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原始仏典コミュの止観3   (南伝20 P225他)

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増支部経典>六集>第一一 三法品
「  百十六
 
 比丘たちよ、これらは三法である。何が三か。
 掉挙、不律儀、放逸である。
 比丘たちよ、これらは三法である。

 比丘たちよ、これらの三法を断つがためにまさに三法を修しなさい。何が三か。 
 掉挙を断つためにまさにサマタを修しなさい。不律儀を断つがためにまさに律儀を修しなさい。放逸を断つがためにまさに不放逸を修しなさい。
 比丘たちよ、これらの三法を断つがためにまさに三法を修しなさい」
     南伝大蔵経20 増支部経典4 P225




中部経典>中分五十経篇>七三 ヴァチャゴッタ大経
「・・・
 尊者ヴァッチャゴッタは進入(具足戒を得て)して久しからず、即、進入して半ヶ月にして、世尊のところに詣った。詣った世尊に敬礼して一方に座った。一方に座り終わって尊者ヴァッチャゴッタは世尊に言った。

 世尊、有学の知をもって、有学の明をもって、体得されるべきものはすでに私によって体得されましたので、さらに世尊は私に法を示してください。

 ヴァッチャ、それならばあなたは二法を修習しなさい。即ち、サマタとヴィパッサナーである。ヴァッチャ、あなたがこれらの二法である奢摩他と毘鉢舎那とがさらに修習されるならば、それは種々の界の智に導くだろう。

 ヴァッチャ、そのあなたが「私は種々神通力を作証せんことを、即ち、一にして多となり、・・・・・・(六神通の記述)・・・と願うならば、一切処、一切境において実証するを得るだろう。

 ・・・(ヴィッチャは阿羅漢となり、大神通・大威力を獲得したとの記述で終わる)」
     南伝大蔵経10 中部経典2 P328

[パーリ語の原文]
Acirūpasampanno kho panāyasmā vacchagotto addhamāsūpasampanno yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdi. Ekamantaṃ nisinno kho āyasmā vacchagotto bhagavantaṃ etadavoca –

‘‘yāvatakaṃ, bhante, sekhena ñāṇena sekhāya vijjāya pattabbaṃ, anuppattaṃ taṃ mayā; uttari ca me [uttariṃ me (sī. syā. kaṃ. pī.)] bhagavā dhammaṃ desetū’’ti.

‘‘Tena hi tvaṃ, vaccha, dve dhamme uttari bhāvehi – samathañca vipassanañca.
Ime kho te, vaccha, dve dhammā uttari bhāvitā – samatho ca vipassanā ca – anekadhātupaṭivedhāya saṃvattissanti.



増支部経典>九集>第一 等覚品

「 四 難陀

 ある時、世尊はサーヴァッティ、祇園にいた。その時、具寿ナンダカは勤行堂において比丘たちに法を説き、教授し、勧導し、讃励し、慶慰した。時に世尊は、夕方、宴黙から起って勤行堂に行った。着いて門の外に立ち、話が終わるのを待った。時に世尊は、話が終わるのを知って、咳をして閂を叩いた。彼ら比丘たちは世尊のために戸を開けた。時に世尊は勤行堂に入り設けられた席に着いた。座って世尊は具寿ナンダカに言った。

 ナンダカ、あなたは比丘たちのために法門を説くことが永かった。私は門の外に立って話が終わるのを待って背中を痛めた。

 このように言ったときに具寿ナンダカは羞恥の色を生じて世尊に言った。「大徳、私たちは世尊が門の外に立つとは知りませんでした。大徳、もし私たちが世尊が門の外に立っていると知っていたならば、このようには説かなかったでしょう」。時に世尊は具寿ナンダカが羞恥の色を生じたことを知って具寿ナンダカにこのように言った。

 ナンダカ、よいことだ、よいことだ。ナンダカ、あなたたち善男子が信をもって家から出て出家したのであれば、説法のために集まることは相応しいことだ。ナンダカ、あなたたちは集まっては二つのことを行いなさい。説法と聖なる沈黙である。

 ナンダカ、比丘にもし信があるが、戒がなければ彼はその分は円満していない。彼は「どのようにすれば信があり、戒があることを得るだろうか」と考えてこの分を円満しなさい。ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があるならば彼はその分は円満している。
 ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があるが、内に心サマタを得なければ彼はその分は円満していない。彼は「どのようにすれば信があり、戒があり、内に心サマタを得るだろうか」と考えてこの分を円満しなさい。ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得ているならば彼はその分は円満している。
 ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得ても、増上慧法ヴィパッサナーを得なければ彼はその分は円満していない。ナンダカ、たとえば四つ足の獣がいて、その一つの足が矮小で不完全であるならば、その分は円満していない。ナンダカ、そのように比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得ても、増上慧法ヴィパッサナーを得なければ彼はその分は円満していない。彼は「どのようにすれば信があり、戒があり、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得るだろうか」と考えてこの分を円満しなさい。ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ているならば彼はその分は円満している」と。

