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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュの空思想・中観思想の学び全般の雑談・疑問・質問について

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空思想・中観思想の学び全般の雑談・疑問・質問について、こちらのトピックにて宜しくお願い申し上げます。

コメント(470)

縁起、此縁性については十二支縁起を強調して時間的因果関係としてとらえる見方と、
時間的因果関係にとどまらず同時的論理的な相互依存関係までも縁起と見る考え方がありますね。
前者のみを主張する論者もいれば、
後者を強調される論者もいれば、
両者を決して排他的にとらえるわけではなく、縁起についての理解の諸レベルとしてとらえる見方もありますね。
>>[431]
78910さんは、どのレベルの見解を支持しているのですか?

思想の紹介は、良いのですが、窪田さんとのやり取りの一貫性を失いますよ。
風見鶏みたいに、風の吹く方向を向くのは、バランス感覚の良さを現す自分の主張の足場を見せない、賢い手段ですが、プラサンガに徹する訳でなく、全てを理解していると言うスタンスは、感心しますが、単なるお調子者にも見えます。
断言するには、認識経験や自分の視点の足場を明かさないという、78910さんの最近の傾向は、些か疲れ気味です。
>>[431]
78910さんは、付き合いも一番長く、絡みも多いので、批判じゃなくそろそろ、軸をしっかりとして、転回なさっては?
という愛のコールなのです。
>>[432]

>78910さんは、どのレベルの見解を支持しているのですか?
思想の紹介は、良いのですが、窪田さんとのやり取りの一貫性を失いますよ。


私自身は基本的には十二支縁起の時間的因果関係を大事にしながらも、
論理的相互依存関係として縁起をとらえる見方に日々、心を癒されながら、
深く黙想に沈む時は、あらゆるものが私たちの概念的思考によって仮設されているに過ぎないという縁起のとらえ方にもひたっています。
「窪田さんとのやり取り」というのは何を指していらっしゃるのか、申し訳ありません。ちゃんと読み返していないので、詳しく問い直していただけたら嬉しいです。

いつもカルマ・ランジュンさんを始め、皆さんの書き込みをきっかけにさまざまに学びを深めさせていただいているにもかかわらず、
その時その時、のぞいた時点の関わり方しかできずにいることを、皆さんにほんと、申し訳なく思っています。
「因果関係」は論理的規定関係の一種である、という了解でいいと思います。
客観的な物理に言及しても、それは一つの論理なわけですので。それより、原因たる事象・結果たる事象・両者の結びつきという事象それぞれを心が捉えていることが――いずれの事象もそれを主語として語り得ますから――仏教の主要関心であるはずです。

事象の連なりがあたかもム−ビーフィルムのような自然的実在で、未来から過去に向かって展開してて、だけどそれを心が捉えるのは現在という刹那だけだよ、という方式でも教えとしては成り立っていたのでしょうね。アビダルマはそういう思想だったらしいですけど。
>>[435]

了解です、ただ、仏教の論理学には、数種あって、ブッダと龍樹は少し違いがあります。
ブッダは「無常」「苦」「無我」の定型表現なのですが
龍樹は「無常」「苦」「空」「無我」

と「自性がない」ので「空」という視点を強調します。
この上の3つの表現はパーリ語の阿含にあって、下の4つの表現は北伝の阿含にあります。

ブッダそのものは、「時間」は、重要な要素で、論理的な相関関係ではなく、不可逆の関係を形成しています。

所が、龍樹は「自性が無い故に、時間を超えて、論理性を重視した理論を形成しました。」

なので、ブッダと龍樹の指す、「勝義」はズレがあるのです。 穿った言い方をすると、龍樹は、ブッダを根拠にしていながら、ブッダは「時間」を「縁起」の中に観ていたのに、龍樹は論理性重視の理論を作り上げてしまったのです。

故に、「事象の連なりがあたかもム−ビーフィルムのような自然的実在で、未来から過去に向かって展開してて、だけどそれを心が捉えるのは現在という刹那だけだよ、という方式でも教えとしては成り立っていたのでしょうね。」
という芹沢さんの見解は、部派仏教の見解なので、ブッダにも龍樹にも認められない、という事になります。
ブッダは、弟子達に、「清浄行」する弟子には、「無我」を説き、「禅定修行」する弟子には、「空」を説いていました。


