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競艇百物語 第六夜
疾風と化した男〜加藤峻二

うちが絶対有利の時代。敢然とアウトからしか勝負しなかった。
エンジンを抜群に噴かせて勝つのではない。テクニックで勝つのだ。
確かに彦坂や岡本、北原、野中らを相手に勝率1位になった事はない。
しかし、ファンは加藤峻二を支持した。常に鮮やかな男だったからだ。
疾風のように、音もなく、アウトからスピードで抜き去る。
つけまい〜その概念は加藤峻二から始まったのだ。


 その時、閃光が走った。
閃光に敗れ去った男は、しばらくは敗戦自体を信じられないでいた。
貴田宏一である。前回に登場してもらったから、まだ記憶に新しい。
「わしの優勝だったんじゃ」
今でも口に出る。潔い態度をとらないのは、自分はノーミスだったの思いからだろう。
「あんな捲くりは、10回やったら9回は失敗するやつですよ」
レース後に話しをしたものだ。
「貴田さんには、あれから顔を合わせる度にぼやかれたね」
振り返るのは「あんな捲くり」を決めた男である。「あんな捲くり」は今ならツケマイと呼ばれる。決めて男は閃光と化した。

 21年前の春、笹川賞。覇者は一瞬の判断で、より鮮やかな勝利に到達した。住之江を駆け抜けた閃光、「あんな捲くり」を決めた男・加藤峻二が今回の主役である。

 本人は「まだそんな呼ばれ方は、されていなかったんじゃないの」と言うが、当時の記事を改めてみてば、『加藤峻二がツケマイ快勝』なる活字が躍っているので、『ツケマイ』はすでに競艇用語になっていたのは分かる。前年に野中和夫が数々の記録を作った場面・場面で、野中は同体からいとも容易に捲くっている。そのブッチーターンとも呼ばれていた物は紛れもなくツケマイだし、そこらあたり発生源を窺い知ることが出来そうだが、加藤自身の思いを述べれば、呼ばれ方は耳新しくとも、ターン自体はずっとやってきた物だった。ツケマイ即ち「ハコで回る」という発想は、加藤峻二に始まったと断言してなんら差し支えが無い。
 第4回笹川賞競走優勝戦。この一戦は、1マークの態系から、あるいは差しても栄冠に届いていたかも知れない。だが今となれば『ツケマイの元祖』がツケマイで勝ったことに大きな意味がある。競艇史の中により鮮やかにはまり込むのだ。


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これが1959年7月24日に初出場を迎えた加藤峻二のデビュー節の着づけである。5着・5着・5着・6着ときた、3日目の後半レースで水神祭を挙げている。
「重ランだったんだよ」
前回、この連載で紹介した荒天用のボートである。うねる水面を長尺・幅広のボートでグングン突き進み、一気にかましたのである。テクニシャンにして無類の波・風巧者である後年のイメージが早くもそこにある。
 当時とすれば画期的な成績だった。先輩には軍隊上がり(いわゆる特攻上がりという人も)の猛者もいて強面ぶりを発揮していた環境である。「新人は外から外へ」が習い、コース取りに欲を出すようならば、たちどころに一喝された。

この年の夏には、連合会養成の5期生として北原友次と加藤峻二が、年末には6期生として岡本義則と彦坂郁雄がデビューしたのだが、初勝利まで北原は1ヵ月半。彦坂は3ヶ月もかかり、岡本などは丸1年、157走もして11勝しか出来なかった。そこへ行くと加藤は、5戦目に勝利の味を知り、1年目は83戦して7勝に甘んじたものの、2年目には155戦44勝と一気に数字を伸ばしている。
●北原友次=3・14→4.53→5.07→5.89
●加藤峻二=4.19→4.76→5.97→6.87
●岡本義則=2.79→4.71→6.01→5.64
●彦坂郁雄=3.52→4.87→5.73→5.47
上に挙げたのは、彼らのデビューからの4期の勝率。それぞれに、その後の活躍を予感させる航跡であるが、とりわけ加藤の数字が優秀である。4選手の中でもいち早く一線に飛び出していった。

