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数学コミュの整数の違和感

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コミュ内全体

 子どもの頃、整数(離散量)の問題には気持ちの悪さがあった。
 たとえば、スタートラインから1m置きに1本ずつ旗が立っているとすると、
 5本目の旗は2本目の旗の3本後ろにあります。
 2本目の旗から5本目の旗まで、旗は全部で4本あります。
 2本目と5本目の間にある旗は2本です。
 ところが、
 5mの地点は2mの地点の3m後ろの地点です。
 2mの地点から5mの地点までの距離は3mです。
 2mの地点と5mの地点の間の距離は3mです。
 
 旗の数を数える場合は、両端の旗を数えるのかどうかで答えが変わってくるが、長さ(連続量)の場合は、両端の点を入れようが入れまいが答えは変わらない。なぜなら、点は位置だけあって長さ(大きさ)はないから、というように子どもの頃は整理して理解できなかったし、そういうように教えられたことはなかった。
 こういう「数」と「量」の違いについて、気持ちの悪さを感じたことはないですか。

コメント(497)

>304:メタメタさん
>「3日」が連続量の「基数的目盛」(長さ)ということでしょう。

>272:メタメタさん
>昼夜含めて「日」という現代での用法に引きずられて、連続量の時間の流れに人為的に境い目を入れて「1日」という単位量を設定したというふうに考えていました。そうではなく、「日」は、日の出から日没までのことでした。「1日」の単位量は自然に決まっていて、日と日は、夜で分離している。立派な分離量でした。なんでこんな簡単なことに今まで気が付かなかったのでしょうか!

これがメタメタさんの「区別」でしょうか。
>457:メタメタさん
>藤沢利喜太郎が『算術小教科書』(明治31年、71頁)で言っている原文は以下です。

あいまいさのない問題文は「違和感」も「混乱」も生まないということですね。
>459

「月の始めから2度目の夜から5度目の夜までは3日。」
となるのは、
 2度目の夜のある時刻より5度目の夜の同時刻までの時間を索むるものなりせば、ということをご理解いただけたということですね。
>457: メタメタさん

「順序数主義」の藤沢利喜太郎のあいまいさのないその文章に不可解な点はもとより感じていません。それより,

>日と日は、夜で分離している

というのは「連続量の発想」なのですかそうではないのですか?日は「立派な分離量」でしたか?

> メタメタさん


小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで奇数は4個

小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで偶数は3個

これは「反例」でしょうか,そうではないのでしょうか?

奇数(図)と偶数(地)を共に考えると「連続量」でしょうか?

奇数の間には偶数が存在するので奇数やそして「奇数の個数」(こちらは「量」でしょう)は「アリストテレス」によって「分離量ではない」のでしょうか?
>462:

そして,数直線においてよく用いられる加法的測度を m とするとき,

5 - 2 = m([0,5]) - m([0,2]) = m((2,5]) = m([2,5]) = 3

の,「m((2,5]) = m([2,5])」は連続の話でしょう。

3点 O,A,B の座標を 0,2,5 とするとき,線分算

5 - 2 = OB - OA = AB = 3

は,離散とも連続ともとれる…。
>463:

もう少しだけきちんと言うと,

可算加法的測度についての

m((2,5]) = m([2,5])

は,大雑把に言うと,

lim_{ε→0}{ m([ 2+ε , 5-ε)) }≦m(( 2 , 5 ])≦lim_{ε→0}{ m([ 2-ε , 5+ε )) }
lim_{ε→0}{ m([ 2 , 5-ε)) }≦m([ 2 , 5 ])≦lim_{ε→0}{ m([ 2 , 5+ε )) }

などからいえる。すなわち,「ε→0」という「線分の極限」「無限小」にかかわる連続の話になるのかもしれません(18: の話です)。

線分算の

OB - OA = AB

は,

OA + AB = OB

にもとづく。B を A にとると,

OA + AA = OA

つまり,「AA = 0」といった(最近メタメタさんに存在が認められたところの)「「0」に対応する「分離量」」の,すなわち(「線分の極限」ではない)「部分を持たない点」の話にたぶんつながるのでしょう。

# このへんは,245:イペシロンさん の質問にもかかわると思います。

「線分」を「単位線分」の『有限和』に限れば

 5 - 2 = OB - OA = AB = 3

は「分離量」の話と「解釈」できる。

「ユークリッド幾何」における「線分」をとれば,「連続量」の話にもなる。


462:の「例」とともに,

 なにをどう数える・測るのか

によって,

「2から5までいくつ(いくら)」が「3」

は「分離量」の話とも「連続量」の話ともなる。

すなわち,

 「2から5までいくつ(いくら)が4」と「2から5までいくつ(いくら)が3」

の違いは「「分離量/連続量」の「差」」では説明がつかない。

説明がつく例しか,ある人(々)が「思いつかない」ということは,なんの反証にもなりえない。さらには「数量観の違い」と「誤謬」も当然異なるでしょう。
これを収束と呼ぶのか?
私がイライラしているのは,多分メタメタさんの立ち場?が問題なのだと。

この話が一学生や,教育とは無関係な素人さんが提起したものなら,
もっと違う方向に「も」話が進んだかと思います。
御本も書かれて出版されているようですし,
アナタの情報をある程度信頼している方も多い?のでは?