>>[436]

詳しい説明をありがとうございます。

ブッダと龍樹の差異については私の現在の知識を超えますので、その判断は先の話になると思います。龍樹が従来の縁起説を全く革新したという説もあるし、リバイバルの面を強調する説もありますね。私は両面あるという印象を持っていますが。

私の書き込み後半、ムービーフィルム云々というのは、もちろん説一切有部の話です。ウィキペディアから内容を拝借してます。
有部に言及した理由は、龍樹を理解するためには論敵の主張を考慮する必要があると考えるからです。
>>[437]

いつも芹沢さんは聡明ですね。
見習いたいですが、頭の悪い僕にはちょっと難しいです。笑
>>[438]

とんでもないです。
ネット上で議論を重ねてますと、自然とコケオドシやヒケラカシが上手くなるのですよ(笑
逆に言うと世の中の知識人てえのはそういう手合いが多いわけでして、本当の知者は少ないし目立たないものです。
「自分とは何なのか?」「世界とはどんな場所なのか?」という人生の意味を見つけ出す為に「物語」を作る活動をしています。

人間には、「意味構築活動」という、人間存在を規定する最も本質的な精神活動をしていることを見出したハーバード大学教育学部のロバート・キーガン博士が発表したこの説は、実に説得力が高いと思われます。
日々の生活の中に「意味」を見いだそうとするのですが、自分が悲しみを経験したからこそ、他者の悲しみに共感することが出来るのだ、と意味付けや解釈が行われます。 逆に意味など有りはしなくて、全て偶然の産物であり、そこに意味を見いだそうとしても徒労に終わるから、自分の生理的な欲求に忠実に生きるべきだとする受け止め方も有りますが、どちらにしても意味を見いだそうとするのです。

「学歴信仰」も思春期の「意味構築活動」も、呪術的な迷信も、色眼鏡であってこの「意識の構造」は、段階的に成長していきます。
それが前回書き込んだ6つの意識の段階(レベル)なのですが、人によって、人生の価値や満足は違いがあります。 何かの成果や立場などの社会的評価なのかも知れません。 喜びの満足度かも知れません。
友人・知人・家族の評価かもしれません。

例えば何かの研究をしていて、自分にはこれ以上の研究は無いと言い切る程の研究が出来たなら、満足出来る様になります。 しかし仏教の様に、「学術的な研鑽」と「悟り」は、両輪の車輪の上に成り立つ物の場合、学問の研鑽だけでは、意味が無く、総合的な意識の成熟が無ければいけません。

成熟だけで、様々な見解の勉強や吟味も必要で、意識が成長しない学術的な研鑽では、意味が無いし、情報はコンピューターの方が、客観的だし、価値の変更が出来ますので、様々な研究結果をコンピューターに入力すれば、正確な情報処理をしてくれます。

偏った情報というのは、偏った価値観しか生みません。 偏った情報の中で霊性(スピリチュアル)を扱えば、当然偏よった思想を形成します。

近年では、一部分しか見ない情報で構築されたスピリチュアルは幼稚で、多くの人が常識的見地を持つ様になってきているので、幼稚なスピリチュアルは、淘汰されてしまいます。

情報は情報に過ぎません。 新たな発見も素晴らしいことですが、それによって自分がどの様に意識を成熟し、喜び多き状態になれるのかが大事なんだと思うのです。
>>[441]
人それぞれの価値に基づいた果報ですね。
>>[438]

 芹沢さんは、「マクロ実体」ということを説いています。
 私は、「空」に反すると思いますが?
>>[443]
すいません、意味が判らないのです。

ミクロであろうが、マクロであろうが、自性を観るということは同じです。
やり取りの上では、芹沢さんは、ナーガールジュナの空思想を理解する為に、実有の思想であるアビダルマの思想を否定すると言う話しをしましたが、僕には何が問題なのかが判らないのです。
>>[444]

