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ユング心理学研究会コミュの【講義レポート】ユング心理学概論2009/7/16第二部 ユング心理学の成立過程(スピリチュアリズムとの関わり)

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コミュ内全体

講師 白田信重先生
日程 2009年7月16日
会場 中野

レポーター 河上裕彦



1.はじめに(報告者より)
第1部もそうでしたが、第2部は特にレジメがよくまとまっているので、講義レポートは必要最小限にとどめます。


2.ユング心理学の中核とユング思想の中核
ユング思想とユング心理学とを分けている。
公式の臨床心理学としてのユング心理学。

ユング心理学の中核にあるのは、コンプレックス論と心的エネルギー論
ユング思想の中核になるのは、元型論。

両者の成立年代は異なる。


3.ユング心理学の成立過程
幼少期から心霊的素養。降霊会に参加。
心霊学にもどっぷりはまる。
その後カントとショーペンハウアーに触れ、哲学的にものを考えるようになる。

博士論文で従姉を取り上げ、あれは心霊現象ではなく、コンプレックスによる分離現象なのだという理解を示す(精神医学的な説明をする)。
その時点でユングは心霊的なものへの関心はいったん封印して、科学の世界でものを語る。そこからキャリアを始める。そこからユング心理学が始まる。
言うなれば、自分の信念をいったん封印してオブラートにくるんでできたのがユング心理学。
そこにユング心理学とユング思想のずれが生じる。

コンプレックス論
1900年代に確立、ユングの経歴の始まり(心霊学から科学へ)
実験研究(言語連想実験)を通してコンプレックスを発見。学問的にフロイトの理論を実証的に支持するという手紙→
フロイトとの協力関係

ユングのコンプレックス論の成立はフロイトとの協力関係とかぶっていることが重要。
→心的エネルギー論成立に向かう。

心的エネルギー論
1910-20年代に確立、ユング心理学の形成、フロイトとの決別
心に意識と無意識の分離があることについては、ユングもフロイトも認める。
しかしそれを動かしているエネルギーの理解の仕方が異なり始める。
フロイト 性的エネルギーが原動力となる。
ユング 性というかたちにも表現されるが、もっと一般的なエネルギー
→考え方の齟齬→フロイトと決別して、心的エネルギー論の考え方を基にしてユング心理学を作り上げる。

心的エネルギー論の確立は、フロイトとの決別と関係している。


元型論
1920年頃から登場、1930年代に確立、晩年まで発展を遂げる
ユング思想のかなりの部分を占めるようになり、徐々にユング心理学にも入ってきて、ユング心理学にも影響を与える。
ユングの変化=元型論の変化

? 当初の元型論
元型論は、心のふるまいのパターン
心的領域における本能的なものの現れ
動物に本能があるように(例.魚が赤いものを見ると攻撃する)、人間にも本能的なものがあり、あるイメージが現れるとそのイメージに反応してしまう。
ある女性のイメージを思い浮かべる
→もともと男性の性行動を促すイメージであった。それがいろいろなものに投影されるようになる。
例.車を大事にして女性のように優しくさすって、きれいにする。白田さんの奥様曰く「スポーツカーに乗る男性は彼女を乗せてはいけない。スポーツカーが彼女だから」
本能を超えてまでイメージが投影されるのが人間の特徴。

そういう元型的なイメージがある。
元型的なイメージが現れると、人間の行動を非常に強く方向づける。
当初はこういう議論から元型論が始まる。じゅうぶん科学的な理論であった。

? 元型論の変化
哲学的な領域や超心理学などのいろいろなものと結び付けていく。
元型は心のふるまいではなく、世界の元々の原理ではないか?
それは心と物質に同時に作用するのではないか?
だから共時性のような現象が起こる。
ある元型が活性化すると、心と物質に同じものが起こる。そうすると我々には偶然の一致に見える。
宇宙の奥底のすべてを統制する原理ではないか!?
そうなると科学的な心理学の範疇を超えて、神秘学的な領域になる。

元型論の発展の過程で、科学的な心理学としてのユング心理学が神秘主義的なユング心理学に変わっていく。
封印していた心霊主義的なもの、超心理学的なものへの関心が戻ってくる→ユングの元型論はこれらを説明するようになる。
心霊的なものを心理学的な立場から論じていたが、霊は霊として論じた方がよいのではないかという変化。
→錬金術研究を通して醸成される。

