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ユング心理学研究会コミュの【講義録】ユングと夢分析

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第41回 「ユングと夢分析」白田信重  2008/07/17



2008年後期のテーマは『裏面の精神思想史?』です。後期第1回目はユング心理学研究会の重鎮である白田さんが「ユングの夢分析」についての講義をして下さいました。今回の内容は、夢分析の臨床上の実践テクニックではなく、裏面の思想史にふさわしい、無意識(裏)の補償である夢の自己調整機能をユングはどう捉えていたかという話でした。また、夢分析は治療というよりも、ユングの世界観であるといった興味深い内容となっていて、大変勉強になりました。



?【ユングの夢分析】

 夢は一般的に無意識といわれていますが、実はそうではなく、無意識から意識へ入ってきたもので、覚醒状態で認識できます。つまり、夢は意識性を備えているのです。そして、夢の機能の基本は「補償」です。意識の偏りや錯誤などを、夢によって警告しているという訳です。白田さんのあげた例を参考に、種類をあげていきます。

<補償> 
例:仕事の取引があった。夢で手が真っ黒になっている夢を見た。無意識に悪い取引だと分かっていたが、認識せず、夢での警告があった。

<縮小> 〜マイナスの補償 
例:立派な成功者を父にもつ息子が、ヘタクソな自転車運転をする父の夢をみる。息子は
怒って怒鳴りつけるが、父は笑っているだけである。表には円満に見える親子関係である
が、実は夢で見たほうが本当の関係なのである。

<展望的・予見的機能> 〜補償の一種
これからどうしたらいいかを示してくれる夢。

<大きな夢>
アフリカの部族などが予見的に見る夢など、集合的な夢。
例:ユングが血の海の夢をみた。それは、第2次世界大戦だった。

その他<反応夢>
トラウマの夢など厳しい状況の夢を繰り返し見る。これは、補償ではないので、適切な治療をしても全く意味がない。ユングは身体的な何かが関連して夢に現れると示唆している。
例:胃に何か示唆する夢をみた後、検査をしたら胃潰瘍であった。

★  白田さん曰く、現代の脳科学でも当てはまることであるとおっしゃっていました。
★M この話を聞いて、私はふと、ハンス・セリエのストレス理論を思い出しました。大脳辺縁系では情動をつかさどり、神経系・内分泌系・免疫系等と協同して働いていることを考えると、身体のストレス(病気)が意識(無意識?)に影響を与えて夢に現れるメカニズムは脳科学的にありえるのかもしれないと理解しました。あまり関係ありませんか?

その他<テレパシー夢> 〜予知夢
例:知人が夢の中で「さようなら」と言った。次の日、知人が亡くなった知らせを受けた。
例:飛行機が落ちる夢を見た。実際に事故が起きた。

★M 「展望的な夢も予知夢の一種ですか?」と二次会で白田さんに質問をしたところ、展望的な夢は将来のことを指し示すものであるが、実行されない限りは実現しない点は予知夢と違うとのことでした。後に調べてみたら、『テレパシー夢は予知だけではなく、同時的に起こった場合も含む、合理的な説明のつかないものを指している』のだそうです。




?【ユング「心理学の現代的意義」要旨(1933年・公演録)から分かること】

? 1933年という年について
ナシスドイツが政権を取った年です。そして、ヒトラーに反対して国際精神療法学会の会長が辞任した後、ユングがそのポストを引き継ぎました。そして、後までユングがユダヤ人差別に関与したのではないか?と言われるようになったのです。

?(個人の意識は)生命の樹にとっての貴重な果実〜
生命の歴史の中では、まず集団意識が根底にあり、その後の発達によって個人的な意識が生まれます。つまり、樹が成長して最後に果実をつけるように、個人の意識は人間の歴史の中で最後に生まれたもの(果実)なのです。「個人の意識」の歴史は、まだ浅いということなのですね。

?生みの悩み
個人の病気の治療過程と同じく、現代社会においても分裂と病気のような時代ではあるが、それは治癒の過程なのだとユングはいっています。かつてローマが栄え、崩壊し、結果として新しい秩序が生まれたように、現代の社会が病理のようにみえる混乱も、新たな時代の誕生のために必要な過程であるようです。

?ユングが夢分析で語ったこと=社会への批評
★M  難しい専門用語が使えないので、私なりの解釈で書かせていただきます。

戦争をしている国の人々の心は決して平和ではありません。私たち人間は、社会が荒れていると心も荒れてしまいます。逆をかえせば、すさんだ心が戦争などの荒れた社会を生み出しているということなのです。つまり、心(意識・無意識)が社会(歴史)を作りだしているということなのです。
そして、どうやらユングは夢分析を通して、社会(ナチス)を批評していたようです。個人主義的な傾向の結果として、このような補償的後退、つまり、ナチスをはじめとした病気の時代になっているのだと暗に示唆したのでしょう。

★M ここで面白いと思ったことは、『意識が現実をつくり出す』という、今流行のイメージ法の理論が、分かったような気がしました。




?【C.G.ユング「心理学の現代的意義」から分かること】


? 合理的と非合理的
私たち人間は合理的であると考えて行動していても、実は悪循環となり、結果として非合理的な行動をしている場合があります。
《 例でいうと、ある事業が危険な状況に陥っている時に、合理的と思える策をいくらこうじても、実はさらに状況を悪化させているという非合理的な行為になります。》

 そして、合理的な生きづまり(非合理的)をやめることにより、合理的なことが生まれるのです。
《 例でいうと、傾いてしまった事業に対して合理的と思っていた万策(実は合理的ではなかったこと)をやめてしまうこと。そして、それを変えさせるアイディアを出すことで合理的(性)が生まれるのです。》

 合理的をやめて合理的を生み出す瞬間は非合理的といえます。つまり、そのアイディアが生まれる瞬間というのは非合理的なのです。
《 例えば、空をボーッと眺めていた時に、ふと良いアイディアを思いつく瞬間は非合理的なこと。》

 その「瞬間」に対して、ユングは夢を使おうというのです。そして、自分が行き詰っていることを認めていない人に対して、それを認めることで治療効果があるのだそうです。


? 心は物理的世界を変える?
 その1
??とリンクしてくるところなのですが、本当の歴史というのは個人の内面から生まれます。大きな変革も、全ては個人の内部からおこなわれていることなのです。だから、個人の内面=夢が大切なのだとユングはいっているのです。
 
 その2
 病気を治そうとしない治療が、治療への道なのです。つまり、治そうとしていること自体、病気を悪化させてしまいます。信じて待つこと。これも治療の心得のようです。

