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登場人物


飯田 明仁〈アキヒト〉 (19)……大学二年


島  勝  (20)……教習所で出会った小学校時代の同級生

飯田 圭  (48)……サラリーマン。明仁の父親
    
岡村    (20)……地方の大学に行き、地方に住んでいる
西田    (20)……小学校のクラスメイト。だがあまり明仁とは親しくない

コメント(29)

川の匂いが、俺の鼻に押し込まれるように吹いてくる。
 

何だろう。この水と土が合わさってできた匂いに、魚屋でよく魚介類が放つ海水が腐ったような匂いが混ざったような匂い。それが今、隔たるモノが何もない橋の真ん中で川風に乗って俺の鼻に押し込まれる。
 


さらにこの高砂橋までに登る上り坂で、普段から運動不足で完全に息を切らして俺は、余計にこの匂いを吸い込む形になる。
 


最悪だ。
 


ここを通る度にそう思う。通る度と言っても、ここを通り始めたのはここつい一週間のことだが、それまでは一回もこんな橋を渡ったことなどなかった。自転車も一年ぶりくらいに乗った。
 


時刻は11時少し過ぎだと思うが、胃袋に何も入れてこなくて良かったと思う。
 


でもそうは言っても、最近はこの高砂橋を毎日のように渡って教習所に通っている。 



一般的に五月病とかいう奴は、入社したり入学したりして一年目の五月に来るものらしいが、俺の場合、それが大学二年の五月に来た。ということで、五月上旬だが自主休校。おそらく、一ヶ月の予定である。流石にそれ以上だと単位が取れるかどうか不安だ。  




それでその期間を利用して、免許でも取ってやろうかということで自転車を走らせながら教習所に通う毎日を送っている。
免許を取ろうと思ったのは、先月バイト先で付き合っていた元彼女が別れる際に『車の免許も持ってないなんて使えない男だよね』と言ったのが頭に残っていたからだ。



基本的に俺は負けず嫌いだ。別に、あの元彼女のことは今は全く好きじゃないし別れたことに未練も無い。むしろ、あんなわがままで大して可愛くない女別れて正解だったとさえ思っている。ただ、たかが車の運転ができないくらいで「使えない男」と言われたことが腹立たしかった。
 



だから、この期間中に取ってやろうかと始めたのがきっかけだ。予定では期間中に取れるだろう、取りたいと考えている
橋の真ん中を通り過ぎ、徐々に道が下り坂になる。ペダルが少しずつ軽くなっていく。それにしても、こんなふうにしている俺は俺の人生をこの橋で例えるとどこに当たるのだろうか。   



息を切らして吐きたくなるくらいにヘトヘトになる上り坂? いや、それはとっくに昔と言うべきか、大学受験でもがいていた高三の時がそれだったと思う。あの時は寝ても覚めても好きでもない歴史の偉人の名前を覚え、人間的には好きではなかったが、わかりやすいと評判の英語講師の授業を取り必死で勉強したあの頃。それで有名私立大学に受かった。



じゃあ、何もしなくても自分の思い通りに進んでくれる下り坂? これも違う気がする。だいいち、自分が何もしなくても思い通りになることはない。たぶん、何もしなくても思い通りになっていると感じている奴は、自分が何かに負けた現実を無理やり納得させようとそう思っているか、ただの馬鹿な楽観主義者のある意味幸せ者だけだ。



ということは、橋の真ん中か。いや、これもちょっと違う。



俺は今の俺に満足していない。




何かを変えたいと思っている。行動したいと思っている。ただ、その何かがわからないのだ。




どこからどう見ても、俺の人生は順風満帆だ
俺は今まで、自分のしたいようにしてきて、したいようになってきた。これからもそうだと思う。過去に後悔だなんて一つもない。むしろ、過去にこれだけやってきた自分を褒めてやりたいくらいだ。




今だって、あの馬鹿元彼女のあの言葉を自分の中で撤回させたくて、免許を取るという立派な目標の上でこれもこれで充実した日々を暮らしているはずだ。
だけど、満足していない。




時々、自分が身体から幽体離脱したようになる。そして何やっているんだろうと、魂が抜けて呆然と立ち尽くしているみたいな自分に後ろから問いかけるような気持ちになる。




そんな俺らしくない、悩み事? を頭の中で自問自答しながら自転車は橋を降り、駅前に続く最近使い慣れ始めた道路を走っていく。
それにしても、いつ見てもここは汚い街だと思う。そんな場所の住所は東京都葛飾区高砂一丁目。

直進道路は時速40キロまで加速。



アクセルペダルを踏むと、エンジンが今以上にけたたましい音を上げながら加速していく。



ペダルを踏む。しかも本当に優しく踏むだけ。自分よりも何十倍もある巨大なモノが、そんな安易な動作でこれほどまでにスピードが出せるまで操作できるのだから考えてみればとんでもない乗り物だ。



カーブに差し掛かる。40キロまで加速しているのを今度はブレーキペダルを踏み、二十キロ前後まで落としハンドルを右に回してゆっくりとカーブを曲がる。



そのとんでもない乗り物だけに、最初の学科講習で「車は凶器」とかなんとか教えられたが、それはその通りだと実感する。この僕が今持っているハンドル操作を何かの拍子で間違えたら、車は曲がりきれず路肩に激突。もしそこに人がいれば大惨事。さらにその車がスピードを出していれば、車内に乗っている人間の命も危ういかもしれない。



真面目なのだろうか、ネガティブなのだろうか。とにかく俺はそんなことを考えながら車を走らせる。



カーブを曲がり切ったところで、そろそろ講習が終わりの時間だと、隣に座る講師が俺に直進道路を左脇にズレて校舎の前に車を停車するように指示する。



この時どうも、練習場の同じところをグルグル周っているせいかF1でレーシングカーがピットに入っていくような感覚なのは俺だけだろうか。




そして指示通り、左脇にズレようとした時である。前の白い車。この教習所ではマニュアルを受講している人が講習で使うマニュアル車なのだが、これが前で妙な動きを見せる。車体を上下に揺らしストップ気味になっている。俺はブレーキペダルを踏み減速する。



「エンストだな」
 


隣に座る講師が苦笑いする。
 



エンスト。マニュアル車はこれがあるから大変だと思う。ちなみに俺が乗っているのは黒い車のオートマ車。オートマ限定の免許を取る人が講習で使う車なのだが、この車にはエンストはない。アクセルを踏んだら踏んだだけ進む。
こういう光景は時々見る。そして見るたびにマニュアルじゃなくて良かったと思うと同時に、今実際に走っている車は殆どがこのオートマ車なのにどうしてあえて難しいマニュアルの免許を取るのだろう。と不思議に思う。