実はユングのこの変化を語るのが、白田さんの2009年の残りの2回の講義(元型論と錬金術研究)
今日はその前ふり。
科学的な臨床心理学として一般に流通しているユング心理学を少しずつ解体して乗り越えていく過程がユングの後期にある。
そこまでやると、白田さんの想定しているユング思想の全体像になる。


Q.心的エネルギーとコンプレックスの違いは?
A.コンプレックス:基本的にはあるイメージの集まったもの。
イメージの複合体。そしてそのイメージの複合体が出てくると、あるエネルギーも引き起こされる。

コンプレックスと元型は関係がある。
コンプレックスを裏で支えるもの=元型

具体例)母親コンプレックス
ただ単に個人的なイメージで作ったものではなくて、元型的な母親像を背景に背負っている。個人的な要素で元型的な要素が実現している。それが母親コンプレックス。
母親コンプレックスが現れると、元型的な母親像のパワーも引きずって出てくる。
だから母親コンプレックスは、人間を突き動かす力がある。
逆に言うと、元型を背景に持っていないコンプレックスはあまり力がない。

心の中には、元型を背景に持っていないコンプレックスもあるし、そもそもコンプレックスを形成しないようなイメージの断片もある。
  たしか中期のユングは表象コンプレックスと機能コンプレックスに分けていた。
表象コンプレックス:単なるイメージの複合体
機能コンプレックス:単なるイメージの複合体を超えて特定の機能(働き・エネルギー)を持った

後期のユングであれば、裏から元型が支えているコンプレックスと裏から元型が支えていないコンプレックスとに分ける。


Q.今日はピアノを弾く方がいらっしゃる(ピアニスト:河上素子さんと麻野沙央織さん)。そういう方たちは、ピアノを弾かない人から見ると、どうしてああいうふうに指が動くのか?分からないところがある。
そういう訓練で身につけたもの、訓練の中で生まれてきて、ある種のパターンを持っているもので動けるから、指を1個1個意識しては動いていないと思う。
そういうものもイメージの断片とカコンプレックスと位置付けることは可能だろうか?

A.自我はそうである。
例えば「よい子にしなさい」
初めは意識的に苦労して訓練→それが自然に備わってくる=その人の自我を構成するものになる。
意識しないでやってしまう。
だけどそれを意図的に変えて行こう→習得したレベルに意識的にもう1度戻ることになる。自分がどうのように習得してきたのか? どうしてそれをするのか? 

ピアノとは少し違っているかもしれなし。

Q.冒頭の方で文化とか社会とか仕入れた知識で自我が形成されるけれど、それは個性化ではない。それは訓練として何かを結びつけるのと同じか?

A.同じかどうか分からない。でも、訓練で身につけて自然にできるようになるというのは自我の形成のプロセスでしょうね。

Q.そこはまだ個性化ではないのだよね?

A.個性化ではありません。

Q.機能を自我に身につけている。かぶっているだけなのだよね?

A.ユングはちょっとそこのところは微妙で、例えばある職業を選ぶところに個性的ではないのだが、そういう仕事を選んだところにその人の個性の萌芽がある。だから全く個性化に関係ない訳ではない。それはまだ種の段階で個性化されているとは言えない。
実は自我の発達過程にも元型的なプロセスがある。それを元型論のときにやろうと思っている。
つまり自我ができていく過程の元型の発展プロセスと個性化過程の元型の発展プロセスは別にある。



レポーターコメント:
私は職業上演奏者と関わることが多いのですが、自分でやりたいというはっきりとした意思を持ってからでは将来プロになるための技術を身につけるのは遅いので、親の意思で音楽を始める方が多いのです(場合によっては「やりたい」とお子さんが言ったのを言葉質にとってさせる場合もあります)。ごく稀に中学生になってピアノを始めて音大に進んでプロになって成功をおさめる方もいますが、本当に稀です。
そういう方たちの中には漫然と進んで行く人もいれば(ソロのみで活動する楽器の奏者に多い)、比較的人生の初期の頃、中学生や高校生のときに大いに「本当に私がやりたいのはこれなのか」と悩んで、そして何かを乗り越えていくことがあります。
私はそれを何度か目撃しました。そしてお話にも聞きました。
それはまだ個性の萌芽の段階なのでしょうか? 元型論のお講座を楽しみにしております。