★大橋さんがお話してくださいました。ユングは中国の「アマブンシ?」を知らずして、治療を行ってはいけないと言ったそうです。どのような話かというと、その昔、雨乞い師に雨を降らせてほしいと頼んだところ、師は小屋にこもってしまったそうです。何故かというと、人々の心の秩序が乱れていたので、それが正されるのをただじっと待っていたのです。そして、人々の心が正されると、雨が降り出したといいます。


?夢をどう分析するのか
 夢は何故もっと分かりやすく、ズバリ教えてくれないのでしょうか?ユングによれば、夢は純粋な自然の産物だからだそうです。夢の解釈はいかようにもとれますが、私たちはそれを正しく読めるかどうかが重要なのです。

例: 「夕焼けが赤かった」とします。知識がある人は、そこから「明日は晴れ」を読み取ることができます。そして、明日は山登りに行こうと計画をたてることが可能なのです。
つまり、夕焼けを見て、次の日は晴れると知っても知らなくても“晴れる”ことに変わりはありません。けれども、知っていれば有利に状況を利用することができます。これが、夢から情報を得て、正確に読み取るということなのです。


?「自己省察」とは?
例をあげます。出掛ける時に服装チェックをする時、ふつう鏡に映った自分の姿を見ます。または他人に見てもらって、意見を聞きます。ちなみに、今日の白田さんはアロハシャツを着ていこうとしていましたが、奥様の意見で発表者としてふさわしい洋服にかえたそうです。
自分で自分の姿を見るとき、もし直接自分を見ようとすると、上から覗きこんだり振り返ったりして不自然な体勢をしてしまい、なかなか見にくいものです。つまり、自分をみるには、客観的な目で知る必要があります。
ユングの言葉でいうと、自意識が自己を省察するのではなく、夢という客観的な事実を考えるということなのです。


★M 【まとめ】

夢は無意識の領域にある重要な要素を、意識の方へ働きかけてくれるものだと理解しました。意識が偏ってしまったバランスを回復する補償機能だけではなく、自分の置かれた現状を知ることや、これからの方向性を指し示してくれることもあるのです。私たちは一見とらえどころのない夢からの情報を正確に読みとるのと同時に、意識化をすることも必要です。そして夢を解釈することに執着せず、無意識の自然治癒力を信じて待つということも大事なことなのです。
あと、とても印象的だったのは、個人の内面が歴史をつくるということです。意識が状況をつくりだす、つまり、意識を変えれば状況も変わるのですね。


コメント(92)

>ミネルヴァさん

>「合理」は自我意識が管轄する範疇で理解したり、解決したり出来ること・・・というイメージを持ちました。

そう思います。上手い表現ですね。

 以前の白田さんの講義でのユングの心理モデルだと、その人の心的空間というのがあって、その中にたくさんのコンプレクスがあり、その中のひとつが自我というコンプレクス。【図5.ユングとアサジョーリの心理モデル(以前書いた絵です)】参照

 つまり心領域を空間的(物理空間ではありません)に記述すると、自我、意識領域、個人の心領域、さらにその外側(全体)という具合に、多重に境界があるわけです。
 そうすると、ユングのいう合理というのは、ミネルバさんの表現でいうと、自我領域か、意識領域くらいの内側のこととなり、非常に分かりやすいなあと思います。

 意識領域より外は、個人の心領域であっても、自我から見たら、非合理だし、さらにその外側はいわんやでしょう。

 ただそういった自我から見た非合理な領域も、個人を超えた大きな枠組みで見たら、意味を生み出す共通構造が存在しているということで、このひとつが元型でしょう。
 さらにもっと広いと、人類を超えた共通的な意味の世界や神の摂理なのだろうと思っています。つまりユングが言っている意味を生み出す可能性ということですね。
清志朗さんへ

清志朗さんのご説明、すごく納得しました。ありがとうございますexclamation(私、そこまで細かく厳密には考えていませんでしたあせあせ(飛び散る汗)


清志朗さんがアップしてくださった図、とっても興味深いです。

アサジョーリのモデルでは、トランスパーソナルセルフは、個人的無意識と集合無意識の境にあるのですね。
また、コンプレックスは、個人的無意識の下位部分にのみ存在しますね(個人的無意識も3段階に分かれているように見えます)。

そして、全体の形は楕円形をしています。

一方、ユングのモデルは円形であり、これはアサジョーリのモデルを上から見た図とあって、自己(セルフ)やコンプレックスが、(個人的?)無意識の中のどの辺りに位置するのかは、はっきりしていないようです。


そういえば、以前、このコミュで、みっくんさんが、このモデルに関してご説明してくださったことがありましたよね。

★ユングのモデルに関しては、
ユングの自我→自己;成長ではなく、本来あるバランスの回復なので、モデルは円となる

★アサジョーリのモデルに関しては、
人格(自我)が成長すると考えるので、中心点にある自我が上昇するために、楕円になります

ということでした。

今、このご説明を読み返してみて、“自我肥大”という言葉を思い出しました。
アサジョーリのモデルと“自我肥大”との関係はどうなるのでしょうか・・・。

いつだったか、河合隼雄氏の本の中で、その“自我肥大”のお話が出ていたことがあったように思います(書名が思い出せません。ごめんなさい。だた、その時に)“自我肥大”にとられそうな、そうした話をするときには、「自分の話として物語るのでなく、既成のお話や他人から聞いた話の中に、それとなくその意図をしのばせるのがよい。そうすることで自我肥大は避けられる」・・・みたいなことが書かれてあったように思うのですが、これは表現だけの問題なのか、心にまで及ぶ問題なのか、今となっては、よく覚えていません(あやふやな記憶で申し訳ないのですが・・・)。

ただ、そんなことをふと、思い出したので、書いてみました。



ミネルバさん

 さすが、良く覚えてますね。思い出しましたよ。

 この絵は、前々回の白田さんの講義の時のユングの心理モデルの絵を、僕が少し追加して、アンナさんが黒板に書いたアサジョーリのモデル図をアレンジしたものです。

 僕は、セルフやトランスパーソナルセルフは、究極の一者である「私」から個人の心領域に投影されているものと理解しています。どういうことかというと、ウィルバーも言ってますが、自分を内観してみると、「見ている自分」というのは、常に自分の意識とは別にもっと高い視点にあることが分かるわけです。
 そして分かった時点で、その自分を対象化しているわけなので、さらに高い視点の「見ている自分」がいるわけです。これを繰り返しの果てが、究極の一者というわけです。
 セルフやトランスパーソナルセルフは、そういった一者の投影と考えています。

清志朗さんへ

なるほど!! ありがとうございます!!

