ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ユング心理学研究会コミュの【講義録】「キリスト教とマリア信仰」 岩田明子

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

【講義録】「キリスト教とマリア信仰」 岩田明子

 今回のお話は、マリア信仰についてです。
 マグダラのマリアの話や、黒マリアのお話は、最近良くテレビの特集なので話題になりますが、本格的にキリスト教との関係で具体的な流れでお話を聞いたのは初めてです。前半は、キリスト教神学の視点で話が進み、後半は、普通のキリスト教神学ではいわない側面(横っ面をひっぱたくという表現だったと思います)、神秘主義的な視点から講師の思いが語られ、非常にイマジネーションが沸く楽しい講義でした。


【要旨】
 大筋以下の4つの主張があったと理解してますが、あくまで私が理解、解釈しましたということです。

? 宗教が発展進化するダイナミズを、正当派/異端、第一宗教/第二宗教、言語化(教義、聖典)/抑圧されたもの(教義)というモデルで説明している

? マリア信仰の発展を、そのダイナミズにおける、言語化(=意識化=男性化)されたものと抑圧されたもの(=無意識=女性性)との対立と捉え、ユング心理学的なモデルで説明を試みている。

? さらにこういったマリア信仰の発展を支えたものは、抑圧によるエネルギーだけではなく、現実に奇跡が民衆の間で起こり続けたことであり民衆にとっては事実であった。

?そしてキリスト教が男性性化(実証主義、合理主義、科学主義)する中で、宗教自体を迷信と捉える唯物主義にまで発展してしまったこと、その反動として女性性であるマリア信仰と現実に起こった奇跡が、行き過ぎた実証主義と唯物主義をあざ笑うように起こっており、それによって教義が次々と修正、進化させられているということ。



【解説】★は、私見です。

1.重要な概念の解説
 まず、全体の流れの前提となる大きな概念について話がありました。


<正当派と異端>
 まずキリスト教での正当派と異端派についての話です。
 聖書(教義)を、絶対のものとするが、正当派です。つまり異端とは、教義のどこか一部でも否定する派のことを呼びますので、否定する部分は多数なため、多様な異端が存在します。ちなみにカトリックとプロテスタントは、教義の解釈の違いなので、現在では異端ではないようです。
 正当と異端というものは、当然ながら自分達が正当で、相手は異端というのが普通の考えです。しかし歴史的には、権力を獲った方が正当派となり、その他を異端というのが常だと思えば分かりやすいと思います。


<三位一体論>
 さてそのキリスト教での正当派のよりどころとなる教義の柱が、「三位一体」です。
 父(神)と子(キリスト)と聖霊の3つが、同じ神という実態の現れであるという理論です。つまり、
  ・父なる神
  ・子なる神イエス・キリスト
  ・聖霊である神
 の三者は、「同質」かつ「不可分」であるとする考えです。

★★★
 ちなみに位相、つまり「相」とは、ある状態における現われ方、見え方です。この相、位相という言葉は、物理学でよく使われます。例えば、通常の温度では水、凍ると氷、温度が上がって気化すると水蒸気という具合です。そしてその実態は同じH2Oという水だということです。
 つまり、神という根本(スピリットでも良いですが)が、ある条件では「父」、ある条件では「子であるイエス・キリスト」、またある条件では「聖霊」として顕現化するということを言っています。
 ウィルバーなどは、「万物全てはスピリットの現れである」と良く言いますので、同じことを言っていると思います。
★★★

 さてこの三位一体の根拠は、1世紀末頃に成立する『ヨハネによる福音書』であるそうで、「神である父が神であることば(子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「助け主」なる聖霊を遣わす」という構図だそうです。
 つまり、聖霊は父と子を媒介するもの、子を支援するものとということだそうです。
 聖霊はとても分かり難い概念なのですが、「聖霊」とは、イエス復活後の五旬節 (聖霊降臨祭) に使徒たちに下された霊のことで、神自身の分身としての人格 (位格)を持つとのことです。う〜〜ん、やっぱり良く分からないです。


<聖霊の新しい解釈>−ヨハネの福音書−
 ヨハネの福音書に以下の記述があり、三位一体のことを述べていると解釈できるそうです。
・イエズスを愛する人に対する約束
 あなたたちが私を愛しているなら、わたしの掟を守る。
 わたしも父にお願いしよう。
 そうすれば、別の弁護者を遣わして、いつまでもあなたたちと一緒にいるよう
にしてくださる。
 ※弁護者=聖霊