Q.私(自我)と私(意識)の違い

A.私は本当に意識して、この行為が何を意味しているのか、そして何を意図して敢えてこれを行うか、そこまで意識して行う行為と、ふっと当たり前にやってしまう行動とがある。
どちらも私がやっていることだが、同じ私がやっていることではない。
私の行為にも、本当の意味での主体的な行為と、ただ単に自動的に行っている行為の両方がある。
どちらが本当の私か? 主体的にやっているのが本当の私という考え方がある。

自我は意識野の中心であると同時に。無意識的基盤をその背景に持っている。
私たちの自我は意識の中心であると同時にもっとも無意識的なものである。

自我と意識は同一化してはいけない。
自我とコンプレックスが関係を持つ活動そのものが意識。

両者が違うことに気づいたときにはじめて個性化が起こる。
私がやろうと思ってやっていることの中に、実は私がやろうとしていなかったものがある。「私」の二重性、そこに気づくところから意識化が始まる。


【大橋さんコメント】
なかなか我々が普段用いている言葉の使い方と異なっている。
このコンプレックスには3つの意味がる。

? 例えばコンプレックスは日常的には劣等感という意味で使うことが多い。

? 少しユングを知っている方は、コンプレックス=個人的なもの、個人的な無意識という見方、つまり集合的な無意識とは分けて考えをするかもしれない。

? しかし白田さんは?や?よりも広くコンプレックスの意味を考えている。
それを明確にしておいた方がよい。



コンプレックス:個人的なイメージが複合したもの
元型:集合的な無意識
入門書に書いてあるこの理解は実は大間違い
ユングもそう書いたことがあるが、英語版からドイツ語版に翻訳するときに削除している。ユングはそういう考えはまずいなと考えたのだろう。
林道義先生は入門書にそのように書いているが、林道義先生の研究会で林道義先生ご自身が、「この部分はいけないんだよねえ」とおっしゃっていた。

コンプレックスと元型がはっきりと分けられると考えるのが間違い。
例)「犬を連れてこい」と言われ
犬を連れて行ったら
「それは犬じゃなくてポチだよ。そうじゃなくて犬を連れて来い」と言われたらどうするか?
ポチは犬であるけれど、犬そのものではない。
犬は一般的な概念。それをポチの中に見ている。


母親コンプレックスに母親像を見る。それは個人的な母親のイメージではあるが、そのなかには我々の根源につながっている共通なイメージが含まれている。必ず同時になる。元型だけが分けて存在するわけではない。

元型:必ず個別のものを通して経験する。元型そのものを経験できない。
個人的コンプレックスを経験すると同時に元型も経験している。
ただし概念的に両者を区別することは大事。

具体例)河合隼雄先生の所に来た子供の母親のイメージ
「僕のお母さんはすべてを破壊してしまうような怖い母親である。」という話をずっとする。
けれど本人に会ったら、普通の人で怖いところなどどこにもない。
なぜそのような話をするのだろう?

なぜかと言うとその子どもがお母さんの中にグレートマザーのイメージを見ている。
=個人の母親像と元型的な母親像がごっちゃになっている。

その子どもが成長していく過程で(=自我が発展していく過程で)、母と子どもが一体であるところから成長していく必要がある。そのときに母親を飲み込む存在として怖く感じる。
怖く感じないと母親から分離できないから、怖く感じないといけない。
そういう段階にその子が来ていることを表している。

これは子供のケースであったが、成人がこのようなイメージを持ったら、分けなくてはならない。
女性を怖がっている男性。その対象の持っている女性のイメージを怖がっているのではなく、元型的な母親像を怖がっている。
本人が分離できるかどうかは臨床的に大きな意味を持つ。だから分けて考える。

原理的にはコンプレックスと元型は分けられないが、両者を分けて考えるのは臨床的には重要である。

【大橋さんコメント】
第一部の7ヶ条の(3)「無意識は深層にあるものではない」
深層心理という言葉もあり、理解しにくい。
第一部の7ヶ条の(5)「あちら」は心と違うのか?