 「哲学が好き」コミュ−−−「龍樹の空思想」と哲学

 コメントNo.28における「部分と全体」の議論に於ける
 芹沢さんの主張の中に、下記の文章があります。
 私には、何のことか分かりません。

−−−−−−−−−−−(引用はじめ)
◎現代科学において、部分が原因であり全体が結果である、という振り分けは正しいか。
われわれはマクロな構造が「ミクロ実体」を統制する現象をいくらでも知っている。例えば、進化論における自然選択である。この場合、自然生態系における個体の生存・淘汰・生殖が、核酸塩基の遺伝情報を統制していると言えるのである。あるいは、台風における水分子の挙動(断熱膨張・水の変態など)は、巨視的構造である台風の渦巻きが統制していると言える。

◎そもそも、分子・原子・素粒子とは何であろうか。それらは経験可能な現象からの抽象的仮構ではないか。そうであれば、それら「ミクロ実体」こそ「陽炎」ではないか。
−−−−−−−−−−−−(引用おわり)

*もし、ご質問があれば、直接、芹沢さんにお願いします。
>>[445]

僕は、それぞれの見解は、ブッダ話や、龍樹が語ったとされるものも、鵜呑みにはしませんし、ましてや2000年以上前のことであれば、記録も定かではありません。

シルクロード上で新たな発見があれば、今までの学説が変わってしまい、考え方や認識が変わるなんてことも、今までも沢山ありました。

考え方も、一つの想定に過ぎません。
客観的真実は、経験科学に任せるべきで、宗教は、その真実の使い方、つまり知識を智恵に変える為のヒントを指し示してくれれば良いと思うのです。

なので、智恵の使い方は、人それぞれですし、人の価値観までは介入する意欲はございません。 ましてや他のコミュニティーまで観る気は起こりません。

引用して頂いた、芹沢さんの説に、不明な点はあるものの、違和感を感じることろはありませんでした。

愛と幸福と平和さんは、どんな矛盾なり誤謬を感じての主張なのですか? 他のコミュニティーであれば、話しの流れや、登場人物、コミュニティーの趣旨や意向もあるでしょうから、部分を掻い摘んで、ああだこうだと批評することは避けたいのです。



>>[447]

了解です。では、これは無かったことにしましよう。
 失礼しました。
健康とは何か?
と問われると、「肉体的にも精神的にも、また社会的にも良い状態であることが健康ということであり、この健康こそが、人間の有する最も基本的な権利なのです。

これは数十年前にソ連のアルマ・アタで開催された世界健康会議で宣言されたことです。
数十年の歳月は流れても、少しも変わらないことです。 統合心理学的、インテグラル理論では、科学や宗教、心理学、社会の理念を統合しようと試みる中でも、「健康」に対する理念は変わってはいません。
局部的な病気を取り除くだけでは人間性全体を鑑みると、それだけではダメなんだということは、ハッキリと認識される様になって来ました。


アーユルヴェーダは、〈医学・生命科学・哲学〉の概念を併せ持つ「寿命の科学」。
インドで約5000年前に生まれた学問で、生命が持続している期間をいかに幸福にいかに有益に過ごすかを科学するものです。〈心・体・行動環境〉という全体としての調和が健康にとっては最も重要で、病気を薬などで治す西洋医学とは異なり、病気になりにくい心身をつくることを目的としています。 つまり予防医学ですね。

このアーユルヴェーダは、アーリア人の生み出したものですが、アーリア人は、ギリシアに置いては西欧医学と西洋哲学とイエスキリストを生み出したのですが、東はインドにおいて六師哲学とブッダを生んだのです。

六師哲学はウパニシャッドとヨーガ学派を作り出したのですが、根底にあるヴェーダの思想は、インド共通の認識です。 ヴェーダの呪術的思考を否定して出て来たのが、仏教と古代インド伝承医学です。 共にナーガールジュナ(龍樹)を通じて大きく発展しました。

この事は、実践としての仏教を味わう為には、結構重要なことで、アーユルヴェーダは、西蔵医学(チベット医学)のどちから源流なのかは検証されていますが、五大エレメント、体液説(ドーシャ)の調整と自覚とコントロールは、心の制御に欠かせない認識です。