だからこそ,その「曖昧さ」に危険を感じます。
 はじめに結論ありき+判ったふりができる造語に執着する?
というのがどうにも・・・納得できません。

昨今ただでさえ,カリキュラムや指導内容に怪しい点が多い教育ですから
もそっと緻密にどうぞ?かな。

基本的にはどうにも
「その分離量と連続量で初めて納得いった」・・・
というような記述がとっても???です。
>464
> 「2から5までいくつ(いくら)が4」と「2から5までいくつ(いくら)が3」
の違いは「「分離量/連続量」の「差」」では説明がつかない。<

 しかし、「2から5までいくつ(いくら)が4」となる例を出されているでしょうか?
 462番@Sparrowhawkさんの「小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで奇数は4個」の例がそれだとするなら、これは、「分離量を抽象化した自然数の序数的側面」(以下、「序数」と略)の個数(基数)を数えているわけですね。
 つまり、?2?4?6?8?10・・・・
の、????の4個。

 454番@Sparrowhawkさんの「別のものを別の方法で数える・測るとき」の表現を利用させてもらうなら、
 分離量と連続量という別のものについて、
 分離量を基数で数えるor序数で数えるときの違い、
 連続量を基数的目盛で計るor序数的目盛で計るときの違い
と整理できるということです。

 2個が5個に3個増えた。(分離量の基数)
 2個目から5個目までは4個ある。(分離量の序数の個数(基数))
 2mが5mに3m増えた。(連続量の基数的目盛)
 2mの地点から5mの地点まで3mある。(連続慮の序数的目盛の差の基数的目盛)

「3」ではなく「4」になるのは、序数の個数を数えるときだけです。ここが違うことに不思議な感じを持ったのが、分離量の基数と序数の表し方・数え方のとき(自分が前から3人目、後ろから5人目なら、全体で7人並んでいる、とか)だった子どももいただろうし、連続量の計り方と対比したときだった子どもいただろうし、別に何とも感じなかった子どももいたということでしょう。
 しかし、「2日から5日までは4日間、2時から5時までは3時間」ということについては、昔から不思議に思っていたか、指摘されると不思議だと思う人が多数いたようです。

 Sparrowhawkさんが「別のものを別の方法で数える・測る」というときに考えていることは、403番発言などから、離散的測度と連続的測度のことだと分かっているつもりですが、423番でも触れましたが、
 A.離散的測度は4、連続的測度は0
 B.離散的測度は連続体の濃度、連続的測度は3
となるものについて、伝統的に(つまり、私だけでなく)、Aを分離量、Bを連続量と言ってきているのです。そして分離量の序数の個数を求める時に、序数の数値の単純な引き算にはならないことに違和感を持つ人がおり、その違和感のよってきたる所以は、分離量と連続量の数え方・計り方の違いにあるのです。

 藤沢利喜太郎の『算術小教科書』(明治31年、71頁)の文章が面白いのは、『算術條目及教授法』(明治28年、132頁)で、「数学は量のことを論ずる学問にあらざるなり」と、量を数学から追放したかった藤沢自身が、3日と9日の間の日数について、量の違いによって答が違ってくることを認めていることなのです。
「ある月の三日と同じ月の九日との間に幾日あるか。
 三日と九日との間にある日数を問うものなるが故に三日と九日とはこの日数の中に入らざること勿論なり。さて、三日と九日との間には四日、五日、六日、七日、八日なる5日あり。実際は9日より3日を減じ更に9日を除くために1日を減じ5日を得て答とす。もっとも問題が三日のある時刻より九日の同時刻までの時間を索むるものなりせば答は9日より3日を減じて得べき6日なり。」
 3日目から9日目という「序数」の間の「個数」は両端を除いて5日(基数)。「三日から九日までの日数」と両端を入れる場合は7日となり、上記「小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで奇数は4個」と同じように分離量の場合でしょう。
 3日目のある時刻から9日目の同時刻という「序数的目盛」の差を計ると6日(基数的目盛)となるのは、時間を連続量として計っているわけです。
>Sparrowhawkさん

>456
>>数と数との「間」には、なにも存在しないということでしょう。
「その単位と単位とが相つぐ関係」がありますよね?「大小関係」もある。存在しないのは「数」でしょう。
しかも「量」ではなく「数」ですか…。「数」と「量」の「区別」もあいまいなのですね…。<

 「「数」と「量」の「区別」」については、私はすでに335発言で、
「>「量」の概念は「数」の概念とともに発展してきた<
 という指摘に同意します。
 「数」という表現形態が形を整えるのに相即して「量」の概念も明確になっていった、と思います。」

と言っています。「区別があいまい」なことについては、確信犯です。 自然数=分離量と、置き換え可能のことが多いと思います。

 しかし、ここで引用された「数と数との「間」には、なにも存在しない」という文は、連続量は量が連続しているが、分離量は単位量が分離していて、その「間」にはなにも無いと、連続量と対比する文脈だったはずです。それを、数と数との「間の関係」へと、意味を拡張あるいは飛躍させるのは、いかがなものかと思いますね。きちんと読みとっていないのか、Sparrowhawkさんも「確信犯」なのか。
 また、連続量との対比が主眼だったため、アリストテレスの引用を途中で切ったため、もう一つの点でも誤読を生じさせてしまったかもしれません。(私は、出典元は明記して、確認できるようにしているのですが・・・)
 『形而上学』第13巻第9章冒頭の1段落の全文は次の通りです。
「さらに、数と数とのあいだには接触がなくて、ただその単位と単位とが相つぐ関係に、すなわち、その中間にはなにも存在しないところの単位と単位とが(たとえば2のうちの単位と3のうちのそれとが)相つぐ関係にあるだけであるから、ここに、果してこれら[2と3と]が1それ自体につぐものなのか否か、また果してこれに相つぐものどものうちでは2がより先なのであるか、あるいは2のうちの両単位のどちらがより先なのであろうか、という難問も提起されよう。」

