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備後の歴史を歩くコミュの備後の辻堂を歩く

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歩いててあるいは走って見つけた辻堂や家の近所にある辻堂など
辻堂の写真と所在場所を募集してます!!
写真がなくても場所がわかれば情報をお寄せくださいませ。
地図リンクしていただければ感謝感激☆
辻堂マップ作成の大いなる野望(笑)のために、 なにとぞご協力を☆

現在探索されている辻堂リストはこちらにあります
「備後の辻堂リスト」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17992441&comm_id=1818324

その他、辻堂についての質問や、意見、おしゃべりなども何でも……。

コメント(185)

おぉ!まさしく辻堂ですね!!
新市町史には相方の辻堂はなぜかのってなかったので、助かります〜〜O(≧▽≦)O
さっそくデータに移行させていただきますぴかぴか(新しい)
お、未踏の辻堂でしたか^^
もう一個は既出だったようですねぇ
ついでにこれはどうでしょうか?

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.18.29.362N34.32.8.834&ZM=12
芦田の辻堂19の7宇目ではないでしょうか?
荒神社の所ですよね?
既出ですか〜残念
どこか山奥で探してみますか(笑)
神辺町道上2030番地 2425番地付近に辻堂があります。
写真がなくてごめんなさい。
あと、余計なことですが、道上の深安団地の中の墓地に六地蔵があって平安時代からあるといわれています。
西又さん、かげとらさん>

芦田のは、西又さん自ら撮って来られているので、まず間違いないかと…(^O^)
でも、神辺あたりはまだまだ見つかってないのがあると思いますよー。

たつーんさん>

情報ありがとうございまーす。
2030番地はJAの近くのですかね?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=1818324&id=20114821
↑神辺町の16宇目の「中谷御堂」じゃないでしょうか
2425番地付近のは未発見だと思われます。
JA近くの辻堂で間違いないとおもいます。
質問なんですが、辻堂には「中谷御堂」のように名前がついてるのでしょうか?
たつーんさん>

堂に名前が掲げられている場合もあるし、
通称として地域の人たちにそう呼ばれているものもあります。
調査の折りに、堂に名前がついてないとわかりにくいので、
昭和59年の調査では、すべての堂に名前がつけられています。
多くは地名+祭祀などの名前です。
超脱線しますが

「辻堂」でググってみました

備後名詞なんですね「辻堂」って
意味不明に感動した
A☆KI さん>
なるほど、よくわかりました。ありがとうございます。
テラさん>

ええっexclamation & question
「辻堂」は一般名詞じゃないんですかexclamation & question
どっちかというと「四ツ堂」の方が備後固有の名前のような気が……

たつーんさん>

わかることならなんでも!、わからないことも調べて!!
辻堂のことならなんでも聞いてやってくださぁーい (^O^)
当地の地蔵堂に説明看板がありましたのでアップします。

最初の方を書き出してみると、

とりわけ旧備後国〜備中国(広島県東部〜岡山県西部)
では、あちこちで四本柱・一間四方・四方吹き放しで、
床張りという簡単な構造のお堂を見ることができます。
これを辻堂・四つ堂・休み堂などと言いますが、棚に
地蔵・観音・薬師などがまつられ、地蔵堂・観音堂などと
具体的に呼ばれていることがあります。

と、定義?されています。
辻(交差点)にあるから辻堂。
四本柱だから四ッ堂。
誰もが自由に休めるから休み堂。

六本柱のは六本堂といいます。
熊野町のは地名になっていますね。

フジグラン近く(神辺道上)の辻堂が新しくなってましたー☆

182からグランの信号を東に曲がって1本目を入ったトコです。

行ってみてください♪
確認ですが… (x_x)
十九軒屋の辻堂ですよね?
東に入って1本目を左に入ってすぐの
あまのさんが見つけてきたやつですよね?
あ、ソレです(汗)

見落としてましたm(_ _)m
新しくなった堂も調査しますので
情報はありがたいですわーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
三浦正幸著「鞆の浦を歩く」では鞆安国寺前の地蔵堂が広島県内最古の辻堂と紹介されています。

