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ユング心理学研究会コミュの【講義録】あの世はどこへいった?

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 「あの世はどこへ行った?」 〜「死後」から「死」後へ〜

              講師 甲田 烈さん  2009/04/15



ユング研究会2009年前期のテーマは『死』ということで、今回は甲田さんが民俗学の視点からお話しをして下さいました。コメンテーターは白田さんです。
「はじめまして、もしくは『前世』でお会いしていたかもしれませんね。」というユーモアあふれる挨拶からはじまり、とてもレベルの高い素晴らしい講演でした。講義録に不備がございましたら、皆様のコメントで補っていただけると助かります。


【1 死ねない現代と生死の肯定 】

 メキシコでは「死」に関してカーニバルがあるそうです。でも日本人の感覚では「死」を面白ろがったり、死んでおめでとうなどとはいいません。甲田さんの体験談で、父親が亡くなった時の話をして下さいました。その死に対して「よく死んでくれた。おめでとう。」という心境になり、涙が出たそうです。一般的に捉える「死」というイメージとは違う視点でみています。その視点の理解は以後の講義に続きます。

■「死ねない」世の中とは?・・・アナーキズム=訳・無政府主義から社会を考えてみます。現代の資本主義の体制では、生産→再生産といったサイクルの中にいます。家族が子供を産んでは育て、その子供が未来の労働力となることから「不死」のサイクルにいるということになります。レジュメでは〜「利潤と共に」存する個人は死ぬことができない〜という表現があります。つまり永遠を目指す資本主義社会では言葉どうり死ねないということです。

■一方、「死ねる」社会とはどういうものをいうかというと・・・甲田さんは企業に例えた話をしてくださいました。組織をつくる→その組織を解散させる→また別に組織をつくるというものです。これはマヤなどの先住民族から学んでいるということでした。


【 2 盆・正月に「おめでとう」 】 
「生」と「死」の交差(crossing)サイクルとしての「霊魂」の話

 ■ 折口信夫(おりぐちしのぶ1887〜1953 国文学者、民俗学者、歌人。歌人名、釈超空)によると、盆の祭りは「おめでたごと」と考えます。お盆では人間の中で不要な魂は外に出て新しい魂が宿るといった「魂の交換」がおこなわれます。この魂の入れ替わりを喜ぶことを「おめでたごと」と考えるのです。
また、折口氏によると「マレビト」という言葉があり(まれに来る人といった意味)これは霊魂や神様が一年のある時期にやってくると村人が信じているということです。海の彼方から音を立て→音連れ(訪れ)を聞いて神様の訪問を知るそうです。甲田さんによると、ナマハゲの行事はもともとマレビトが鬼の姿を借りて地域の人々を祝福にくるというというのも折口氏の捉え方だということでした。

 ■ 柳田国男(やなぎだくにお1875〜1962 民俗学者)によると、日本人の多くは死後遠くにいくというよりは自分たちの生活圏にいると感じています。例えば、死後は先祖となり高い山の中にいて、迎え火をたいて山中からお迎えをする儀式があります。このように死後は先祖になる、もしくは現世に生まれかわるとも考えられているようです。死後の世界を遠くに追いやるよりも、近くにあると考えられているのです。

【 3 あの世はどこへ行った? 】
 「死後」というよりも「死」んだ後の世界があると考えます。「この世」(現世・うつしよ)と「あの世」の間に「その世」(隠世・かくりよ)があると考えます。「その世」というのは自分と他者との「間」にあるもので、自己からみて“ぐるっとひっくり返って”他者側からみた自己があり、その“ぐるっとひっくり返った”空間が「その世」(隠世・かくりよ)なのだそうです。この世からみて死後の世界、つまりあの世は、“ぐるっとひっくり返って”いるので、あの世の前にはこの世が広がっていることになります。

■ 甲田さんの余談で、マヤの挨拶に「インラケチ」という言葉があって、私はもう一人のあなた自身ですという意味だそうです。また、この世は多重構造になっていて、「死」後の世界はここにある、つまり死者はこの世に溢れているということもおっしゃっていました。

■(私の理解では)生と死は隔離されたものではなく、常に裏表になっているといった印象を受けました。死後は自分が死んだ後のことではなく、死後もこの世にもどってきたり、生まれ変わったりと続いているのだろうと思います。

■その他、民俗学者・坪井洋文の資料の説明がありました。

■フリートークでは、コメンテーターの白田さんがユングからの視点で話をして下さいました。また、尾崎さん、金さん、桧垣さん、黒川さんをはじめそれぞれの立場から色々なお話をいただきました。ありがとうございました。


                          以上です     

コメント(91)

「マレビト元型」について。

敢えてユング心理学的に解釈を加えるなら、
「自我を超える価値が、自我の向こう、すなわち無意識から現れてくる」
という心理学的事象があって、これが外部に投影されて語られるときに、
マレビトのような話になってくると考えられるでしょう。

「富」や「価値」というものが「あちら」からやってくる、という観念は
「神の愛」というものと同じような、元型的な宗教的体験に支えられていると思います。

同時に、災厄も「あちら」からやってくるわけですが、
吉となるか凶となるかはこちらの扱い方次第、
つまり意識化の仕方次第、となるわけです。
>49 清志朗さん

あの世についての考え方は、大別して

1)この世とは全くの別世界として「死後の世界」がある
2)あの世は、この世の中にある

という二つの見方に分かれるように思います。
で、2)についてはさらに二つの考え方があって、

2−1)あの世とこの世とは、基本的に同じ時空間にある
2−2)あの世はこの世の時空間とは別にある

と分かれるように思います。
2−1)の例としては、例えば「死者の魂は山に行く」というような
民俗学的観念が挙げられるでしょう。
2−2)は、この世界に対する暗在系のようなものとして
死後の世界を理解する考え方です。
ユングもウィルバーも、清志朗さんもこの考え方、というところでしょうか。


あの世に行く主体としての「私」についても、考え方は大別して

1)今の「私」がそのまま「あの世」に行く
2)「あの世」に行くにあたって、今の「私」は何らかの変化をする

の二つがあると思います。
ユングはおそらく2)の考え方でしょうし、清志朗さんもそうだということですね。
1)には、伝統的で素朴な「あの世」観の大半が入るように思いますし、
近年の体外離脱による臨死体験みたいなものも、この見方を支持するようです。
シュタイナーの死後観もこちらになるようで、
ここは志賀さんの講義にちょっと期待しているところがあります。


この図式に従うなら、「あの世」の考え方としては
単純な組み合わせで、6通りの考え方があることになります。
これに「あの世は存在しない」のバリエーション、
「あの世があるかないかを問わない」のバリエーションを加えると、
どれぐらいの数の「あの世」観のパターンがあるでしょうね。
一度、きっちり整理してみたいです。
清志朗さん☆

 コメント、ありがとうございますわーい(嬉しい顔)。パニックに関しては、多少、大袈裟な表現になってしまったかも知れません顔(願)


清志朗さん☆
>記憶については、ユングの時にも、ウィルバーの時にも意見は一致しましたが、生きて達成したものが魂の記憶として残るという考え方です。

 はい。定説は、把握できました指でOK

 …ところで、ユング心理学にはプシコイドという概念があって、例えば、“バクテリアの心理”とかを意味したりするようなのですが、もしプシコイドというものがあるなら、フィジコイドなんてものもありそうな気がします。

 ひょっとして、その、“魂の普遍的な共有財産となる方の記憶”は、“プシケーの物質化した心のパート”で、そのいわゆる、“フィジコイド”と見なせないでしょうか?

 “フィジコイド”は、いわば、魂の分泌物で、魂以外のものかも知れない気もしたりします。←もしかして、それも、ソフィアの涙?!