 古代ギリシアでは、数は、「2,3,4,・・・」という2以上の自然数であり、「1」は「単位」でした。(先刻御存知のことでしょうが) そして、「1」は、インドアラビア数字の「1」ではなく、「α」で表していたようですね。「単位」の記号の形が問題ではないのですから、記号で表すなら「点」がふさわしいでしょう。しかし、「部分をもたない点」(@ユークリッド)では、目に見えないので、小丸「・」で表し、上で言っていることを図で示すと、以下のようなことでしょう。

  ・  ・         (これが2のイメージ)
  ・  ・  ・      (これが3のイメージ)

 単位「・」と単位「・」の中間にはなにも存在しないのです。「・」が図で、なにも存在しないところを「地」と言っていいでしょう。
 そして、アリストテレスは、単位は相つぐ関係にあるが、2と3が1に継ぐかどうか、継ぐとしても、2が3より先なのかどうか、そして、2の両単位「 ・  ・ 」のどちらが先かは難問だとも言っているのです。2と3の「大小関係」は認めているとしても、相つぐのは、単位「・」であって、2と3の「間」に「相つぐ関係」にあるかどうかは、断定していません。

>462
>奇数(図)と偶数(地)を共に考えると「連続量」でしょうか?
奇数の間には偶数が存在するので奇数やそして「奇数の個数」(こちらは「量」でしょう)は「アリストテレス」によって「分離量ではない」のでしょうか?<

 奇数も偶数も、地の上の図でしょう。奇数と偶数だけを取り出して、そこに図と地の関係を見ても、量と数についての生産的な議論になるでしょうか。
 「奇数の間には偶数が存在する」というなら、1と3の「間」に2が存在します。単位と単位の「間」や数(自然数)と数(自然数)の「間」にはなにも存在しないというときの「間」と、1と3の「間」に2が存在するというときの「間」とは意味が違います。同じ言葉だからといって、意味が違うものをごっちゃにして、生産的な議論になるでしょうか。
>御本も書かれて出版されているようですし,
>アナタの情報をある程度信頼している方も多い?のでは?

いねーだろ。

まともに数学をやってる人は、
ここを見て苦笑している。

>Sparrowhawkさん

 Sparrowhawkさんと私との齟齬がどうして生じるのかと考えていたのですが、こういうことではないでしょうか

 Sparrowhawkさんは、456番では、「きちんと定義された「分離量と連続量」」が、「教育面で有効」であることを認めることにやぶさかでない旨を書かれています。
 「きちんと定義された」――これがキーワードなのでしょう。
 Sparrowhawkさんにとっては、きちんと定義された用語で構築される体系であれば、用語が違えば、定義が違い意味が違うはずだから、「自然数」と「分離量」は、きちんと「区別」されなければならないし、「用語」が同じならば、定義が同じで意味が同じはずだから、「間」という用語は、「単位と単位の間にはなにも存在しない」という命題と、「奇数の間には偶数が存在する」という命題において同じ意味のはずだ、と。用語と意味は「全単射」であるべきだ、と。
 論理を、あるいは論理的に無矛盾な体系を記述しようとするときには、そうなるのでしょう。そのためには、自然言語ではなく記号で記述するのがベストでしょう。

 しかし、私が目指しているのは、歴史的事実や発達的事実という事実を記述することであることは、再三繰り返しています。そして「歴史」が自然言語で語られ記録されてきており、発達に対する教育が、数字や記号を使っても基本的には言語でなされている以上、事実の記述には、多義的な自然言語を使わざるをえません。しかし、それは、マイナス条件であるだけでなく、変化する事実を記述することを可能にするプラス条件でもあると思っています。
 子どものときに感じた違和感という事実は何であり、その違和感の所以はどこにあり、どのように理解することで、その違和感が氷解したのかの事実を記述し、また、江戸時代の数量観がどう変化してきたのか(植木算の考え方が無かったこと、ゼロの概念が成長過程にあったことなど)、さらには人類全体の「分離量と連続量」についての歴史的認識の発達過程についても、そのささやかなアプローチを記述しかけています。
 歴史も認識も変化しますから、変化を記述する言葉自体も、ある意味でその意味を変化させざるをえないことがあるでしょう。しかし、なしくずしにそんなことをしたら、記述自体が無意味になります。少なくとも、このトピでの議論における私自身の認識の変化は明らかにしてきているはずです。
 51番発言では、「基数的目盛」「序数的目盛」の用語の存在を知ったことを記しています。
 317番発言では、「縮図尺」を見間違えていたと、訂正しています。
 335番発言では、「量」の概念は「数」の概念とともに発展してきたというSparrowhawkさんの指摘に同意することを明らかにしています。

