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宇宙の外ってどうなってるの?コミュの魂ってあるの?

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死んだら魂ってあるの?

幽霊っているの?

魂とお化けの関係は!?

輪廻ってあるの!?

輪廻は最後どーなるの?

どれかひとつでも
これ!っていう考えがある方教えてください。

コメント(1000)

> 黒羽さん

まぁ、たとえば、情緒纏綿たる追憶は、魂であるザインのビビッドな記憶なわけです。脳の“記録”は、もっぱら“像の再生”に関わるシステムで、まさにザイエンデスです。
>けろりんさん
>まぁ、たとえば、情緒纏綿たる追憶は、魂であるザインのビビッドな記憶なわけです。

追憶と記憶は違うと思いますが・・・?
ザインである『魂』に何かの記憶があれば、それはすでにザインではなくザイエンデスだと思いますよ。

>脳の“記録”は、もっぱら“像の再生”に関わるシステムで、まさにザイエンデスです。

その通りですね。
この世の認識しているもの全ては当然として、個人の人格や性格や言語、感情や価値観、血液型や性別や身体的特徴・・・全てザイエンデスですね。
つまり、けろりんさんを『けろりんさん』と認識するものは全てザイエンデスであり、『魂』はけろりんさんでも、私黒羽でもない・・・つまり誰の性質や特徴も持ってなく、誰でもない存在といったものになるでしょうね。

そんなものが存在すればの話ですが・・・

魂→本質→ザイン

魂の記憶→性質→ザイエンデス

記憶の定義が曖昧だが、魂は本質的力動(存在するためのエネルギー)の原型だとは考えられる。

クオリアがどこから齎されているのか?

プラトンのイデア、アニマムンディを当て嵌めてみるのも面白い。

記憶に関してはイマージュの概念を学問として、どう捉えるかに懸かっている。
まあ、念とか気とかで表現した方が解り易いとは思うけれどねw
> 黒羽氏

だから実在はしない。

実在する形で現れることは考えられるが、自我の存在が魂の存在を明らかにしてしまうので魂そのものが必然として直接知覚共有される形で現れるとは考えられない。

しかし、そのイメージは持っている。そのイメージされた魂を表現するという形で具象化して顕現することはできる。その限りに於いて魂は現に存在するものとしてではなく、存在そのものとして心の中に表れるものとして存在する。

つまり、現象と表象との違い。

魂一般は、命の源と考えた方が解り易い。
 私は、「記憶」と「記録」を区別して考えたいわけです。

 たとえば、「ハードディスクに記憶させる」なんて使い方はしないで欲しい気がするのです。

 じつは、ハードディスクは記録されるだけで、記憶はしません。

 記憶は主体が“する”もので、“される”ものではないわけです。

 ザインは“する”ほうで、ザイエンデスは“される”ほうなわけです。

 だから魂は記憶する実在で、脳やハードディスクなどの“記録”されるメディアである客体はザイエンデスだと考えるわけです。

 つまり単なる記録とは違う“記憶”こそは、“魂の能力”であるように思えてならないのです。
> 黒羽さん

なお、ザインとザイエンデスの区別のしかたがお互いにズレてると思います。そのせいで話がかみあわない冷や汗。すりあわせが必要な気がします。
>春助さん
>だから実在はしない。
実在する形で現れることは考えられるが、自我の存在が魂の存在を明らかにしてしまうので魂そのものが必然として直接知覚共有される形で現れるとは考えられない。

仰るとおり実在はしないでしょうね。
問題は『存在』しているかどうかだと思います。

>しかし、そのイメージは持っている。そのイメージされた魂を表現するという形で具象化して顕現することはできる。その限りに於いて魂は現に存在するものとしてではなく、存在そのものとして心の中に表れるものとして存在する。