清志朗さん☆
> そして生まれてくるものは、その魂の記憶を一部共有して生まれてくる。

 もしかすると、アストラル体とかコーザル体と呼ばれるものは、そのフィジコイドから構成された“魂の下着”みたいなもの、あるいは牡蠣の養殖に使うホタテ貝の貝殻みたいなもの、…とは見なせないでしょうか?


清志朗さん☆
> これがカルマであり、エニアグラム風センターであり、元型イメージ(元型ではないとこに注意)なのだと思ってます。
 そうなると、ますます、それら記憶は“類物的;フィジコイド”のように思えてくる、…。


清志朗さん☆
>つまり現世で現象化しているものに対し、やってくるものとの関係ということですね。
なので、死んだらそのままの私があちらの多次元にいるという風には考えていません。

 ところが私は、実は、“そのままの私”が、そこで愛を叫ぶ世界の中心で、死んでいようと生きいようと、その“絶対的な此処”にそのまま残る、…と、考えてもいいような気もするのです。

 ただ、その、フィジコイドで構成されたフレームが外されるので、フレーム・フリーになり、イベントが因果律を無視して出鱈目に生起しはじめる。主体的には(死後は、幻覚剤によるトリップのように!)体験がオカルト現象じみてくる。それを表現しているのが映画では『ドニー・ダーコ』『未来世紀ブラジル』なんかで、文学作品ではアンブローズ・ビアスの『アウルクリーク橋の一事件』だったりするのではないでしょうか?←まぁ、それも、ある種のチュニイド・バルドであるかも知れませんが、…。


清志朗さん☆
> アンナさんの言っているランドールさんやホログラフィク宇宙論も同じことを、物質視点から表現しているものと理解しています。

 つまり、それこそ、まさに、魂に見えながら魂以外の魂由来のものである“フィジコイド”と考えられるのではないかと、…。案外、フィジコイドは、パラフィジカルフェノメナによって創発されたりして冷や汗。ユングの想定する、現実のUFOも、ある種のフィジコイドかも知れません。
のぶさん☆

 コメントありがとうございますわーい(嬉しい顔)

 考えてみると、マレビト元型と言わず、マレビトコンプレックスでもいいわけですね。でも、マレビトコンプレックスと言ってしまうと迫力に欠ける、…。
>53:のぶさん

お忙しそうですね。今度息抜きしましょうね。

>2−2)あの世はこの世の時空間とは別にある
>2−2)は、この世界に対する暗在系のようなものとして死後の世界を理解する考え方です。
>ユングもウィルバーも、清志朗さんもこの考え方、というところでしょうか。
下記に書きました微妙なあり方に違いはあると思いますが、そうですね。

>2)「あの世」に行くにあたって、今の「私」は何らかの変化をする
そうですね。ここの言い方が微妙ですよね。
この世の時空間とは、別の次元(時空間概念は薄くなっている次元)に記憶があって、それを一部共有して生まれて来て、何かを成したものが記憶として残るという風に考えてます。
ユングのお話も、ウィルバーのティグレの話も、そういう理解をしています。


>1)今の「私」がそのまま「あの世」に行く
>シュタイナーの死後観もこちらになるようで、
>ここは志賀さんの講義にちょっと期待しているところがあります。
以前までのお話だと、そういう印象がありますね。今度の講義で是非聞いてみましょう。
私が思うに、シュタイナーも宇宙は進化するものと考えているのだと思いますから、そのままあちらの世界で存在するとは言っていないと予想しています。
多分程度の差だと思っています。

 この話はちょっとややこしいのですが、中間存在の考え方によるのではないかと思っています。
 つまり物質界より高次の次元の存在があるとするか。その中間次元の存在は物質より高次な体(身体)があるわけで、その次元で身体性を持つとすると、かなり物質界と似た形である期間存在して活動できるということになるわけです。
 つまり身体性が物質界を中心しか存在できないのであれば、死んだら高次元に記憶として(ティグレ)として宇宙に記録が残りますが、それを持って活動する身体が存在できなければ、高次元では何もないということになると思います。
 なので、高次元における身体性をどう考えるかが非常に重要だと思っています。

 あと考慮すべきは、進化をどう考えるかが重要と思います。
 まず本能や元型は、長い進化の歴史で積み上げられた記憶という考え方をユングもしていると思います。この辺、ウィルバーとどこまで近いかは不明です。
 ウィルバーの言っていることを良くみていくと、万物のすべて(元型、本能、意味、物理法則、万物すべての形を形成するなにか)は、所与のものではいと考えているようです。あるのは、そういうったすべてを生み出していくダイナミズムがあり、それがスピリット。そしてそこからすべては進化しながら生み出されていると考えているわけです。

 この点、ユングはどうなんでしょう。 宇宙が生まれてからの現在までの時間というスケールで考えると、結局同じように考えているのではないかと思っています。

 シュタイナーも程度の差こそあれ、宇宙が生まれてからの時間スケールで見ると同じ考えなのではないかと思うわけです。
 人間の100年弱の一生からすると億年という単位は永遠と同じだと思うわけです。そしてこういった時間スケールをどう捉えているかで、違っていることを言っているように見えるのではないだろうかと思うわけです。

 あと宇宙の他の星の生物がいるとしたらの、先の記憶の共有範囲は地球圏だけなのかといったちょっとぶっ飛んだ命題も沸いてくるわけです。現在の宇宙科学の知識からすれば、まっとうな命題かもしれませんね。
 ちなみにシュタイナーは、霊が宇宙の彼方からやってくるといいますからね。この辺もシュタイナーの回に聞いてみたいです。
>54:けろりんさん

 プシコイド、フジコイドの話、面白いですね。

 降りてくる「霊」とそれを受ける「体」。そしてその体が、56で述べてた身体性のことです。
 けろりんさんのご指摘は、この身体性の重要性と、それがあるはずで、その結果として、あちらの世界でもこちらの世界とほぼ同じような身体性がありではないかというお話かと理解しました。

 この点、56で書きましたとおり、ありだと思っています。
 なのでこの「身体性」をどう考えていくのかがとても重要だと、ここ最近とっても重要視しています。

 ユングのプシコイドは、心物が融合した次元で、シンクロニシティの媒介物と考えられているらしいですが、それがこにもっと「体」としての形が持てる次元のものが、「フジコイド」という風に理解しましたよ。
 このお話は、中間存在としての身体性が、どのように構成されるのかというモデルを考ええいるのだと思いました。
 プシコイドそのものが、記憶の貯蔵庫であり、記憶とスピリットを受けて生起する体(中間的身体性)であるアストラル体やエーテル体になると考えても良いのかなと思いました。
 この辺は、研究が必要ですね。

 ユングは、アストラル体やエーテル体、中間次元の存在をどう考えていたのでしょうね。プシコイドとの関係性を書いたものってあるのでしょうかね。

>53
整理をありがとうございます。
サンタクロースの例は、理科系の学会で私がよく使うたとえです。
みなさんそれで納得します。

しかし、納得するけど、みな、サンタクロースはいないことを知っています。
妖怪が実在しないことも知っています。
列クンがはっきりそういってたでしょ?
そこをクリアにしなければいけないと思うのです。

死後の世界に関しては、決してそうではないことが問題なのではないでしょうか?それとも、みな、ないって暗黙のうちに了解しながら話してるのでしょうか?ないって思いつつあんな話をしてるのですか?それはまたむなしいなあ・・・