 どうでしょう、分かりましたでしょうか。私はまだピントきませんが、媒介役であり、これなしに直接的に父や子が人々に係わることはできないみたいですね。


<第一宗教と第二宗教>
 さて次に重要な概念として、第一宗教と第二宗教ということを考えて見ます。
 第一宗教とは、土着の宗教であり、自然にそこはかとなく現れてるものを神とする。つまり自然信仰です。
 第二宗教とは、そういった土着のものが昇華し、どの民族でも共通に理解し、信仰することができるようグローバルスタンダード化されたもの。つまり現在のキリスト教など世界宗教がこれにあたります。
 この両者を比較した場合、第一宗教は、土着であり、その地の文化や人に根ざしており、言葉は不要なわけです。つまり阿吽の呼吸で理解し合える。これに対して、グローバルスタンダードを目指す第二宗教は、言葉で定義され、概念(つまりモデル)がしっかりしていないといけません。これが教義であり、キリスト教では聖書(テキスト)です。
 この書いたものがある(教義が明文化されている)ということは、非常に強力で、次第に土着の信仰(第一宗教)を飲み込み、駆逐していきます。言語と概念による洗練と合理化、実証主義によって一神教へ宗教が進化しグローバルスタンダード化する中で、元からあったもの、大地に根ざした土着のものが抑圧されていきます。
★似たようなことは、歴史上いたるところで起きていますね。未開の地でも、日本でも。


<シュンクレティズム>
 第一宗教は、互いに地理的に接触するため、他の宗教の教義や信仰原理、神学や宗教神話、あるいは崇拝対象としての神や霊格や宗教原理を模倣したり取り入れたりすることが発生します。その結果、複数の宗教の要素を併せ持った宗教が成立し、これを「シュンクレティズム」といいます。
 つまり世界宗教(第二宗教)は通常、シュンクレティズム過程を経て成立することが一般なわけです。
★ちなみにキリスト教はユダヤ教を母体としてヘレニズムにおけるシュンクレティズムによって生まれたものだそうです。



2.マリア信仰の発展についての解説(ユング的視点からも考察)

 ここからは、本論であるマリア信仰がどのようにして生まれ、どのように発展したかのお話です。そしてユング的視点からも考察を入れています。

<マリア信仰は、裏の信仰から表の信仰になった。それは何故か>
 さてここまでに、3つの概念を説明しました。
?正当派と異端の関係
?正当派の根拠である三位一体
?第二宗教による第一宗教の抑圧

 これをベースにマリア信仰が裏から表になていった理由を説明します。
 まずキリスト教の成り立ちから考えると、それ自体が、元々ユダヤ教(旧約)からの発展形であり、ユダヤ教(旧約)には、土着のものがたくさんあった(多神教)わけです。そして、この第1宗教から第2宗教に進化する中で、第1宗教にあったもの(土着のもの)は、異端とされ、そこにあったいろいろな信仰は暗に明に抑圧されていったわけです。
★ユング心理学的にいうところの影の部分であり、無意識の中にうごめくコンプレクスというわけです。

 さらに一神教化する中で、男性性化し、女性性は抑圧されていったわけです。つまり、ここの部分の抑圧が、最も大きかったのでしょう。そしてそこに反発があり、マリア信仰は、民衆の中で根付き、大きな力となっていったという論理です。
←★抑圧された無意識は、なんらかの形で顕現化するというわけです。


<予型論と原型論>〜聖書の読み方〜
 ちょっとつながりが悪いですが、聖書の約4分の3は旧約であり、残りの4分の1が新約であるそうで、旧約の方には、たくさんの予言が載っており、この予言が実際に起こったものを原型というそうです。


<年表でマリア信仰の流れを俯瞰します>
○調和期(黙認期)(紀元前〜649年)
 いたるところで奇跡は起こっていたようですが、そういったマリア信仰は、黙認されていました。共存共栄の時代でもあります。

○受難期(実証主義拡大期)(12世紀〜19世紀)
 異端が正当派にとって脅威になってきており、バラバラにならぬよう、聖書への回帰する運動が活発になる。
 13世紀には、「啓示」に関する判別の基準が模索されはじめ、奇跡や啓示について、勝手に判断してはいけないようになっていった。つまり色々ところで、色々な民衆が色々な奇跡を体験するのだが、それを勝手に奇跡だと解釈してはいけないという基準を作り、教会が、判断基準に照らして承認をしないといけないというルールを作ったわけです。
 これによって、正当派の権威を強化し、異端を封じ込めようとしたわけで、マリア信仰の危機でもあるわけです。