 繰り返しますが、分離量と連続量についての無矛盾な体系を記述しようとしているのではなく、人類があるいは私たちが、歴史的にあるいは発達的に、いかに数と量を認識してきたのかを記述しようとしているのであり、そのとき、分離量と連続量という図式は有効であった。しかし、人類のあるいは私たちの認識の変化に応じて、分離量と連続量の意味するところは変化してきた。たとえば、数としてのゼロの概念は、人類の当初の分離量=整数の概念には無かったし、連続量は当初は序数的目盛ではなく基数的目盛として認識されていた、連続量=実数の連続性についての概念も当初の連続量の概念ではあいまいだった、などなど。だから、「分離量」「連続量」という同じ言葉を使っていても、時代や地域あるいは文明ごとにさらには私たち個々の間でも、その意味内容は違っていたし、いるでしょう。しかし、だからといって、無矛盾な論理体系を構築しようというのではなく、歴史を記述するときには「分離量/連続量」図式が無意味だとは言えない。逆に、この図式によってこそ変化する歴史の記述も可能になる、ということです。
>466: メタメタさん

>Sparrowhawkさんが「別のものを別の方法で数える・測る」というときに考えていることは、403番発言などから、離散的測度と連続的測度のことだと

誤解です。

>伝統的に(つまり、私だけでなく)、Aを分離量、Bを連続量と言ってきているのです。

いかなる「伝統」でしょう?

>藤沢自身が、3日と9日の間の日数について、量の違いによって答が違ってくることを認めていることなのです。

どこにそう書いてあるのでしょう?メタメタさんの「解釈の固定化」なしに「認めている」とは言えないでしょう。
>467: メタメタさん

>「数」という表現形態が形を整えるのに相即して「量」の概念も明確になっていった、と思います。

それと「量」「数」「量の数値化」の「区別の抵抗」とは異なるでしょう。

>それを、数と数との「間の関係」へと、意味を拡張あるいは飛躍させるのは、いかがなものかと思いますね。きちんと読みとっていないのか

「相つぐ関係」については「きちんと読みとっていな」かったかもしれません。
メタメタさんの「小丸」による表現と照らし合わせると「その単位と単位の相つぐ関係」とは「2」や「3」の「内部の構造」のことをアリストテレスは指しているように見えます。「中間になにもない」のは「単位と単位の」「中間」でしょうか。「数と数のあいだ」には「接触がな」いのであって「なにもない」わけではない。まして「数と数のあいだ」がないなどとは言っていないようです。

そして「難問」はむしろ,「基数」と「順序数」の違いに関わったものでしょう。さらには「大小関係」すら「難問」ということのように読めます。

>同じ言葉だからといって、意味が違うものをごっちゃにして、生産的な議論になるでしょうか。

462:の引用された質問はもちろん反語です。わざとそらされているようですが462:にはあげたものは「反例」でしょうということです。
>470: メタメタさん

>だから、「分離量」「連続量」という同じ言葉を使っていても、時代や地域あるいは文明ごとにさらには私たち個々の間でも、その意味内容は違っていたし、いるでしょう。

いくつかの訂正の後の現在のメタメタさんご自身のなかで「その意味内容」が「違って」「いる」ことを指摘しているだけです。

>しかし、だからといって、無矛盾な論理体系を構築しようというのではなく、

「無矛盾な論理体系」の「構築」など全く期待していません。「歴史」や「発達」を「記述」しているメタメタさんの現在の用語の使い方が矛盾しているので,「一発でパー」ではないかと言っているだけです。


「別のもの」

に対して「分離量」と「連続量」の2つしか「思いつかない」。ある「あいまいな問題文」に対し「分離量/連続量」の 「図式」が有効だからといって,すべての「あいまいな問題文」で有効とは限らない。

メタメタさんはこのトピで有効でない例に対してもその「図式」を「矛盾」しながら適用する。「矛盾」していれば「適用できる」のは当然ですから,そうした行為は「無意味」と感じるだけです。

「歴史」や「発達」の中の「変遷」と「記述の矛盾」との「区別」にも「抵抗」されるのでしょうか?

>たとえば、数としてのゼロの概念は、人類の当初の分離量=整数の概念には無かったし、

「ゼロの概念」の無い「分離量=整数の概念」…。

0 は整数ですか?

「整数の概念」とはなんですか?

別に「厳密」な定義をお尋ねしているわけではもちろんありません。素朴な意味でも「伝統」に反した表現でしょう。

…意味が定まらない「記述」はまさに「無意味」でしょう。

>連続量は当初は序数的目盛ではなく基数的目盛として認識されていた、

「目盛」は「量の数値化」のことでしょうか?「数直線」のことでしょうか?

「序数」は「量」ですか?これについては「確信犯」というよりたんなる「勘違い」か,さもなくば「確信犯的誤魔化し」でしょう。

他人から借用した用語を「自由」にあいまいに矛盾しながら使って「記述」することが「生産的」でしょうか?
>470:メタメタさん

「分離量/連続量の図式」という「色眼鏡」でみると世界は「二色」刷りに「見える」。「分離量/連続量」×「序数的目盛/基数的目盛」という「フィルター」を通すと世界は「四色」刷りに「見える」。

ものごとを単純化して「見る」こと自体は有効なこともある。ある「違和感」が「氷解」することも起こりうる。

しかし同時にさまざまな「別のもの」の区別ができなくなり,さらに「四色」の区別に無頓着であれば,「別のもの」が同じに「見える」(「区別」の「抵抗」)一方,「四色」への奇妙な執着(「解釈の固定化」)が生じ,有効でない場面でも「四色」で十分」有効とされる。もともとその結論が「四色」刷りの視界から引き出されていることは問題にはされない。「別のもの」の指摘のため「自然光の振動数」や「網膜の組織」のことが話題にされると「大袈裟」「論理体系」の話で「「きちんと定義された」――これがキーワードなのでしょう」と話をそらす。「反例」に対しては「四色」刷りでなんとか「見える」部分にだけ反応しそれでは「見えない」部分にはコメントしない。「四色」刷りでながめつづけていることすら,時々は気づくものの肝心なところでは無意識ないし無意識を装う。

