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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの葛西城

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北条氏綱の時代の最大勢力圏の最北端が河越城、再東端が葛西城であった。
葛西城の築城は、山内上杉方によって築城され大石氏が城代を務めていた。
1538年、北条氏綱によって葛西城が攻め落とされると、足利義明と里見義堯の軍勢が攻め寄せ、国府台で合戦が起きる。(第一次国府台合戦)
国府台合戦で勝利した北条氏は、葛西城の支配を続け、関東支配に必要不可欠な存在である古河公方に足利義氏を擁立し、葛西城に御座させていたようである。この頃は、下総との国境警備の城、中継基地等といった役割だけではなかったようである。
1560年上杉謙信により、小田原城が攻められた際に、葛西城も反北条方の手に落ちてしまうが、1562年、北条氏は葛西城を再奪取する。その後、1564年に里見氏との第二次国府台合戦を勝ち抜き、葛西城の支配を確実なものとする。しかし、秀吉による小田原攻めの際、開城しなかったため、再び攻め落とされたようである。
江戸時代になり城としての役割を終え、将軍が鷹狩りの際に立ち寄るといった役割を担っていたようである。そのため、御殿山の地名ができたようで、御殿山公園との記載も見うけられた。
現代になり、環状7号線の工事に伴い、発掘調査が行われ再び注目されるが、発掘作業終了によって、城の真ん中を環状7号線が通り、2つの公園に分断され、城があったと全く感じることができない状態となってしまう。
発掘によって鉄製の武具など出土しており、出土品だけがお城があったことを物語る。

コメント(10)

鎌倉幕府の引付衆(裁判官?)で青砥藤綱(架空説あり)という人がおり、青砥藤綱の邸宅がこの地にあったといわれている。
青戸と青砥が同じだけで、全く関係ないとの説もあるようだが、真偽は定かでない。

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