自我―無意識―深層の無意識は、ある種のモデル。
現実問題としての無意識は常に現われている。
現われていないものは、そもそも深層にあるかどうかも分からない。
ずっと深層にあるものは分からないし、ないのと同じ。

深層にあって活性化しているものは必ず表面に現われている。
現象学の新しい流れにもそのような理解がある。

現われているものこそ深層なのだという発想の転換をしないと、現実に起きていることは分からない。

目の前のものを意識すればよいのだが、「あちら」(自分とは違うところ)はあるように感じられる。イメージを持って語りかけてくるものが「あちら」。
「あちら」が自分の心の中なのか、宇宙的な意味でのあちらかどうかは曖昧。

継続的にある夢を見続けると、夢の1個1個はバラバラのものではなくて、あたかも向こうに私に語りかけてくる主体があるかのように思えてくる。

そういう意味でここで言う「あちら」もユング心理学の範囲内。そういうものがあると思った方がよいとユングは言っている。
夢はただの見るのではなく、「あちら」から送られてきたメッセージだと受け取る方が臨床的には意味がある。

それをやっていくと、心理学的には本当にあちらがあるかどうかを留保して、やってくるメッセージだけが意味があると考えるよりも、あちらがいると思う方がよいのだったら、「あちら」があると考えた方が早い。


後期のユングも心理学者としての片脚は残している。
1944年に心筋梗塞で発作→臨死体験。転換点となり
それ以降自分が思ったことに留保をつけて話すことをやめたと語る。
イメージの流れに沿って話すようになる。

ヒルマン ソウル・メイキング
個性化を英語で コンシャス・メイキングと言う方をする。ヒルマンはそれを文字っている。
つまり意識を作るのではなく、ソウルを作る。
ユングは後年ヒルマンに近いことをやっている。
意識化して意識を語るだけではなく、「むこう」に意識を語ってもらう。語り方を変える。
ユング心理学も語り方を変えた。

意識・無意識という言葉を使うよりも、錬金術の太陽と月の結婚という言葉を使った方がよい。
具体例)「あなたは今意識と無意識が葛藤していますね。それを統合しなくてはなりませんよ」と言うよりも「あなたの中で太陽と月とが関係を持たなければならない」
意味は分からないけれど、後の方がその人の心に響く。
そうしたらそちらを使う。

統合ではなくて、結合になる。両方から(大橋さん。白田さんも同意

そうするとシュタイナー的なものに近づくことになる(晩年のユングがシュタイナーをどのように評価していたのかは不明)

しかしもともとユング心理学にはそのようなものがあった。
例えば影、アニマ、老賢者
ユングはしっかりと定義しているが、その定義を聞かなくても、何となく意味は分かる。
そういう言葉を使うところがユング心理学の優れたところ。

響く言葉を使うのがユング心理学のポイント
それを通り越して、後期はイメージで語る。

科学的心理学を超えているとも言えるし、科学的心理学を経たからそういうことができるとも言える。科学的なものを否定した訳ではない。発展したとしか言えない。

そういうものが白田さんの考えるユング心理学も含むユング思想の全体像。


ピアニスト河上素子さんのコメント)
音大でこういう風に弾くものだといっぱい習うけれど、本当に素晴らしいピアニストはその奏法を捨てて、自分に合ったもの、自分に響くものを見つけないと音楽活動は始まらない。


ユング心理学は、すごく当たり前の経験を語っている。それに気がついて欲しい。
起きていることをそのまま言っている。


Q.太陽と月は結合できるんですか?
A.後期でやりますが、逆説的で決して結合できないものが結合するイメージが、ある種の心の変化を持って現れる。
親鸞の六角堂の夢のように論理的には解決していないが、意識のあり様が変わる

Q.タオイズム(道教)の中にユング心理学が含まれるのか、それともユング心理学の中にタオイズムを含むことができるのか?
A.どっちの観点でも言える気がする。
しかし白田さんとしては最後の最後で両者は異なる気がしている。
ユングの理解は西洋的なもので、キリスト教的なものを含んでいる。
ただユングは東洋的なタオイズムを理解しようとした。そしてタオイズムに関する本を書いた。
その本が今もタオイズムの入門書として読まれている。

タオイズムの研究者はいい加減だと指摘する。
マンダラ・錬金術に関してもあれはまずいという研究者がいる。
錬金術入門でいちばん読んではいけないのはユングだと言う人もいる。