○空前のマリアブーム(1854年〜) 数々の奇跡と教義の公認
 しかし抑圧されたものは、奇跡という形をとって、いたるところに現れ、教会としても公認せざるえなくなっていきます。

・「無原罪の御宿り」:1854年に教義として公認
 聖母マリアは原罪の穢れなしに受胎したとするカトリックの教義

・聖母マリアの出現(ルルドの泉)
 1858年14歳の少女ベルナデッタが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現し、自分を「無原罪の御宿り(ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ)である」と、ルルドの方言で告げたため、一気に話題となった。全部で18回出現。
 そこで穴を掘ったところ泉が沸き、その泉で奇跡的治癒が続出し、巡礼地となる。さらにベルナレッタは、その後ヌヴェール愛徳修道会の修道院に入ったが、彼女の死後遺体が腐敗せずに残っているという話は有名である。

○ 聖母マリア被昇天(1950年)
 法王ピオ12世が、マリア信仰に押される形で公布。正式にマリアを神と認めたことになる。
 被昇天の意味はこうです。マリア様は、人間と同じように葬られたというのは間違いで、実は生身の体のまま、天に上げられ(だから被昇天)て、三位一体の傍らに座っているということ。
★参考
http://books.google.com/books?id=CWD8WShJGN4C&pg=PT205&lpg=PT205&dq=%E5%9B%9B%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E8%AB%96%E3%80%80%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BF%A1%E4%BB%B0&source=web&ots=aZ9o2Okwm3&sig=etUWKqN0eBmK31EvlP7q46S8Zl0&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result


<四位一体 〜そしてマリア様は、神と同格になった〜>
 聖母マリアの被昇天にが、公布されることによって、マリア様が他の三位と同格になり、実質的に四位一体ということになった。そしてマリア様という女性性が加わることで、より完全性が増したということになります。
★ちなみにユングが四位一体ということを言っているそうですが、キリスト教における神・精霊・人の三位一体では精神の影の部分を解決する事はできなかったからのようです。そいういった意味で、キリスト教における女性性の部分は、影の部分なので、意味は分かります。ただ影には、もっと色々なものがあるはずで、ユングはもっと広い意味で四位一体を使っているようです。その影の部分とは、悪魔などのことのようです。


<余談 〜お取次ぎの機能としてのマリア様〜>
 ちなみに、どうしてマリア様なのかという考察もありました。つまり民衆からすれば、キリスト様に直接ものを頼むなんて恐れ多い。そこで、お母様であるマリア様にまずはお話をする、頼みごとをするといった民衆的な感覚があったと思われるとのこと。
 まぁイチロー選手などスーパースターだって、まずは親とか、親戚とか、兄弟を通して頼みごとするという心理が働きますから、良く分かりますよね。



3.裏面のお話

<マリア信仰が何故こんなに根強かったのか>
 マリア信仰は、4世紀ころから(もしかしたらもっと以前から)根強くあったのですが、教会としてはまったく認知しないにも係わらず、どうして現在に至る(1600年間も)まで、教会に対して認めさせようという大きな力が継続したのでしょうか。
 普通の神学的な側面からの説明ですと、そういった民間信仰が根強かったとしかいいようがないのですが、実際にそれだけで、こんなに長い期間、ボトムアップな民衆活動が続くとは思えないというのが講演者の考えです。私もそう思います。
 つまり、マリア信仰は4〜5世紀から一般民衆の中で信じられていたというより、実際にいたるところでマリア様が出現し、具体的な奇跡がいたるところで起こっており、民衆の間では信じる以前に事実として当たり前になっていたということです。

・前述のベルナデッタの例
・ファティマに聖母マリアが出現(1917年)
・アムステルダムの聖母マリア出現(すべての民の母)(1945年〜1959年)「全ての民の母である。私は、かってマリアでもあった女性である」など数々の奇跡が公認されている。