田舎でお墓に手を合わせるおばあちゃんに向かって、死人は腐って土になってるし、魂はここにあるわけではない、なんていうのは、確かにKYだと思います。

でも、ここは学術的な研究会でしょ?
そこでクリアにしなければいけないのは別の問題だと思います。
死後の世界に対するとらえ方の立場は、それぞれ異なっても、もちろん良いわけです。そういう意味で、みんな違ってみんな正しい(これこそがウイルバーのインテグラル理論です!)といえるでしょう。

ただ、どこが違うのか、なぜそうとらえるのかを説明して互いに理解することがインテグラルだと思うのですよ。目に見えないものはすべて理論というか仮説にすぎず、うまく説明できるかどうかに存在価値があって、絶対的に正しいかどうかは議論する意味がないことです。

ですから私はここでの自分の立場として少し科学的な方向から書いています。この視点が欠けてるように思うからです。絶対に正しいと主張しているわけではありません。
ISLISなんかは科学者集団なので、完全文科系の視点から、サンタクロースの話なんかをするわけです。
そういう視点の違いを受容することでインテグラルな話が深まっていくと考えているからです。

サンタクロース論=判断停止論は最初期の仏教においても一時的に採用されたり、後に釈迦ではなくサンジャヤの取った立場だと規定されて乗り越えられたりと重要な争点となりました

「サンジャヤは次のように言った
『(アジャータサットゥ)大王よ、もしもあなたが〈あの世は存在するか?〉と問うたなら、

私が〈あの世は存在する〉と考えれば〈あの世は存在する〉と答えるでしょう

しかし、私はそうだとは考えない

そうらしいとも考えない

それとは違うとも考えない

そうではない、とも考えない

そうではないのではない、とも考えない」
アンナさん☆

 (唯物因果の還元主義を越えた、構成主義的なパターン認識、いわゆるパースペクティブによる世界認識を目指す、あの構造主義に基づくような「構造としての“あの世”」の“タイプ論”あるいは“起源史”も、総合的な学として可能な気はするわけですが)←それが、どんなものにせよ、この世とは別に、この世の生物的な死の後に、あの世が実在するという《信》とは、また別な話かも知れないと思います。

 未経験なものや記憶を失ってしまったものの、その実在性を、信じられるか信じられないかは、本来、この世を研究するための“科学的な態度”を左右しない気はします。

 だから、アンナさんがあの世を信じていなくても、あるいは、信じるようになるにしても、どちらであっても“科学者”としての実践は、損なうことなく継続出来るとは思います。

 ただ、たぶん、サンタクロースとあの世(のカテゴリー?)は、やっぱり違うし、それを強制的にアナロジーで結ぶと、微妙に論じているところのコンテクストを誤る気がします。

 余談ですが冷や汗、たぶん、本当は、存在神秘とタウマゼインをもたらす、この世界も、充分に妖怪です。

 世界は、案外、妖怪の唯物擬態なのではないでしょうか?←そうすることで、再び、キリスト教倫理と資本主義精神に侵略された近代のラグナロクを超え、再び魂と神話的世界観が復権できそうな気がします。すると、また、虚無の中を貫く一筋の“こころある道”が、また見えてくるかも。

 まさか、…甲田博士すら、タヌキがいろんなものに化けるように、世界の本質が物質に化けており、プレローマもアイオーンもエネルギーも、物質に化けてることを、…もはや、忘れてる?ふらふら

 とにかく、科学教の支配を超え、…あの世を信じたくても信じられない人(あるいは自分)には、“あの世の本質直観(の可能性?)”を構造主義的に示して、《信》に幅を持たせたりは出来ないだろうか、…とか、思ったりはします。

 すると、“唯物オブセッション”からも解放されるわけです。それにより、たぶん、物でない、あの「悲しみ」や「喜び」すら“存在”として認識され、たぶん、薬物で中和してしまえるようなつまらない単なる脳生理のありもしない幻覚様の現象ではなくなったりします。

 我々の多くは、それ自体は科学的態度とは反対である、“知ったかぶりの科学教の洗脳”に深くはまっており、あの世などの可能性を検討不可能にさせられている可能性があるわけです。もちろん、それは、なぜか人間を疎外し“経済単位”に変える“(魚座の?!)一般意志”によるイデオロギー操作の結果であるようにも思われます。

 まぁ、その“一般意志”が神や悪魔でないなら、操作とかいうよりも、自己組織化とかオートポイエシスに近いですかね。

 あの、西欧人を暗黙に指し批判的に示した“(ユングにおける→)頭だけで考える狂った人間”とは、“科学教に取り付かれた人間”だったのかも。

 しかし、アクエリアン革命は、果たして本当に進行してるんだろうか?

 そういえば、ちょっと前までは、デリダ流の、スキゾなリゾームが、ディファレンシエートでイケていたのだが、インテグラル・スピリチュアリティーっつたら、もう、パラノでメランコな中央集権志向への退行の気がしてしまい、かつてスキゾ・キッズたらんとした者にとっては多少の当惑がげっそり…。←誤読?
 う〜ん。いろいろと、様子を見ていましたが。
 のぶさんの整理は見事ですし、アンナさんの指摘は大切だとおもいます。

 これは遅ればせながら、78910さんへのお答えにもなりますが、番号でいえば私は4→2→3→1という形で展開してみました。問題なのは「あの世はあるか」ということではなく、歴史的にも民俗習慣としてもそうした捉え方があるとした場合に、「あの世」と呼ばれるものの確信成立の条件をとりだすことだと思います。それが、私の場合は「その世」論になります。つまり、「あの世」とか「この世」とかいう世界虜域に向き合っている視座があり、そこから開けるもろもろの視界が「世」というわけです。そこで、またぞろ「その世」を実体化するとしたならば、今度はそのことに対し、「どの世?」とでも問われなければならないでしょう。これは日本語の「こ・そ・あ・ど」にのっけた少々遊戯じみた発想でもあり、柳田や折口はもとより、古東哲明氏というハイデガー研究者の称えた「臨生」論にも刺激を受けていますが、固定的な視座を反転させることができます。

 要点は、「あの世」を実体化し、名詞化したとたん、戯論に陥るのではないかということです。その意味で、78910さんの挙げたサンジャヤの言葉は実に示唆的です。

 ちなみに、私が考える「その世」論も、けろりんさんの言う「構造としてのあの世」と近いものかも知れません。
 かって井上円了は霊魂不滅説を唱えたし、「世界万有悉く妖怪なり」と喝破しておられます(笑) で、私なりに敷衍すれば、世界内存在としてのもろもろの事物・事象には不思議なことは何もないのですが、世界そのものは不思議なのです。で、世界=妖怪論を私は失念しているわけでは、もちろんありません。しかし、この「妖怪」もまた実体論的文脈で弄されるとしたら、私はむしろ「そんなもの冗談だ、実在しない」と言いたくなるということです。実際、「妖怪」の名前にはシャレや批評性の効いたのが多いですから。

 もうすこしいうと、世界内の諸事物に対して科学的研究は有効であって、単純な科学批判は意味をなしません。しかし、全てがそこから開けている視点や、その視点と相関する世界については、原理的に科学では解明できず、これはなにも科学の欠陥というわけではありまぜん。ただ、対象化不能という事の性質上、不向きなだけです。

 また、インテグラル・スピリチュアリティという場合の「インテグラル」は英語では普通に「あの人はインテグリティがある」というように使われる言葉で、「統合」と訳すと言葉が固くなりますが、「首尾一貫性」とか「自律的」とか「筋を通す」というのに近い語感かと私見では思います。“Ausenthic”にも近いですね。ですから、中央集権とはなんの関係もなく、むしろ日本という文脈においては、もろもろの文脈の上手な使い分けと同時に、それら相互を可視化し、深めるための大きな助けとして、「習合」を「統合」するように使えるのてはないかと、私は考えています。
> 甲田 烈さん