そもそも『存在そのもの』とは何なのでしょうか?
これが、春助さんの考えている『魂』の鍵となるようですが・・・

>つまり、現象と表象との違い。
魂一般は、命の源と考えた方が解り易い。

魂を命の源と考えると、命が尽きた死後はやはり『存在そのもの』も存在しないという事になるのではないでしょうか?
命の源が存在しているのに死を迎えることは矛盾していると思いますからね。

>けろりんさん
>なお、ザインとザイエンデスの区別のしかたがお互いにズレてると思います。そのせいで話がかみあわない。すりあわせが必要な気がします。

ズレているのでしょうか・・・?
すりあわせは必要だと思うので、具体的にどこにズレを感じたのか教えてくださればありがたいです。





もう一つ疑問点があるのでお願いします。
>けろりんさん
>記憶は主体が“する”もので、“される”ものではないわけです。
ザインは“する”ほうで、ザイエンデスは“される”ほうなわけです。
だから魂は記憶する実在で、脳やハードディスクなどの“記録”されるメディアである客体はザイエンデスだと考えるわけです。
つまり単なる記録とは違う“記憶”こそは、“魂の能力”であるように思えてならないのです

ザインが『記憶』している内容は、けろりんさんと私黒羽とでは内容が異なるものなのでしょうか?
もちろんけろりんさんからは、私のザインは認識できないでしょうが、『魂(ザイン)』が私黒羽にもあるという前提で考察してみてください。
> 黒羽さん

 いうなれば、ザインの“記憶(←メモリーと呼ばれる)”はそれ自体が“事的なイベント”にまつらう意識から出来ているのですが、ザイエンデスの“記録(これもメモリーと呼ばれる)”は単なる記号なのです。記号をどんなに複雑に組み合わせても意識にはなりません。

 だから人工知能も結局は魂にはなりえないわけです(←途方もなく頭がいいハゲの天才マービン・ミンスキーは、ぜんぜん、そう思っちゃいないが冷や汗←髪は死んだ!髪がないので神を信じていないのか?!)。

 ただし、人口知能のシステムの中に“(ケストラーみたいな)機械の中の幽霊”として魂が憑依する可能性はありますね。

 たとえば、その黒羽さんの身体というバイオ・モビルスーツの中枢に、黒羽さんの魂が憑依してるみたいにねむふっ人差し指
>けろりんさん 
>いうなれば、ザインの“記憶(←メモリーと呼ばれる)”はそれ自体が“事的なイベント”にまつらう意識から出来ているのですが、ザイエンデスの“記録(これもメモリーと呼ばれる)”は単なる記号なのです。記号をどんなに複雑に組み合わせても意識にはなりません。

記号を組み合わせても意識にはなりませんが、意識を発生させる装置を作ることは出来るかもしれませんね。
それと、ザインの“記憶(←メモリーと呼ばれる)”はそれ自体が“事的なイベント”にまつらう意識から出来ているという事ですが、その記憶は私とけろりんさんで別の記憶がされているのですか?

>だから人工知能も結局は魂にはなりえないわけです(←途方もなく頭がいいハゲの天才マービン・ミンスキーは、ぜんぜん、そう思っちゃいないが←髪は死んだ!髪がないので神を信じていないのか?!)。
ただし、人口知能のシステムの中に“(ケストラーみたいな)機械の中の幽霊”として魂が憑依する可能性はありますね。
たとえば、その黒羽さんの身体というバイオ・モビルスーツの中枢に、黒羽さんの魂が憑依してるみたいにね