現代ではアーユルヴェーダのトリドーシャ(3体液)は有名になりましたが、次の書き込みで、3体液説の話を展開しようと思います。
すいません、上の書き込みは、日記からの転載でしたので、トリ・ドーシャの話は、チベット密教では、関係が深いのですが、日本に伝わった仏教とは、結び付きが余りないので、載せるのは止めて置きます。
>>[445]

>そもそも、分子・原子・素粒子とは何であろうか。それらは経験可能な現象からの抽象的仮構ではないか。そうであれば、それら「ミクロ実体」こそ「陽炎」ではないか。


物質もそれを構成している、より小さな部分へとどんどんどんどん分析を進めていったなら、最終的にそれ以上壊しようのない最小の実体が見つかるんじゃないかという考え方に対しては仏教は早々と徹底的な否定を加えていましたね。
>>[451]

刹那滅という論理的追求は、テーラワーダで生まれましたが、大乗仏教の台頭と共に、否定されてしまいました。
「実在」と観念的に想定出来る事柄は、「自性」を欠いているので、「実態として存在しているとは言えない」という「空」の哲学を生み出しました。

ミクロの実体とは、色々な想定の上で、認識されている仮想の存在です。
特にミクロの世界は、私たちが直接的に経験や認識が出来ない事ばかりです。
しかし仏教の中観哲学では、私たちが直接的に経験されるものであっても、条件の集積である洞察を展開します。

ミクロもマクロも、直接的に知覚できないものですから、取り組まないという現実の知覚を優先する仏教のスタンスとしては、放置される事柄です。

話の意図をズラしてしまいました?
更に言うなら、長い・短い、去る・来る、などの相対的な認識の出来事なども、実際の存在するものではないので、八否(はっぷ)として空の哲学の根本原理として扱われています。 知覚出来るものでさえ、否定される認識の中で、仮想世界のものが、どう議論されるのでしょうか?
>>[453]

仮想世界の構造を関係性の中で考え、そこに働きかけることはできそうです。
>>[455]

それを突き詰めていくと、仮想と現実の区別は付かないところにたどり着きそうです。

区別を付けたり、付けなかったりは、自らが判断しているわけですね。

自覚しているかいないかは別ですが。

>>[456]
それは素晴らしい自覚だと思います。
知覚に限れば、仮想と現実の区別は有りません。 なので現実でも仮想でも世俗の縁起の世界では、仮定された世界は縁によってあるというのですね。
「自性」を「実体」と訳すことが一般的ですが、これに疑問を感じます。
実体とするとギリシャ哲学以来のウーシアと混同されることになる。

それと、実体の派生的な意味として「性質の基体」という意味があって、物理に結びつけられているのですが、自性をこの意味に理解するのは気に入らないです。自分には違うとしか思えません。

答えを出すにはアビダルマの教学とギリシャの形而上学を両にらみした上で比較しなくてはなりません。牛歩のごとくですが今それを進めているところ。

龍樹の中論を読んでソシュールの言語学やウィトゲンシュタインの哲学との類比を考えてきたのですが、素人私だけでなく本物の哲学者も同じことを指摘しているのに出会い、大いに力づけられる経験をしました。

あくまで仏教に内在する立場の人からみると邪道かもしれないですが。
>>[458]

西洋哲学の文脈で実体と言う場合と、仏教の文脈で実体と言う場合とが、同じ言葉でありながら意味内容が違っているのでしばしば混乱をもたらす所ですね。そのせいで西洋哲学と仏教との対話が深い所でかねてから求められながらも、完全にうまく意思疏通できない障害の一つともなっていますね。
>>[458]

僕も仏教を単にその枠内の、身内だけの議論にとどめることなく、西洋哲学のさまざまな成果によってメスを入れてみることはとても大切だと思っています。
もちろんやみくもに斬り込むことは仏教についての誤解を助長するだけの場合もあるので、誠実かつ慎重な対話的検証が求められるところだと思います。
そしておっしゃるように、龍樹のような仏教の根本的論師の『中論』のような著書こそ、西洋哲学の諸成果によって鋭く分析されることは大変有益なことだと思います。
>>[460]