 御教示、ありがとうございます。

 とにかく、たぶん、この世だけを《信》のよりどころとする近代の“(フーコーの言う→)狂気”の枠組みから解放された、信じる信じないの二項対立を脱構築した“霊界のノマドロジー”ってスタンスがあってもいいかも。

 ひょっとすると、「この世もまた、あまたある霊界のうちの、ひとつ」と喝破しえた、あの丹波哲郎も、そんな“霊界のノマド”だったりして、…。
甲田烈さん☆

> もうすこしいうと、世界内の諸事物に対して科学的研究は有効であって、単純な科学批判は意味をなしません。

 そう、実際、科学者たるものポパーみたいなスタンスが必要なはずなんですが、…こちらはまた、キリシタンバテレンの妖術に屈したクロフネ・ショック(←岸田秀?)のPTSDが、未だ尾を引き、醒めやらず、伝統のスピリチュアル文化のカルチュアル・レイプからのパン助的な、トラディションへの反動形成なのか、…外向的な科学的真理を、宗教的絶対真理の教条の如く振り回す衆愚の傾向性が、なんだか精神風土の汚染を匂わす悪臭(←?)みたいに気になるわけでした。実は、サムライ・ニッポンはもともとスピリチュアル!


> しかし、全てがそこから開けている視点や、その視点と相関する世界については、原理的に科学では解明できず、これはなにも科学の欠陥というわけではありません。

 人差し指そう、ユング的に言えば非合理的機能。問題は、それに強引に科学を適用しようとする無理、無体、…と、「なぜ意識は脳から生まれるのか?」みたいな、結論を予め前提にすり替える、様々なソフィスティケーションによるミラージュの罠、…。


> ただ、対象化不能という事の性質上、不向きなだけです。

 ただ、ユングの言う“科学”は、一味違い、その“不向きなもの仕立て”になってるかも知れませんね。水にもサッと溶けるブレンディ。方法的独我論(←渡辺学先生))

 奇跡と言えば、奇跡など起こらないことが本当の奇跡で、実は本来は、ともすればすぐ暴走モードに突入するイドの怪物エスでもある、集合的無意識の“妖怪である世界”を、天神地祇を折伏するかのように、“(反密教的?!→)ユング的マンダラ”の結界能力で拘束して、箍に嵌め、馴致して、いつも科学が通用しているような、“この世界”を、壊れぬよう破綻せぬよう維持管理して、変わらぬ安心をお届けしてるってことが、物凄い奇跡なんだ、とも思うわけですね。たぶん、想念がたちどころに実現される(?)プレローマじゃそうはいかない。

 まさに、本当の神(セルフ!)こそは、奥床しく“地味で目立たぬ仕事”に徹する、筋金入りのキーパーで、“奇跡の管理人”で、「ソラリスの生きている海なみの“世界という妖怪”」の、飼育係で調教師だったのかも。バッキー・フラーの“宇宙船地球号”も、ボスコーン(←アニメの方冷や汗)のオーガンシップみたいなもの、…。
>56 清志朗さん

昨日、ぎっくり腰をやってしまいまして、前かがみでようやく移動してます。
なにかと冴えないゴールデンウィークでしたよ。


>なので、高次元における身体性をどう考えるかが非常に重要だと思っています。

その通りで、サトル・ボディとか物質と心との中間領域とか、
理屈で詰めていくと、やはり最後はそのあたりに話が行き着きます。


あと、元型と絡めての進化の問題です。

ユングの元型論は、当初は動物行動学的なアナロジーで提示されました。
つまり動物の本能に相当するものが、人間の心にもあり、それが元型ではないか、ということです。
この場合、元型は、人類が生まれてくる進化の系統樹上で形成されてきたもので、
人間という種に備わった属性であり、行動や表象におけるパターンということになります。

しかし後期になると、むしろ元型という宇宙的な原理があって、
それが人間の心と、物質的領域とを同時に統制している、という考え方になります。
元型は人間という種の属性ではなく、この世界の原理です。
そして、ひとつの元型が活性化し、人間の心と物質的領域との両方に現出すると共時的現象になる。

そもそも後期ユングでは、時空連続体そのものを意識による形成物だ、と考えるわけで、
宇宙の根元たる元型は、当然、時間的スケールを超越した存在になります。
「時間そのものを含め、すべてはスピリット(元型)から進化(分化)しながら生み出されている」という考え方になるのではないでしょうか。


>先の記憶の共有範囲は地球圏だけなのか

このあたりになると、ユングなら、
「臨床にあまり関係ない」という言い方で回答を避けたかもしれません。

共時性に絡む問題領域についてなら、
偶然の一致がもつ治療効果、あるいは病の悪化の兆候という点において
臨床上無視できないという考え方だったと思います。
死後の世界の話も同様で、
このあたりがユングの問題意識のいちばん外側でしょうか。
>58 アンナさん

ありがとうございます。
サンタの例はわりとポピュラーなんですね。
共通了解のある例ということで、今後も使いやすいかも。


>死後の世界に関しては、決してそうではないことが問題なのではないでしょうか?それとも、みな、ないって暗黙のうちに了解しながら話してるのでしょうか?ないって思いつつあんな話をしてるのですか?それはまたむなしいなあ・・・


ないって思いつつあんな話をしてる、のではなく、
「ない」とも「ある」とも思わずにあんな話をしてる、
あるいは「ない」とも「ある」とも思ってあんな話をしてる、のではないでしょうか?
で、それは「むなしい」ことではなく「楽しい」ことである、と。

端的に、それだけだと思うんですが。


>妖怪が実在しないことも知っています。
列クンがはっきりそういってたでしょ?
そこをクリアにしなければいけないと思うのです。


しかし同時に、甲田さんが、
「いないことが分かっている妖怪の研究なんてむなしい」と思っているとは
私にはとても思えない。(ですよね?>甲田さん)
むしろ、「そこをクリア」にしながら、喜々として妖怪の話をしていると私には思えました。
この感覚、この現実こそが、今回の問題の焦点ではないのでしょうか?

私なんかも、妖怪だの幽霊だのは大好きでして、
喜々として話をし、時には「本当にいるかも」などと発言したりしてます。
一方で、以前、研究会の席上で清志朗さんにズバリ指摘されたように、
私は、本質的に、バリバリの科学的合理主義者です。
(あの指摘は本当に鋭いと思いました>清志朗さん)



ユングがイメージという、いわば実在しないものの心理学に至ったとき、
「霊」の実在について懐疑論と肯定論との間を行ったり来たりするとき、
死後の世界の実在を証明するものなどない、と言いながら「死後の世界」論を展開するとき、
「ある」と「ない」の間にあるなにかを、ユングは問題にしています。
それこそがユング思想の真の核だ、というのが私の「直観」なわけです。
>58 アンナさん(つづき)


>田舎でお墓に手を合わせるおばあちゃんに向かって、死人は腐って土になってるし、魂はここにあるわけではない、なんていうのは、確かにKYだと思います。

まあ、実際にそう「言って」しまってはKYそのものですが、
しかし、たとえ口にしなくとも、おばあちゃんを前にして
ついつい「ナンセンスだな」と考えてしまう発想を持っていることには変わりない。
問題は、その発想の仕方そのものでしょう。


私なんかは、仕事の現場の中で、
そういう「お墓に手を合わせるおばあちゃん」を実際に相手にしているわけで、
極端に言えば、その場で何をどう考え、どのように事にあたったらいいのかが全てなわけです。
それを提示できないのであれば、そもそも科学を持ち込むこと自体が的外れ、という感覚はあります。
これは科学の欠陥ではなくて、科学を持ち込む場面の選択の不適切さ、です。