庄原市総領町稲草
備後西国観音霊場第十三番札所
曹洞宗 龍興寺

一本堂

地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.7844996772652&lon=133.05113014037596&z=15&mode=map&pointer=off&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.78548657407955&hlon=133.05081363971237&layout=&ei=utf-8&p=
先日、神辺山中で見つけたのでアップしておきます
見た感じ新しそうでした

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.24.46.265N34.34.57.947&ZM=9
藤尾山中で発見しました

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.16.37.874N34.39.7.479&ZM=10
あまのさん、かげとらさん、
情報ありがとうございます!!
全然気付いてなかったげっそり
さっそく、探訪対象に加えますね!
藤尾のは蜂の巣がありそうな雰囲気でした
山奥ですし御注意を・・・
かげとらさん>
ありがとうございます。
もう少し寒くなってから行ってみますね。
(ハチに関係あるのかな?)

ここの道って、たぶん、
昔、神石から一宮さんへ通った道だと思うのですが
備中国浅口郡浜中村の代官の娘として生まれたナカの自伝

父・浜中村代官 仁科存本(ありもと)と母・仁科(佐藤)千代との間に生まれた仁科仲(なか・(天保11年(1840)1月8日生)

 弘化元年(1844)五月、41才になった母千代は、男の児達の世話を女中に託し、4才になった私を乳母のタケの手に引かせ、浜中村から笠岡街道を通って、備後国深津郡市村の本庄屋佐藤久兵衛の屋敷に里帰り致しました。笠岡までの一里は当家の駕篭で参りました。笠岡の関所では、父の用意した道中手形を見せると、御奉行は丁重に私共を通されました。途中、笠岡村庄屋の胡屋生長小十郎の屋敷に立ち寄りました。内儀の於幸様は、母千代と懇意でございますので、話が長くなりそうでした。笠岡から舟に乗り、潮の心地よい風に吹かれながら、緑の松の島々をぬって進みました。
 
 用之江村から大門、引野という村を過ぎ、手城という浜辺の村で舟を下りました。手城から市村まで1里と申し、途中、千間土手という堤に腰を下ろしました。供の女中に運ばせた私の好きな海苔巻きお結び、卵焼、蒲鉾、焼き味噌のお弁当を食べました。今年取れたばかりの新しい竹の皮についた米粒も残さず食べました。母は、今私達が座っている千間土手は、正保五年(1647)、福山藩主の水野日向守様が家老の神谷治部に命じて造られたもので、それまでの市村沖は広い海であったと言って、私共を驚かせました。市村は、今を去る二百年前まで、穴の海と申す海辺に市の立つ村であったそうで、春日池も海の一部であったと申します。市村から、神辺、府中、神石、東条へ街道が通じ、神辺には備後国の国分寺、府中には備後の国府が置かれて居りました。市村の海蔵寺と府中の国府寺は同じ建物の寺であったと伺いました。海が田圃になった市村沖を、市村沼田、引野沼田、深津沼田と申し、それぞれ百町歩、千石、合計3千石もある大きな平野で、市村沼田の多くは、市村本庄屋佐藤久兵衛と吉田村庄屋をしている前田屋土屋半兵衛の田地だそうでございます。

 市村本庄屋佐藤の祖は、丁畠佐藤惣右衛門と申し、春日池築造(寛永二十年(1643))の頃、市村庄屋を勤めたと申します。佐藤と申す姓は藤原氏ゆかりの名にて、かつては市村の一部であった吉田村の春日庄辺りは、藤原氏の氏神春日大社の荘園であったと申します。

 その時、母は遠くを指さして、あの大きな山が蔵王山ですよ、と申しました。その山の麓に母の実家があると聞いていた私はその山をじっと見詰めて居りました。今度は西の方を指さして、伊勢守様の御城ですよ、と申しました。西のかなたに白い御城が小さく見えました。タケが私を負んぶしたがるのを断って、私は元気に歩きました。引野という村から、市村沼田に来ると、晴れ着を着た武家の私共を見て、田圃で草取りしていた百姓が畦道まで出て来て、被り物を取り、お辞儀をして行きました。田圃は黄色い麦の波で、空には雲雀が鳴き、小川にはメダカが群れて居りました。刈り取りの終わった麦畑では、百姓が水車を踏んで水を引いておりました。小川沿いに、常夜燈と四ツ堂のある高崎という所を過ぎ、鍋蓋、石道という道を半里程歩きました。