どうして、オートマ車限定免許でも大半の車が運転できるのにも関わらず、滅多に車種がないマニュアル車の免許を取ろうとするのか。



車を校舎の前に縦列駐車させて校舎の中に入ると、俺は入って左脇にある自動販売機で缶コーヒーを買って、その近くのカウンター席に腰を降ろす。



ここでは気軽に一人でいられるから楽だ。大学ではそうは行かない。



例えば昼休み。昼食を取ろうと学食に行くと、だいたい三、四人のグループになって学生たちが楽しく食べている。そんな所で、確かに一人で食べている学生はいるがそんな奴らはかなり浮いているというか友達がいない変な奴に見える。



そんな奴に見られたくないから、昼休みが挟まってしまう二時間目と三時間目は、コンビニでサンドイッチなどを買って歩き周りながら食べる。そうすれば多忙な学生に見えて、変には思われない。



授業前もそうだ。授業を待っていて、一人でいると友達のいない変な奴に見られる可能性があるから、なるべく授業開始のベルと同時に教室に入るようにしている。



でも、それすらも恥ずかしいというか面倒になったのでこんな生活をしている。そう、俺がこんな生活に入ったのは、大学で一人も友達ができなかったということが一つとしてある。



友達なんて作ればいい。人は簡単に言う。でもあの大学という環境の中ではそれが用意ではないことは、大学に通っているか通っていたことがある人間しか、わからないのかもしれない。




授業も行きたい者が行きたい時間に行き、それに行かないからと誰にも咎められない。それに行かないことで単位という卒業に関わるものが取れないというデメリットも付いてくるが、基本的には自由。自由だから、自然と強制的に集まった奴らとつるむということもなく、おのおのがそこで出会った自由な相手と自由な交流をする。
サークルというものも存在するが、そこも基本的には自由で、所属するかしないか参加するかしないかは自分の意思で決める。


それは社交的で趣味のある学生にとっては、楽園かもしれないが、俺みたいにどちらかというと内向的で特に趣味がない学生にとっては、その環境は人との交流において厳しい立場に置かれる。



と俺は今、あの場所で友達がいない自分のいいわけとしているが、単純に運が悪かっただけかもしれない。



それに比べて、ここは一人でいてもおかしい空間ではない。教習で免許を取るために来ている。ただそれだけの目的だけで。だから、一人でいることがおかしいことにはならないだろう。むしろ一人でいる方が、真面目に真剣に通っているイメージがついていい印象を周りから受けるかもしれない。



あとは大学に行かなくなった理由は、あんなに苦労して入った大学の授業が想像以上のつまらなかったからだ。あれでは、高校の授業の延長をしているだけじゃないか。そう思ったからだ。



「あの、アキジンだよ、な」
 

アキジン。懐かしい呼び名が後ろから聴こえ、振り返る。



「あ」



 振り返った瞬間、一瞬誰だかわからなかった。でも、その男が笑みを見せた時誰だかはっきりわかった。 いくら髪の毛を茶髪に染めて、眉毛を細くしてもあの歯並びの悪さを見たら、すぐに島だとわかった。



「アキジン。だよな」
 

島は馴れ馴れしく俺の肩を叩く。馴れ馴れしいというのは少し言い過ぎか。



「お、おう」



「俺だよ。覚えているよな」



「も、勿論。忘れるわけないよ」
 


忘れはしていなかったが、一目見ただけで島だとわからないほど久々の再会で少し戸惑い緊張し会話がぎこちなくなる。
彼も俺の態度を見て、その緊張を察したのか少し動きが固まり言葉を選んでいる様子だった。



「あれだ。さっき、後ろのオートマ車。アキジンだったろう」


「ああ」
 


どうも、アキジンという呼び名は好きじゃない。ニンジンみたいに聴こえ、悪口に聴こえる。小学校低学年の頃、島と最初に会った時に、明仁の仁が「ひと」と読めずにジンと読んでそのままあだ名になったのだが、ネーミングセンスもない気がする。と、返事をしながら彼から投げかけられた言葉とは別のことを考える。



「やっぱりな。どうせ、迷惑だとか下手くそだとか思ったんだろ」



「そんなことはないよ。ただ大変だなって」



 そうか。あのエンストを起こしたマニュアル車は島だったのか。



「大変か。まあ、大変って言ったら大変だけどな」
 


どうして、マニュアルの免許など取りたいのかとさらに訊いてみたかったが、あって間もない彼にそこまで調子よく訊けるまで仲良くしようとは思わなかった。



「アキジン、どなんだ?」



「どうって?」



「大学に行っているのか? ああ、でもこの時間にいるってことは……」
 


何か彼は言いにくそうだった。俺がフリーターとかニートにでもなっているのではと考えているのだろうか。



「いや、大学に通っている」



「そうか。こんな時間にいるからフリーターとかニートかと思って訊きづらかったよ」



 やっぱりそうだった。相変わらず考えていることがわかりやすい。でも、肩書きは大学に通っていると言っているが、状態的にはニートの方が合っているのかもしれない。



「今日、俺も大学休みでさ。お前もそうだろ?」



「ああ、まあね」
「どうだ、大学は?」



「ああ、まあね」
 


島の訊かれたことに俺は、まあね、が続いてしまった。というより、久しぶりに会った人間に正直にましてや大学で一人も友達がいないなんて言えなかった。かと言って、うまく行っているという簡単な嘘もとっさに思いつけるほど饒舌な口をしている俺ではなった。




それにしても、島と会うのは小学生の卒業式以来だから八年ぶりだ。彼とは、小学生の頃地元のバスケットクラブに一緒に所属していた時期があって、たぶん、その頃学校で一番仲の良い奴だったと思う。




そして俺は中学から私立の中学に進み、彼は公立の中学に進んだからそれ以来今日まで会わずに来た。もう会わないだろうと思い、半分彼のことは忘れかけていたのだがこうして会ったことに何か意味でもあるのだろうか。



いや、ないだろう。現に、こうして年月をまたぎすぎた二人の会話もぎこちない。ここでしばし話して別れて、たぶんそれで一生会うこともないかもしれない。




それから俺たちのぎこちない会話は続いた。中学校のこと。小学校のクラスメイトの近況報告。どれもありきたりな話題ばかりで、予想したとおりぎこちない会話ばかりだった。



「なあ、今度の日曜日なんだけど。空いているか」
 


と、その会話がひと段落したところで、彼が話題を大きく変える。



「え、まあ」
 


俺は突然、話題が変ったことに驚いて勢いで頷いてしまう。



「あのさ、だったら今度の日曜日、水元公園で小学校の奴らと野球やるからさお前も来ないか?」
 


野球? 俺はあまり運動が好きではない。しかもこの歳になってどうして公園で野球などしなければいけないのだ。それをやると訊いたなら適当な理由をつけて行かない方向に持って行きたかったと思った。でも、空いていると返事してしまった手前、そんなことはできない。