科学というのは、現代においては強い特権性と権力性を持っているので、
「科学はひとつの見方だ」といくら強調しても、それに代わるような視点がなければ、
現実的には、科学で物事を切り捨てる結果にしかならないわけです。


>でも、ここは学術的な研究会でしょ?
>そこでクリアにしなければいけないのは別の問題だと思います。

自然科学的な観点からは「死後の世界」の存在は実証できてない。
このことを研究会に出ている方で理解していない人はまずいない、と
私は思っているのですが。
いまひとつ、ここを敢えて強調するアンナさんの意図が私には分からないんですよ。

改めてクリアにしたとしても、
実は私は、あまり意味がないことだとも思っています。
今回何度か挙げている例ですが、
改めて「魂は存在するか?」と聞いてみれば、
けっこうな数の人が「ないでしょう」「よくわからない」と答えるでしょう。
しかしそんな人たちも、葬儀に出て手を合わせたり、
冥福を祈ったりすることを普通にやっている。
その「現実」こそが全てであり、我々の魂の実相であると私は思っています。

クリアにする作業の中で出てくるのは意識的な認知状況だけで、
無意識領域をも含めた本当の意味での全体的状況は析出できない。
全体的状況を把握するには、ユングが夢に注目したときのように、
なにかの「反転」が方法論として必要になる。
そういう考えかたも私にはあります。



「科学的な視点が欠けている」ことが問題になるのは、
科学的視点がないと上手く機能しない局面に限られる、と私は考えます。
臨床的、現場実務的な学問であれば、様々な視点からの理論構築とは別に、
いかにして「上手に偏るか」を考える必要もあるでしょう。
人生のある局面には、あるひとつの視点を採ることが絶対的に必要になることがあって、
その局面においては、あえて「しっかりと偏る」必要がある。


ユングにしても、死後の世界の存在を実証するだけの証拠は存在しないが、
人生のある局面では、死後の世界についての想像をたくましくさせ、
それを真実として受け止める必要がある、という立場です。
ユングはここで、「しっかりと偏ること」を指南し勧めているわけで、
逆にそれこそが「全体性の回復」だと考えているように思います。
>59 78910さん

ありがとうございます。

サンタクロース論=判断停止論、でしょうか?
私としては、判断の停止といった知的判断のレベルの話ではなく、
むしろある種の意識状態、ある種の意識のモードを採るという、具体的行為であるように思うのですが。


78910さんは、その仏教の議論についてどう思われますか?
また、個人的に死後の世界についてどう思われますか?


ユングもまた、とある精神科医向けのセミナーの中で、
あまり形而上学的な問題には応えないという態度を取りました。
これは、その時その相手には有効な態度だと考えたのでしょう。
>60 けろりんさん

>そういえば、ちょっと前までは、デリダ流の、スキゾなリゾームが、ディファレンシエートでイケていたのだが、インテグラル・スピリチュアリティーっつたら、もう、パラノでメランコな中央集権志向への退行の気がしてしまい、かつてスキゾ・キッズたらんとした者にとっては多少の当惑が…。←誤読?


これは私個人としては、分かる気がします。

インテグラル思想だけでなく、おそらくユングも対象になってしまうと思うんですが、

「多様性と言いながら、それを結局は全体的観点の元に一元化している。
多様性をあたかも認めているかのような相手の言説に惑わされてはいけない。
相手が本当に行っていることを見なければならない」

というのが、おそらくはポストモダン思想の見方というか、
ポストモダンの根に存在している本能的な「センス」というものになると思います。
統合的な思想に対する根本的な不信感とでも言うのでしょうか。

で、これはユング好きとして自戒も込めて言うんですが、
このポストモダン的直観には、いくばくかの真理があると思っています。


暴論承知で言いますと、スピリチュアリティというのは、
例外を認めない強い一元化というものを必ずどこかで持ち合わせている、
そうでないものはそもそもスピリチュアリティではない、と思います。
私はその意味で、ユングにもインテグラル思想にも、一定の警戒心がありますね。
>61 甲田さん

>この「妖怪」もまた実体論的文脈で弄されるとしたら、私はむしろ「そんなもの冗談だ、実在しない」と言いたくなるということです。


この主張は、私としては分かる気がするのですが、
ここでさらに一回りして、
「妖怪」を実体論的文脈で考える、というのもアリかもしれないと考えてます。

ユングも、「霊現象はコンプレックスの働きだ」から一回りして、
晩年は「やっぱり霊が実在すると考えた方がいいかも」と言い出してますね。


ちょっと逸れるかもしれませんが、

ユングは、無意識コンプレックスを扱うにあたって、
実際に対応する場合には、本気で相手を一人の実在する人格として対応したほうがいい、
それどころかむしろ、そう対応しなければならない、
そう思い対応できることこそ、我々が持っている健全さであり自己治癒能力なのだ、
ここで大事なのは「自分が馬鹿馬鹿しいことをやっている」という思いにとらわれないようにすることだ、
というようなことを述べています。

本気で実在すると「考えなくてはならない」局面も、人間の実際の人生の中には存在する。
そういう局面では、関係ない視点を敢えて一切持ち込むべきではないし、
それこそがその局面では、もっともバランスの取れた適切な行為である。

こういう視点もあると私は思うのですが。
のぶさんの一連のコメントはていねいで、問題の在りかをより明らかに浮き彫りにし、お互いの研究にとって大変有意義なものですね

1.清志朗さんの言う「高次元における身体性」

これについては独立したトピックで検討するのがふさわしい深い問題ですね

2.「サンタクロースはいないことがわかっているけど、あの世は決して存在しないことがわかりきっている問題ではないから、サンタクロースと同レベルで議論を避けるなんておかしい」というアンナ節

それに対してのぶさんは

>「ない」とも「ある」とも思わずにあんな話をしてる、あるいは「ない」とも「ある」とも思ってあんな話をしてる、のではないでしょうか?
で、それは「むなしい」ことではなく「楽しい」ことである、と。
端的に、それだけだと思うんですが。

とおっしゃっています

また、ぼくに対するコメントにおいて

>私としては、判断の停止といった知的判断のレベルの話ではなく、むしろある種の意識状態、ある種の意識のモードを採るという、具体的行為であるように思う

とおっしゃっています

のぶさんのおっしゃっているユングに絡めた一連の説明はとてもよくわかります
のぶさんのおっしゃりたいこともとてもよくわかります

「サンタクロースはいるかいないのか、まず正確な所をはっきりさせてからその上でクリスマスを楽しみたい」というアンナさんの観点と、

「せっかくクリスマスを楽しんでいるのに、サンタクロースがいるかいないのかなんて科学的な目くじらを立てるのは人々の役には立たないよ」というのぶさんの観点の違いだと思います

3.仏教および死後の世界についてのぼくの意見のお尋ねには、また後でお答えしたいと思います
のぶさんより尋ねられてここにお答えすることは、決して自分の考えが他の考えより勝っているだろうというような自信があってのものではなく、