★なお、マリアの涙を調べたら、AB型であったというな話もあります。キリストもAB型だったそうで、AB型って、新世代の人類なんでしょうかね。

★数々の奇跡の記事(ネットでまとまったのがありました)
 http://page.freett.com/dateiwao/fatimaufo.htm

 こういった公認になるような大きな奇跡でない多くの奇跡が、民衆の中で絶えず起こり、その原動力がマリア信仰を支え、1600年近くをかけて、「聖母の被昇天」を法王ピオ12世に公布させるまでにいたったと考えられるわけです。ちなみに、この法王ピオ自身も、そういった奇跡を感じ取れる体質だったそうです。

★つまりこういった奇跡は、起こるべくして起こっており、人類の進歩に必要なものとして現れているのだろうなと思いました。そして、こういった進化、成長の流れの中で、先にも説明したユング心理学でいうところの、意識化された男性性として世界宗教(言葉、概念、合理)に抑圧された、影の部分である女性性である無意識からの現れるものが奇跡ではないかと言えるわけです。
←この一連のコメントは、講演者も同じようなことを言っていたような気がしますが、ハッキリしないので私の理解です。


★4.キリスト教の進化と唯物主義
 ここの部分は、講演者ははっきりとは、述べていなかったと思いますが、内容的にこのように理解しました。

<異端との戦い 教会の権威を強める流れが、唯物主義に導いた>
 一方正当派は、色々な異端が発生する中で、危機的な状況に追い込まれていっき、これを打破する方法を模索した。そして考え出されたのが、「啓示、奇跡」について教会が判定基準を設け、本物だけを「啓示(奇跡)」として認定するという方法である。
 そして、これを強めることによって、カトリック教会は権威を強化していった。
 まず、異端を封じ込めるために、聖書を絶対化し、奇跡の多様化を封じ、権威を教会に集中させる中で、どうして唯物主義に陥ったのかを年表で見てみます。

------------年表-----------------------------
・12世紀:異端が正当派にとっての脅威となる
・13世紀:啓示(奇跡)の多様化により、カトリック教会の権威との衝突が多くなる。そのため、「啓示」に関する判定基準の模索が始まる。
・1500年:免罪符の発行
・1516年:第5テラノ公会議 啓示(奇跡)に対する承認を限定する法体性ができる
・1517年:ルターの95か条 ←もう一度聖書に戻る運動
・1541年:カルヴァン
・1563年:トレント公会議 ←奇跡と呼ばれる現象を厳格な措置をもってのぞむ方針
・18世紀:奇跡・超常現象の基準が設けられる。科学、自由主義の進歩
・19世紀:宗教は迷信と考えるエリート続出 ←唯物主義の進行
------------年表--------------------------

 異端から正当派の権威を守るために、啓示(奇跡)の規制を強化していく中で、次第にそれが絶対的なものになり、形式化し、最終的に奇跡はおろか、宗教自身(つまりスピリチュアリティ、霊性、神秘主義)さえも迷信という極端なところまで行ってしまったと考えられるわけです。
 見方を変えるとその過程で、「免罪符の発行」や教会絶対的権力など、教会の奢りがあり、それに対する民衆の大きな不満があり、その教会の権威を乗り越えようとする原動力が、合理主義、実証主義に磨きがかかり、科学主義が生まれていったのだと思います。
 そして19世紀には唯物主義の極みまでいってしまい、宗教自体を迷信だと否定するまでになってしまった。これは逆の意味で宗教として危機を生み出したわけです。
 ただ、この行き過ぎた実証主義による、唯物思考化、宗教の形骸化が、人類にとって回り道であったかどうかというと、講師の意見もそうですが、そうではなく必然だと思っています。人類には必要な回り道であり、人類の成長には必要な段階であったと考えています。


★<奇跡の禁止(勝手に体験を解釈してはいけない)についての他との比較>
 異端を排除するために、キリスト教が採った手段「勝手に体験を解釈しない」ということは、他の宗教ではどうなのでしょうか。ちょっと考えてみました。
 神道では、降りてきたものが本物かどうかを識別するテクニックを身につけた審神者(さにわ)というプロフェッショナルがいます。しかし、一神教ではないからなのか、それが正当派を守る権威となっているということはないようです。
 また仏教は、むしろ積極的に瞑想などによって自らの身体を通して体験し悟ることが目的となっており、体験の禁止はあり得ません。しかし、この時現れる菩薩や神仏は、全て魔境として排除するよう指導しているそうです。
 そういった意味では、「勝手に体験を解釈してはいけない」というのは、これらも同じ路線なのですが、目的が違っているように思います。仏教では悟りの邪魔になるものとして純粋に排除しているのだと思います。したがってテキストの解釈に振り回されて、唯物的になるという状況にはなっていないように思います。(日本の仏教界は知りませんけど)