「ああ、じゃあ行こうかな」
 


その後、俺と島はメールアドレスを交換し別れた。数日後、島から日曜の十時に青砥駅前集合という通知のメールが来た。
 


こうして俺は、行く気もなかった野球をすることになる。そう、この野球をした日から、俺の何か妙なものが芽生えた気がする。
まさか、自転車で行くとは思わなかった。
 


青砥駅から自転車を走らせて水元公園まで向かう。しかも、俺を含めて7人の大人がである。ってきり俺は、バスで行くものだと思い自転車を置いてきてしまい、一旦家に帰って自転車を持ってくる羽目になってしまった。
 



水元公園に行くのはこれが初めてだった。その公園の存在は知っていたが、別に行く機会も無く、興味もなかった。
 


中は思った以上に広く、公園というより地方の高原地のキャンプ場の遊び場という感じだった。



入ってすぐに、水元という名前の由来なのか大きな水溜りのような湖のようなものがあり、それを取り囲んで緑の木々が生い茂る。中に入っていくと、川なども流れており、そこには休日ということもあってか家族連れがその川の脇に陣取って釣り竿を川に垂らしている。



こんな場所が自分の家の近くしかも自転車で二十分くらいのところだが、こんな場所があるのだとは知らなかった。別に知らなかったというのは興味が沸いたということではないが。
 



公園の中に入り、自転車を走らせて中央あたりの大きな原っぱで俺たちは自転車を止める。ここでも休日ということもあって、親子が羽根つきをやって遊んだり、犬を連れてきてそこで放して遊ばせたりしていた。
 


自転車を原っぱの入り口に置き、俺たちはそれの真ん中あたりまで歩いていき、そこで来た早々チーム決めのじゃんけんが始まり野球を始める。
 



野球と言っても、まともなボールを使うのではなく、今原っぱで走り回っている犬が喜んで取ってきそうな黄色いゴムボールに、バットはプラスチックのバットで行う、ホントに「遊び」の野球だ。ちなみに、ベースなんて持ってきた袋だ。
 俺の入ったチームは後攻になった。俺は自分から志願して外野の守備をやらせてもらう。ここならボールもあまり飛ばないから休めると思ったのだ。
 


ここまで来るのに俺はもう疲れていた。疲れるというのは肉体的にも精神的にもだ。慣れない自転車を何年ぶりかに出会って馴染みきれていない奴らと数分間走らせる。それだけでも、かなりの疲労が俺を襲った。特に精神的にキツかった。
まだ誘われた島を含め、他の奴らとも最初の「よお」の挨拶しか交わしてない。俺だけ馴染めない除け者という感じでここまで来た。
 


野球の「遊び」は盛り上がっている様子だった。予想通り、プラスチックのバットとボールでは外野には一球もボールは飛んでこなかった。俺は完全に蚊帳の外という感じだった。




俺は始めこそ、奴らと仲良くなろうという努力をしようと思ったが、ここまで来る道のりでそれもすることを止めた。ただ無難に、何事もなく過ぎてくれれば良いと願うだけになった。どうしてだろう。わからない。きっと「疲れた」からだろう。だから、こんな感じで終わりまで進めばいいと思った。




「遊び」は昼も食べずに夕方四時半を知らせるアナウンスが公園内に響き渡るまで行われていた。結果は57対47で俺の入っていたチームがとんでもないスコアーで勝ったようだ。いつしか辺りには、俺たち以外数人の人が残るだけになっていた。



俺は試合中、殆ど誰とも話さず守備は外野。攻撃の時は適当にバットを振って三振をして半ばやる気がない形でいたが、結局、何だかんだで疲れた。




俺たちは、原っぱを離れて元来た道を自転車で走っていく。辺りが徐々に暗くなっていく。本当につまらない一日だったと珍しく後悔した。まあでも、こいつらともこれっきりだろう。もし教習所で島と会っても、軽くあいさつして「じゃあな」と言って関わらないようにしよう。





そう思いながら重い足取りで集団の最後尾を走っていたのだが、集団は帰り道の途中にあった飲み屋で自転車を止め、そこに入っていく。
このまま帰って解散かと思っていた俺には、思ってもみない悪い意味での誤算だった。もう、子供じゃないが「帰りたい」と叫びたかった。でも、俺に行くか行かないかと訊いてもくれずに集団は店に入っていく。



俺はここで帰るというのも、気まずい雰囲気になる気がして言い出せず仕方なく飲み屋に入り仲間たちと共に酒を飲み交わす。



「今日はえっと、まあ、とりあえず乾杯!!」
 


席に座ってすぐに注文したビールを片手に、俺の向かいに座っていた島の乾杯の音頭を取り一斉にビールに口をつける。酒が弱い俺は、飲むふりをしてすぐに口のつけていないジョッキをテーブルに置く。



「ねえ、ねえアキジンさ、今日楽しんでくれた?」
 


ビールジョッキを持った島が後ろから俺の肩を組んで訊く。横目で彼の顔を見ると彼の顔はもう薄っすらと赤かった。



「ああ、まあな」
 


俺は無理やり笑顔を作って彼に答える。



「ええ? そうだった? 何かさ、守備でも外野ばかりだしさ、俺たちとも殆どしゃべらないしさ。っていうか、しゃべりづらいっていうかさ。今日機嫌悪かった?」
 


酔っている。教習所で話した時とは違い、俺に感じたことをそのまま言葉にしている様子だった。しかも彼が感じたことは、かなり確信に迫っていて俺はどう答えたらいいかわからず、言葉を詰まらせ答えられない。



「おい、マサ! 困っているじゃねえかよ。馬鹿!!」
 


俺の隣にいた、西田が島の頭をかなり強く叩く。



「でもさ、マジで今日楽しめたか? 飯田」
 


西田が俺の顔を神妙な面持ちで見つめる。西田と俺は、勿論小学校の時以来の再会であったが、小学校の頃もさほど仲良くしていたわけではなくて、今日も島を間に通して俺と会話をしているという感じだった。
 



というより、今日のメンバーで仲の良かった奴って島以外誰がいるだろう。いないかもしれない。
「ああ、楽しめたよ」



「外野ばっかりでか?」
 



俺の答えにすぐに島が突っ込んでくる。



「お前は黙ってろ」
 


また西田が島の頭を叩く。



「確かに、飯田は小学校の頃からクールで勉強ができるって感じだったもんな。そうだそうだ」
 



そして西田は、無理やり納得させている様子だった。きっと、彼の中で俺との思い出は殆どないのだろう。



「そういえばさ、飯田はどうして中学校公立に行かなかったんだ?」
 


続けて西田が俺に振ってくる。



「え? それは……」
 


俺は今自分の中で思った回答を言えずにまた言葉に詰まる。



「そうだよな。どうしてだよ。俺たち仲良かったのにどうして私立なんて一人で行ったんだよ。変だよな」
 



島がまたすぐに突っ込んでくる。



「お前はまた……と言いたい所だが、これはちょっと俺も正直そう思うな。どうしてだよ。俺たちがいるのに。現にさ、中学校も面白かったしな」
 


どうしてって。それは俺の中で答えはすぐに出ていた。単に、その公立の中学がダサいと思っただけだ。



「う〜ん。何でだろうな。気まぐれかな」
 


でも俺はそんなことは言わなかった。言えるはずがなかった。



「気まぐれか。じゃあ、その気まぐれで私立を選んじゃったのか。でもじゃあ、あれか? こんなふうに私立の中学校の奴らと今でも付き合っているのか?」
 


西田が慎重に言葉を選ぶように俺に訊く。



「ああ、まあね」
 


俺はそう返したが、これは嘘だった。中、高一貫の私立に行っていて、勿論友人がいないわけではなかったが、卒業した今では会おとうとするどころかそいつらの携帯のメールアドレスも訊きそびれてわからない。
 