ザインが魂だとするならば、『憑依』という表現は適切ではないと思います。
ザイエンデスにザインが憑依しているわけではありませんからね。

これがけろりんさんの仰る、私とけろりんさんのザインとザイエンデスに対する考え方のズレなのかもしれませんね。





> 黒羽さん
> 記号を組み合わせても意識にはなりませんが、意識を発生させる装置を作ることは出来るかもしれませんね。

 ザインである“魂である意識”を発生させる装置は造れない、…というのが私の見解です。ザイエンデスである“魂でない意識(人格マトリックス)”は造れるかも知れません。

 何度も言いますが、“意識”の意味分節が未分化だと“意識”という語の意味が二重になり、混乱が生じます。

 あの天才、マービン・ミンスキーも、リチャード・ドーキンスも、ディビット・チャーマーズもダニエル・デネットもわかっちゃいないので、わからないのは頭が悪いせいではないようで、…内的感覚、つまりセンスの違いかも知れないです。

 言語で表現出来る体験は体験の一部であり、言語で表現出来ない体験が沢山ありますが、それは言語記録不可能です。
> 黒羽さん

人格マトリックスはアバターに過ぎませんが、それを“意識”と見なす人も多いわけです。たぶん、アラン・チューリングもそうですね。
> 黒羽さん
> ザイエンデスにザインが憑依しているわけではありませんからね。

いえ、それどころか、まさに、この世でのザインは“ザイエンデスに憑依したウォッチャー”としてしか世界内存在として現存在出来ないようにされているのです。
>けろりんさん
>ザインである“魂である意識”を発生させる装置は造れない、…というのが私の見解です。ザイエンデスである“魂でない意識(人格マトリックス)”は造れるかも知れません。
何度も言いますが、“意識”の意味分節が未分化だと“意識”という語の意味が二重になり、混乱が生じます。
あの天才、マービン・ミンスキーも、リチャード・ドーキンスも、ディビット・チャーマーズもダニエル・デネットもわかっちゃいないので、わからないのは頭が悪いせいではないようで、…内的感覚、つまりセンスの違いかも知れないです。

私にとっては『魂である意識』というものは、定義もなく、個人の主観や価値観、宗教により異なるものでしかないので、それを意味分節して考えることが難しいのです。
そもそも『魂』とは何なのか?という定義はあるのでしょうか?
定義のないモノを、いわゆる一般的に定義の決まっている意識(けろりんさんの考えでいうと『魂でない意識』になりますかね)から意味分節するとなると、これもまた、個人の主観や価値観、宗教により異なるものになりますからね。
定義も正解も無いわけですから、まさに、分かる。分からない。の問題ではなく、考え方の違いなのでしょうね。

>言語で表現出来る体験は体験の一部であり、言語で表現出来ない体験が沢山ありますが、それは言語記録不可能です。

これはザイエンデスの記録という意味なのでしょうか?
ザイエンデスの記録は言語で表現できない記録もされていると思いますよ。言語で表現できない記録がなされていないのであれば、言語を習得していない人は何も記憶されないことになりますからね。
(余談ですが以前は、生後から完全に失聴しているろう者(言語習得していないろう者)は、どのように思考しているのか、とても考えていたことがあります)
言語は概念を形成する優秀なツールの一つですが、思考が言語だけでなされていると考えるのも、記憶が言語記録だけでされていると考えることも間違っていると思いますよ。

>人格マトリックスはアバターに過ぎませんが、それを“意識”と見なす人も多いわけです。たぶん、アラン・チューリングもそうですね。

そうですね。
逆にザイン(魂)が意識だとするならば、ザイエンデスには必ず意識が存在することになりますが・・・
例えば、椅子や建物にも意識があると考えているのですか?

>いえ、それどころか、まさに、この世でのザインは“ザイエンデスに憑依したウォッチャー”としてしか世界内存在として現存在出来ないようにされているのです。

ザイン(存在)とザイエンデス(存在者)は因果関係であり、憑依といった関係ではないと思います。
因果関係にある以上、ザインのないザイエンデスは存在しないでしょうし、ザイエンデスのないザインは存在しないと考えてます。
また、ザインやザイエンデスがそれ単独で存在することも不可能という事になると思います。






> 黒羽さん
> 私にとっては『魂である意識』というものは、定義もなく、

 う〜ん、それは黒羽さんのほうで、ただ頑として定義したがらないだけなのでは冷や汗


> 個人の主観や価値観、宗教により異なるものでしかないので、それを意味分節して考えることが難しいのです。

 まぁ、異なるか異ならないかすら判らないシロモノとは言えるかも。


> そもそも『魂』とは何なのか?という定義はあるのでしょうか?