加藤こそレーサーとなるべくして生まれてきた人間だった。埼玉という土地柄に漏れず、サッカー少年として育ったが、実兄がオートレースの選手、それにしたがって16歳の頃には、その道に進もうとしていた(ちなみに兄さんの名前は加藤義則。しかも岡本の兄も岡本保というオートの選手。符号している)。
 試験にも受かっていた。養成の関係から2年ぐらい待たされそうなので、競艇に種目換えしたのだという。
そして、なってしまえば、天性の競艇選手であった。先ほど「新人は外から外へ」と書いた。4選手の成績が上がっていくのは、そういう世界に馴染んでいったからなのだが、加藤をのぞく選手、ことに北原と彦坂については、馴染むはイコール打ち破るであった。競艇に対する根本の部分では、北原は彦坂と隔たって、加藤と同じくする(だからこそ2人は親友で、今でも現役を続けているのだ)。しかし、コース取りに関して「外から外へ」を否定する事から、成り上がっていったのは共通している。北原は生まれながらのすばしっこさとスロー調整を知ることによって、イン相場を築いていった。
まだ静岡にいた彦坂は彦坂で、倉田栄一や伊藤昭次(昭和30年代にビッグ準優勝4回のスター選手)がインでスイスイ勝つのを見て「俺も!」と奮起、古株の叱咤もなんのその『ムチャ彦』と呼ばれるくらい怖い物知らずのコース取りで、デビュー3年目には全日本選手権の優勝戦に進出するまでになった。
 岡本は『差し』である。後年、「自分で言うのも照れくさいですが、他人の十倍は練習したですよ」と振り返る熱心さで、差しの角度とスピードを自分のものにした。

だが、岡本にしても、コースは内よりにシフトしていく。加藤ひとりがアウト水域を動かなかった。性格的なこともあるし、当時は、「関東ガマシ」と呼ばれて、先輩に強力な捲くり選手が多い環境もあった。鈴木一義、金子安雄、開要人と言えば、オールドファンは手を打つ存在である(ついでに書けば御三方は、筆者の会社で評論家をされていた。もしくはされている人たちである)。加藤が見た中で「一番巧かった」坂井輝雄という選手もいた。
「強さは倉田さんだが、巧さは坂井輝雄だった。なんせあれがターンして、他のボートに当てたのを見たことがない。」
その名前を聞いて資料をたどってみたら加藤以外の選手が、こんなコメントをしているのを見つけた。なるほど加藤が憧れる選手像である。登録番号801番で元々は京都の人。江戸川3周年、多摩川5周年、鳴門8周年、宮島4周年、福岡3周年など初期に記念覇者として名前を残しているほか、短い選手生活で10連勝以上を4回記録している。競艇史に埋もれた伝説の強豪であったのだろう。

 そういう選手を見て、身近に手本があった。がりがりコースを取りに行くのは「垢抜けない」雰囲気も周囲には漂っていたのかも知れない。しかし勝てないならば、そもそも内の方へ寄っていくしかなかっただろう。加藤は勝てた。初めから稼げたものだから、コース取りに無理する必要がない。競艇選手・加藤峻二の源流はここにあると思う。

「そりゃ練習はした。朝から晩まで戸田にいたもんだよ」
いくら天分に恵まれた人間でも、技術を高め、固めていくのは反復練習しかない。前述の岡本しかり、時を隔てて現れる今村豊しかり、競艇史における卓越したテクニシャンは、努力は惜しまない、(努力を楽しむことさえ出来る)人たちなのであるが、それも才能と呼ぶ事が出来るだろう。
「この世界に天才は2人しか現れていない。加藤さんと今村だけだ」栗原孝一郎の言葉に大きくうなづけるのは、純粋にボートを操る事に関する周囲からの認知度において、この2人ほど傑出していた物はいないと思われるからだ。
ただしトップに立つのは、時代に愛された者である。彦坂郁雄の最盛期には、全ての流れが自分の方に向いていた。野中和夫の実績は、超の付く凄さだが、超の部分の何割を地元の住之江が負っているのだろうか。植木通彦ほどポテンシャリーの高いチャンピオンはいない。彼こそデカペラとモンキーターンの申し子で、ではそれがなかりせば…つまりは時代に愛されているのである。