仕方ないと思う。俺の家から一時間ほどかかって通うような場所に校舎があって、クラスメイトもおのおの様々なところに住んでいて通っている。こんな歩いて十分のところにクラスメイトが住んでいて気軽に会えるようなところに住んでいない。疎遠になる理由には十分なるはずだ。
 


と言っても、無理やり会おうと思えば会えると思うが、ただ単に会ってどうなるか、と会う理由がないだけだ。
「そうか。それは羨ましいな。俺もさ、高校の友達もいるけど今つるんでいるのはこの地元のこんな奴らだけで、高校の奴らとは会っていないもんな」



「地元」という島の言葉がなぜか引っかかる。次に胸が冷たくなる感覚に襲われる



「こんな奴らとはなんだ」
 


西田が俺の後ろにいた島の首に腕を回し彼の首を絞める。島は一見嬉しそうに笑いながらギブギブと西田の腕を手で叩く。
 


そしていつしか島は西田と二人で話し込むようになっていき、俺は集団の中で一人話さずに取り残される形になる。
 



客観的に周りを見つめる。俺以外の奴らが、楽しそうに話す。だいたい、地元の話だ。中学校の教師はどうだったとか。近所の誰かが何かをしたなど。どれも俺には乗っていけない、わからない話ばかりだ。
 



地元。そんなもの意識したことはなかった。地元、故郷。ホーム。それは一体なんだろう。俺にそんなものがあるのだろうか。こんなこと、今まで考えもしなかった。
 


なぜなら俺は地元。ここ葛飾という地域が嫌いだったからだ。
 



でもその嫌いだった地元の奴らとこうしてつるみ、彼らの話している地元の話が気にかかっている俺がいる。そしてあの胸の感覚。
 



何ヶ月、何年ぶりか、試しにビールを一口口に含んでみる。ビールが前に飲んでみた時よりも一段と苦く、飲んだ後に残るアルコールの味は吐き気がしそうだった。予想通りあの感覚は俺の勘違いだったのかもしれない。この集団と同様ビールは合わないと改めて再確認した。

天気は曇り。
 


なるべくなら、行くとしたら晴れの日が良かったと思う。ただ、天気予報では降水確率はあまり高くない予報が出ている。
 


今日にしよう。
 


俺は自宅のマンションを出て自転車に乗ってサイクリングに出かける。サイクリングなんて生まれて初めてかもしれない。
 



行き先はとりあえず、柴又帝釈天。地元で有名所と言ったらそこしか思い浮かばなかった。
 


とりあえず、俺は確かめたかった。何を? 地元ってものを。
 


小学校三年の時だったと思う。俺は、都心の塾まで週に二、三回通っていた。その塾で一緒にいたルームメイトの男子に、俺が葛飾区に住んでいるとわかるとそいつに田舎だと馬鹿にされた。
 



その時から俺は負けず嫌いで、その男を殴りはしなかったがかなり腹が立った思い出がある。それと同時に、自分の地元にも腹が立った。
 



確かにルームメイトの言う通りだと思った。高くて最新のビルが立ち並び、何でも便利に手に入るのが都心。それに比べて、俺の地元は低い住宅街に囲まれ、街全体の外観も何処か古臭くて汚い。しかも畑もあると来たら、田舎だと言われても何も反論する余地は無い。
 



俺は、地元の公立中学に行かず都心の私立の中学を受験することに決めた。
受験を決めてからは、地元の奴らとは遊ばずに都心と自宅を行き来して勉強ばかりしていた。そして都心の私立中学に通うようになると、俺の中での地元は寝に来るだけ公立の中学と、自宅があるだけの場所になり生活の拠点は都心に移った。学校があるのも都心。友達がいるのも都心。友達と遊ぶのも都心。全てが都心になった。
 




今では地元のことはどう思っているのかと言えば、別に小学生の頃ほど嫌悪感はない。でも好きでもない。でもどちらかと言えば嫌いかもしれない。例えば、高砂橋の川の匂いとか。



だから今日はどうして地元をもう一度何かを確かめたくなったのか、俺にも今の気持ちがなんだかわからない。
 



高砂橋を渡り、ネットで地図に見た通りまっすぐ道なりに進む。
 


すると、走っている道の途中のある十字路で妙に人が行き交っていて賑わう場所がある。あそこだと思う。
 『帝釈天参道』
  

商店街の入り口に、二本の黒い柱に挟まれた上部にそう大きく書かれたアーチ型の看板が掲げられて、俺を歓迎しているようだった。
 


ここだ。俺はさっそくその商店街に入ってみる。商店街は道が狭く、その中に人が雑踏していた。



商店街は小さな商店が多く、その殆どがせんべいやどらやきのようなお菓子などのおみやげ用の食料品を売っている店に見えた。そしてその店のどれもが、築4、50年経っていそうな古風な建物のような気がした。



それにしても以外にも外国人の観光客が多いことに驚かされた。確かに、映画でも有名なのだから来て当たり前なのだが、それにしても自転車で数分もしないところにこんな外国人が来たがる場所があるとは、水元公園同様来るまで知らなかった。
 



少し左にカーブしている商店街を、人ごみを道なりにゆっくりと進み見えてきたのはあの柴又帝釈天というものだった。
 


はっきり言えば、そこまで立派な建物ではないと感じた。建物も思った以上に小さく、外観にもそこまで歴史を感じさせる風情を感じなかった。
 


自転車を帝釈天の脇に止めて、中にも入ってみる。中も思った以上に広くはなかった。中には身体を清める水飲み場? みたいのと、本殿である建物に、あとは下らないおみくじの販売所があるだけだった。これだったら、京都にある建築物の比較にならない。そう思った。
 


あまりに何もなかったので、俺は五分もしないうちに帝釈天を後にし、元来た道を戻って今度は柴又の駅に行ってみる。
柴又の駅には、小さなロータリーがありそこにかの有名な寅さんの銅像が建てられていた。その周りにはカメラを片手に持っている観光客が数人集まっている。一応、せっかくだから銅像の近くまで寄って見てみる。別にここでも何の感動もなかった。