信仰と仏典の解釈学からなる仏教の立場に不満を言うつもりは全くありません。仏教と仏教学はそれ自体で完結していると考えます。何より信仰する人たちが法燈を受け継いでくれたからこそ現代のわれわれがそれに触れることができる。

問題は現実に根を持っていて、それは西洋文明が事実上世界を制覇していることにあるわけです。
山川偉也さんとか木田元さんとか西洋哲学の先生たちが仰っていることでもありますが、イオニアという場所で生まれた哲学が世界にひろがっている。われわれは意識的にせよ無意識的にせよそれを前提にして考えているわけです。西洋以外の思想を見る目も、いわばその色眼鏡で見ている。

だからおおざっぱに言えば、西洋哲学をもって頑迷固陋な仏教界に切り込むってのは話が逆かもしれない(笑) 目標とするところは東西の、ひいては全てのエスニックな文化の相対化ですね。
その中で縁起・空の思想を現実性のあるものにしたい。
>>[461]

縁起とか空とかいうことが何だか仏教内部で了解されているばかりで、広く外部の者もわかり合える言葉で説明されたり議論されたりしていないので、そういうふうに外部に向かっても、いっさいの権威主義なしに開いてゆきたい・・・ということでしょうか。
>>[462]

権威主義ってあまり問題じゃない気がします。今は批判の自由があるし、学説の交替も早い。

根本的な問題は言葉にあると思います。
古い思想にはどれも当てはまることですが、思想のスケールがずぬけているのと裏腹に、当時の言語の未発達に制約されていて、結果何言ってんのか分かんないという(笑
言葉どおりに訳すことはできても、現代人には意味が通じない、ということがあると思います。

そこを意味を掬い上げて明晰な現代語にすることには意味があると思います。


佐倉哲は僕の尊敬する人です。アマチュアで癖がありますけど、研究は本格的だと思います。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html


この人もアマチュアだけどいいなあと思います。失業を機に仏典を読んでみた、と言ってます。僕も似たような体験があります。
http://sky.geocities.jp/biyakuren_sutra/vajracchedika.html
金剛般若経について、言葉を補えば意味が通じるという工夫を試みています。単純だけどあなどれない思いました。
>>[463]

現代の普通の人たちに仏教が言っていることの論理的な意味合いを、閉ざされた専門用語ではなく、普通に話されている言葉を丁寧に使うことで明らかにする、ということでしょうか。
それはとても大切なことだと思います。
>>[463]

『金剛般若経』も大変教えられる経典ですね。
>>[463]

今、初めて芹沢さんが紹介されている佐倉哲さんのブログをのぞいてみました。ちょこっとのぞいただけですが、誠実に幅広く考察・勉強されており、そうした成果を人々に伝えていらっしゃることは一つのとても有益な活動だと思います。
芹沢さんも言うように、一般の人々の興味や言葉づかいに添った誠実な仏教分析というものがとても求められるところだし、とても価値あることだと思います。
>>[466]

以前紹介したウェブサイトが消滅したのでがっかりしていたところです。ご覧になったブログは、わたしは見たことがないと思います。早速検索してみます。
>>[466]

存在してますね。おかしいなあ。ちょっと前ですが、確かに検索できなくなっていたので。ウェブサイトを一時的に閉鎖していたのでしょうか。
まあ、健在なのはなによりです。
オウムがまた人々により振り返られ、考えられるところですね。
中心となる人に心内の煩悩が燃えたまま、その人を取り囲む集団が彼をまつりあげ、信仰してしまったら、集団全体が煩悩の炎に振り回されることになってしまう。

自制心もそなえた円満な人格修養がいかに大切であるか、あらためて思い知らされるところです。
>>[30]

いっきゅうさん、ご無沙汰しております。
何度か話題に上がった島村大心さんは、五年位前にガンで亡くなられたそうです。

大心さんが、自分でも体調不良だったのか?冗談でガンかもしれないようなことを言っていたんですって。しばらく連絡してなくて、知人が用があって連絡したら昨日死去したと家族に伝えられてビックリしたとのことです。ので、あまり知られていなかったんですね。

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