この「四色問題」は「「四色」刷りでながめられた「歴史的事実」や「発達的事実」」において「思いつく」例を調べると「肯定的に解決された」とメタメタさんはされる。

以上のように感じられるところから「齟齬」が生じているように思っています。
「線分の極限」と「部分をもたない点」の違い

「無限小」と「0」の違い

「點」と「部分をもたない点」

「零」と「0」

連続と離散

これらの対比にはなにか共通のものがありそうに感じています。

さらにメタメタさんにご紹介いただいたアリストテレスの「難問」の方も,

『数』と『量』

の対比としてみると興味深い。そこでの『量』は,比較可能性・差異の相等化・アルキメデス性を要請されたほとんど「数」と呼んでもよいものを銀林が「量」と名づけたものではない,より原初的なあるいは視覚的幾何的な『量』をアリストテレスは扱ったのかもしれません。

467: のメタメタさんの「図」(グラフ)はまさに「順序数の圏」とは異なる離散圏であり412: の話に関わりそうです。ここにおいては『順序数』と独立な比較可能性すらない『量』が表現されている…。
藤沢利喜太郎さんについては全く存じませんが,
>『算術小教科書』(明治31年、71頁)の文章が面白いのは、
>(略)「数学は量のことを論ずる学問にあらざるなり」
っていうのはおそらく「単位付きの量」(つまり,実用的な答え?)のことで,
その数が自然数であろうが実数であろうが,
そんなことを書いてはいないのではないかと?
「論ずる」っていうのは?論ずる事ではないのでは?
>471 Sparrowhawkさん
>>伝統的に(つまり、私だけでなく)、Aを分離量、Bを連続量と言ってきているのです。
いかなる「伝統」でしょう?<

 アリストテレス、ユークリッド以来のヨーロッパの伝統です。
 この伝統のせいでヨーロッパでは小数の使用が遅れたということにもなった。
 ヨーロッパでは、量を分離量と連続量に分ける伝統が強かったため、13世紀ころからインド・アラビア数字の十進位取り記数法を知りながら、それは整数(分離量)だけに用いて、単位量未満の端下の量は、あいかわらず分数で表していた。分離量と連続量は量として異なるので、その表示方法が違っていても当然と思っていたわけでしょう。シモン・ステヴィン(1548〜1620年)が10進小数を勧める書『十分の一』(1585年)を書いても、なかなか改まらず、その100年後にニュートンが、『プリンキピア』(1687年)を書いて、天上界の星の運動も地上界のりんごの運動も同じ「万有引力の法則」で記述しながら、その表記には小数ではなく、10の累乗を分母とする分数を使っていた。(『やわらか頭「江戸脳」をつくる和算ドリル』43頁)

 以下、『カッツ 数学の歴史』(ヴィクターJ.カッツ著、1998年、共立出版株式会社、2005年訳)から引用します。(427〜430頁)
「ステヴィンはまた「数」の基本概念を変革し、数と大きさというアリストテレス的な区別を消去する上で重要な役割を果たした。(中略)
 『十分の一』における小数の着想が、数の基本概念における変革とどのように関連しているのかについては、1585年に出たステヴィンの別の数学書である『算術』において示されている。確かに、幾世紀もの間に、多くの著者が無理量を「数」として扱うようになっていた。つまり、彼らは整数を扱うのと同じ規則と概念を用いてそれらを扱っていた。次第にユークリッド流の数と大きさとの、つまり離散量と連続量との区別は崩れていった。このことを初めて明確に述べたのが、ステヴィンであった。こう して、彼は、『算術』を次のような二つの定義から書き始めている。
 1.算術は、数の学である
 2.数は、ものの量を表すものである。
 このようにステヴィンは、まさにその著作の冒頭で、数が、いかなる種類であれ量を表すことを指摘している。もはやユークリッドが定義したような単位の集まりのみが数なのではない。ステヴィンは、そのページの一番上に、大文字で「単位は数である」と書いている。ギリシア人は、この考えを否定していた。彼らにとっては、点が線を生成するものであるように、単位は数ではなく、数を生成するものにすぎなかった。(中略)彼(ステヴィン)の数学的議論は、他の「数」と同じように単位についても演算を行うことができるということである。とくに単位はいくらでも小さな部分に分けることができる。ユークリッドは、単位に「単位の集まり」の基礎、そしてここから連続量と不連続量の区別の基礎という特別な役割を与えていた。このような特別な役割は、ステヴィンにとってはもはや意味を持たなかった。彼は大胆にも「数は不連続な量ではない」と断言している。単位を含むいかなる量も、「連続的に」分割できるのである。(中略)」
 引用の続き
「今日では、ユークリッド的不連続「数」が連続的な数直線上に組み込まれてすでに久しく、ステヴィンの貢献がどのような意味で根本的であったのか、容易にわからなくなっている。しかし数学研究の中心には常にユークリッドがいたということを想起する必要があろう。(中略)確かに、イスラム世界であろうとヨーロッパであろうと、ユークリッドの読者の中には、彼が分けた区別を無視した者も多くいた。とりわけ本章(第9章ルネサンスの代数学)で見てきた代数学者達は、あらゆる量を同じ方法で扱う傾向があった。しかし中には哲学的感性に恵まれた数学者もおり、彼らは、ユークリッドを軽視しがちであった他の数学者に同調することはできなかった。彼らは、ユークリッドが設けた離散量と連続量の区別が、もはや数学上の重要性を持たないということを納得する必要があった。当然、このような概念的転換は、ステヴィン一人の仕事ではなかった。「離散量の算術」を「連続量」の中へ組み込むという作業が完成するのは、ようやく19世紀に入ってからである。とはいえ、ステヴィンが数学史上の分水嶺にいたことにかわりはない。彼の業績のみごとさが、現在のわれわれから、それ以前当たり前だった事柄を覆い隠しているのである。」(『カッツ 数学の歴史』(427〜430頁))