 加藤は勝率トップになったことがない。上には彦坂はいて岡本がいて、その後に野中が現れた。今村には頂点を極めたイメージではある。しかし、獲得賞金で1番にならなかった。
2人はトップに立つには(最も評価の高かった時期において)巧すぎたにではないか。ともにクリーンなレースっぷりで知られる。コース取りからスタート、ゴールに至るまで無理に自分を通さない。せめぎあいと別の次元を走り抜ける事が出来たからである。そんな2人を繋げるのは「ハコで回る」実際、他の選手の視点で捕らえれば、別次元を通ってくる捲くり=ツケマイであった。
「ハコで回り始めたのはね、締め込んでいくと先輩に怒られたからだよ。スリット過ぎても真っ直ぐ走るしかない、1マークは自然とハコで回るしかないからね」
今村の20年も前にツケマイ仕様のターンをやり始めた加藤の述懐である。『関東ガマシ』の面々では最年少、どうしても一番外に出される。「新人は外から外へ」を守る中で、先駆的なターンは出来上がったのである。
「外から来られると音で感じるもんだが、加藤だけには音もなしに捲くられてしまうんだ」
当時を知る選手の驚きの声を覚えている。エンジンの完成度は低く、プロペラの直径は20ミリも小さく、ボートにカウリングなどは付いていず、水面に消波装置などない時代である。インがまさに王道だった。
そんな背景のもと、加藤は自らスタイルを変えることなく、3年の経験で全国地区対抗戦7名のメンバーに選ばれる。1962年、関東地区を代表する選手の一人に認められたこの年が、記念キャリアの始まりだった。

加藤の(今で言うところの)G1初優勝は、1966年の関東地区選手権。SGの優勝戦に始めて乗ったのは、1968年度(1969年3月)の全日本選手権競走だ。彦坂が62年には尼崎10周年を獲り、全日本選手権に優出、北原もこの年に全国地区対抗戦に優出し翌年には福岡10周年を奪取、岡本にしても1964年には徳山11周年、全国地区対抗とG1・SGをあわせて獲った事を考えると、デビューぶりとは逆に、加藤はスターダムに乗るのが遅れてきたと言わざるを得ない。
競艇はターンの技術だけを競うものではない、エンジンを出して、コースを取った人間が、圧倒的にアドバンテージを得る。ここらあたりのところ、4者のレーススタイルと選手像を思い浮かべれば、納得の航跡ではある。
 加藤はビッグステージにおいては、『遅れてきた青年』であったが、最初の機会から印象的な働きをする。
「平和島は彦坂を潰して、金子さんに差され、住之江では彦坂を飛ばして、早川さん(行男=静岡の人)に差されたんだよね」
ことにSG初優出となった平和島の選手権は、全勝できていた松野寛の弟が、優勝戦を前にして交通事故死、その悲運の欠場を伝えられる一戦だが、5艇立ての4コースから加藤は果敢に捲くって行った。
「いつもは金子さんが内で、僕が外のコース取りだったんだけどね」
この時に限って2人の内・外が変わった。これも勝負の綾というものだろう。とにもかくにも1969年に2度開催された全日本選手権競走で、加藤はともに準優勝する。確かな足跡を印すと同時に、「ダービー?」が『永遠のテーマ』となったのだった。