「客観性」というのがキーワードになるのでしょうか。

そう言えば、“自我肥大”も決して悪い意味だけではなく、仏陀やキリストのような偉大な方々も、言ってみれば“自我肥大”であった・・・と、みっくんさんの日記で読んだことがありました(何回もみっくんさんを引っ張り出して、申し訳ないです・・・えんぴつ)。

対象化され「見られている自分」と、意識とは別のもっと高い視点の「見ている自分」とをきちんと意識しているかどうかが、インフレーションを起こすかどうかの分水嶺となるのでしょうね。


ミネルヴァさん

毎週二都物語している方もいるようですから、いちど思い切って出てこられませんか?
白田さんも入れて4人でリアルなお話がしたいですね。
そして美女おひとりただの六本木のお店で飲み明かす!
でも白田さんとみっくんも下戸なんですあせあせ


みっくんさんへ

ホントに行っちゃおうかな・・・るんるんと本気で、考え始めましたよ!!
(カレンダーをパラパラとめくってみたりなんかして)

でも、きっと迫力ある皆さんの中に入ったら、ずっと隅っこでオドオドしていそうな気がして少し不安にもなります冷や汗

(もちろん、お酒が入るにつれ、どんどん本性が出てくるとは思いますがあせあせ
その日の場面を想像するだけで、思わずニヤニヤ、ドキドキしてしまいます!!) 
ミネルバさん

 そうですね。一度旅行がてらに来てください。

 自我肥大について、答えてませんでしたね。すみません。
 自我肥大は、どこからを自我肥大というかですが、とりあえずあちらのエネルギーに自我を獲られているという定義にします。

 究極の一者の話は、あくまで究極ですから、つまり全ての根源ということですから、通常我々が黙想して気付く背後の「私」はもっと低次の「私」です。そして元型や、それなりの高次の存在というものも同じく、究極から見れば、中間的でありより低次となります。

 したがって、同じように高次といっても、「私」の高次とは異なるものにのっとられた状態といえるわけです。

 元型のようなあちらからのエネルギー(正確には、エネルギーを生み出す基になるものと理解しています)は、自分ではないので、そういったエネルギー、そういった全能感を自分自身だと勘違いしてしまうと、エゴイストで横柄になってしまうからだと思います。

 そうならないためには、常にグランディング(地に足を着けて)を忘れないように、チェックする自分がいないとひどいことになりますね。

 この図も以前、先の議論の時に書いた心理モデル図です。
 Z軸が霊性(スピリチュアリティ)の軸で、最終的には究極の一者(非二元)です。自我肥大というは、この真ん中の絵(グランディング不足)の一種かなと思っています。元型などあちらのエネルギーを受けて、現実という平面から宙に浮いた状態です。
 ただ浮いている状態だけなら、そんなに周りに偉そうになるとは限らないので、右側の絵のように、偏りがある状態とセットかなと思っています。

 このX−Y平面は、ウィルバーのAQALモデルです。
 人間の意識の成長を、外面/内面、私/私たちといった全象限で捉えています。ちなみに、現代の唯物主義は、右側(外面)からばかりでものごとを捉えているということになります。

 とまぁ、モデル図で描くと、こういった分かりやすい議論ができるので面白いと思って続けてます。数学だって、幾何学では図形を使って問題を解きますから、心理学やスピリチュアリティだって幾何学的に解明されたって良いと思うのです。




 jazz_K さん 

お呼び頂き有り難うございますぴかぴか(新しい)
皆さんのコメントを拝見させて頂き、いつも勉強させて頂てます。

昨日、大学の科目試験だったのですが、
その試験内容に「大人の非合理性について」
また、「子どもの遊びから学ぶ例に象徴能力について」
「自分の今を把握する認知、その結果、修正を加える認知」など、問題があり
皆さんのコメントから たくさんのヒントを頂きましたうまい!

で、8月東京にお伺いしたいところなのですが、
私、8月と9月は連日、大学のスクーリングに参加しなければならなく、身動き取れない状態ですあせあせ(飛び散る汗)

姉のミネルヴァさんに 強く誘われているのですが、(後ろ髪引かれてます)
もしかしたら、ミネルヴァさん一人で東京旅行となるかも知れません。

ミネルヴァさんは底なしなので、くれぐれもご注意下さいませあっかんべー
清志朗さんへ

>元型のようなあちらからのエネルギー(正確には、エネルギーを生み出す基になるものと理解しています)は、自分ではないので、そういったエネルギー、そういった全能感を自分自身だと勘違いしてしまうと、エゴイストで横柄になってしまう
>ただ浮いている状態だけなら、そんなに周りに偉そうになるとは限らないので、右側の絵のように、偏りがある状態とセットかなと思っています。

という“自我肥大”の説明、すごく納得しました。

>そうならないためには、常にグランディング(地に足を着けて)を忘れないように、チェックする自分がいないとひどいことになりますね。

河合隼雄氏が、 既成のお話や他人から聞いた話の中に、それとなくその意図をしのばせることで、自我肥大はある程度避けられる・・・というようなことを書かれていたのは、そうした意味もあったのか知れません(そうすることで、あちらからのエネルギー(全能感)を自分自身だと勘違いすることから免れられ、グランディングしやすくなるのかもしれません)。

今回の図も、面白いですね。
ウィルバーのX−Y平面図に3次元的な(?)霊性のZ軸が加わり、その空間の中にアサジョーリの心理モデルが浮いている・・・というイメージでよいのでしょうか・・・?(とすれば、トランスパーソナル・セルフの位置が色々に変るのが面白いと思いました。見方に間違いがあれば、また教えて下さいませね)

グランディング不足の個人の意識が、集団や客観世界の中で暴走すると、良くない方の“自我肥大”が起る・・・という解釈でいいでしょうか・・・。



jazz Kさんへ

『ユング心理学入門』の中にこんな文章がありましたよ。

“最後に付加しておくことは、夢において非常に象徴性の高いイメージが出現することである。これは夢の機能の一つとして、象徴の生産を取り上げるべきであるとさえ思わせるものである。幾何学的図形としての、十字、円、正方形などが、そのまま、あるいは他と組み合わされたりして、高い象徴性を持って夢に現れるのである”

そういえば、三角形でも、△は男性(軍隊の勲章などによく用いられるそうです)、▽は女性(女神、欠け、キリスト教の“聖杯”も実はカクテルグラス形のこの形を象徴としていて、女性=マグダラのマリアを示していた・・・なんていう説が、映画『ダ・ヴィンチ・コード』で描かれていたように思いますけど、違いましたっけ・・・?)を示すそうですよ。