 このようにして、数学という学問体系の中からは「量」は追放されていったのでしょう。しかし、自然を分析するには、あいかわらず量の概念(速度や密度などの「内包量」とか)が必要だし、日常言語の底にある数量観(分離量が基本)と、学校で教わる数量観(分離量が連続量の中に組み込まれているのが基本)との違いに戸惑いを感じることがあるわけです。
> 477:メタメタさん

「A」「B」について(私があげた他の例を含めて)お尋ねしました。「連続量」「離散量」の伝統についてお尋ねしたわけではありません。

ステヴィンがやっとでてきましたね。メタメタさんのもうひとつの「フィルター」である「数直線」によって「連続量」と「分離量」は「あいまい」にされる…。
>478: メタメタさん

>このようにして、数学という学問体系の中からは「量」は追放されていったのでしょう。

どのように解釈するとその引用からこの結論になるのでしょう?

>日常言語の底にある数量観(分離量が基本)

ここですでに「量」と「数」の区別があいまいになっていませんか?
「量の追放」を行っているのは誰でしょう?

>学校で教わる数量観(分離量が連続量の中に組み込まれているのが基本)

「離散量の算術」=「分離量」

でしょうか?

>彼の業績のみごとさが、現在のわれわれから、それ以前当たり前だった事柄を覆い隠しているのである。

このカッツの文はいつも念頭にありました。
>478:メタメタさん

>このようにして、数学という学問体系の中からは「量」は追放されていったのでしょう。

とご自身の手で「量の追放」をされ,

>しかし、自然を分析するには、あいかわらず量の概念(速度や密度などの「内包量」とか)が必要だし、

という当り前のことを述べられ,

>日常言語の底にある数量観(分離量が基本)と、学校で教わる数量観(分離量が連続量の中に組み込まれているのが基本)

恣意的な「二色」刷りの世界を「記述」しつつ,477:

>アリストテレス、ユークリッド以来のヨーロッパの伝統

に従っているかのようにおっしゃりながら,「分離量」を「連続量の中に組み込」むといった,「区別」があいまいな表現をされる…。

# そもそもメタメタさんがもとにしつつ損なっていらっしゃる「分離量/連続量」の「図式」はここ数十年のものですよね?

こういったメタメタさんの論の進め方に私は,

>戸惑いを感じることがあるわけです。
>472 Sparrowhawkさん
>462:の引用された質問はもちろん反語です。わざとそらされているようですが462:にはあげたものは「反例」でしょうということです。<

>462 Sparrowhawkさん
>小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで奇数は4個 ((1)引用者付記)
小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで偶数は3個  ((2)引用者付記)
これは「反例」でしょうか,そうではないのでしょうか?<

 「aからbまでの数値」を問うときに、答が(b−a)になるときと、(b−a+1)になるときがある。私は、a、bが序数で、aからbまでの序数の個数を問う場合が(b−a+1)になる、と整理しました。(383番、428番など)
 これに対する「反例」ということですね。
 つまり、aからbまでの序数の個数が、(1)の場合は4個になるが、(2)の場合は3個になるではないか、と。
 (1)は、私の整理通りですので、どうしてこれが「反例」と言われるのか、意図が取れないまま、466番のコメントをしたのですが、まさか(2)の場合を「反例」として提出されているとは、私の想定外でした。イヤハヤナントモ
 ?2?4?6?8?10・・・・ において、?と?の間に偶数が3個、これが「小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで偶数は3個」、つまり、偶数の序数の個数が3個、つまり、序数の個数が(b−a+1)個にならずに、(b−a)個になる「反例」として提出されたということでしょうか。
 こう書きつつ、まさか、そんなバカなことはあるまい、きっとまた私の方が読み間違いをしているのではないか、と危惧しているので、この件については、私の誤解があるようでしたら、それをご指摘していただいた上で、続けたいと思います。
>482: メタメタさん

>423:メタメタさん
>私は故意に「成り立つ例」だけ選んだわけではありません。成り立たない例が思いつかないのです。というより、「2から5までいくつ(いくら)」という問題で、4を答えとする分離量の例と、3を答えとする連続量の例以外の「例」は無いと思っています。
> Sparrowhawkさんは、「成り立たない例」を挙げられますか?