ユングなりの理解もあるのだろう。誤解もあったろう。
ただ言えることはユングがいなければ、易とかタオイズムが欧米であれほどまでに受容されたかどうかは疑問。
ユングは面白く翻訳した。


結合できないものがどうして結合するかは、後日のお講座で見て行かないといけないな。


Q.結合できないものの結合は、この前志賀さんのシュタイナーに関する講座の中でおっしゃっていたように、矛盾するものはパラダイムの中で矛盾しているが、その背後にあるものを理解していくと、そのレベルでは矛盾しているものが、自分では納得できるという理解はいかがか?
A.それだと論理的に上手に説明している。

Q.私の思う結合。王と女王。セックスしているの?(アンナさん)
A.いろんなイメージがありますが、対等な関係でセックスして死んで腐って、浄化して雨になって降ってくるというイメージがあります。
Q.性的な結合でイメージしたのですが、タオ性科学【レポーター注:謝明徳(マンタク・チャ)著エンタープライズ刊】で、男性と女性は1つになれないけれど、気の流れが合流して1つになる。一体感もある。物理的にカラダは別。あのイメージで結合かしらと。エネルギーの意味での一体。
A.ユング 論理的なレベルでは結合しない。対立し続ける。
だけどある種のイメージの中で両方が表現されるときには、結合しているものとしてはたらく。
親鸞 自分が分裂してどこにエネルギー使ってよいか分からない。両方が表現されたイメージが立ち現われると、同じ方向で両方を行うことができる。分裂しないで新しい行動を起こすことができる。
イメージと意識が違うことで別のことができる。
そこをどう理解するかがすべて。―後期のユングのすべて

ただ両方がごっちゃにあるだけでは最初の混沌の状態とおなじ。

分かれた上で、両方の意味を保持したまま結合できる。

体験としては単純。
意識的に生きていることが前提。意識的に生きると初めて対立に苦しむ。

ユングの最後の結合の段階は死ぬこと。
生きて生まれて、意識を持って、葛藤を持って生きて、自分の心の中を統合して行って、最後に死ぬことによって世界と統合する。死後に何を持ちこむかは個性化の最終過程。
死んで持ち込んだもので世界を変えることが個性化の最終段階。


4.結び(報告者より)
次回以降の大橋さんの講座と白田さんのお講座が楽しみです。

また近々他所で白田さんのお講座が開催されます。

タイトル 生と死のユング思想
日程 H21.8.23 10:00〜16:30
会場 五反田きゅりあん
受講料 (学会員)1コマ2500円 全日4000円
    (一般)1コマ3000円  全日5000円

問合せはこちら
 秘教科学分科会主査
 神尾 学
 TEL&FAX03-3672-8473
 kamio@subtle-eng.com

以上のサトルエネルギー学会のWS情報は下記のホームページより転載しました。
http://www.subtle-eng.com/seminor_event.html

コメント(24)

 ひろひこ@(^-^)ノさん、講義録、ありがとうございますわーい(嬉しい顔)


 ところで、意識の分類だと、フロイトの場合、意識、前意識、無意識の区別があります。

 フロイトの場合、自我の分類だと、超自我、自我、エス、の分類がありますね。

 …で、自我が必ずしも意識ではないのはフロイトも同じですね。

 日本人の場合、ホンネの意識、タテマエの意識などという、またややこしい二重構造があったりし、ホンネを本気で言ってるときは、タテマエの意識が無意識化し、タテマエを本気で言っているときはホンネの意識が無意識化したりもするようで、使い分けが出来たりするので、ラカンなんかは日本人には精神分析がいらない、なんて言っていたり、…。

 まぁ、エスは、ほぼ無意識で、ユングの元型のシャドウとセルフにまたがる無意識の人格風の表現だと思いますが、確信犯的犯罪者はエスを意識化して自覚できるかも知れません。

 フロイトの標語には「エスのあるところに自我をあらしめよ」というのがありますが、それには、暴力や破壊の衝動を持つ己の悪を自覚せよという含みもあったかも知れません。

 己の悪を自覚し、意識化して、自我によるコントロールが出来るようにしておかないと、戦争時の非常事態の時などには、集団レイプや略奪に加担してしまいかねない。体育会系の飲み会での集団レイプ事件も、たぶんエスの意識化が不十分な青年であるための一時的な憑依状態で、やってしまうようにも思えたりします。
詳細なレポート感謝です。