 以上、キリスト教関連は、あまり詳しくないので、ネットで復習しながらまとめてみました。時間の都合上、上手く繋がらない部分が多々ありますが、この辺にしておきます。あしからず。でもとても勉強になりました。

コメント(14)

岩田さんは、ハイデルベルク大学院で宗教学を専門に研究されてこられた方だけに素晴らしい内容のお話でしたね。
キリスト教とマリア信仰という教会は勿論キリスト教徒にとっても歴史的にデリケートな内容を、偏らずしかも深く明解にお話され、あっという間に時間が過ぎた感動的なセミナーだったと思います。
ということでみっくんはただ聞きほれていたのですが、その内容をこれだけ的確にしまも詳細にまとめられた清志朗さんには心から敬意を表します。
コメントする前にまずはありがとうございました。
大変興味深い内容だったのですね、ありがとうございます。
マリア信仰・・・ユング的解釈ではなるほど、と思わされました。

私は昔カトリック、そしてバリバリのプロテスタントを経て今はもっと抽象的な信仰になってきました。もしかしたら、意識の変化や進化?を経験してきたといえるかもしれません。
洗礼のきっかけは、アシジのフランチェスコの映画「ブラザーサンシスタームーン」だったり、教会での禅体験による一種の神秘体験だったり、いろいろありますが、一時は信仰に生きると決心したくらいです。が、いけなかったのはなぜかというと、カトリック神学が知的に納得できなかったからです。聖書に矛盾しているからです。マリア信仰もそのひとつでした。偶像崇拝はだめといいながらやっているじゃないか、どういうこと?というようなことが多すぎました。

ここで、聖書を徹底的に研究して信じるプロテスタントの派に変わりました。
知的で、男性的な信仰だったと思います。奇跡や神秘的な要素に関しては危険だから近づかないように、切り捨てていったと思います。ある意味宗教を科学していたというような視点です。
大変興味深く純粋だと思いましたが、だんだん疲れてきました。笑

で、トラパに出会って、自分のキリスト教信仰・聖書解釈が大いに揺れました。
今はキリスト教がベースにあるかもしれないけれど、土着の信仰に関しては未だにどうもなじめません。
人間的な要素がまとわりつくと、何か不純な感じがしてしまうからです。
見えないものを理解するために必要なプロセスかとは思いますが、本質ではないから、それにとらわれてると、宗教対立が起きてしまうのではないかしらと思ったりします。

マリア信仰はたぶん、日本だと観音様にあたるのでしょうね。マリア観音っていうのもありますね。面白いなと思いますが、それに対して祈りを捧げるという気にはならないですね・・・スピリットの中にそういう要素があると思うから媒介は必要ないといいますか・・・

一応教会に行くクリスチャンですが、子としてのイエスキリストに対しても同じです。祈りの対象はむしろ父なるものか、聖霊でしょうね。
私の聖霊解釈は、ダイナミズム、プロセス、エネルギーあるいは「内なる神」として現れるもの、です。

細かいことですが、「予言」ではなく、「預言」ですね。

以上、自己流の経験談的解釈でした。
清志郎さんすごいレポートをありがとうございました。
清志朗さん

有難うございます。
簡潔に解説されていて、マリア信仰が続く理由が分かりました。

当日は急用で行けず、残念でした。
今回のセミナーは本当に感動的でした。
難しいであろうキリスト教の歴史を、マリア信仰の目線で分かりやすく教えていただきました。
岩田さんの話を聴いていると、ご自身がどれだけ興味深く研究されていたかという楽しさまで伝わってきました。
本当にありがとうございました。

そして、清志朗さん。
いつも素晴らしいレポートで、こちらも感動ものです。
お疲れ様でした。
清志朗さんのレポート、いつも本当に、きちんとわかりやすくまとめられてますよね。聞き漏らしていたこともはっきりしました。

いつも不思議に思っていたことですが、カトリックではマリア様はまるで神様か〜のような扱いを受けているように感じていたのですが、やはり、ある種の線引きはしていたのですね。それが「被昇天」という言葉だったとは・・。何気なく聞いていた言葉にそんな意味があったとは・・・。
☆しかし、二次会での血液型の話はもりあがりましたね〜。