帽子をかぶって、トランクケースを持ったただのおじさん。ただ、ここが有名な映画の舞台になっただけじゃないか。それがどうした。大したことは無い。



「そこのお兄さん。ちょっと写真撮ってくださらない?」
 


と、隣にいた観光客の5、60歳代のおばさんが、俺に最近では珍しい使い捨てカメラを差し出してくる。そのおばさんの後ろには友達らしきおばさんが三人ほどいて俺をニコニコしながら見つめている。



「あ、はい」



おばさんは興奮した面持ちで俺にカメラを渡し、四人は銅像の前に嬉しそうに並ぶ。



ハイチーズと言って俺はシャッターを切る。



「ありがとうね。お兄さん」
 


カメラを渡したおばさんが、俺の前に小走りで走ってきて俺からカメラを受け取る。



「お兄さん、若いのに寅さん好きなの?」
 


おばさんは、悪気も無い笑顔で俺にそう訊いてくる。



「え?」
 


でもその質問が、俺には意地悪な質問にしか聞こえなかった。本当に、どう答えてよいかわからない。



「いや、そうですね」



「へぇ、そうなの。若いのにねぇ」
 



若者がここに来るのがそんなに珍しいかのように、おばさんはもう一度若いのにを繰り返す。確かに周りをよく見渡せば、外国人とあとは5、60歳代の人しかいなかった。ここは、若者がしかも一人で来るような場所ではない。よく考えれば、こんなところ俺みたいな歳の人間が来る場所ではない。俺は急にここにいることが恥ずかしくなる。
「ねぇ。お兄さん何処の出身なの?」
 


俺の気持ちは他所に、おばさんはまた俺に話を振ってくる。



「ああ、えっと近所です……」



「へぇ。近所。いいわねぇ。じゃあ、結構ここには来るの?」
 


おばさんは驚きと、あと羨ましそうな眼差しで俺の方を見つめてくる。



「え、まあ」



「あら、私、福島から今日日帰りで来たんだけど、私の地元なんか何にもないから、近くにこんなところがあるなんて羨ましい」


「え、ああ」
 


せっかくの好意で話しかけてくれているのはわかるが、おばさんの話よりも早くここを去りたい気持ちで頭が一杯で、その好意に答えてうまい受け答えする余裕が無かった。



「ねぇ。お兄さん困っているわよ。ごめんね。しつこいおばさんで」
 


俺に話しかけていたおばさんの隣にいた友達が、そのおばさんの袖を引っ張り商店街の方へ行こうとする。



「じゃあ、お兄さん。ありがとうね」
 

おばさんは軽く会釈して商店街の方の人ごみの中に消えていった。
 


俺はそれを見ると一目散に自転車のペダルを漕いでこの場所を去っていった。

どうしてあんなところが名所になるのだろう。俺は不思議で仕方なかった。
 どうしてあんなところに行こうと思ったのだろう。俺は俺自身が不思議で仕方なった。
 



帰り道。急いで柴又帝釈天を離れたせいで、行きに通った単純な大通りとは全く違う、住宅街をグルグルと走る羽目になった。本当に迷路のように細い路地の連続、十字路の連続。行き止まりの連続。同じような民家の連続だった。
 



迷ったかもしれない。俺は察する。それにしても、ここも葛飾だと思う。俺の近所と同じようなこじんまりとした古臭い住宅街。
 


所詮、葛飾はこんなものなんだ。名所と呼ばれる場所も、所詮あの程度。




「近くにこんなところがあるなんて羨ましい」
 


ふと、あの柴又駅で会った観光客が頭を過る。
 


羨ましい? ここにいることが? 
 



所詮と、地元を馬鹿にする俺は贅沢なのか? 葛飾という地域は、ある人間からすれば非常に有名で恵まれている地域なのか。
 



下らない。考えるだけ下らない。俺は考えるのを止める。




「今つるんでいるのはこの地元のこんな奴らだけ……」
 


でもまた、他の言葉が頭を過る。今度は先週の飲み会で島が言った言葉だった。
 



俺にとって地元とは何なのだろう。それはあの地元の奴らとは違うとだけで片付けていいのか。とりあえず、今の俺は地元が素晴らしい場所でも好きになれない。
 




かと言って、俺は所謂、都会っ子というものにもなりきれてはいない気がする。都会は便利で最先端だけれども、別にそれだけだ。それだけでそこに何もない。都心中心に生活を置いた六年間がそれを教えてくれた気がする。
 



どうしてだろう。どうしてこんなことを考えているのだろう。俺は俺がわからない。俺は一体、何に満足しなくて、何を得たいんだ。それを探してわざわざ教習所に行くのを一日止めて、柴又帝釈天なんかに行ったんだ。それがますますわからなくなっている。ちょうど、頭の中と今の道に迷って右往左往している自分がぴったり被る。
ゴール。家はわかっているのに。そこにたどり着く道がわからない。しかもその道は、別に難しい道ではなく普通の住宅街。実は迷路のようにと勝手に名をつけて勝手に迷っているのは俺だ。
 


クソ。何なんだ。何なんだよ。
 


焦れば焦るほどに、道が元来た道と同じように見えてくる。
 


俺はイラつきながら路地を左に曲がる。そして道をまっすぐ走っていく。すると、見慣れた赤い建物が見える。
 


いつも通っているドライビングスクールだ。
 


助かったと思った。ここさえ見つかれば、あとは慣れた道を進むだけでいい。
 


急にさっきまでイラついていた自分が恥ずかしくなる。急にあんなことで取り乱した自分が自分で可笑しくなり、ふっと鼻で笑う。
 


可笑しいよな。何をこんなに迷っているんだろう俺は。順調じゃないか。俺はこのまま大学を卒業して、就職して、適当に女を見つけて結婚して、それだけでいいじゃないか。何が気に入らないんだ。



大学の授業がつまらないのがどうした。大学で友達がいないのがどうした。偶然会った地元の奴らがどうした。何にも大したことないじゃないか。満たされている。



でも、そんなことを考えると、何故かまたあの胸の冷たくなる感覚が一瞬だけ感じる。




教習所の前を通り抜けると、雨の雫が顔に当たり小雨が降ってきたことに気が付く。


流石に、二回目は飲み屋の名前を覚えてしまった。
 


「青砥屋」まんまだなと思った。で、まんまだなと思ったところに今日もまた来る羽目になるとは思ってもみなかった。
 



やっぱり、教習所で会ってすぐに「じゃあな」と言って去れるほど現実は甘くなかった。昨日、ばったりとまた教習所の待合室で島と出会ってしまった。
 それで今日の飲み会に誘われた。で、ここに来たということはまた断れなかったということだ。
 



店に入ると、もうテーブル席に水元公園で野球をしたクラスメイト四人とあと、新しいメンバーとして岡村が座っていて俺の来るのを待っていた様子だった。野球をしていた奴らの中には西田と島もいた。