また、これによって誰かを自分が抱える過ちと同じ道に引きずり込もうと思ってのことでもありません

ただ、問われるがままに素直な心境を記させていただいて、もって様々にご意見ある方々の善意や助言に頼り、真面目な求道および研究の一助を授けていただけたなら、

と思ってのことです

ぼくの中には2つの気持ちが同居しています

一つは、大変な人格者で、かつ優れた理性の人であるダライ・ラマ氏や多くの立派で柔和な指導者を持つチベット仏教が精緻に展開する輪廻転生の理論は

それを瞑想実践の中で確信と共に受け入れてこそ、その他のすべての教説もその上にしっかりと成立して来る構造になっているが、

この核心的前提がぼくには、修行のための功利的な観点から一旦受け入れるということはできるけれども

揺らぐことのない実感と共に確信する、ということはできずにいるな〜という思い。

もう一つは

偉大な禅者、鈴木大拙氏が、「あの世があるとか、死後の世界があるとか、来世があるとか、生まれ変わりがあるとか、輪廻転生があるとか、そういうもんは全て自己執着を投影したもんに過ぎないexclamation
自己執着を捨てきれぬ心が見せる幻影に過ぎないexclamation
そんなもんは一切ないと、バチッと甘えを捨てよexclamation
今生で生きる限りの人生なのだexclamation
了解(りょうげ)せよexclamation

と獅子吼されているがごときなのを痛く感じながらも、

生まれ変わりを前提とする道徳実践の価値にもすごく惹かれる思い。
>70 78910さん

ありがとうございます。いろいろ補足させて下さい。


>サンタクロースはいないことがわかっているけど、あの世は決して存在しないことがわかりきっている問題ではない


まずは科学方法論の基本の確認ですが、「ない」ことの科学的証明は不可能です。
特定の事象が「ある」ことを示すことは出来ても、「ない」ことを直接に示すことは原理的に無理だからです。
「無いことを証明せよ」というのは、いわゆる「悪魔の証明」、
原理的に行うことのできない証明の要請になります。

ですから、「サンタはいない」ことは、科学的には証明不可能です。
ただ、サンタが実在する証拠がないことをもって、サンタは実在しないと暫定的にみなしていい。
それが科学という営為の共通了解というか、基本ルール、「お約束ごと」になっているわけです。
これはあくまで「お約束ごと」に基づく暫定的結論であって、
実在することそのものを保証するものではない。
なにか新しい証拠がみつかれば、「実はサンタはいた」と結論が変わりえます。

「あの世」についても、これと同じ理由で科学的には実在しないと暫定的にみなしていい。
科学の方法論に従うなら、サンタとあの世は、実在の根拠を示せない点で
同列に扱っていいことになります。
それをなにかおかしいと感ずるなら、それは科学のルールに基づく判断ではなく、
なにか別の価値基準を持ち込んで判断していることになる。


もっとも最近の科学哲学では、単に「ある」か「ない」かの割り切りだけではなく、
どの程度ありうるか、という程度の問題を組み込む考え方もあるようです(ベイズ主義など)。
私が思うに、可能性の大きさの評価ということなら、
空想のキャラクターであることが明白なサンタよりも
「あの世」のほうが、ずっと実在する可能性が高いようにも思いますが。


つまるところ、「あの世は存在しない」と「まずはクリア」に片づけてしまうことが
いかに危うい論法であるか、ということだと思います。
クリアな「科学的結論」の根拠についてよくよく考えていくと、
科学という営為の本質に関わる、けっこう危うい問題が見えてきます。


例えば、インフルエンザウィルスの研究のように、
科学を持ち込むことでそれなりに有用な結論が出る対象ならともかく、
「あの世があるかどうか」に科学を持ち込んで「クリア」にしても、
せいぜい「科学のルール上では、ないことになります」という、
いわば科学方法論のお約束ごとを確認するだけのことになってしまう。
実践的な有用性に結びついたり、後進の科学研究に発展的に結びつく、といったようなことにはならない。

はたしてそんな領域に科学を持ち込む意味や有効性があるのか、
それは科学的営為というよりも、むしろ
「科学的でなければならぬ」というイデオロギーの表現行為になってはいないか。
「あの世」については、それを適切に、有意味に扱うような方法論が別にあるのではないか。

そういう部分をもっと考えてもいいように思います。
>70 78910さん(つづき)


>「せっかくクリスマスを楽しんでいるのに、サンタクロースがいるかいないのかなんて科学的な目くじらを立てるのは人々の役には立たないよ」というのぶさんの観点


ここも、少し補足させて下さい。


まずは、これは「楽しいならば、あるかないかなど問う必要はない」という意味合いではありません。

より正確に言うと、
サンタという表象が、経済や人の動きといった実体的な事柄に対して、
現に作用したり方向づけたりしているという「現実」からものを考えよう、
そういう「現実」を上手に捉えられるような視点や態度はなにか、
そこを問うてみよう、ということです。

また、そもそも「サンタがいるかどうか」を科学的に問う、ということが
現実問題として、どれだけ科学的営為としての意味や有用性を持っているのか、
という観点があります。
先に書いた通り、実はあまり意味がないのでは、というのが私の考えになります。



あまり意識されないまま、サンタがあたかもいるかのように人々が振る舞うことで、
サンタという表象は現実に対して大きな影響力を持っている。
そういう意味で、サンタは間違いなく「いる」。
こうした状況を、単に「むなしく幻想に踊らされている」と見なすとしたら、
それは科学的観点というよりも、むしろ唯物論、素朴実在論に強く傾いた観点だと思います。

私が捉えているユングは、そういう「幻想」の有用性と価値とを徹底的に追及した思想家です。
その「幻想」の有用性と価値とを存分に引き出すためには、
それがあたかも実在しているかのように扱う、場合によっては実在していると確信する、
そういう態度が必要になるとユングは考えたわけです。
>71 78910さん

これ以上ないぐらい真っ正面からお答えを頂きまして、ありがとうございます。

なんというのか、こういうふうにお答えを頂くと
私なんかは「ああ、78910さんに触れた」という感触になるんですよね。


今、「あの世」といったような事柄について語る場合、
もっとも大事なことは、
「自分のなかに幾つかの視点や気持ちが同居している」 ことを認めることから始める、
そこだと私は思うんです。

ダライ・ラマの本を読んで「真実だなあ」と思い、
その後で鈴木大拙の本を読んでも「真実だなあ」と思ってしまう。
私なんかは正直そんな感じです。

こうやって様々に振れつつ、ひとつのことの周りをめぐり続ける、
むしろそのことで、はじめて何かが見える。
もともと、そんなものかもしれないな、という気がするわけです。
(ユングの臨床技法たる増幅法も、これと同様のやり方をしていますね)
のぶさん☆

 余談ですが、中沢新一/レヴィ=ストロースの『サンタクロースの秘密』によると、悪い子を袋に入れて連れ去り奴隷にしてしまう、まるで、北斗の拳の悪者・皇帝サウザーか、ナマハゲみたいな妖怪じじいが、サンタクロースの起源らしいのですが、どこかでエナンティオドロミーして、善玉に変わったみたいです。

 いまや、サンタクロースは、モース流の“贈与の一撃”のドメスティックなデリバティブな導入により対幻想を補強する重要なサプリメントとして機能しているかも知れない。

 しかし、最もラディカルな科学者のひとりである、あのリチャード・ドーキンスは、サンタクロースを目のカタキにしているようでした。

 まぁ、幼少のみぎりのドーキンスも、子供時代の“変人ガリレオ”みたいに「トナカイに牽かれた橇が空を飛ぶ?…ふっむふっ、ありえないね」と迷妄を蔑んで言うような少年時代だったことは想像するに余りあります。…で、そんなんだから、彼はクリスマスプレゼントを貰えない泣き顔。その、心の寂しさを深く深く抑圧するほかなかったわけですが、そのコンプレックスがサンタクロースにシャドウを転移させるのかも!
>66