こういう図形による象徴は、きっと曼荼羅にも繋がってゆくのでしょうね・・・


hmakyみち☆さんへ

“底なし”って、何が底なしなのかなぁ・・・ウーロン茶? 知識欲あっかんべー・・・それともお酒・・・?
一生懸命、考えるのですけど、どうしてもわからないんですよあっかんべーあはは・・・
jazz_Kさん

 そういえば、最近数学に熱中されていましたね。タイムりな話題でしたね。
 確かに図形や数学は、言語より根本的な共通言語ですね。そういった意味で、心理学や哲学ももっと図形や数学で表現すると良いと思っています。
 文章だけで説明すると、間違いや誤解が混入しやすいと思います。


ミネルバさん
>グランディング不足の個人の意識が、集団や客観世界の中で暴走すると、良くない方の“自我肥大”が起る・・・という解釈でいいでしょうか・・・。

 そう考えてます。
 結局何事も、地に足が着いてないとおかしなことになるということですね。良く考えたら、これって特に心理学と関係なく良くしっている教訓ですよね。
清志朗さん☆
>心理学や哲学ももっと図形や数学で表現すると良いと思っています。

 (神宮寺祥こと)中井貴一、(美咲こと)稲森いずみ主演ドラマ、『セミダブル』では、中井貴一がトランスパーソナル心理学者の役だったのですが、なぜか、大学の講義のシーンで、数式を黒板に書きなぐっていました。それにしても、数式を使うトランスパーソナル心理学があるのかいな…。稲森いずみは、乳癌になって乳房を切り取ったモデルの役で、中井貴一演じる心理学者が小使い稼ぎに書いて出版した『逆境の心理学』(←菅靖彦が実際に神宮寺祥の名前で出版しちゃってるげっそり)という本を読んで感動し、中井貴一演じる心理学者の講義の聴講生になる、…というところから話は始まっていたと思います。…DVでACな、場合によって、一歩間違うと“誰でもいいから殺したくなるかもしれなラトウマ(←?)”を抱えたイケメンの心理学者がメインキャラのドラマなので興味深く観ましたが、いろいろと変な部分があり、そこも面白かったですあっかんべー。『逆境の心理学』というと、まるで(あれじゃ心理学者じゃないよ伝記作者だよん♪…と言ってユングはちょっとバカにしていた先輩の→)アルフレート・アドラーの体臭が臭ってくるような題名ですが、ドラマの筋立ては、『グレース&グリット』の、ウィルバーとトレヤの関係なんかを意識してたのかなぁ〜。

 哲学には“記号論理学”なんてのがありましたねわーい(嬉しい顔)。たしかパースを嚆矢として(←だっけ?)ウィトゲンシュタインとかラッセルがやってたような、…。しかし、抽象的過ぎて、逆に生血が通っていない気もし、逆に、血と汗と努力まみれのハイデガーや西田幾多郎(←?)なんかより、難しいような冷や汗
ミネルバさん☆
>グランディング不足の個人の意識が、集団や客観世界の中で暴走すると、良くない方の“自我肥大”が起る・・・という解釈でいいでしょうか・・・。

 ユングとフロイトの強い影響のもとハイデガー哲学まで摂取し、独自の“現存在分析(←私は個人的には好きな考えかただ!)”をあみだし、ハイデガーにも熱いラブコールを送りながらも、メダリスト・ボスとマルチン・ハイデガーの仲良しナチコンビ(←なはは目がハート)からは、大間違いの勘違い野郎と軽くいなされ気味で毒なルードヴィッヒ・ビンスワンガー(←ミュージシャンではない)に、『思い上がり・ひねくれ・わざとらしさ―失敗した現存在の三形態』なんて本がありますが、…あれも自我肥大の詳細解析なのかも知れませんね!
 あげっそり、メダリストじゃなく、メダルト・ボスの間違いでした顔(願)。これは、卓球でメダリストになりたい私のフロイト的“失策行為”(←『精神分析入門』参照)なのかっ!

 ちなみに、あの“失策行為”は、夢以外で無意識の実在を示す好例で、エロ話を期待して、フロイトの講義に押し寄せ立ち見まで出始めた当時のサルな学生達に業を煮やした、ホントは“ユングより気真面目で私生活は全然スケベでないフロイト”が“エロい夢”の代わりに講義で使い、少しヤジ馬学生を減らすために使ったトピックでした冷や汗
けろりんさんへ

ルードヴィッヒ・ビンスワンガーの『思い上がり・ひねくれ・わざとらしさ―失敗した現存在の三形態』ってすごい題名ですね。(確かに、ジャーマン・ロックのようなリズムを感じますわーい(嬉しい顔)

それから、「メダルを首にかけたボス」って、すごいイメージですね。想像を逞しくしてしまいます。(このイメージは補償ですか? それとも、その反対?)


jazz Kさんへ

本を買いなおすのって、口惜しいですよね・・・お気持察します涙

あ、そうそう、(話題が自分の話に戻ってしまって申し訳ないのですが)、△と▽のコメントをした後、ユダヤのダビデの星、六芒星を思い出しました。
あれって、この二つの三角形が結合した形なんですよね。
そう思ったら、思わずタオのマークを思い出してしまいました。

でも、タオマークの陰と陽は交じり合ってはいませんけど、このダビデの星はしっかり交じり合っているんですよね。
これって、「統合」が好きな西洋と「共存」が当たり前の東洋との違いなんでしょうか・・・(いつも、jazz Kさんにコメントした後って、何か思いつくんですよ、私・・・)
ミネルヴァの戦士さん☆

 …たしか、本当のタオマークには、マガタマみたいな、あのオタマジャクシの目のような模様があるので、混じりあってると考えていいようにも思います。ちなみに、私は、カシューナッツを見ると勾玉を連想してしまいます(←関係ないが)。

 ちなみに映画『ファイトクラブ』の最初にタオマークのテーブル(←確か、それには、“目”は無かったような?!)が出てくるのは、エドワード・ノートンとブラッド・ピッドが、*%£§¢★…のを、象徴してるのかも。

 ところで、メダルト・ボスの風貌は、エキセントリックなところは感じられず、なんだか、かなり温厚そうで、激烈にエキセントリックで小粒で辛い(←?→)チビのハイデガーとツーショットで並んで写ってる(←長嶋風レトリック)写真は“優しい巨人”みたいでした。ヘイエルダールなんかにも似ていたような。エルダーっぽい。Hey手(パー)エルダー!なんちゃって。