「遅いよ。アキジン。ほら、座れよ」
 


大きな声でアキジンと言うのは止めろ。俺は少しだけ島を睨みつけながら彼と岡村の間の空いていた席に座る。



「何? 今日機嫌悪い? アキジン?」



「いや、そんなことない」
 



心配したのか、ただの振りなのか。歯並びの悪い歯を見せてニタニタとした顔を見せながら訊く島に、さらっとあしらうように返す。
 



機嫌悪いに決まっているだろう。無理やりこんな飲み会に来させられて、さらに来た瞬間に「アキジン」と叫ばれたら、俺の場合そうなるに決まっている。



「ではでは、とりあえずビールでいいですかね」
 



島が集まっている人間の顔を見渡しながら訊く。そしてみんなの同意も訊かずに「すみません」と叫んで近くにいた店員にビールを五つ頼む。



ビールジョッキが五つ、テーブルに運ばれてくる。




そして自分の前にジョッキが置かれると、早速と言わんばかりにすぐさまジョッキを持って立ち上がる。




「じゃあ、今日は久しぶりにオッ君が帰ってきたということで、みなさんには集まっていただきましたが。オッ君何かある?」
 


立っていた島に、送られていた四人の視線が、急に岡村に送られる。オッ君というのは、岡村の小学校の頃のあだ名だ。ちなみに今日はその岡村が、今は地方の大学に通っていてその大学の近くに下宿しているらしいのだが、久しぶりにここに帰ってきたということでの飲み会らしい。




「ねぇよ。馬鹿。早くやれよ」
 


それに対し、岡村は照れくさそうに島に向かって手を掃うようなしぐさをする。



「何だよ。ノリ悪いな。じゃあ、乾杯」
 


こうしてまた飲み会が始まる。
おのおのが様々な話で盛り上がっている。やはりここでも、地元の話や中学校の話で盛り上がる。そして俺は完全に一人孤立する。
 



俺は嫌々飲み会に誘われたと言ったが、合わない合わないと思いながらもどこかで二回目は少し緊張も取れてこのメンバーといるのが面白くなるかと期待してOKした所があった。でもその期待はすぐに後悔に変る。そんな俺に、また酔った島が構ってくる。



「なあ、アキジン。また黙って飲んでるよ」
 


飲んではいないけどなと心の中で言いながら、口のつけていなくて汗をかき始めているビールジョッキを見つめる。



「ねぇ。アキジン、おっくんのこと覚えている?」



 俺は島にそう訊かれ、とっさに岡村の方を見つめる。岡村もそれが聞こえたのか、同時くらいに振り向く。



「ああ、覚えているに決まっているだろう」
 



俺が島にそう答えると、岡村もそれに乗ってそうだそうだと付け足すように言う。



「あのさ、今、大学に行っているのか?」
 



目が合ったついでに、岡村と俺との今日始めての会話が自然と始まる。岡村とはずっと小学生の頃一緒のクラスだったから、あの頃はかなり話した仲だった。一緒に遊んだこともあった。



だが、島同様、彼とも小学校を卒業して以来会っていなかった。



「ああ、まあな」



「で、面白いか?」



「ああ、まあまあかな」



「そうか」
 



と、俺が島と最初に教習所で出会った時と同様に「まあ」で岡村の質問を返していると、彼は何故か俯き加減にため息を付く。



「どうしたんだ?」



「俺さ、何かあっち。ああ、仙台な。あっちとは合わないみたいでさ。学校もつまらないしさ。何か大学辞めてこっち帰ってこようかな。やっぱり地元はいいよな」
 


岡村は冗談っぽくおどけた声で笑いながら「なんて」と言う。それに対し、隣にいた島が彼にどうしたんだよとおどけた声で彼の肩を揺する。
でも俺にはその言葉が冗談には聞こえなかった。そして何故か、そんな彼に俺は腹が立った。そしてあの胸が冷たくなる感覚が襲う。
 


やっぱり地元はいいだと? 何だよそれ。



俺は目の前のジョッキを手に取りビールを無理やり流し込み、一気に全て飲み干す。
 



アルコールが一気に頭に昇ってくる感覚に襲われる。



「おい。どうしたんだよ。急に一気飲みなんかして……」
 


島か誰かがそんなことを言っている気がした。でも、よく聞き取れなかった。




「そんなにこの昔臭い何もないところが好きか? 同級生なんて、ただこうして
時々集まって馬鹿騒ぎするだけじゃないか。何だよ。地元、地元って。みんなガキだよ。そうだよ。ここにいる奴らは。ガキだから、単純に地元の話で盛り上がれるし、今更集まってもどうしようもない奴らとも騒げる。自分でもそう思わないか?」
 



言いすぎたとは、その時は考えられなかった。というより、自分でも何を話しているのか、自分でもわかっていなかった。さらに、俺の発言で、盛り上がっていた五人が一気に静まりかえっていることにも気が付かなかった。



「お前さ、そんな考え方で、面白いのかよ。寂しくないのかよ」
 


この沈黙に口を開いたのは、岡村だった。
 


その岡村が発した言葉は、俺が隠しに隠していた思いを代弁しているかのようだった。またあの胸が冷たくなる感覚に襲われる。




「お前、小3の時からなんか変ったよな。何か、急に冷たくなってさ。勉強ばっかりするようになって。それで私立の中学に行っちまってさ。それで久しぶりに会ったら、お前はもっと冷たくなったというか、俺とは違う人間になっていた」
 



酔いはさらに俺の身体を回っていた。意識も朦朧とし始めている。でも、その中でも岡村の言葉はなぜかしっかりと聞き取れた。
 


俺は何も言い返せなかった。怒りも不思議と静まっていた。



「ごめん、俺帰るわ」
 



俺は、ズボンのポケットから財布を取り出し五千円をテーブルに置き、店を出て行った。


外は微妙に蒸し暑かった。その蒸し暑さが、今の吐き気をさらに後押ししている気がした。
 


飲み過ぎた。
 



朦朧とする意識の中で、吐き気と戦いながら自分の酒の弱さを憎む。



『お前さ、そんな考え方で、面白いのかよ。寂しくないのかよ』




『お前、小3の時からなんか変ったよな』
 


つい十分くらい前に、岡村が言っていた言葉が頭を過る。
 


クソ!
 