カリフォルニアのヒスパニック系のカトリック教会に行ったことがありますが、何か、あまりにも十字架のキリスト像や、マリア像がこてこて(日本人の感覚からみて)にみえて、それで引いてしまったことがあります。とてもああいうのに祈りをささげる気にはならないなあ・・とか。でも、マリア観音を観た時には、不思議と違和感がなかった。アイルランドでは女神のブリギットと何となく結びついているみたいだし、悲しい側面もあるのでしょうが、カトリックの布教はある意味、土着の何かと結びつくことで成り立ってきたのかな、なんて思いました。マリア様は特に結びつきやすいのかもしれないですね。

まり庵さん

>☆しかし、二次会での血液型の話はもりあがりましたね〜。
そうですね。

「全ての民の母である。私は、かってマリアでもあった女性である」
マリア様は、AB型

で、二重人格? って話ですね。

思わぬ受け取り方でしたね。笑えました。

アンナさん

>マリア信仰はたぶん、日本だと観音様にあたるのでしょうね
そうですね。同じ類な気がしますね。

精霊が、ダイナミズム、プロセス、エネルギーあるいは「内なる神」として現れるもの、というのも面白いです。理解できそうな感じです。

神が、語れないもの、現れないもの。
精霊がダイナミズム、プロセス、エネルギー、つまり、現象化するための原動力なわけですね。
そして、マリア様は、現象として現れる。


プロテスタントが、知的で、男性的な信仰というのも、頷けます。
理性、合理ですから、奇跡や神秘的な要素を切り捨てるのでしょうね。
でも、理性や合理だけでは、疲れちゃいますよね。女性性的な全体で捉える、ありのままに受け入れることが必要なんでしょう。

*一神教の世界は、「神対人間の絆」(縦)が基本で、「人間対人間」(横)の繋がりは希薄だと聞いたことがあります。(人間対人間の繋がりは、同じ神を信じる者同士の“信頼”というところで培われていたのかもしれません)

しかし現代では、その「神対人間の絆」が切れてきて、もともとあった人間と人間とのあいだの溝がますます深くなり、その中に一度落ち込むと、なかなか這い上がって来られない・・・というお話をむかし読んだことがあります。

それが、現代アメリカの貧困層の現実でもあるというのです(落ちこんでしまった子ども達は、余程の精神力がない限り、もう反社会的に犯罪を犯して破滅するしかないような状況に追い込まれている、というのです。真偽の程は知りませんが・・・)。

日本でも、個人主義は昔と比べてずいぶんと進み、核家族化も推進されて、現代ではずいぶん孤独な若者・ご老人も多いようですが、(ある面では、ものすごく面倒くさい)ムラ社会的なシステムが残っているため、アメリカ人ほど破滅的な孤立に陥る人が少ないとも、どこかで読みました。


*ところで、「マリア信仰が土着の信仰と結びつきやすい」というお話は、たいへん肯づけました。
というのも、人は皆“母”を持っているからです。

子供にとって、“母”というのは、何となくいつでも“仲介役”のような気がするのです。

悪さをした子供が、“父”に叱られて寒い戸外に放り出されたとき、大丈夫かどうか様子を見に来てくれるのはいつでも“母”で、たいていそんな時は、ちょっとした食べ物や着るものをこっそり持ってきては、「今日は我慢しときなさいよ。お母さんが何とか、あなたのこと、お父さんにとりなしてあげるから・・・」なぁんて言ってくれたりするんです・・・涙

世の子供は、こんな経験、一度ならず、持っているのではないでしょうか・・・。

こんな風に、「善悪」の基準で裁かれて、厳罰に処された(クレーターに落ち込んだ)存在を救い上げてくれる存在を“母”とダブらせるのは、よく理解できるような気がします。

そうした“仲介役”・“落ち込んだときのすくい上げ役”・“どうしようもない自分を弁明してくれる存在”・“横との繋がり”を推進してくれる役割を担ってくれるのが、“母”であり、そのイメージが“マリア様”に象徴されたのではないか・・・と想像します。