の「成り立たない例」を「伝統」に従い「反例」といってます。
>483 Sparrowhawkさん

 早速のご回答ありがとうございます。
 すると、482番に私が書いたことに誤解はなく、
「小さい方から数えて2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで偶数は3個」
となることが、序数の個数が(b−a+1)個にならずに、(b−a)個になる「反例」として提出されたということですね。
 しかし、それでは「序数」という用語が同じだからということだけで、?2?4?6?8?10・・・・において、2番目の正の奇数から5番目の正の奇数までにおいて、奇数の序数は????の4個、偶数の序数は、4,6,8の3個になるではないか、という話ですよね。
 これを「反例」というのは無理でしょう。
まず、第1点。偶数の序数があるのは、「2番目の正の奇数から5番目の正の奇数まで」ではなく、「〜までの間に」のはずです。「まで」と「間」の区別は、466番に引用した藤沢利喜太郎の用法に倣います。
 第2点。「4,6,8」の3個は、2番目の奇数から5番目の奇数までの間に3個ある、というより、2番目の偶数から4番目の偶数まで偶数は3個ある、と言った方が良いでしょう。すなわち、4−2+1=3個の「例」そのもの。
 第3点。「奇偶奇偶奇偶奇偶奇」で、2番目の奇と5番目の奇の間の偶の個数が3個、というなら、
松の木と桜の木を交互に植えた、松桜松桜松桜松桜松で、2番目の松と5番目の松の間の桜が3本、となり、さらには、松と松の間に桜を2本植えると、松桜桜松桜桜松桜桜松桜桜松となり、2番目の松と5番目の松の間の桜は6本となる。要は、2番目と5番目の間には「間」が3個、つまり(b−a)個ということをおっしゃりたいのかもしれませんが、a(序数)からb(序数)までに「序数」の個数は(b−a+1)個ということに対し、a(序数)からb(序数)までの間に「間」の個数は(b−a)個ということでは、「反例」にならないと思います。
>484: メタメタさん

いつのまにか私がすでに49:50:で触れた話(これは「描いてみればわかる」ので「違和感」にはつながらないのではなかったのでしょうか?)にすりかえられているようですが,私があげたのは423:メタメタさんの

>「2から5までいくつ(いくら)」という問題で、4を答えとする分離量の例と、3を答えとする連続量の例以外の「例」は無い



>一発でパー

になる「反例」(違いますか?)です。

「整数の違和感」は「分離量/連続量」の「差」ではなく,いつの間にか「分離量/連続量」×「序数(的目盛)/基数(的目盛)」(「四色」刷り)の「差」からくることを「発見」したりはしないでしょうね?
<「整数の違和感」は「分離量/連続量」の「差」ではなく,いつの間にか「分離量/連続量」×「序数(的目盛)/基数(的目盛)」(「四色」刷り)の「差」からくることを「発見」したりはしないでしょうね>(@485番Sparrowhawkさん)

「いつの間にか」が「いつ」であるのかについては、次のように確認できます。

 私が、トピ題を立てたときには「序数的目盛」「基数的目盛」という用語を知らなくて、このトピの中で、去年教えられていたことに気が付いたことは、
 51番、87番発言など
に明示されています。
「分離量/連続量」×「序数(的目盛)/基数(的目盛)」については、
 383番、428番、466番発言など
で次第に整理されてきています。
 そして、384番では、383番の説明について、こう記してあります。
「この説明は、4月29日にトピを立てたときには考えていなかった。
 このトピでの議論を通じてわかってきたことです。
 議論につきあってくださった方(特にSparrowhawkさん)に感謝です。」

 「ここを見て苦笑している」方(@ランさん468番)、あるいは、最近このトピをご覧になっている方の参考にしていただければ幸いです。
>487:メタメタさん

423:メタメタさんの

>「2から5までいくつ(いくら)」という問題で、4を答えとする分離量の例と、3を答えとする連続量の例以外の「例」は無い

は撤回されるのですね?

>466:メタメタさん

>2個が5個に3個増えた。(分離量の基数)
>2個目から5個目までは4個ある。(分離量の序数の個数(基数))
>2mが5mに3m増えた。(連続量の基数的目盛)
>2mの地点から5mの地点まで3mある。(連続慮の序数的目盛の差の基数的目盛)


「分離量の序数」ってなんでしょうか?

「始点」の動く「基数的目盛」は 86: の図とは異なるもので,「ベクトル量」に相当するもののようですね。引用元の意味とは異なる使いかたをし,別の用語があるなかで,いい加減に「基数的目盛」とおっしゃる利点はなんでしょう?その「図式」でみると「図式」にあったもの(のみ)が見えるからどうしたというのでしょう?その「図式」にあわないものには,またおとぼけになるのでしょう。


>「3」ではなく「4」になるのは、序数の個数を数えるときだけです

>452:
>1mごとに1kgの重りをおくことにすると,2mの地点から5mまでの地点まで,重りは4kg必要です。

についてはどこが「序数の個数」でしょうか?

> 383番、428番、466番発言など
>で次第に整理されてきています。

用語はますますあいまいになっています。
>メタメタさん

思いつける例から思いついた,

「分離量/連続量」×「序数(的目盛)/基数(的目盛)」

などの「図式」に全てを無理矢理あてはめようとすると(そんなことは意図していないとおっしゃるかもしれません),あてはまらない例については,誤魔化さざるを得なくなる。もし「量」が「具体的」であるとすれば,「別のもの」はさまざまあるでしょう。他人から借用した用語をあやしげに用いて,アリストテレスが彼の論理学において指摘したさまざまな誤謬をされる前に,「あいまいな問題設定」をおやめになった方がよろしいかと思っています。