俺は近くの電信柱に手を付いて立ち止まる。
 



俺は俺なりに必死でやってきたんだ。一生懸命やってきたんだ。それがなんだよ。面白くない。寂しいって。それでなんだよ。どうして、俺はそんな言葉なんかに動揺しているんだよ。
 



小学校三年の頃。俺はまた何かを思い出そうとしていた。




あの頃、俺は塾に通いたいという理由で島と一緒にやっていたバスケットボールクラブを辞めた。でもそれは親や友達への表向きの理由で、本当の理由は自分の運動神経が悪く、明らかに周りの人間よりも劣っていたと感じたからだ。勿論、島よりもバスケは下手くそだった。
 



それからだったと思う。親父が俺に冷たくなったのは。




親父も子供の頃にバスケをやっていて、俺にもバスケをやってもらいたいという気持ちがあったのだと思う。それが俺は塾を理由に辞めてしまった。それが気に入らなかったのだろう。




俺はそんな親父に認められたくて、バスケの変わりに塾で勉強を頑張った。その頃からだろうか、負けず嫌いになったのは。地元のことを馬鹿にされて中学受験を決めたのも、思えばそういう思いがあったからだと思う。バスケ、運動ではダメだが、塾、勉強では誰にも馬鹿にされたくない負けたくない負けられない。




でも中学受験で合格した俺を親父は褒めるどこか、怒鳴り飛ばした。なんと怒鳴り飛ばしたかわからない。確か、お前は公立の中学じゃ不満なのか、どうとかだったと思う。ただ、怒鳴られたことを覚えている。


それから親父は、タイミングがいいのか悪いのか仕事が北海道に転勤になり単身赴任になった。そして自然と親父と殆ど口を効く機会がなくなった。父親と口を効かなくなると同時に、そんな親父とのエピソードも今の今まで忘れていた。残ったのは、妙な負けず嫌いな性格だけだった。



今、親父は俺のことどう思っているだろう。




急に気になった。別に、そのことで親父を恨んでいるわけでも親父へ罪の意識があるわけでもないが。



きっと訊いてみても良い反応が返ってくるとは思えなかった。反応もないかもしれない。だけど、訊いてみたかった。




確か、今月の末に親父がこっちに帰ってくる。

自宅のリビングのテーブルを挟んで向き合わせに親父と座る。
 


こうして親父と向かい合わせで座ったのは何年ぶりだろうか。
 


親父がこっちに帰ってきたのは、高校卒業した卒業式の次の日にも帰ってきているから顔は合わせているが、こうして二人きりになるのは本当に久しぶりだ。親父は無口だから、何を話すかわからなくて二人きりになるといつもすぐに席を立って自分の部屋に行ってしまうのだが、今日は違う。
 


夕食が終わり、母さんはさっき風呂に入った。きっとこれから、半身浴かなんかで二時間は風呂から出てこないだろう。
 



向かい合わせで座った親父の顔を見つめる。俺に似て太ってはいないがふっくらとした顔のせいか、あまり顔が老け込んだようには見えない。さらに髪も薄くなっておらず、白髪もパッと見見当たらない。おそらく、染めているのだろう。
 


親父は、食後のプリンを食べながらテレビを見ている。おそらく、普通の父親は食後と言えば、つまみを片手に酒でも飲んでいるイメージだが、俺と同じく彼もアルコールに弱く、滅多に酒は飲まない。その代わり、かなりの甘党だ。



「なあ」
 



俺は親父に話しかける。久しぶりに声をかけるのは身内とは言え緊張する。
親父はテレビに目を向けたまま反応しない。俺は少し戸惑ったが、ここは単刀直入に訊こうと決める。




「なあ、父さんはさ、今の俺のことどう思っているの?」
 


まだ親父はテレビを見て俺とも顔を合わせようともせず黙っている。俺は流石に、急にこんな話をするのは変だった思い、話を変えようと口を開こうとする。




「よくやっていると思うよ」
 



と、急に親父の口からそんな言葉が発せられた。「よくやっている」それは意外な言葉だった。てっきり、何か俺が自分の思い通りの生き方をしてくれなかったことに不満でもあるのかと思っていた。




「俺は三流の大学しか入れなかったが、お前は一流の大学に入れているしな。よくやっているよ」
 


俺は拍子抜けしてしまった。そしてその言葉が彼の本心なのだろうかと疑った。



「で、でもさ、バスケ辞めた時もさ、父さん凄い気に入らなそうだったじゃん。中学受験で受かった日は怒鳴られたし」



「そういうこともあったな。で、それがどうした」



 その言葉に俺はまた拍子抜けした。



「いや、どうしてってわけではないけど、恨んでいないかなって」
 


その「恨む」という言葉に親父は気になったらしく、ちらりと横目で俺を見つめる。



「どうしてお前を俺が恨むんだ?」



「いや、恨んでいるっていうか、こうしてほしかったとかさ」
 


俺は言葉が悪かったと思い、違う言い方に変える。



「どうして、そう思うんだ?」
「いや、別に……特に意味はないけど……」
 


親父は自分の前に置いてあったテレビのリモコンを手にとって、テレビの電源を消す。



「お前がバスケを辞めて塾に通うと行った時は確かに残念だったが、それはお前の決めたことで、俺は別に気に入らなかったわけじゃない。中学受験に合格して怒鳴ったのは、別に地元の公立に行かないことに腹を立てていたわけじゃない。どこかお前が流されている気がしてな」



「流されている?」
 


親父は黙ったまま椅子から立ち上がり、ゴミ箱にプリンの空の容器を捨てる。



「もしかすると、あの時恨んでいたのは、お前自身だったんじゃないのか? 何か周りに見栄ばかり張って、まだ小さい子供なのに遊ばずに勉強ばかりして。あの時のお前、楽しくなさそうだったんだよな。自分の何をそんなに気に入らなくて変えたかったのかわからなかったがな」
 



恨んでいたのは自分自身。その親父の言葉は胸の奥の方まで突き刺さり、その刺さった箇所から何かが漏れ出してその何かが俺の身体を巡っている気がした。



「どうしたんだ。今日は急にそんな話をして。学校でうまく行っていないのか?」
 


親父はキッチンの戸棚を空け、何かを探している様子だった。




「いや、別にそういうわけじゃないよ。ただ、ちょっと訊いてみたかっただけ」
 



これも見栄っ張りか。俺は何に誰に見栄を張って生きているのだろう。そんなこと考えたこともなかった。無意識のうちに見栄を張っているんだと思う。無意識のうちに。その見栄っ張りが負けず嫌いになって、それで今の俺がいる。
 俺の見栄っ張りを俺からなくしたら、何が残るのだろう。すぐに答えが出た。何も残らない。




「お前もコーヒー飲むか?」
 


親父は戸棚からインスタントコーヒーの粉の入った袋を取り出して振り向いて俺に訊く。



「うん」
 



親父はコーヒーメーカーをテーブルの上に置き、コーヒーを作り始める。親父は鼻歌を歌っていた。親父の鼻歌など初めて訊いた。
 



そんな親父の姿を見て、無口で不器用な親父だが優しいこの親父の息子で良かったと照れくさいことを思う。


疲れた。
 


もう一度考える。今のこの俺は、人生でこの橋で例えるとどこに当たるのか。いや、そんなことはもうどうでもいい。でも確かに言える事は何も感じることができない。ということだ。喜びも嫌悪感も。何も感じられない。目的地もどこかわからない。
 