最近の私は、日記でしばしばソウルメイキングしてることを書いてるのでしょうか?
心理学者としてはやばいですね・・・
みっくんみたいに引退してから趣味でやるにはよいですけど、本業にすると食べていけないですからね。
それどころか、排除されてしまいますからね。
こんなにまともでおかたい私でさえ!笑

その私にとっての個性化は、やはり皆様の求める方向とは逆ベクトルであるように思ってます。
こういう変な人(最近マジで、本当に人なんだろうかって不安になってきますがあせあせ)がひとりくらいいても、いいですよね?
お許しください。
> アンナ=アリエルさん

 日記でソウルメイキングをふらふらexclamation…みんなと逆ベクトルの個性化って?(白)…それは、わざと、画一化を目指すとか冷や汗。あるいは、子供のように囚われのないピュアなココロになる?(白)exclamation
そうそう、俗っぽくなることね。
自分らしくないと思われる大嫌いなことをやっていくのね。
そうしてると結構バランスがとれるのかなって思ったり。
新しい自分を発見したり、人が学習によってどこまで変化するのか挑戦してみたり。

時間とエネルギーの無駄のようですが、ま、大いなるお遊びです。
> アンナ=アリエルさん

 あぁ、ハイデガーはその実践を確か“頽落”と呼んでいました。ニーチェの超人の“没落”を踏まえていて、多分、十牛のニッテンスイシュ(←ケイタイでは漢字で変換困難顔(願))に通じますね。なんと、それは、ソウルメイキングのファイナルステージでもあったふらふら人差し指

 自分の嫌いなことをわざとやってみるというのは、ソクラテスがデルフォイの神託で、フルートを練習せよと言われたのと同じかも。これも、一種の個性化のモーメントっすね。
けろりんさんにかかると、なんでもすばらしくなっちゃう。
そういうの、好き!ハート達(複数ハート)
けろりんさん、アンナ=アリエルさん

ジョークのわからない無粋な私の老婆心かもしれないですけど、

ソクラテスって、フルート(音楽)、嫌いだったんですか?

私には、十牛、悟りに向かう一つの過程が一周して再び日常に帰ることで、そこからまた新たな悟りへのサイクルが始まることを意味しているように思えるんですが・・・(悟後の修行のことですね)
(もし、そのサイクルが一周して、前よりも奇行が増えたり変人になったのだとしたら、その悟りへのサイクルはどこかで間違えた失敗作だった、という証拠(個性化の失敗)にしか、私には思えません。つまり悟りは日常性を犠牲にするものではない・・・ということです。この十牛では、そういうことも暗示されているような気がするのですが・・・。←だから、ことさら俗っぽくなるよう努力する必要もないと思うんですよね)

なので、自分らしくない嫌いなことをすることが、ソウルメイキングのファイナルステージだとは、どうしても私には思えないんですよ・・・。

お二人ともジョークを交わしてらっしゃるだけなのかもしれませんが、

“自分らしくない嫌いなこと”をし続けた成れの果ては、神経症か鬱病

のように私には思えますね。

いずれにしろ、アンナ=アリエルさんの実験報告をお待ちしています(普通の凡人はやめたほうがいいと思いますが・・・で、「自分が凡人である」という認識はとても大切で、最後まで身を守ってくれる自覚でもあると私は思ったりもしているんですよね)。


> ミネルヴァの戦士さん

 …な、なるほど冷や汗。そこまで深く考えていませんでした顔(願)。い、いかん。

 ちなみに、クソ真面目なソクラテスは、音楽が苦手で、あまり興味がなかったようです。

 カントなんかは音楽を娯楽性が強いエンターテイメントと考え、芸術としては、詩、絵画につぐ三番目の順位に考えていたようです(←私は、音楽は最高の芸術である気がするのだが冷や汗)。カントは、毎夕近くの刑務所から聞こえる囚人達の歌う改悛の賛美歌を、思索を乱すものとして呪っていたようで、隣のピアノの練習がうるさいと金属バットで殴り込む少年並にキレそうになっていたりしたようです。
ごめんなさい、“なれの果て”はよくない言葉でした。
神経症や鬱病の方に失礼でした、申し訳ありませんあせあせ(飛び散る汗)(そうした病気を患ってらっしゃる方は、案外、時代の病を先駆けて引き受けて下さっている・・・とも聞きますから)