 カントによれば「三つある純粋理性概念のうちのひとつ」ってことになりますかね。
>けろりんさん
>う〜ん、それは黒羽さんのほうで、ただ頑として定義したがらないだけなのでは。
>まぁ、異なるか異ならないかすら判らないシロモノとは言えるかも。
>カントによれば「三つある純粋理性概念のうちのひとつ」ってことになりますかね。

なるほど。しかしそれはカントの解釈ですよね。
例えば、世界三大宗教である、イスラム教、キリスト教、仏教でも、時代や宗派により魂の解釈は異なります。
そして、哲学者の間でも魂の解釈は異なり、『これが魂の定義です』という決まったものは、残念ながら存在していません。
ですから、カントの思想を他の宗教や哲学者の思想に当てはめると、矛盾が生じたり、つじつまが合わなくなったり、全く当てはまらなかったりすることもありますからね。
結局、どの思想を信仰するかの話になってしまうわけです。

ちなみに、けろりんさんがカントの思想に感銘を受けているのと同じように、私は釈迦の思想に深い感銘を受けています。
ですから、そのように有るのか無いのか分からないものを信仰しようとは思わないのがスタンスになっていますので、あえて信仰を一つに絞り、定義を一つに決めようともあまり思わないのです。
ただ、信仰はしませんが、その様々な思想を理解しようとは考えています。
> 黒羽さん

まぁ、釈迦のは思想だが、カントのは哲学。←これもカテゴリーを混同して比較してると思います。
> 黒羽さん

カントは結構、辻褄あってる気がするのだが…冷や汗
非科学的なものは存在しないと思います。

すなわち、魂はない。
けろりんさん
>まぁ、釈迦のは思想だが、カントのは哲学。←これもカテゴリーを混同して比較してると思います。

けろりんさんは釈迦の思想の事をあまり詳しく知らないようなので、その様に誤解をしているようですが、釈迦の教えを詳しく知る者は、釈迦は優秀な哲学者であったと言います。
厳密には、釈迦の思想は哲学なのです。
釈迦の言葉を記したサンユッタ・ニカーヤに以下のような言葉があります。

>比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。
「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

つまり、釈迦は 経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関しては語ろうとはしなかったのです。
なぜか?というと、マッジマニカーヤにおいて

>「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」

と語られているように、
つまり、知覚し経験できる事柄には永遠の魂などはなく、私たちの知覚し経験できる事柄はすべては変滅する。
そして人が知覚し経験できない事柄(形而上学の世界)に関しては、真実として確立できるものではなく、想像の産物に過ぎないので、確証が得られない問題であり、そのような教えを説くのは愚かな考えである。と考えたからです。

そしてこのような考えの根本となっているものが、真理として悟った縁起説であり因果の道理で、この哲学はカントや多くの哲学者や現代科学にも影響を与えていることは、周知の事と思います。



> 黒羽さん

あれ?カントと釈迦は違うって話じゃなかったっけ?考えてる顔
> けろりんさん
よく読んでください。
同じとは言っていませんよ?
影響を受けているだけで、至った結論などは全く違いますからね。
> 黒羽さん

ふう〜んボケーっとした顔。まぁ「魂がない」いうのは釈迦の「思想」ですね。もし哲学なら、魂があるかないかについては、釈迦なら「無記」でなけりゃならんでしょう。
> 切り込み隊長さん