アンチ彦坂。前記のコメントには、この心情(であるし信条でもあったのだろう)も色濃い。彦坂の好敵手としては、昭和40年代には岡本義則。50年代に入ると野中和夫という図式が一般的だろうが、競艇選手としての在り方、価値観の部分で、対極に位置していたのは加藤だったと思う。
「彼がいたから僕も頑張れたんだね。向こうがそれで勝つなら、それだでは絶対にやらないで勝つってふうにファイトを燃やせたんだと思う」
 彦坂がエンジンパワーを前面に押し立てるのなら、加藤はテクニックにこだわった。向こうがスタート勝負に行くなら、こちらはコーナーを重視した。強い『艇王』とは逆の論法で、巧い『名手』の地位を固めていったのである。

SG覇者にもほどなく列せられた。1970年の住之江における総理大臣杯で、加藤は、山口の巧者・古谷浩以下を抑えて載冠の時を迎えた。3着=金子安雄、4着=鈴木一義と『関東ガマシ』の先輩も従えていた。2つ目のビックタイトルとなった1972年の全国地区対抗は、大逆転の勝利だった。捲くり先行の石原洋を追走していたところ、まだ若かりし安岐真人が、2周1マークで石原に対して突進、その気を見逃さず差しぬけたのだ。この年は、MB記念、選手権にも優出、実に四大競走のうち3競走でファイナリストとなったのだが、ここを境に加藤峻二の名前は、しばらくビッグシーンから遠ざかってしまう。
第4回笹川賞競走。これが5年ぶりのSG優勝戦だったのである。

 「もう大きいタイトルは獲れないんじゃないのかと、弱気になっていた時期だったんだけどね」
前年に野中和夫が競艇界を完全に牛耳っていた。若い世代も伸ばしてきている最中だった。この笹川賞の出場48選手の中で、加藤は登録番号順に上から10番目、すでにベテランである。追われるものの不安に哂されていたとしても不思議はない。
だが栄光の予兆はあった。年末・年始に桐生・江戸川を連続完全優勝する過程で、自己最多の16連勝を記録している。1977年は最高の幕開けだった。G1競走の優勝戦では、戸田周年2着、関東地区戦4着、浜名湖施設改善6着と勝ちあぐねていたが、3月の戸田、そして笹川賞前の平和島を準完全優勝、勢いに乗って住之江入りだったのである。野中はF休み、彦坂はスタート事故件数による選考除外、その前検日に展示最高タイムを掲示する。
「僕のが一番出ているように思う」
声を弾ませた。事実、本番に入っても岡本や北原のキャリア組みが苦戦する中、順当に準優入りした。結果的にはここがポイントだった。
スタートで少し後手を踏んだ為に、松野の捲くりを差したもののかかりが甘く、内を国光にえぐられてしまった。バック4番手、2マークで2番差しの吉田に突進、ここで差した松野とホーム、2周1マークと競り、松野には引導を渡したが、再度浮上した吉田との争いは最終ターンまで持ち越した。両者の艇が重なり合い、外の吉田が防波フェンスまで吹っ飛んでしまうぐらいの力比べの末に、ベスト6の座を確保したのだ。

優勝戦メンバーはフレッシュだが、戦前予想からすれば意外な顔ぶれになった。でも、結果は実績のある選手同士の戦いになった。インの貴田と、怖い物知らずの若者を外に見るという、思い通りのコース取りをした加藤である。1マーク一対一のカタチになり「一瞬迷った」ものの、次の瞬間には、加藤が競艇史に残るツケマイを決めているのだ。
「乗れている時と言うのは、他の艇がスローに見えるもんなんだよ」
加藤は語る。迷ったのは、迷う余裕があったと言い換えたい。その証拠に、加藤は続けてMB記念を制覇、選手権にも優出3着として、この年の最優秀選手に選ばれている。これより後は、別の機会に記すことになるだろう。


「あと10年は現役でいたいな」
21年後の笹川賞で、加藤はあの時を思い出させるツケマイを決めた。身体は若い、心はなお若い。この言葉は夢物語ではない。
秋には始めての孫が生まれる。その子が大きくなって、おじいちゃんの活躍を目に焼き付けるまで、我らが加藤峻二は健在である。



・・・・・おしまい


マクール「競艇百物語」 文・鷲田義継 より




コメント(15)