ただ、“自分らしくないこと”と“嫌いなこと”は、イコールじゃないかも知れませんね。
“嫌いなこと”は個性化に役立つかもしれないけど、“自分らしくないこと(ユング心理学的な意味で)”はよくないような気がします・・・

けろりんさん

ソクラテスが“音楽をやれ”とダイモーンに言われたお話、私も聞いたことありますよ。(このダイモーンは客観的な霊なのか、心の声なのか・・・という問いには、敢えて触れませんがあせあせ←私には分んないし)
それは、やっぱりバランスってことでしょうね。その文脈で、けろりんさんもお話されていたんだとは思ってますが・・・

カント、そうなんですか・・・。でも、私も同じ場所にいたら、家の中で一人キレてたりするかもしれないです・・・あせあせ(私、けっこうカント好きなんで、ちょっと贔屓あせあせ
> ミネルヴァの戦士さん


 中島義道 著『カントの人間学』は、人間くさいカントを描いていて興味深いです。

 …ちなみに、カントを読んでおくことは、ユング心理学を理解する上で重要な気がしますウインク人差し指
> ミネルヴァの戦士さん

 画家であるリザベータ・イワノヴナさんが、愚痴るトニオに、自分がいかに凡人であるかという自覚を促す、有名なフレーズが『トニオ・クレーゲル』にはあって、…イワノヴナさんはたいしたカウンセラーだなって感じなんですが、…まぁ、インゲボルク・ホルムよりか美人じゃないにしろ、中身がある素敵な智恵のアニマかも。トニオは、意外に、ラッキーである。
ひろひこさん、後半も詳細なレポート、ありがとうございます。

この後半に関しては、皆さんからいろいろご指摘があって、
幾つかの点につき、自分が当然の前提として話していることが
実は説明がないと分かりづらいことであったと気づかされました。

皆さんの質問も結構鋭くて、
それに答える形で上手く説明ができたところもあります。
質問がなかったら、どこか気の抜けた発表になっていたかも。

またしても、勉強になったのは私のほうです。
人の前で話をし、人とやりとりをすることが、いちばんの勉強になりますね。
8月23日の発表に向けて、また苦慮しつつ準備をしているところです。
>1・けろりんさん

フロイトとユングとは理論的対立から決裂したわけですが、
フロイトは後年、ユングの立場に接近してきていて、
例えば超自我はユングの言う自己に近いものではないかという指摘があります。

逆にユングのほうは、後年になっても決裂の時期以前のフロイトにばかり言及し、
それ以降のフロイトの仕事に対しては背を向ける傾向があったとされます。
(堀江宗正『歴史の中の宗教心理学』、岩波書店、2009.4、を参照)

超自我、自我、エス、の分類は、
フロイトの自我論においては後期の修正にあたります。
ユングの自我論に似てきているところがあるかもしれませんね。
>2・jazz_Kさん

写真ありがとうございます。
そのものズバリ「ユング通り」ですね!
写真を見ながら、ここ東京の浅草から思いをはせてます。

ユングは田舎育ちなんですよね。
下町に生まれ育った私とは生育環境がまるで逆です。


そういえば、ユングは「元型」という言葉を使う前に、
音楽用語の「ドミナンテ」を元型を意味する言葉として使っていたときがありました。
翻訳では「調整因」になっていましたが、
このへん、具体的にはどんな感じなのか、音楽に疎い私に教えていただけないでしょうか?
>3・アンナ=アリエルさん

ソウルメイキングを提唱するヒルマンは、心理学そのものの枠組みに対して批判的ですからね。
心理学者としてはヤバイでしょう、やっぱり。

ただ、私としては、優れた科学的業績においては、
研究者のソウルメイキングが重要な役割を果たしているという気もしなくはないです。
科学哲学者マイケル・ポランニーが、科学者の暗黙知に注目するのも
そういう部分があるからでしょう。