>それ以前当たり前だった事柄を覆い隠している

のはステヴィンの業績だけではなさそうです。


 序数的目盛が2から序数的目盛が5までの序数的目盛の個数(基数)は「非可算無限個」である

「大袈裟」でもなんでもなく,「なにをどう」がいい加減だとこのような「例」をなんとか誤魔化さなくてはいけなくなるでしょう。そして「なにをどう」をはっきりさせれば,上のような「図式」は,現代人にとっても「当り前」のことにあやしげな表現を与えているだけであることにお気づきになるように思います。
>488

>>「3」ではなく「4」になるのは、序数の個数を数えるときだけです
>452:
>1mごとに1kgの重りをおくことにすると,2mの地点から5mまでの地点まで,重りは4kg必要です。
についてはどこが「序数の個数」でしょうか?<

 1kg+1kg+1kg+1kg=4kgということですね。なぜ4個足すかというと、重りが4箇所にあるからで、1kg/箇所×4箇所=4kgということです。
 つまり、重りを置く箇所が、2m目から5m目までの4箇所になるところで、序数の個数を数えているのです。
 1mごとに置く重りが2kgだとすると、2kg/箇所×4箇所=8kgとなり、上記の事情がはっきりするのではないでしょうか。
>470: メタメタさん

>重りを置く箇所が、2m目から5m目までの4箇所になるところで、序数の個数を数えているのです。

どこに「序数」があるのですか?

「序数の個数」を探せば見つかります。つまり「序数の個数」という「図式」でものを見れば「序数の個数」が見えてくる。

 ある地点から(その地点にも重りを置いて)1mごとに重りをおいた

なら,

その地点からの距離が1mの地点までに2個,その地点からの距離が5mの地点までに6個なので「6−2」個必要。

ここには基数と「基数的目盛」しかでてこない。

 ものの「量」を数えて・測っているので基数や「基数的目盛」しかでてこない。

という「図式」で見れば「序数の個数」は見えてこない。

メタメタさんは「分離量」「連続量」「序数」「基数」「目盛」という用語をあいまいに用いて,「なにをどう数えて・測って」いるかについて「解釈の固定化」をされているだけではないでしょうか?

ところで「序数」は「量」でしたか?

>またおとぼけになるのでしょう。
>用語はますますあいまいになっています。


>「あいまいな問題設定」をおやめになった方がよろしいかと思っています。


自分を棚にあげて…
> ランさん

>自分を棚にあげて…

ランさんの十八番でしたね。
>490:メタメタ さん

ある地点から(その地点にも重りを置いて)√2mごとに1kgの重りをおくことにすると,2√2mの地点から5√2mまでの地点まで,重りは4kg必要です。

ここで,「序数の個数」を見つけるにはさらに「言い訳」が必要になるでしょう。そして,

>489:
>序数的目盛が2から序数的目盛が5までの序数的目盛の個数(基数)は「非可算無限個」である

についてもなんらかの(「大袈裟」以外の)「言い訳」をしなくてはいけなくないでしょうか?

その地点からの距離が√2mの地点までに2kg,その地点からの距離が5√2mの地点までに6kg必要なので「6−2」kg必要。

に「序数の個数」や「序数的目盛の個数」を見つけるには…。
>メタメタさん

「なにを」のところでの「分離量/連続量」「序数/基数」などの差
「どう」のところの「量を表す数」での「分離量/連続量」「序数/基数」などの差
「数えた・測った結果」の差と一致。

とくに「一致」する場合があるがために,「なにをどう数える・測る」かをあいまいにしたまま,「数える・測る」ことがおきてしまうところに「違和感」の温床がありそうに思います。

そして,メタメタさんの「分離量/連続量」「序数/基数」さらには「序数的目盛/基数的目盛」なる用語の用法は,「図式」が(たまたま)「一致」する場合から「氷解」につながってしまうがゆえに,「なにをどう数える・測る」かをあいまいにしてしまうような気がします(このとき,「氷解」への疑問は「不思議」となってしまう)。つまり,その用法ないし「図式」もまた,誤解である「氷解」と「違和感」の温床になりうる。さもなくば,「違和感」が「ない」ことを示す過程で矛盾を生みだし続ける。

一方「江戸時代の数量観」の方は,

「「部分をもたない点」と「0」」のない「「點」と「零」」の「数量観」

『量地指南後編』の誤謬をともなう「数量観」

といったものを感じます。そこには,

>彼の業績のみごとさが、現在のわれわれから、それ以前当たり前だった事柄を覆い隠しているのである。

において「それ以前当たり前だった事柄」とカッツが指摘したものは異なる「それ以前当たり前だった事柄」の可能性があるように思います。
「植木算」がなかったか,あったかについてはよくわからない。

本来「植木算」を用いるべきでない例を「植木算で数えていない」からといって「なかった」とすることはできない。

『量地指南後編』の誤謬は「なかった」とする根拠になりうる。しかしそれが「部分をもたない点」と直接関係するとは思えない。線に幅があろうともそうした誤謬は生じうる。
『量』と『数』

幾何と代数

冪集合と順序数

豊穣さと秩序

これらの対比にはある関連がありそうに感じられる。


量→数

という「説明」や

数→量

という「説明」は,それを「歴史的」「発達的」「論理的」「説明」と限定しようともあまり根拠はない。どちらを出発点としようとも「説明」はできる。

秩序ある分析に『順序数』は欠かせない。イメージにおいて『量』の体験は欠かせない。


そして区別をあいまいにすることを「ともに発展してきた」ことで正当化することはできない。

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