 仁伍というところに来ると、下男と一緒に、腰を低くした一人の老人がにこにこして私共を待って居りました。それは母の父、私に雛人形を送って呉れた、祖父の久兵衛定治でございました。88才と申しました。



と続くのである。
行程を辿ると,備中国浅口郡浜中村を出発したナカは笠岡から舟で「用之江村から大門、引野という村を過ぎ、手城という浜辺の村で舟を下りました」とある。さらに,千間土手で食事休憩の後「引野という村から、市村沼田に来ると・・・小川沿いに、常夜燈と四ツ堂のある高崎という所を過ぎ、鍋蓋、石道という道を半里程歩きました」そして「仁伍というところに来ると・・・浜中の家と同じく白壁の土蔵のある大きな屋敷・・・」ここが市村庄屋・佐藤保兵衛の屋敷であった。

 市村沼田の高崎の小川沿いに「常夜燈と四ツ堂」があった。その先は「鍋蓋」「石道という道」だという。

さて,この四ッ堂は今のどこら辺りでしょうか。そしてまだあるのでしょうか。


 「鍋蓋」は国道182号沿いで山陽本線の北側付近です。その南方で小川沿いの高崎とは・・・?












住宅地図を見ると引野1丁目に「鍋蓋公園」があり,その北側,182号「西鍋蓋」交差点に「高崎」というバス停がありました。「鍋蓋公園」は川の合流地点でもあり,この辺りかも・・・。
高崎の常夜灯は残っているようです。
大きな常夜灯で、右面に「金比羅権現」反対面には「聡敏明神」。
郡内から寄付を募って作ったもので、尾道の石工が文化13年(1816)に作ったものだそうです。
四ツ堂はないみたいですね。

場所はたぶんこのあたり↓
http://map.infoseek.co.jp/?flag=link&addr=%E5%A0%B4%E6%89%80%E3%82%92%E5%85%A5%E5%8A%9B&lat=34.49827429108081&lng=133.4014772218704&zoom=18&tabnum=1&inp=0&start=&end=&mode=DRIVING&highway=false&toll=false&type=roadmap&marker=0

このナカの自伝って、古文書?それとも創作??
ある程度、下地となる古文書はあるようですが…
どうなんだろう。
原本を探しているのですが見つかりません。

http://www.geocities.jp/insiki_inhe2/

ここに第5章まで記載があります。



地図にポイントがついていません。どの辺りでしょうか。
http://www.bes.ne.jp/313_e/konpira/12/12.html#04

この中の「12-04市村鍋蓋」ですね。

約三十年前、区画整理のため移転されましたが、以前は川を隔てて約五十米ほど西側の、昔の広い川沿いに立っていました。蔵王常夜燈と呼ばれています。

だそうです。


ちょうど中央あたり、赤色の+がある箇所です。
(動かすと移動してしまいますあせあせ(飛び散る汗)
ちょっと正確な場所がわからないのですが。
駅家山中(石崎城跡)で見つけました
山の上にあったのですが、辻堂でしょうか?

場所
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.19.17.285N34.33.1.758&ZM=10
めっちゃ遅レスです〜〜〜。
なんかレスしてたつもりでおりました(滝汗)
これは、辻堂です。
どこからか移築されたのじゃないかなあと思います。
道路拡張などで、寺の境内などの公共地へ移築されるのはよくある例なので…。
ただ、ここの場合は城跡の中に往還が通っていたのかも…。
目はつけているのですが、なかなか行けてません....
柱がカーブしているのは初めて見ました。

広島市河内町小田
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E132.51.56.953N34.29.58.801&ZM=10
左:以前 右:現在

お堂自体ではありませんが、うしろの閉鎖した工場が取り壊されました。
結構広い敷地なんですが、今後どうなるか気になります。
>>[183]

道路が拡幅されれば移転ですかね。府中市ですか?
>あまのさん
市内高木町です。後ろの工場は随分前から閉まっていたのですが、時折倉庫か何かに使われていたように見えました。確かに狭い道路ですが、今後のことは分かりません。

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