峻二さん、大好きです!
私は峻二さんの全盛期を知っているわけじゃないけど、これだけいろんなところから話を聞くと、もう憧れずにはいられませんw
あの御年で捲りにいってるのみたりすると、もう、ホント、惚れますね。
せいじんさん
メッセージありがとうございます。
誰も書き込みしてくれないから「読んでくれないのかなぁ?」って心配していたんですよね(笑)

峻二さんって「ここは差しで2・3着だろう」って予想してしまった時に、捲くって1マーク握っている姿を見て「スミマセンでした!!!」って心の中で土下座です(笑)
ザビエルさん
コメントありがとうございます。
また、頑張って打ち込んじゃいますよ(笑)

ちなみに僕も初めて競艇を見る人に加藤峻二の話は必ずしますよ。
競艇を知らない人でも「60歳をすぎて現役!」って言うだけで凄さが伝わる。
昔の埼玉では加藤峻二と金子安雄は『KKコンビ』と呼ばれていましたよ♪清原・桑田が出てくるずっと以前から・・・。
金子安雄元選手は群馬の金子文雄選手と一字違いなので良く間違えますが「チョビ安」とか「チビ安」として愛されていましたし、昭和47年の住之江のダービー等も制し、引退後は鈴木一義・開要人と競艇研究社を設立、今の予想紙の先駆けとなり、その後はフリーの競艇評論家を居酒屋を営みながらやっていました。
そう思うと加藤選手の息の長さには感嘆しますね。後でついた『KKコンビ』の片割れ⇒北原友次元選手の記録には多分追いつけないと思いますが、出来るだけ近づいて欲しいものです。
ちなみに「チビ安」こと金子安雄元選手の居酒屋はその名も(@_@)/ずばり!「チビ安」でJR埼京線戸田公園駅の裏通りの小さな赤提灯の店であったと記憶しています。店の前に「競艇日本一・金子安雄の店」の大きな看板が掲げてあり(数年前の話なので現在あるかどうかは不明)、今でも一杯入るとその当時のレースの話を饒舌にニコニコ笑いながらしていました。お近くの方は是非・・・。交通事故で亡くなった鈴木一義選手の事でも聞いてみたら?
いのしし侍さん
僕が競艇の話を聞き始めた時「K・Kコンビ」って言われて「加藤・金子」と「加藤・北原」の事を言っているのか、わからなかったなぁ
「チビ安」には是非行って見たいと思っているんだけど、ひとりではなかなか行きづらいんですよね・・・
w(゜o゜)w オオー!
ついに来ましたね、我等の御大が♪

いまや最古参の選手なのに、A級にいるだけでも十分ですよね。。もちろんA1に復帰してもらうのがいいですが…。。
60を過ぎてなお、外にこだわる時があるっていうのがいいですよね、スタイルが一貫してて。

金子さんは、バッハでしか観たことないので一度生の声を聞いてみたいかも♪「今日のがんばったで賞」w
funyazouさん
A2からA1に上がった時、ビックリしたけどね。
あのまま、落ちて行っちゃうのかなぁって思っていたけど、戻ってきたからね。
戸田の周年も笹川賞も出場出来ないけど、名人戦は頑張って欲しいよね。
ボート党さん
僕もついつい「植木を負かした」とか言うのを基準に話してしまいます。
「あの植木を捲くって勝ったんだよ!スゲー」って話しちゃう(笑)
ただ今、うつし終わりました。
皆さん、どうでしたか?

この文章は7年位前に書かれたものです。
加藤峻二選手の活躍はまだまだ続きそうですね。
ザビエルさん
ありがとうございます。
僕もそろそろオヤジの声がかかる年齢に・・・汗
オヤジたちの星!これからも頑張るんでしょうね。

1485さん
今村が名人戦にのったら加藤峻二も気合入っちゃうだろうね(笑)
機会があったら、加藤峻二の話、今回の続きを書きますよ。期待していてね。

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