 ちなみにボスは確か、エリク・エリクソン同様、あのガンジーを尊敬していたようです。

 ハイデガーがハーラン・エリスンだとすると、ボスはアイザック・アシモフみたいなものかな、…わっかるかなぁ〜わっかんねぇだろうなぁYeh!←化石ギャグ冷や汗
けろりんさんへ

太極図には目のあるものとないものがあるみたいですね。

目のあるものは2匹のお魚をかたどっているのでしょうか・・・目は、“陰中の陽、陽中の陰”を表現しているのかしら・・・(ところで、私、ナッツ類、好きです。お酒、飲みたくなります)

映画『ファイトクラブ』、面白そうですね。
観てみたいですけど、暴力シーンに耐えられるかしら・・・あんまり自信がないです。
(心の葛藤に耐える力がある人は、ちゃんと見ていられるのでしょうか・・・)

例えば、「多重人格」についての考え方も、西洋と東洋とでは、とらえ方が違うかもしれませんね。
あんまりよく知りませんが、一神教の西洋圏では、それらの多人格を統合して一つの人格を形成させようとするのでしょう・・・?
東洋ではどうなんでしょうか・・・
というより、多神教の東洋圏では「多重人格」そのものが少ないんじゃないかって思うのですが・・・(現状はよく知りませんがあせあせ

それから“自己(内)へ向う攻撃性”が“他者(外)への攻撃性”に変わる分岐点のことを思うと、確かに太極図の循環を思い浮かべたりします。
「非暴力」を貫くのは、なかなか難しかったりしますよね(それは、清志朗さんがおっしゃる通り、特に心理学と関係なく良く知っている教訓ではあるんですけど・・・)

ハイデッガーとボス、ハーラン・エリスンとアイザック・アシモフの違い、やっぱり、わかんないですあせあせ(だって、この人たちの本、一冊も読んでないんですものあせあせ


あ、ところで、フロイトの失策行為、私もやってました。
「非合理」と「不合理」。
私の無意識は何を示していたんでしょうか・・・?
ハイデッガーとボスの関係・・・イデアと即物・主観と客観・心と物・内面と外面・・・という関係でしょうか・・・

それを「ユダヤの星」的に「タオ」的に統合すると“この世界”になる・・・と?

ところで、“多重人格”のことを考えて、変なことを思いましたよ。
この世界にたくさんの人が存在しているのは、“一者である神”が多重人格だから?(そうなると、神は抑圧されてるんでしょうか・・・?)

この世界に住む60億(地球上だけですが)は一者へと統合されるのか、それとも共存したまま一者なのか・・・

ところで、「一即多、多即一」っておっしゃったの、誰でしたっけ? 
そもそも、こんな捉えかたで良かったのでしたっけ?
ミネルバの戦士さん☆
>ところで、「一即多、多即一」っておっしゃったの、誰でしたっけ? 

 ゲゲゲの鬼太郎です、…というのはウソで、西田敏行です。←あ、失敗した現存在の一形態であるところの、わざとらしい、失策行為。それにしても、西田幾多郎は、なぜ、エラノスに呼ばれなかったのだろう?…行かなかったのかな。

 …でも大元は、ヒンズー教のベーダンダの教えですね。山風蠱、ダース・ベーダンダ。←何のこっちゃ。←コプロラリアの一種?

 まあ、「一即多、多即一」は、梵我一如の哲学的表現ではある。
 
ミネルバの戦士さん☆
>ところで、“多重人格”のことを考えて、変なことを思いましたよ。
この世界にたくさんの人が存在しているのは、“一者である神”が多重人格だから?(そうなると、神は抑圧されてるんでしょうか・・・?)

 その通りです。あ〜あ、ついに、それに気づいちゃいましたね。←神は性よりも、もっと深く抑圧されてる。…と白田さん言ってました。その無意識は、極めて危険なパンドラの壺だからです。真実は劇薬だと、河合隼雄先生(こと大牟田雄三?)が言っておりました。つまり、だから、地獄も天国もないのです。罪と罰は釣り合っているのです。つぐなう必要もなかったのです。究極においては、加害者も被害者も、実は、ぜぇ〜んぶ、同一人物だからなのです。これが、ユングが『分析心理学』の中で、ハウ博士に語った、それを知ると最も大切な信念や理想や道徳までもが覆されるという“世界の背面”の意味であり、真理だと思われます。
ミネルバの戦士さん☆
>映画『ファイトクラブ』、面白そうですね。
観てみたいですけど、暴力シーンに耐えられるかしら・・・あんまり自信がないです。(心の葛藤に耐える力がある人は、ちゃんと見ていられるのでしょうか・・・)

 でもまぁ、ブラピのタイラー、かっこええです(←ある意味でデミアン的かも!)。しかも、あれってセプテンバーイレブンより以前の映画では!予言的かも。←錯覚かな。原作者のチャック・パラニュークも、トマス・ハリス並みに、凄そうです。『セブン』ではブラピは“サイコ野郎(←妹に、山のようなノートを書き綴っていたところが、この私と、似ていると言われますた泣き顔←でも私は正気なので違います)”を追跡する刑事でしたが、『ファイトクラブ』ではサイコそのもの。ある種のサイコパス(←たとえばレクター博士)は心理療法によって完成される“究極的に健康なパーソナリティ”だとしか思えないと、あの齋藤環先生も言っていたようです(←でも妹ミーシャを親ナチの買国奴の兵士に喰われ喰わされたれた、あのトラウマを抱えていて、クラリスを妹の代償にしてしまった、あの最近の展開は興ざめだと語ってもいたような…)。
けろりんさん

そういうドラマがあったのですか。知りませんでした。
ドラマになるとは、トランスパーソナル心理学も、多少はメジャーなんですね。

 記号論理学って、確かにありましたね。論理式はよくみかけましたが、あんまり真面目にやらなかったな。
 僕は、図の方が直感的で理解しやすいですね。でも、慣れるとモデル化言語としては、論理式の方が応用が広いのかもしれませんね。理解には、壁が高そう。



ミネルバさん

>この世界にたくさんの人が存在しているのは、“一者である神”が多重人格だから?(そうなると、神は抑圧されてるんでしょうか・・・?)
>一即多、多即一

一者が次元を変えながら現れたのが多者という理解をしています。
つまり、誤解を恐れずに凄くざっくりいうと、

 一者 → 元型やガイスト → 多者

 でそれぞれ次元が違う存在と考えるわけです。
 多者は、元型という型から実態として現れるわけです。なので、現れたものには、それぞれ違いが(個性)ある。
 ←タイヤキの型でタイヤキを作っても、それぞれ出来が違うというのと同じかな。

 元型は、一者という型(これを型と呼んではいけないのですが、とりあえず)から現れたもの。

 凄い雑な説明ですが、大体こんな理解をしています。
ミネルバの戦士さん☆
>ハイデッガーとボス、ハーラン・エリスンとアイザック・アシモフの違い、やっぱり、わかんないです(だって、この人たちの本、一冊も読んでないんですもの)

 ハイデッガーとボスの関係を知るには、みずず書房の『ツォリコーン・ゼミナール』が、かなり、お薦めです!←『存在と時間』を読むより、ハイデガー哲学を知るのに、ずっと役立つ気がするし、…中井久夫、渡辺哲夫、木村敏など、注目すべき精神医学とハイデガー哲学の関係などを見る参考にも役立つような。
jazz_Kさん☆
>自分は、「卓球メタボリスト」と読んでしまった!