のぶさん、すごくわかりやすい説明で納得です。
しかし、こんなに時間をかけて丁寧にお答えくださって、大丈夫ですか?
・・・心配になります。

私は西洋流の白黒をはっきりした考え方のほうが気持ちがよくて、どっちもありとかどっちもなしとか言われると、不安になるかいらいらするほうです。

コーヒーがいい?紅茶がいい?ときいたときに、
「どっちでも」とか、「あなたはどうするの?」という答えに実はイラッとする人です。
自分の好みくらいわかんないの?=自分の意見もってないの?=自分で考えないでいつも人に同調するの?=そういう意識だから世の中が変になっても誰も抗議しないんじゃないの!=だから悪がはびこってるじゃないの!
みたいな気持ちになるんです。

たぶん、アメリカに留学していたときに、自分を徹底的にあちら流に鍛え上げた成果というか名残だと思うのですが。コミュニケーションパターンがアメリカ流ですのでストレートすぎますか。悪気はないのですけど、傷ついた方がいたらごめんなさい。

単純なので、どちらかはっきりさせろよって言いたくなります。
死後の世界は、意識ではNO,無意識ではイエス、そういうことですね。
どちらの立ち位置かを明確にしてから話せばよい訳ですね。
これですっきりします。

また、なんか来そうだな・・・笑
眠いからおやすみなさい。
アンナさん☆
> コーヒーがいい?紅茶がいい?ときいたときに、「どっちでも」とか、「あなたはどうするの?」という答えに実はイラッとする人です。


 なるほど。はっきりしていたほうは気持ちいいですねウインク。本当は、空気なんか読まないで、そのほうが楽であるなぁ。

 アメリカ式と和式を、臨機応変に使いわければいいのかな、…。
和式っていうと、なんか特定のイメージ(TOTO)が・・・アンナだけですか、そういう発想をするのは。
日本式っていったほうがいいかも。

臨機応変に?私は和式は絶対無理なんです。
どうしてもできないんです。
和式じゃないのを見つけるまでどこまでも我慢します。

こういうのと、関係あるのかな・・・????
> アンナさん

 …わ、わたしは冷や汗、洋式で用をたせるようになるまで、30年くらいかかりました泣き顔。“椅子に座ってもらしてる”ような、いまだに、違和感がある、…。

 ところで、ユングの夢に出て来た上帝の神は、玉座に座ったまま、大量のウンチをして、その天国から落ちて来たウンチで、教会をぶっ潰しましたが、…神は、トイレットペーパは使っていないようだ。

 …ユングの見たキリスト教の神は、教会を肥溜同様にみなし、かつ、自分の尻を拭かない神なのだったげっそり

 余談ですが、私は、電線にとまったカラスにウンチをかけられたことがあるが、あのカラスは、間違いなく私を狙ってウンチを落としてきた。幸い私には卓球で鍛えた反射神経があるので、かろうじて避けた。いずれにせよ、くそったれのカラスは、人間を万物の霊長だとはつゆほども思っていないに違いない。
>64:のぶさん


ぎっくり腰なおって、よかったですね。
一緒に走りません


>しかし後期になると、むしろ元型という宇宙的な原理があって、
>それが人間の心と、物質的領域とを同時に統制している、という考え方になります。
>元型は人間という種の属性ではなく、この世界の原理です。
>そして、ひとつの元型が活性化し、人間の心と物質的領域との両方に現出すると共時的現象になる。
そうですね。
ユングのいう元型は、三種類にわけられると、ウィルバーも言ってました。
ここでいう元型は、宇宙のダイナミズムそのものですね。

元型イメージ
元型という型
元型という型を生み出すダイナミズム

この辺の話は、宗教、哲学、神秘主義、科学も、それぞれの視座から、同じものを語っているように見えるんですよ。

先日のウィルバーの時に説明したモデルは、その共通的なモデルで提示しています。
分かりにくかったかもしれませんが、あそこで説明した「身体性」は、4象限全レベルを言ってまして、サトルボディは、個の外面という位置づけにしています。
サトルボディが個の外面というのは、ウィルバーの通りです。
「サトルボディは、個の外面という位置づけにしています」

サトルボディは外面として客観的に観察されるものとは言えず、

個人の内面や集団の内面に想像として成立するものだと思うのですが、いかがでしょうか?
> 清志朗さん

 渡辺学先生の『ユングにおける心と体験世界』(←林先生の『ユング思想の神髄』とはまた違った、のぶさんも認める、銘著ですexclamation←二人の先生は離反してますが、読者サイドからは、ユング理解において、両著は補完しあうかもexclamation)によると、元型は七つに範疇化出来るそうです。

 ちなみにネットでの議論で八つ目のカテゴリーが追加されてたのですが、…ドワスレしてしまいました顔(願)。後で調べてUPしようと思います。
78910さんへ

コメント、ずっと拝読させていただいていましたわーい(嬉しい顔) 81番のコメントを読んで、ふと思い出した文章があったので、書かせていただきます。引用は、ちくま学芸文庫のシュタイナーの『神秘学概論』の文庫本からです。


“(この世的・感覚的世界的に)開示された世界の内部で言えば、つまり人間の物質体とは、人間が鉱物界と共有する部分のことである。これに反して、人間を鉱物から区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。とらわれずに考察するとき、特に重要になるのは、人間が死ぬと、人間本性が鉱物界と同じあり方を示すようになることである。死体とは、鉱物界での諸経過にゆだねられた人体部分のことである。人間本性の肉体部分には、鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているが、死にいたらなければ、肉体が崩壊することはない”(P57〜58)

“このように、人間の開示された部分と隠された部分とをはっきり区別しなければならない。実際、生きている間は、隠された部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗して生き続けなければならないのだが、この抵抗がやめば、鉱物本来の力だけが作用し始める。
ここに超感覚的な事象を科学するときの出発点が存する”(P58)

“肉体の中で崩壊に抵抗している、隠された働きを観察できるのは、高次の直観力だけであるが、(この世的・感覚世界的に)開示されたものだけしか対象化できない通常の判断力もまた、隠されたものをその「諸作用」の中に、はっきりと見てとることができる。そして諸作用は、人間が生きているかぎりでは、鉱物の素材と力が生み出す「形態」の中に現れている”(P59)


私はウィルバーやトランスパーソナル心理学にはうといのですが、結局、この世で“サトル・ボディ”なるもの(シュタイナーでいうエーテル体?)を認識しようとすると、私たち人体の感覚器官が認知する知覚内容やそれによって形作られる表象を“直感的思考”によって概念化することによってしか認識できないのではないかな・・・と思いました(←この考え方は、シュタイナーの『自由の哲学』から学んだことですあっかんべー)。

以上の考え方からすると、サトル・ボディは“個の外面”として捉えることもできるし、直感的思考で掴むというところでは“個の内面”として捉えることもできるのかな・・・と思いました。
ミネルヴァの戦士さん、ていねいなお話ありがとうございます(^_^)

「“サトル・ボディ”なるもの(シュタイナーでいうエーテル体?)を認識しようとすると、私たち人体の感覚器官が認知する知覚内容やそれによって形作られる表象を“直感的思考”によって概念化することによってしか認識できないのではないかな・・・と思いました」

そこからミネルヴァさんは、「サトルボディは個の外面とも言えるし、個の内面とも言えるのではないか」と結んでおりますが

個の外面や内面、集団の外面や内面というカテゴリ−をケン・ウイルバーに従うなら、

科学的・実証的な手法で確認し得ないサトルボディは、個の内面に想像されたり、

集団の内面に想像と意見交換を介して共有されるもの、と言ったほうが正しいのではないでしょうか?
でも、それだと「紫外線」や「赤外線」も、“個の内面”に分類されてしまうことにはなりませんか?


