて世に出ると、あっと言う間に広まるといったものではなく、世間一般に広まるにはかなりの時間を要した。江戸時代初期といっても大石寺のある駿河地方には広まっていなかったのであろう。






■検証84・干支が記されていない「本門戒壇の大御本尊」造立の日付「弘安二年十月十二日」は日蓮の真筆ではない証拠

大石寺の「本門戒壇の大御本尊」の授与書には、この本尊の造立された日として「弘安二年十月十二日」と書いてあると、日蓮正宗の正式文献の中に記載されている。 日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」第8巻の「漫荼羅脇書等」の欄には、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」の脇書に
「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、 弘安二年十月十二日」
と記されていると、書いてある。

しかしこの「弘安二年十月十二日」という日付の筆が、この「本門戒壇の大御本尊」が日蓮の真筆ではなく、後世の大石寺法主が偽造したものであることを証拠づけているのである。

日蓮真筆の本尊は、その図顕年月日が記載されている本尊については、その全てに干支が記載されている。例えば

「文永九年太歳壬申正月元日」(称徳符法の本尊)
「文永十一年太歳甲戌十二月 日」(万年救護の本尊)
「建治二年太歳丙子卯月 日」(建治二年・日照授与の本尊)
「弘安元年太歳戊寅八月 日」(弘安元年・日頂授与の本尊)
「弘安二年太歳己卯二月 日」(弘安二年・日目授与の本尊)
「弘安二年太歳己卯七月 日」(弘安二年・沙門日法授与の本尊)
「弘安三年太歳庚辰三月 日」(弘安三年・紫宸殿の本尊)
「弘安三年太歳庚辰三月 日」(弘安三年・臨滅度時の本尊)
「弘安三年太歳庚辰五月二十六日」(弘安三年・民部日向授与の本尊)
「弘安三年太歳庚辰十一月 日」(弘安三年・日昭授与の本尊)
「弘安三年太歳庚辰十一月 日」(弘安三年・和泉公日法授与の本尊)
「弘安四年太歳辛己四月二十五日」(弘安四年・日仙授与の本尊)

というぐあいである・
これは日蓮が自ら書き顕した本尊に、図顕年月日を書き記す場合における、一貫した日蓮の書き方なのである。 これは日蓮真筆本尊を掲載している立正安国会刊行の「御本尊集」や日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集8巻」を調べてみれば、わかることだ。

堀日亨が編纂した「富士宗学要集8巻」にも、日蓮真筆本尊脇書きが記載されているが、ここでは千葉県の保田妙本寺に格蔵されている「万年救護の本尊」の図顕年日付が「文永十一年十二月 日」となっていて、干支が記載されていないようになっているが、実際、万年救護の本尊の図顕年月日は「文永十一年太歳甲戌十二月 日」となっていて、干支が記載されている。

また新潟県の佐渡世尊寺に格蔵されている「日法授与本尊」も堀日亨は「富士宗学要集8巻」で「弘安三年十一月 日」と干支が記載されていないように書き記しているが、これも実際は
「弘安三年太歳庚辰十一月 日」となっていて、干支が記載されている。
したがってこれらは、堀日亨の単なる書き誤りだと思われる。

それから「富士宗学要集8巻」では仙台仏眼寺に格蔵する「飛び漫荼羅」を含めた2幅と西山本門寺に格蔵する1幅に干支が記載されていない日蓮真筆本尊があると記載されているが、これら3幅の本尊については、日蓮真筆本尊が掲載されている「御本尊集」にも載っておらず、本当に日蓮真筆本尊なのかどうか決めかねる、いわば真偽未決のものである。




■検証85・干支が記されていない「本門戒壇の大御本尊」造立の日付「弘安二年十月十二日」は日蓮の真筆ではない証拠2

□日蓮は自ら図顕した本尊・書示した遺文の年号には必ず干支を書いた

したがって、最初から図顕年月日が記されていない本尊を除き、日蓮真筆本尊の脇書きにある図顕年月日には、必ず干支が記載されていると断言してよい。

ところが大石寺の「本門戒壇の大御本尊」の日付には、弘安二年の「太歳己卯」の干支が記載されていないのである。
日蓮が各々の弟子の僧侶や信者に授与した本尊には、日付に干支が記載されているのに、日蓮正宗が言うように「日蓮出世の本懐」「一閻浮提総与」で、しかも「三大秘法の本門戒壇に安置すべき」重要な大御本尊の日付に、干支が記載されていないのは、絶対におかしいではないか。

日蓮が図顕した本尊だけではない。日蓮が弟子たちに対して重要な法義を説き明かした御書(遺文)・・・例えば観心本尊抄や報恩抄・・・に記した日付には、日蓮はおおむね干支を記載している。

「文永三年丙寅正月六日」(法華経題目抄)
「文永九年壬申四月十五日」(得受職人功徳法門抄)
「文永九年太歳壬申三月二十日」(佐渡御書)
「文永九年太歳壬申五月二十五日」(日妙聖人御書)
「文永十年太歳癸酉卯月二十五日」(観心本尊抄)
「文永十年癸酉五月 日」(如説修行抄)
「文永十年太歳癸酉後五月十一日」(顕仏未来記)
「建治二年太歳丙子七月二十一日」(報恩抄)
「建治二年丙子六月二十七日」(四条金吾殿御返事)
「建治二年丙子八月二日」(曽谷殿御返事)
「建治四年太歳戌寅二月二十八日」(始聞仏乗義)
「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に・・・・・弘安二年太歳己卯なり」(聖人御難事)
「弘安二年己卯十一月三十日」(中興入道御消息)
「日蓮は去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日より今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで・・・」(諫暁八幡抄)
「弘安四年太歳辛己六月十六日」(小蒙古御書)

・・・・といったぐあいである。
重要法門書であっても最初から書示年月日を記載していない遺文(御書)もあるが、日蓮が重要法門書と示す遺文(御書)の年月日には、おおむね干支が記されている。それだけ日蓮が日付を記載するにあたって干支を重要視していたものと思われる。
しかし「本門戒壇の大御本尊」の年月日・日付には、これだけ日蓮が重要視した干支が記載されていないのである。

すなわち、この干支が記されていない日付こそが、本門戒壇の大御本尊が後世に偽作されたとする証拠のひとつであると言える。したがって、この干支の記載がない「本門戒壇の大御本尊」の図顕年月日は、まさに日蓮真筆の本尊ではない証拠である。





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