信じるというか理屈抜きに、非日常時にはことに、ひしひしとリアルに感じるわけですね。「狂った人間だけが頭で考える」とユングは言いましたが、思考能力だけだと認識に欠落が生じるかもしれないです。
>けろりんさん
>ふう〜ん。まぁ「魂がない」いうのは釈迦の「思想」ですね。もし哲学なら、魂があるかないかについては、釈迦なら「無記」でなけりゃならんでしょう。

けろりんさんが釈迦の教えを『思想』と勘違いする原因は、おそらく、釈迦の教えを仏教のような宗教と混同している為か、よく知らない為だと思われますね。

簡単に説明をすると、魂があるかないかについて釈迦は、経験・観察できる世界すべては因果関係により変滅していて、恒常不変なるものはどこにも見つけることはできない。よって人間存在を構成しているもの(色・受・想・行・識)はすべては非我でありアートマン(魂)ではないと考えたのです。

そして経験・観察できない世界については、知ることのできない領域に関する見解は独断に過ぎず、知識ではない。(常見、断見)
よって「アートマン(魂)がある(ない)」「死後の世界もアートマン(魂)は存在する(ない)」などという主張は愚かである。(無記、無捨置)としたのです。

まずこの辺りの考えを整理して考えないと、けろりんさんのように誤解した解釈になったりするわけです。
釈迦の凄いところは、魂の信仰や輪廻転生の考えが風土として当たり前だった古代インドで、一人その考えに疑問を持ち、人生、世界、物事の根源のあり方について深く思推し、存在や原因や結果について追求していき、因果の道理として体系付けたことだと思います。
思想家や宗教家が当たり前の時代に、たった一人だけで哲学をしていたわけですね。


> 黒羽さん


釈迦の凄い所は『生まれてすぐに言葉を話せた』ことでしょ?(笑)

キリストなんか死んだのに生き返っちゃったんですよ。
あと・・・水をワインに変える事が出来たみたいです。

我が国の首相夫人だって金星に行った事があるんだから負けてませんけどね。


> GOD@84さん

釈迦の凄いところは自分の修行のためなら妻も子どもも捨てられる超自己中なところである。そんなところはヘッセは言うに及ばす、画家のポール・ゴーギャンにも悪い影響を及ぼしたかも。
> GOD@84さん
それは仏教で語られる作り話ですよ。

釈迦の教えや人物像と、その教えを後世の人が様々な宗教観とミックスしたり、独自の解釈をして作りあげた仏教とは別モノですからね。

そもそも釈迦は何かを信仰することはしなかったので、本来は宗教ではないのですよ。
> 黒羽さん

あぁ、それは確かに言えますね。中村元先生もそれを知っていた。
>けろりんさん
>釈迦の凄いところは自分の修行のためなら妻も子どもも捨てられる超自己中なところである。そんなところはヘッセは言うに及ばす、画家のポール・ゴーギャンにも悪い影響を及ぼしたかも。

なるほど。これは釈迦の苦行時代の失敗を何も生かしていない悪い例ですね。
そもそも、王子として生まれてきて、何不自由なく暮らしていた釈迦が、なぜ家族や地位やその生活を捨ててまで出家したのか?

当時のインドでは、古くから厳しい身分制度ができており、その身分を決めていたのが「バラモン」と呼ばれる人々だったのです。
バラモンは、政治など世の中のすべてを、神への祭りや占いで決め支配していました。
バラモンは輪廻転生が基本の考えであり「人間は、生まれたときから神によって身分が決められている。この身分は子孫代々、永遠に変わらない。身分の違うものは結婚はもちろん、いっしょに食事もしてはならない。」といった教えで、当時のインドでは絶対でした。
しかし、釈迦はその考え方に疑問を抱き、妻子や地位を捨てて出家をして苦行の道に入ったのです。
そして、苦行を重ね死を目前にした時に、そのような苦行では真理に至ることはできず、意味がないと悟ったのです。