 いかん↑私そのものだ!げっそり


清志朗さん☆
>そういうドラマがあったのですか。知りませんでした。
ドラマになるとは、トランスパーソナル心理学も、多少はメジャーなんですね。

 メジャーなのかなぁ〜?後にも先にもあれっきりかな…。不思議ですね。あ、そういえば、“赤いシリーズ”で宇津井健が、山口百恵を操り…、心理学者をやってたかも! まるで、和製ジンバルト(←ちょっとアナロジーが苦しい?)か、ジェンナーみたいに、“(養女と勘違いされた→)わが子”を被験者に実験していたようなっ!…それがバレて親子関係にひびがっ!…しかし、(ユングみたいに心的障害の原因を意識化するだけではビョーキは治らないと言う→)ミルトン・エリクソンは、周囲のみんなに“戦略的心理療法”を行使してたらしいが、わが子にも、バレていなかったなあっ!

 マット・デイモン主演の『グッド・ウィル・ハンティング』にも、ロビン・ウィリアムズ扮する心理学者が出てきますね。マット・デイモンは、シュリニダーサ・ラマヌジャンっぽい。…でも基本的に、あれは、数学者の話だけど。ちなみに、日本の数学者のドラマだと『やまとなでしこ』ですね。堤真一が谷山豊っぽい!あれを見て、なんだか、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(←でも、内容は、E・T・ベルやアミール・D・アクゼルのパクリ?!)を読みたくなったものでした。

 トランスパーソナル心理学は、最近、二派に別れているらしいっすね。その分派の一方の雄、(英雄を“もののふ”と訳す、『夢はよみの国から』という、ヒルマンの名訳で、知る人だけ知ってる→)實川幹朗先生の、 『思想史のなかの臨床心理学―心を囲い込む近代』(講談社メチエ) は、…これもまた、“裏面の精神思想史”になっているようです!
ミネルバの戦士さん☆
>ユダヤのダビデの星、六芒星を思い出しました。
あれって、この二つの三角形が結合した形なんですよね。

 セーマンである安倍晴明桔梗紋と六芒星の関係や、グルジェフのエニアグラムの関係を拡充して探るのも、面白いかも!→白田さんにやってもらおう!なんちゃって←本願他力!しかし、ドーマンセーマンもちょっと凄いかも、…ドーマンがグリッドで表現されているのも、なんか近代的な気が…。まあ、安倍晴明がユダヤの秦氏の子孫でガド族の末裔で、五芒星も、六芒星から変化したものだとの見方もあるかな、…ウッシッシ。秦氏の子孫でガド族の末裔というと、あの、東儀秀樹氏も、そうらしい…。ひょっとして、まさか、jazz_Kさんも?!
清志朗さん☆
>元型は、という型(これを型と呼んではいけないのですが、とりあえず)から現れたもの。

 その一者とは、唐変木の、ト・ヘン。すべてはト・ヘンからのエマナチオ。たぶんエヴァのオープニングに、あのセィロートの図が現れるのは、ナウシカもヒドラだったように、 我々も一者から分かれた、使徒と同じ、リリンだからなのである←???。
 
 デミウルゴスの目を盗んで、暗躍したリリスこそは、ハギア・ソフィアの変装であり、ガラスのクレアの涙のように、アニマはソフィアの涙として万物に溶け込んでいるのかも。錬金術士たちは、蜜蜂が花の蜜を集めるように“ソフィアの涙”を集めようとしていたのかも。

 そう、…河合隼雄先生の「ユング心理学入門」には、林先生が、「ユング心理学の真髄」で、集合無意識が元型の束だと言うのと微妙に違って、「元型は、実は、一つだ」と書いてあったような…。
 

 
おはようございます、けろりんさん富士山

昨日(今日の初め?)、最後のコメントを書いたあと寝てしまったので、コメント、朝になって読みました。

けろりんさんの知識と情熱、圧倒されそうです。

ご紹介の本、頑張って読みます。

それから、今日は、仕事しながら一生懸命、哲学してみますウインク 大丈夫かなぁ・・・
ミネルヴァの戦士さん☆
>それから、今日は、仕事しながら一生懸命、哲学してみますウインク 大丈夫かなぁ・・・


 …あっ!ふらふら…仕事をしながら哲学を!!!げっそり

 危険です!

 哲学すると、世界が解体、もしくは“デコンストラクション”され、“分離したリアリティ”のはざまで、良くて鬱病に、深刻な場合は統合失調症になるかも知れないので、とても危険です!←でも、ホントにそうなのかな???

 実はユングも、『分析心理学』の中で、「哲学は心の健康に悪いのでお勧めできない」みたいなことを述べておりました。

 …どうやら、(その著『哲学の教科書』が面白い→)中島義道先生によると、哲学は、むしろ“働くのがイヤな人”や、“人生を半分降りた人”のものらしい。中島先生より優しそうな永井均先生すら「哲学やりますか、人間やめますか、…ぼくはとっくに人間やめてます(←人間やめて猫になってる可能性も!?」と言ってるほどです。まぁ、浅田彰を超えるポストモダンの、東浩紀というデリダ学者は、オタクを極めると動物化していく、…と予言しており、猫になるのも不思議ではない?!ディスコミュニケーションの極限に於いて進行した解離は、反社会性から非社会性へとプログレッションするらしい、…げっそり

 よって、もしも、哲学を深く理解出来たとき、統合失調症患者だけが体験出来る荒涼として壮絶な虚無を垣間見ることが出来るかも人差し指

 そのとき認識のエクストリーマーとしての我々(←?)は、まるで、最悪のものだけが詰まったパンドラの壷を開いた、その一番底に、ユニバースを超越した“マルチバースとしての世界の幅の認識”を獲得出来るのかもしれませんね。