いまはただ、そのわからないままペダルを漕ぐしかない。




 高砂橋で、あの俺の嫌いな川の匂いを嗅ぎながら橋の真ん中辺りまで漕ぎ勧めた。今日も教習所に向かう。でも、俺はこの教習所へ通うモチベーションが地の底に落ちていることに気が付いていた。
 



もう、どうでもいい元彼女はいい。あんな奴にどう思われていたことなんてどうでもいい。そう思うようになってくると、この自動車免許取得に費やしているこの時間が何だろう。




例の胸が冷たくなる感覚に襲われる。
 



坂道の途中で引き返そうかと何度も思った。でも、引き返したところで何をやろうという予定はない。だから、ここまで来た。あとは、下り坂だ。身体を任せて下る下り坂。
 



と、そんな俺の目に、橋の隅でフェンスの上に肘をつけて川を眺める男の姿が入ってくる。島だった。俺は思わず自転車を止める。
 



島とはあの飲み会の日以来会っていなかった。俺はあの日の飲み会のことをまだ彼に謝っていない。
 



気配を悟ったのか、それとも偶然か、彼は俺が自転車を止めたとほぼ同時に後ろを振り返り俺と目が会う。




「おう、アキジン。どうした。そんな所で」
 



彼はいつもの笑みを見せる。俺は自転車を隅に止めて、彼に近づく。




「あ、あのさ。前の飲み会はごめん」
俺がそう言うと、彼は真顔になって俺から目を逸らしまた川の方を見つめる。こんな彼の顔は始めてだった。俺に対し怒っているのだろうか。いや違う。とにかく一言では言えない複雑な表情をしている。



「アキジンはさ、どうして自動車免許取ろうとしているんだ」
 


彼が急に、突拍子のないことを訊いてくる。俺は素直に元彼女を見返してやりたいとは言うことができずに、適当なことを言った。



「便利だからかな」
 


俺がそう言うと、彼は便利かと独り言のように呟いて身体を回転させて川に背を向けてフェンスに寄りかかる。それにしても、ここは川の匂いが充満して臭い。



「便利って、そんなにいいのかな」



「え?」



「お前の言う通りだと思ったよ。俺の地元は古臭いし、小、中の友達とつるんでも今更って感じだよな。でも俺はここが好きなんだ」
 



地元。その地元というのが何かを考えて途中で頓挫していた。結局、わからなかった。それが何なのか。
 


川の遠くの方を見つめながら言う彼の姿は、何とも言えず清々しい良い顔をしていた。俺には絶対に出来ない顔。




その顔を見て、俺は自分を偽らずに今思っていることを正直に話そうと思った。



「島。地元ってそんなに必要なのか?」



「え?」



「地元っていう言い方はあれだから、故郷っていうの? それって、生きていくのに必要なのかな。正直、俺、地元って何かわからないんだ。でも、島が地元の友達と楽しそうに地元の話をしたり、つるんでいるのを見ると何かこう、胸の奥が冷たくなっていくんだよな。気を悪くしたらごめんな」
 


島は頭を振る。
「いや、アキジンの気持ちわかるよ。俺、教習所でお前に声をかけたのは、ただの気まぐれじゃないんだ。なんか、一人でいるお前を見ていると、ちょっと前の俺を見ているようでさ」



「ちょっと前の俺?」



「俺、大学に馴染めないみたいでさ、ほら、バスケばっかやってきたから勉強はできないし、バスケやっている以外で誰かと仲良くなれるやり方を知らないっていうかさ。ああ、俺も高校の途中でバスケ辞めたんだ」



彼は自分の右腕を俺に見せる。傷あとのようなものが見えた。小学生の頃、島は俺が辞めたあともバスケを続けていた。バスケができなくなるまで続けていたのは彼らしい。



「バスケ辞めてわかった。好きという気持ちを見つけるのが難しい。それはすぐに簡単に捨てられる。忘れられる。わからなくなる。だって、こんなに便利で何でも手に入るんだから。すぐに目の前のモノに目がくらんでそんなものすぐに見失うよな」
 



好き。俺も趣味というものがない人間だった。何かと言えば、合理主義で何もかも片付けていた。勉強をすれば頭が良くなって有名な大学に入れて就職に有利だ。友達もこいつとつるんでいれば自分の好きな遊びが一緒にできて都合がいい。そうやって考えてきて、そんなことを一つとして考えてこなかった。
 



なんせ俺は、見栄っ張りだから。




「ああ、話がズレているな。でさ、無性に急に寂しくなって苛立って、で、地元の奴らに片っ端から声をかけて遊んだんだ。そしたら、俺が好きなのはこういうのかなと思えた。モノじゃないんだよ。バスケとかそういうモノじゃ……」
 


島は自分の頭を二、三回叩く。




「話がまとまらないな。あの、地元っていうのは……何もないんだよな。でも、その何もないんだけど、そこに自分の思いとか人の思いとかがあると、そこに何か存在してくるんじゃないかな」
 


って、カッコつけすぎか? と首を傾げながら島は苦笑いをする。




「思いっていうのは、好きとか大切にしたいとか。そういうものか?」
 俺がそう訊くと、島は小刻みに何度か頷く。
「そうだな。ああ、俺、この川の匂い。好きなんだ。でも、この匂いは車を運転していると嗅げないんだろうな。と言って、運転免許取ろうとしているんだけどな」
 


この川の匂いが好き。この匂いが苦手な俺とは信じられないことだった。でも、その好みは置いといて、所謂地元の有名どころを周っても見つけられなかった、



「好き」という言葉に無性に嫉妬を覚える。




「何かどうしてだろう。別にそういう気持ちがあったって何も自分の将来に役に立ちそうもないのに、そういうモノを持っている島が羨ましく思えるよ。どうしてだろう。俺にはそういうモノ持てない気がする。哀しいな。これからどうすればいいんだろう」
 



涙なんて、小学校の低学年の時に喧嘩をして泣かされていらい流していない。でもたった今、その涙が俺の目に溜まっている。その涙が何の涙かはわからないが溜まっている。




「へへ。何か今日は話すなアキジン。いつもは無口なのに。みんなアキジンと同じだよ。だから俺だって、今はここが好きだって言えるけど、いつまで地元の奴らとつるめるかわからないし、俺だって環境も変ればさ、わかんねぇよ。バスケと同じで地元も簡単に捨てられるし忘れられる」
 



島は虚空を見上げて、目を瞑り大きく息を吸って深呼吸をする。




「焦るなよ。とりあえず、ゆっくりここに寄りかかって息を吸ってみろよ」
 


俺はそれをするか迷ったが、島と同じようのフェンスにもたれて息を吸ってみる。
 


川の匂い。
 



俺は咽返しそうだったのを必死で堪える。やっぱり、俺はこの匂いは苦手だ。
 


でもいつかは、この匂いも懐かしい匂いに思える時が来るのだろうか。いや、そうなってほしい。




俺はそんな思いでもう一度息を吸い込んでみる。

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