私が言いたかったのは、

(人間の感覚器官によって知覚される)現象を緻密に注意深く観察していれば、“隠されたもの(「オカルト」という言葉の意味は本来、「隠されたもの」という意味なのだそうです)”が自ずと知れてくる

ということなのです。

目には見えないけれど、赤外線が肌に当たれば暖かく感じますし、紫外線が肌に当たれば日焼けしたりします(つまり、光線そのものは目に見えないけれど、その光線の「諸作用」を観察することによって、そこには“目に見えない何かがある”と私たちは、(直感的思考によって)概念化するわけです。

赤外線にあたるたび、紫外線に当たるたび、私たちは5感によって何かを知覚し、その知覚内容を意識の中に蓄積していきます。そして、それを繰り返すたび、私たちは、紫外線や赤外線に当たっていなくてもその諸作用を思い浮かべることができる(焼けた肌や暖かさを思い浮かべる=表象を形作る)わけです。

そして蓄積された知覚内容や表象から、機能的なやり方で(また直感的思考によって)一定の法則(現象)を概念化していきます。

そうした現象を観察することによって、得られる認識を“個の外面”として位置づけることもできるのではないか・・・と、思ったわけなのです。

そして私にとっては、「紫外線」も「赤外線」も「サトル・ボディ」も、以上の“科学的”思考によって同じく導き出された“概念”のように思えます。

ただ、シュタイナーの場合、“直感的思考”は「外部のものに帰依しない純粋な思考=仏性?=神(海にたとえられる神です。そして、その考え方の下では、個々の人間の魂は海水の一滴にたとえられます。つまり、一人一人の魂の中に、同じ神が宿っているという考え方になります。ユングの集合意識も連想しますね)に繋がっていくもの」だと個人的には解釈したので、その観点からすれば、サトル・ボディも“個の内面”として捉えられるかな・・・と思ったのです。
清志朗さんへ

いまシュタイナーの『神秘学概論』を読んでいます。シュタイナーを読んでいると、ちょくちょくウィルバーを思い浮かべます。

で、サトル・ボディを“個の外面”と見るか“個の内面”と見るかについて78910さんとコメントを交わしていてふと思ったことは、

ウィルバーは、“個(I)”というものをどのように定義しているのか・・・

ということでした。そして、そう思っているときに、こんな文章に出会いました。

“・・・ユダヤ教の立場は、「私」という呼び名を、「神の言い表し難き名詞」であると述べている。(中略)魂の隠された聖域なのであり、ただ同じ種類の魂を持った存在だけが、そこへ参入することができる。「人間の内なる神は、魂がみずからを『私』と認識するとき、語りはじめる」”(『神秘学概論』P71・・・ただし私自身は、直接ユダヤ教の教義には触れていません)


ところで、“サトル”という言葉から連想するのは、“微細”という言葉であり、“夢見”という言葉でもあります。

で、シュタイナーのいうエーテル体は確かに、肉体に比べると私達の感覚器官(目)では知覚できないほど微細なもののようにも思えてくるわけです。

でも“「夢見」の方はどうなの?”と思っていたら、『神秘学概論』の中にこんなことが書かれていました。

“夢のない眠りが生じるときには、アストラル体がエーテル体と肉体から引き離されている。夢を見ているときのアストラル体は感覚器官と何も関連を持たなくなる程度には肉体から離れているけれども、エーテル体とはまだ一定の関連を保ち続ける。アストラル体の諸経過が形象となって知覚されるのは、エーテル体とのこの関連に由来する。この関連も失われると、その瞬間に形象は、意識のない闇の中に沈んで、夢のない眠りに陥る”(P96)

「夢のない眠り」・・・これは“コーザル(元因)”というウィルバーの「状態(ステートでしたか・・・)」を思い出させますよね。


安易にウィルバーとシュタイナーを結び付けてはいけないとは思うのですけれど、こういった似たような言葉を結び合わせていくと(そしてウィルバー自身が、サトル・ボディは“個の外面”と位置づけているとするなら)、何となくウィルバーは、“個”というものを“アストラル体”以降(自我、霊我、生命霊、霊人を含む)と捉えているのかなぁ・・・と考えたわけなのです。だから、肉体とエーテル体は“個の外面”に位置づけるのだと・・・

でも、エーテル体は、この世での記憶にも関係しているようなので(死んで、肉体とエーテル体が完全に切り離され、そのエーテル体とアストラル体が結びついた状態になると、その人の一生の全記憶が展開されるそうです。一般にも、死ぬ前には、今までの人生が走馬灯のように目の前をかけ巡る・・・と言われますよね)、“個”をどこで線引きするかによって、サトル・ボディも“個の内面”に捉えられてもいいように思えたのです。


そんなこんなを考えているうちに、

ウィルバーの言う“個”とは何なのかしらん・・・

という疑問が湧き上がってきたというわけですわーい(嬉しい顔) 
(う〜ん、かなり脱線しちゃったかな・・・? しかも、話題は、完全に超感覚的な話になり、自然科学的には検証されない次元の話になってしまいましたが・・・あせあせ(飛び散る汗)
まあ、そこはシュタイナーの本によると・・・ということでお許しくださいませウインク
おはようございます。  

目覚めて(朝から!!)思ったことがありましたあせあせ

“個=I”じゃないですね。“個の内面=I”ですね。そして、Iが集まったものが“集団の内面=We”である、と・・・。

“個の外面はIt”、“集団の外面はIts”でしたね(いつか、どなたかの日記を拝見していて、“どうしてItsなんだろう、どうしてTheyじゃないんだろう”とコメントされてた方がいましたが、面白い疑問だと思いました)。

個はやっぱりPersonal、なんでしょうね。

うん、パーソナルの定義ってなんだか難しく感じられます。
> ミネルヴァの戦士さん


 パーソナルの意味もコンプレックス(複合体)ですね。まだまだ沢山の“意味素(意味の原子でピクセル)”に分解出来そうです。
けろりんさん


そうですね。パーソナルは複合体ですね。


いま、86、87の自分のコメントを読み返してみて、ちょっと混乱があるな・・・と自分でも思いました。

多分、私はきっと“I(=個の内面)とは何か”が物凄く気になってたのだと思います(最初に“個=I”としちゃったから混乱したんでしょうね、きっとあせあせ)。

で、“Iとは何か・・・?”を問えば、やはりこれもコンプレクスになるような気がします(パーソナルとはまた違ったピクセルが出てくると思いますが・・・)。

ところで個人的には何となく、エーテル体は科学の分野でいつか解明される日が来るんじゃないかしら・・・と、期待しているんですよわーい(嬉しい顔)
> ミネルヴァの戦士さん


 パーソナルというのが、“この世というRPGのゲーム”のキャラで、それが、“アイデンティティに基づき育て上げるアバター”である場合は、哲学的自我とは別なものとして考えるべきで、ユング心理学では、いわゆる“ペルソナ”ということになりますよね。…ペルソナはアートマンが演じる役割演技でもある。

 しかし、体験主体である哲学的自我は、その気になればアイデンティティなんか捨てて、どんなアバターにもエントリー出来るわけです。

 …でも、その体験主体は、経験的には、いつもその都度エントリーしている固有のアートマンである他ないということもあり、現実的具体的には、どうしてもパーソナルである他ないわけでもあるわけです。

 だから、パーソナルには“広い意味でのパーソナル”と“狭い意味での(←自同律の不快をもたらすアイデンティティのせいで、その都度カルマを背負わされた→)パーソナル”が、ちょうどマトリョーシカ人形状態でシンクロしているわけで、…これを、生皮を剥ぐように析離しつつ考えるのが、かなり難しい、…冷や汗

 それは、そこから、ウィトゲンシュタインもハマった、あの独我論のアポリアにもリンクして来る問題にもなりますね。

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