そして、世界のいたるところに存在している“母”を象徴する土着の女神たちが、マリア様と結びついていったのは、自然なことのようにも思えます。

また、その母なる当の女性の側から見れば、「マリア様ほど、母としての苦悩をなめられた方はいない」という思いが、私にはあるのですよね・・・。

息子を冤罪で磔にされるのを見ているしかない母の気持って、どんなでしょう・・・。それを思うと泣けてきます泣き顔

また、聖書の記述を読んでいると、イエス様に「母とは誰か?私に母などいない」みたいなことも言われてますし・・・。

それでも、全てを受け止め、黙って心に納めていたと言われるマリア様は、その存在そのものが、世の母親たちの慰めなのではないでしょうか。

きっと、世の母親たちは、マリア像の前で跪きながら、“誰も私の気持をわかってはくれないけれど、マリア様なら、無言のうちに、私の苦しみわかってくださるわよね”と思っているに違いない、と、勝手に想像さえをめぐらせてしまいます。

ですから、マリア様が、観音様になぞられることもわかるよなぁ・・・って思うんです。だって、観音様って、“どうしようもないような人間”でも付き合ってくれそうな感じがするじゃないですか。それって、世の母親の子供に対する気持や態度に似てるような気がするんですよ・・・。
*ところで、マグダラのマリアは、実は、優秀な女預言者で、イエス・キリストに最も愛されたもの(その妻)だったと、グノーシス関係の本で読みました。

実は、イエスの復活を最初に目撃したのも彼女だったということです(十二弟子はみんな怖がって逃げてしまったということですよ・・・でも、ヨハネはどうだったかな・・・?)。

が、彼女の能力と立場に、ペテロが嫉妬して、彼女を排斥し、今の教会制度が発足したという話も読みました。

そのときから、カトリックでは、女は教会では口にチャックをつけて黙っているのが美徳とされたそうで・・・?

(そう思うと、教会の抱える問題は、発足当時からあったのですね・・・)


*ところで、聖書の中には、イエスさまの母マリア様を始め、ベタニアのマリア、マグダラのマリア・・・と色んなマリア様が登場しますが、どの方も信仰深く好感の持てる方が多いですね。

イエスさまの母マリア様も高貴で美しいですけれど、一方、“娼婦”と言われながらもその実、多くの女性たちを精神的に救い、芸術の源となっているマグダラのマリアの健気さも捨てがたい魅力があると思います揺れるハート

私にとっての「マリア信仰」は、色んな女性の顔と人生が思い浮んできて、想像が広がっていきます・・・わーい(嬉しい顔)



☆清志朗さん、今回も、渾身のレジュメ、ありがとうございました。
「三位一体」とか、とっても難しいですけれど、聖霊のニュアンスが少しつかめたような気がします。
また、いろいろご教示くださいexclamation
ミネルバさん

 論理、合理で尖がっているのが、男性性、全体性で包み込むのが女性性。だから男性性の宗教って、実態の乖離して形式的になっていくのだと思っています。
 生の存在との結びつきに立ち返らせるには、女性性(母性)が必要なんだろうと思っています。そういった意味で、キリスト教に対するマリア信仰は、とっても象徴的だなぁと思いながら、まとめました。

 理解を深めるには、合理が必要で、それで理解が進むのですが、その過程で生の存在から多くのものを取りこぼします。それを思い出させてくれるのが全体性(母性)だと思っています。
 会社で立場の高い人、理性と競争でバシバシ仕事している男性も、家に帰ると奥様に甘えるなんて話を聞きますが、とても納得のいくお話です。そうしないとバランス悪いし、見えなくなるものが多すぎますから。奥様のいうことは、素直に聞かないといけませんね。
清志朗さんへ

清志朗さんのコメントを読んだら、なんか嬉しくなっちゃいましたわーい(嬉しい顔)

清志朗さんが神父さまだったら、きっと女性信者にモテると思いますexclamation ×2
ミネルバさん

どうもありがと。
実はこのコメントの話は、私の日常の生活や仕事で、非常に重要なテーマなんです。
合理で尖がることと、全体性で包み直すバランスです。

政治も経済も、もっと女性性(母性)が必要だなぁと日々ニュースなどみて感じます。
これからの高齢化社会を解決するには、最も重要で有効なことだと思っているんですけどね。
清志朗さんへ

いつもは自分と縁がないかも・・・と思っている分野の世界が、何故か自分の日常生活や社会現象と重なってくることがありますね。

この世界って、ホントに不思議な世界だなぁ・・・って、そのたび思いますリサイクル

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ユング心理学研究会 更新情報

ユング心理学研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。