 …こころで、アテナ、ミネルバ、ニケ(←ナイキ?)、なんだか、ギリシャ神話には男勝りの強い女神が沢山いるのは何故?←それにしても、彼女らは、やはり、アニマなのだろうか?
けろりんさん、こんばんは。

仕事しながら、哲学しようと思ったのですが、今週末はものすごく忙しくて、哲学どころかこの世の煩雑さにどっぷり浸かっておりました冷や汗

>中島義道先生によると、哲学は、むしろ“働くのがイヤな人”や、“人生を半分降りた人”のものらしい。

とおっしゃいますが、それなら哲学は、私にぴったりの分野だと思いますあせあせ
でも、考え始めると、確かに

>世界が解体、もしくは“デコンストラクション”

されることもあると思いますよ。


さてさて、随分コメントを遡るのですが、西田幾多郎氏の言葉について、

>大元は、ヒンズー教のベーダンダの教えですね
>「一即多、多即一」は、梵我一如の哲学的表現

ということでした。
アートマン(個の根源的原理;真我)とブラーフマン(世界の根源的原理;宇宙実存)との一体性の自覚を究極目的とし、両者が同一であることを悟ることによって、全ての苦しみから離れる「自由=解脱」を達成しようとするのがウパニシャッドから始まるヴェーダーンタ哲学である、ということですよね。

でも、一方、サーンキャ哲学というのがあるらしく、こちらは二元論的多元論ということで、世界の究極原理をプルシャ(真我)と自性(プラクリティ)の二つに分け、両者は絶対に同一起源に遡ることは出来ないし、融合して一つになることもない、という考え方がインドにはあるそうです。
(そして、このサーンキャ哲学の解脱観は、以下の様なものだそうです。
プルシャ(真我)とは客観的対象をただ見ているだけの純粋な観照者であり、心理現象は、自性(プラクリティ)から展開した無意識性の心理器官の変容の上に真我の純粋意識性、または照明が映った結果生じたのである。真我自体は、独立自尊の絶対者で、時間空間の制約を受けず、常に平和と光明にみちた存在である。これが各個人の真我の本来のあり方なのであるが、この真我が、自性から展開した客観的な存在と関係した結果、自己本来の姿を見失って、自分がいろいろな苦を受けているかのように錯覚している。その錯覚を取り払い、真我の独尊を実現することが、サーンキャ哲学の考える解脱である)

何だか、また一元か二元か(統合か共存か?)の問題になってきましたねわーい(嬉しい顔)
(これもハイデッガーとボスとの関係のようなものなのかしら?)


また、清志朗さんがおっしゃる

>一者が次元を変えながら現れたのが多者

の考え方は、どちらに近いのでしょうか・・・。

けろりんさんの考え方は、ヴェーダーンタの方に近いのですか?

私は、梵我一如も魅力的に思いますが、“目のないタオマーク”も魅力的に感じるのですよ・・・。


それから、

>神は性よりも、もっと深く抑圧されてる。
>その無意識は、極めて危険なパンドラの壺だからです。真実は劇薬
>つまり、だから、地獄も天国もないのです。罪と罰は釣り合っているのです。つぐなう必要もなかったのです。究極においては、加害者も被害者も、実は、ぜぇ〜んぶ、同一人物だからなのです。
>それを知ると最も大切な信念や理想や道徳までもが覆されるという“世界の背面”の意味であり、真理だと思われます。

という言葉。私もチラッと考えたことありますよ。

実は、サタンもユダも、神から“その役割”を依頼されただけなのではないか・・・と。
そして、そんな役目を引き受けられるのは、“自分が最も神に愛されているものだ”という自負が彼らの心にあるからなのではないか・・・と。
そんな感傷的な思い、持ったことあります。
(じゃあ、天国・地獄は、善・悪で分けられる世界ではないですよね)
(シュタイナーは、その人の意識の持ち方で、霊界(?)の景色が変る・・・というようなことを書いていたと思いますけど・・・。でも、その意識や情緒は善悪とは関係がないようにも思うんですよね。だって、善人でも根暗で暗い情緒や思考をもつ人の世界はやっぱり暗くなっていくわけですから・・・)
 ミネルヴァの戦士 さん☆

 こんばんは手(パー)

 サーンキヤ学派については不勉強にして良く知りませんでした冷や汗。詳しい説明ありがとうございます顔(願)

 そういえば、たしかオーム真理教では、釈尊のことを、“サキヤ神賢”と呼んで崇めていたのですが、…サーンキヤというのも、釈尊のことでしょうか?オーム真理教には、プルシャという名のバッヂなんかもあったような冷や汗。←拡充としては例がイマイチだったかも考えてる顔人差し指
jazz_Kさん☆
>色即是空や空即是色とかは、なじみがありますが、「一即多」はあまり聞いた事ない言葉でしたが、なかなかイマジネーションを刺激されますね〜


 そういえば、ナウシカの中で、王蟲も、その“一即多”について語っていましたね指でOKウインク。さすが、彼らも虫だけあって、キタローのサポーターなのかっふらふら。西田ぁ〜のキタローぉ、支える虫達♪目がハート

 “一にして多、多にして一の絶対矛盾的自己同一”、“純粋経験”、“無の自己限定”というのが、西田幾多郎の哲学タームの、十八番、必殺技ですね。ガイジンには理解不可能かもしれないが、日本人なら、ふに落ちる、…。ちなみに、弟子の上田閑照は、実存に対する“虚存”という概念を出したりしていますが、これも奇怪な用語かも。そう、“虚数の情緒”とは幽玄なる虚存の“エートス”なのかも。
jazz_Kさん☆
>また、究極はデッカイ宇宙も人間の意識も、最後はオメガポイントという点に帰結するとかって言う人もいるらしく。

 ↑創造的進化を唱える、あのティヤール・ド・シャルダンですよね。それは、“テロス(終局・最終到達点)”として最高善を想定するヘーゲルの思想と類同かも知れない。

 ユングの背骨となる哲学的系譜は、カント→ショーペンハウアー→ニーチェの流れに乗り、ユング自身は、アンチ・ヘーゲリアンのはずなのですが、ギーゲリッヒやヒルマンはユングの、ひそかなヘーゲルとの親和性を指摘してるようですね。…確かに、認めたくないものでも冷や汗、あの錬金術的変容の論理は、弁証法に於ける、アウフヘーベンとしか思えない。しかも、ユングもヘーゲルも根っこはオプチミストで、ペシミストのショーペンハウアーとは違う冷や汗