 このように世尊は説いた。このように説いて善逝は座から立って精舎に去った。
 時に世尊が去って久しからずして具寿ナンダカは比丘たちに告げて言った。

 友らよ、今世尊は四句をもって純一・円満・清浄な梵行を宣説し、座から立って精舎に入られた。いわく、

 ナンダカ、比丘にもし信があるが、戒がなければ彼はその分は円満していない。彼は「どのようにすれば信があり、戒があることを得るだろうか」と考えてこの分を円満しなさい。ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があるならば彼はその分は円満している。
 ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があるが、内に心サマタを得なければ彼はその分は円満していない。彼は「どのようにすれば信があり、戒があり、内に心サマタを得るだろうか」と考えてこの分を円満しなさい。ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得ているならば彼はその分は円満している。
 ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得ても、増上慧法ヴィパッサナーを得なければ彼はその分は円満していない。ナンダカ、たとえば四つ足の獣がいて、その一つの足が矮小で不完全であるならば、その分は円満していない。ナンダカ、そのように比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得ても、増上慧法ヴィパッサナーを得なければ彼はその分は円満していない。彼は「どのようにすれば信があり、戒があり、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得るだろうか」と考えてこの分を円満しなさい。ナンダカ、比丘にもし信があり、戒があり、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ているならば彼はその分は円満している、と。

 友らよ、時として法を聴き、時として法を語れば五つの功徳がある。何を五とするのか。

 友らよ、ここに比丘がいる。比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにする。友らよ、比丘が比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにすることによって、彼は師を愛楽し、意にかなうとし、尊重し、敬礼しなければならないとする。友らよ、これが時として法を聴き、時として法を語る功徳の第一である。
 友ら、ここに比丘がいる。比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにする。友らよ、比丘が比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにすることによって、彼はこの法における義を知り、法を知る。友らよ、これが時として法を聴き、時として法を語る功徳の第二である。
 友ら、ここに比丘がいる。比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにする。友らよ、比丘が比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにすることによって、彼はこの法における甚深である法句を智慧によって通達して観じる。友らよ、これが時として法を聴き、時として法を語る功徳の第三である。
 友ら、ここに比丘がいる。比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにする。友らよ、比丘が比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにすることによって、同梵行者はかなねて彼は尊敬して「実にこの具寿はすでに体得している、もしくはいずれ体得するだろう」と言う。友らよ、これが時として法を聴き、時として法を語る功徳の第四である。
 友ら、ここに比丘がいる。比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにする。友らよ、比丘が比丘たちのためにはじめ善く中善く終わり善く、義が備わり、文も備わった法を説示し、純一円満清浄な梵行を明らかにすることによって、比丘たちの中で有学であっていまだ心を体得せず、無上の安穏を求めて住する者は、その法を聞き終わっていまだ体得しないものを体得し、いまだ得ていないものを得て、いまだ現証していないものを現証するために勇猛に精進を起こす。また比丘たちの中で阿羅漢であり、諸漏をすでに尽くし、梵行にすでに住し終わり、為すべき事を為し終わり、諸々の重荷を捨て、利を体得して、もろもろの生存の結を尽くし、正知して解脱する者は、その法を聞き終わって現法楽住を得て住する。友らよ、これが時として法を聴き、時として法を語る功徳の第五である。

 友らよ、時として法を聴き、時として法を語ればこのように五つの功徳がある」

      南伝大蔵経22上 増支部経典6 P12ー18



・善男子二事
 1.法談
 2.沈黙


・四円満
 1.有信
 2.有信・具戒
 3.有信・具戒・内心止
 4.有信・具戒・内心止・増上慧法観(四つ足のたとえ)



・応時聞法・応時法談の五功徳
 1.聞法法談によって師を恭敬する。
 2.聞法法談によって義を知り、法を知る。
 3.聞法法談によって甚深の句を慧によって通達して観じる。
 4.聞法法談によって同梵行者に尊敬される。
 5.聞法法談によって有学は精進を起こし、無学は現法楽住する。
 


信ある良家の生まれの出家者が為すべき事は、法談と宴黙です。ナンダカは、正しく法談を行っています。そこで、ゴータマは法談をすでに満たすナンダカと比丘たちのためにもう一つの為すべきことを説きます。それが、宴黙、聖なる沈黙、すなわちサマタとヴィパッサナーです。彼らは法談し、すでに信あり、戒があります。そこで、宴黙の利、止観をゴータマは説きます。これをもって善男子は法談と宴黙という二つのなすべきことを正しく為します。法談のうちに聞法と法談があり、宴黙のうちに止観があるのは文脈から明らかです。

ナンダカは、ゴータマが去ってから聞法と法談の五つの功徳を説きます。それは彼が善説法者であり、よくその利と義に通達している証拠です。ゴータマは、彼らを憐れんでさらに沙門として円満させるために宴黙による止観の利益を説いたのでした。それを四つ足のたとえでもって全てをバランスよくオールマイティに備える必要性を明らかにしました。

善法においては好き嫌いやえり好みをすることなく、あらゆる善法をまったく臆することなく修するべきだと思います。それが善法であるがゆえに。善法とは利に導くもの、利とは楽に導くものだと思います。それゆえ「多くの人々の利益と安楽のために」と言われます。「利益と安楽を生み出す善法」はすべて手に入れられるべきものです。利益と安楽の原因であるがゆえに。善の義、利の義、楽の義についての考察は多くの利益があると思います。その究極に涅槃、三毒滅尽である不死、利無上があるのだと思います。

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