それから瞑想により真理に至った釈迦は、妻子を弟子に迎え一緒に暮らしていますからね。
釈迦が苦行で真理に至ったと勘違いし、妻子を捨てたとりすることが執着を捨てることだと誤解する人は多いみたいですね。

ヘッセやポール・ゴーギャンが、釈迦の影響を受けたとするならば、その真理や教えをよく理解していないまま、苦行時代の何も得られなかった釈迦の真似事をしてみたのでしょうね。
> 黒羽さん

確かに、釈迦は、経験的人間知に基づいたサイコセラピストみたいな存在ではありましたね。方便とはロジャース式の来談者中心療法とも言える。宗教改革者の側面もあり、その点では宗教家とも言える。結局、マイナーでローカルな思想を奉じてそれに身を捧げる生き方なら、なんでも宗教と言える。
> けろりんさん
以前も言いましたが、釈迦は当時のカースト制度を愚かな教えと考え、世の理という哲学を説いただけで、何かを信仰する宗教を広めようとしたわけでも、宗教改革をしているつもりもなかったのだと思います。

思想と哲学と宗教は似ていますが、厳密に言えば区別できます。
けろりんさんが釈迦の教えが哲学であると考えることができないのは、おそらく、けろりんさんが釈迦の教えをよく理解できていないのと、私も断片的にしか説明ができていないからだと思います。

まぁ釈迦の教えが思想なのか哲学なのかは、このトピ的にはどうでもいいことなのですが、もしけろりんさんが個人的に興味があるのなら、なるべくパーリ教典に近いものを読むことをお勧めします。
> 黒羽さん

だから、パーリ教典に近いブッダの翻訳は、中村元ですよね。で、その彼のもっともラディカルな弟子が津田真一であった。津田真一の「反密教学」は、哲学ではなく宗教学であるが、ブッダの正しい思想に迫っているようである指でOK
>けろりんさん
インド哲学者である中村元の著書や訳書を本当に読んで理解しているならば、釈迦の教えを哲学ではなく思想や宗教だなどという発想は生まれないはずですからね。
てっきり名前くらいしか知らないのかと思いました。

では、本筋から少し外れてきているようですし、本当に読んでいるのなら釈迦の教えが哲学であることは理解できていると思うので、この話はこの辺で終わりにしましょう。
> けろりん氏

釈迦は偉大な思想家であって一概に宗教家であると見做すことは出来ないでしょう。釈迦は現実主義者であり、実利主義者です。寧ろ「信仰から離れよ、自分が信じるものを依り処とせよ、囚われてはならない」と言っていた訳で、、、w

原始仏典も釈迦の入滅後、弟子達によって纏められたものです。因みに原始仏典として全訳されているのは『南伝大蔵経』のみです。中村氏の著作の殆どには長老文献からの注釈が散見され、主観的立場からの改訳が為されているという批判もあります。それを宗教と見做すのであれば宗教的立場から仏教全体を俯瞰して観ていたということでしょう。

原始仏教の研究はヨーロッパの方が進んでいると思います。実際、ゲシュタルト心理学やトランスパーソナル心理学など実践心理学としては有用価値のあるものだと思います。

宗教として捉えるか哲学として捉えるかは人それぞれだとは思いますが、インド哲学の一形態として仏教があるというのも事実です。

少なくとも釈迦の打ち立てた理論は、現象学や存在論として観ても非常に洗練されたものだと思います。
仏教は科学に近い!
とアルボムッレ・スマナサーラ氏は語ってます。
私もそう思います。

魂があるという証拠は無いけれど、自分の感覚は否定できないので
魂はあるとしか言いようがないのが自分の現実です。

不完全で途上にある今の科学が魂の存在を証明できないのは当たり前です。
しかしいつか証明できる日も来るのかもしれません。

それにしても不完全で途上にある今の科学を信じるというのも、宗教を信じるというのも今の自分には何か頼りない感じがします。
そもそも科学って魂を否定しているのだろうか?

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