 とはいえ…、しかし、元型や、エマナチオを宇宙成立の原理として標榜する限り、進化論とは相入れない部分がある冷や汗。…エマナチオは万有退化を意味するのではなかろうか?…ひょっとして、あの、天外伺朗の『ここまで来た「あの世の」の科学』のp182、9行目の誤植も、何らかの補償機能を担う、意味あるシンクロニシティの悪戯なのだったり、…冷や汗

 ユングは“(知の理想としての)科学”と“(事実としての非合理である)オカルト”の狭間で分裂し、揺れ続けた存在でもあった、…のかも。
けろりんさんへ

サーンキャ哲学は、紀元前4〜5世紀頃の思想だそうです。
でも、実は、私もそれほど知らないのですあせあせ

私が引用した文章は、ヨガの本からの抜粋です。
多分、ヨガによる瞑想中の感覚から導き出された思想なのだろうと想像します。
仏教にも通じる“無念無想”(?)の瞑想(多分、「止観」の「観」の方だろう・・・と思います)中の感覚じゃないかと想像してます(でも、私は、そうした瞑想を体験してないので、実のところは、よくわかりません)。
瞑想中、湧き出てくる雑念の一つ一つにとらわれることなく、さらさらと流していく(?)感じだといいますが、やはり、私にはよくわかりません。
(そこのところは、マリィさんに聞くのがいいのでは? ぜひ聞きたい! と思ってます)

ところで、そのヨガの本には、「空」と「虚」についても書かれていて、
「空」については、身体感覚がなくなる感じ、
「虚」については、中身のない器になる状態で、注ぎ込むものによって何にでも染まることができる・・・
と書かれてました。

そして、この「空」と「虚」とは、視座が違うだけで、元をたどれば裏表の関係にあるのだ、とも・・・。

またサーンキャ哲学の二元論的多元論はヨガで到達できるサマディ(三昧)だそうで、“無との合一”“無との融合”(これは“梵我一如”と言えるのでしょうか?)は、ヨガを超えたタントラによるサマディ(三昧)の境地であるとも書かれてました(タントラはチベット密教なんかでもよく聞く言葉ですよね)。

でも、これら全てのことは、私の経験の範疇外のことなので、“書物によるとそういうことが書かれている”というだけで、私としては、何の確信もないことです冷や汗・・・

あ、それと、オウム真理教との共通点ですが、多分それはいくつかあるだろうと思います。オウムの教義については全く知りませんが、チベット密教(あるいはヨガやヒンズー教?)とも共通点があるんじゃないか・・・とは想像します。
ただ、オウムの場合、“戒律”を軽んじていたところに、また教祖の心の中に“逆恨み”の心があったことに、ネックがあったのではないでしょうか・・・(実際、ヨガの流派の中には、禁戒や勧戒を省くものもあるそうです)。

私個人としては、人の心に善悪はないとしても、“多くの人がこの世を安全に生きていくには善悪の基準や法律が必要で、それを守っていくことは大切”と考えます。

また、補償云々はあれど、心の根源的な“美意識”に忠実に生きれば、この世でもある程度、善を好むようになるのでは・・・とも考えています。

根が明るいので(あるいは浅い哲学で満足しているから?)、哲学しても、あまり矛盾を感じずに、楽観的に毎日を過している私ですわーい(嬉しい顔)
ミネルヴァの戦士さん☆

 明るいのは、ナイスです指でOKグゥ!

 たぶん人間にとって“根が明るい”のは、とりあえず、良いことですね!

 …明るければ、どんなに困難でくじけそうでも、なんくるないさぁ〜!

 かく言う私も、実は、「悩みなんかないでしょう!?」とか、よく言われてしまいます。←しかし、白鳥は優雅に湖に浮かんでいるように見えるが、水面下では激しく足で水をかいている…。

 それにしても根っこというものは本来、暗いところをめざして伸びる地下生活者であり(?)、枝葉が明るい光に向かって伸び、花を咲かすとすれば、根っこが明る過ぎるのは、たぶん根を疲れさせるので、根は少しは暗くしてやる必要があり(←?)、暗くしてやると存分に地下茎を張り巡らし、芋に養分を貯めるもの、…それゆえ、哲学は、メランコリーの水脈に、その根っこを接続させ、その暗い“リゾーム形成”により、ともすればデラシネになりがちな軽さに対して、補償機能や中和剤として働くのかも、などと、…ふと、思いましたウインク←意味不明か冷や汗

 つまり、根が明るければこそ、明るさを矯めるUV効果として、あの“哲学”が、有効成分ビタミンとして効いてくるのかも!と考えられたり、…人差し指

 そういえば(白田さんによれば、ユングの理想はローマ人らしいが)、古代ギリシャ人の精神も、あまりに健全で、強すぎた故、苛酷な運命を描く、あのアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの、救いようのないトラジェディ、ギリシャ悲劇を必要とした、…と、『悲劇の誕生』で、ニーチェは述べていたのでした。

 6000年の昔から都会人だったヤコブの末裔フロイトに対し、エサウのようなユング(エロイムよエサウよ、エロイム、エッサイム?)は、彼自身、ヴォータン元型のもとにクリムゾン・リバーの夢を見る、野獣を狩るゲルマンの野蛮人の血を色濃く継承した蒼古的(アルカイックな)人間の一人だとカミングアウトしていたような…。

 そう、…「天に届く樹は、地獄に根を下ろさねばならない」十字架にかけられし者、ディオニュソス(←つまりはニーチェ)。
皆さん、あけましておめでとうございます
m(_ _)m

また、ミネルヴァの戦士さんにおかれましては、ぼくの初夢日記をあたたかく分析していただく優しさを賜りましたこと、本当にありがとうございます(^o^)

ぼく自身はユング心理学の研鑽がまだまだなものですから、とても示唆される所が多いです
とても楽しくセッションさせていただいてる感じです!

とても有意義に初夢の世界を同行していただいた気分です!
78910さん、と・と・とんでもないですexclamation ×2

私は、夢分析ができるほど、知識も訓練も積んでいません。本当は、素人が夢分析なんて、やっちゃいけないんだと思っています(アセアセあせあせ(飛び散る汗))。

だから、そう深刻に受け取らないで、軽い気持ちでヤリトリいたしましょうよ。

本当は、78910さんの夢に対して、グッと踏みとどまって、黙っているのがベストなのだと思うのですが、いかんせん誘惑に負けて、何度も何度も足を運んじゃっているんですよね〜。

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