アンナ=アリエルさんには、是非とも
「科学実証的な変人」をやってほしいです!
    ↑
(他人事だと思って無責任に言ってます)
>10・ミネルヴァの戦士さん

>ただ、“自分らしくないこと”と“嫌いなこと”は、イコールじゃないかも知れませんね。

この区別は、けっこう大事かもしれないですね。

嫌いだと思っていることの中に、自分らしさの種があったり。
「嫌い」という形で情動が動くこと自体、
自分と何らかの関わりがあることなのかもしれないし。

逆に、「これが自分らしさだ」と思っていることの中に、
自分のこれからの成長を妨げる要素があるかもしれない。
のぶさん

「これが自分らしさだ」と思っているのは、自我ですよね。

そして、その自我の背後には、「自己」があり、個人的無意識や普遍的無意識という領域がある・・・ということでした。

私は、「個性化」というのは、そうしたもっと心の奥深い部分からやってくるエネルギーが関わっているもののように思えるのです。

たとえて言えば、海の底から押し寄せてくる“津波”のようなものでしょうか。

そうした津波に自我が立ち向かって意識化を果たしていく過程を「個性化」と私は捉えています。


だから、海の表層のチャプチャプした波(自我)が「私らしい」ものを規定して、バランスを取るためと、その反対の「私らしくない」ことをやってみても、私にはそれが「個性化」とはどうしても思えないのです。


とはいえ、戒律をきっかけとして、深い情動が動いてくるような事態に陥ることも多々あるとは思うので、100%否定するつもりはありませんが・・・
(例えば、戒律を守る僧が人妻に恋をして、葛藤を重ねる場合などわーい(嬉しい顔) 
こういう場合は、戒律(あるいは法律や常識)を心に設けているからこそ「個性化」の過程が自ずと現れてくるようにも思えるのです。
まぁ、現代のように、戒律なんか関係なく、欲望のままに動いちゃうと単なる不倫になっちゃいますけど・・・とはいえ、不倫から個性化が生まれる可能性もなくはないとは思いますが・・・)
それと、もうひとつ・・・。

「才能」と「個性化」とは、どういう関係があるのか・・・という疑問があります。

ご講義録の中にも、ピアノの訓練のことが書かれてありましたが、こうした「練習」や「しつけ」や「規律による」不断の訓練によって形作られるものやその過程もまた「個性化」と呼んでいいのでしょうか。

音楽の才能、絵画の才能・・・など、一つの魂が持っている才能は、その魂の一つの“個性”でもあると思います。(そして、才能は、転生輪廻を繰り返す中で、訓練や職業によって培われていった魂の個性とも仮定することは可能だと思います。←あ、この仮定は、死んであの世に持ち帰れるものは「個性化」によって得た学び・・・という考えから来ています)

ユングのいう「個性」の意味の中には、そうした「才能」の意味も含んでいるのでしょうか・・・。
それとも別の意味を持たされているのでしょうか・・・。

なかなかうまく説明できないのですけれど、そんな疑問が、私の中にあります。
> のぶさん

 なるほど冷や汗

 …しかし、こちらが間違っているかも知れませんが冷や汗、…私の印象からすると、“(フロイトの!)超自我”ってのは、“自我インフレーションを危うく止揚し、反社会性一歩手前で、権力と金の力で強引に市民権を獲得した、アブナイ教祖の説教好きなパーソナリティ(それゆえ抑圧した強烈なコンプレックスも抱えている!)”みたいなものを想起してしまいます(←あ、私の個人的な転移かふらふら)。

、あと、“自己元型”に近いのは、むしろ発案者であるゲオルグ・グロデックの“(オリジナルな!)エス”のほうであるように思えてなりません。

 またしてもフロイトはグロデックのエスをプロクルステスの寝台にかけ、虚勢してかたわにしてしまったような、…冷や汗

 超自我にも意識と無意識があり、自我にも意識と無意識があり、エスにも意識と無意識があるかも知れません。というか、意識がその三者間をシフトし、意識のスポットライトから外れた、照明されない闇が無意識になる…。
> jazz_Kさん

 ドミナントは、あと、生物学では、いわば“ヌシ”とか、特に強く生命力がある、最後まで生き残る、“優勢な個体”を意味したはず(←ただし、うろ覚え顔(願))。
> jazz_Kさん

 確かドミナントには“優勢心象”とかいう訳があった気がするのですが、うろ覚えです。…“優生心象”だったかな冷や汗。ううむ冷や汗

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