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競艇の昔話をしませんか?コミュの競艇百物語 第二十九夜

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彦坂郁雄・常松拓支
艇王VSインの鬼〜SG史上にそびえる対決絵巻〜

スターの競演、笹川賞。その錚々たる菜の並ぶ優勝戦の年譜に二人の大スターが入れ替わる形で優勝と準優勝を占めた二年間がある。
先の年を制したのはインの鬼・常松拓支。そして翌年雪辱を果たしたのは時の艇王・彦坂郁雄。
この笹川賞史、いや艇史に残る両雄の対決絵巻を今ここに振り返ってみよう。


 ファンの夢を乗せたSG競走。笹川賞はこう謳われて来た。
 スターの競演。キャッチフレーズが躍ったものだ。
始まりは、野中和夫。競艇の記録箱的競艇生活は、第一回大会を基点とする。5コースいっきに捲ってSG初優勝、ここからSG三連覇を果たした事は周知の通り。新たな盟主の出現だった。
 だが、旧来の勢力も黙っていない。第二回大会の覇権は北原友次の手に渡った。血気に逸る田原淳行(強気一本!恐ろしく濃いキャラクターの人気選手だった)を2マークで捕らえ、以後の突進もスイスイ交わした。当時では競艇界最多となるSG5Vを記録した。
 第三回は、またしても野中。改めて語るまでもない。無敵の昭和51年夏、そこに燦然と輝く優勝だ。2年前と同じ5コースでも、今度は差して、差して、差して、先行する松尾泰宏を2周1マークで抜きさった。エンジンが唸りをあげていた。それが結局半年続く事になる。
 しかし翌年、振り子の針は世代戻りする。第4回を制したのは加藤峻二。競艇界を代表するテクニシャンが、笹川賞の歴史に名を刻んだ。インの貴田宏一「逃げた」と思った瞬間、外側を黒い影が駆け抜けた。オミゴト!と掛け声がかかりそうな、名人芸の勝利だった。
 野中を取り巻いてKKコンビ(北原と加藤の仲良し同期生はこう呼ばれた)、笹川賞の歴史は申し分のない名前で作られてきた。ただし、スターで埋められるべきパズルは、大きな一片を残していた。
当時の競艇界におけるビッグネーム『彦坂郁雄』が抜けていた。
艇王がやってきたのは第5回大会である。

 第一回大会の優勝戦で、野中の4着に敗れて以来、SG競走では不遇を囲っていた彦坂だった。こちらのビッグタイトルが「3」で留まっている間に、野中は北原と並ぶ「5」まで実績を伸ばしていた。
数字上は第一人者の地位は入れ替わっていた。それでも彦坂に対するファンの支持は絶大だった。改めてそれを知らしてた優勝になった。

 彦坂の調子も上々だったが、予選の内容は野中が圧倒していた。
緒戦こそ岩口昭三に差されて2着に惨敗も、2戦目以降はまくりの連発で1着を並べた。準パーフェクトペースで準優勝戦に乗ってきたのだ。
 先に優出を決めたのは彦坂の方だ。2つ目の準優を一気に捲った。
「無理なターンをしても残れるし、今が最高の状態だね」久々に艇王の声が弾んだ。野中との頂上決戦に、周りの期待もイヤが上にも盛り上がったのだが・・・・
野中は準優でFをしてしまう。インの野口徳三が半艇身と大きく踏み越し、その2コースにいたのも不運と言うべきか…こちらは僅かな勇み足たった。これで優勝戦の任期は彦坂が一身に集める事になった

〔1〕大楽共也(山口・26歳)
〔2〕長嶺 豊(大阪・34歳)
〔3〕彦坂郁雄(千葉・37歳)
〔4〕中村男也(神奈川・35歳)
〔5〕脇 辰雄(兵庫・37歳)
〔6〕立山一馬(大阪・30歳)
 
今の競艇ファンには見慣れない名前が並んでいると思う。
現役に留まっているのは二人だけ、彦坂、中村、大楽は持ちペラ制以前に競艇界を去っている。時の隔たりを感じずにはいられない。
 ともかく春の陽射の中、ベタ凪ぎの水面に6艇は飛び出した。敢然と回り込んでいったのは長嶺だ。2度目のSG優勝戦ながら、ここは住之江である。「地元の意地を見せたらんかい」今も昔も競艇ファンなら誰もが知っている『ミネやん』がそこにいた。これは戦前「深インのほうがスタートがあう」と話していた中村も、弾かれて4コースに出されたほどだった。そして2コースにもう一人の地元=立山が入り、彦坂はイン争いなどどこ吹く風で、ゆっくり3コースに構えていた。
「2艇くらいなら内に入れたっていいと思った。」
戦後の物言いから、レースを精神的に制圧していた事が良く分かる。実際、勝負はスリットで決着した。
彦坂がコンマ26の全速スタートだったのに対し、他は軒並みコンマ37か38、抵抗する術はすでになかった。捲った後を立山と大楽が2着争いしていたが(立山が競り勝つ)、彦坂の司会に及ぶものではなかった。

 改めてこの選手の人気を思い知らされたのは、ゴールの瞬間からだった。
マンモススタンドが『彦坂コール』で揺れだした。あちらこちらから勝者を称える歓声が巻き起こった。水上ステージでの表彰式の声は掻き消され、救助艇に乗ってのパレードはファンの呼びかけに応えているうちに3周も水面を回っていた。

 パズルの空白が埋められた。ビッグレースとしての笹川賞は、これで据わりのいいものになった。以後も競走がスターを育み、スターが競走を支えて、笹川賞の歴史は作られてきた。その前半期において、中心に居たのは彦坂と野中だ。しかし、野中は一時競艇界を去り、第一線から離れる時期があった。ここに新たな役者が舞台に上がる、同じ大阪支部、の中とも因縁がある。そして彦坂と笹川賞史にそびえるドラマを作る・・・・。
インの鬼・常松拓支が登場する。

「常松さんを捲りたくて、捲りに行っては何度も何度も飛ばされてそうして俺は強くなってきた。」
長嶺豊の述懐である。通常56キロの体重は記念選手としては当時も今も大柄である。それをむしろ逆利用して、イン選手としての地位を確立した異能の強豪でもあった。
九州男児である。鹿児島健児と書いたほうがいいか。インで握って回るスタイルは現在にも通じる。男臭い風貌の人だったが、物腰は実に柔和、それが水面に出ると一変した。熱い血が露になった。

22歳の時に指宿から上阪し、タクシー運転手のほか様々な職業を経験した後、競艇選手として成功した。体重があったこともあり、決して早い出世ではなかったが、戦法をイン一本に絞る事により、レースへの迷いが消えた。類稀なイン根性とスタート力で、記念選手の相場を築いていった。だが、初めてのSG優勝戦はインではなかった。

1976年の3月、住之江。第11回総理大臣杯競走の優勝戦は野中和夫のパーフェクトなるかで盛り上がっていた。
〔1〕井上利明(大阪・34歳)
〔2〕北原友次(岡山・35歳)
〔3〕常松拓支(大阪・37歳)
〔4〕渡辺義則(奈良・27歳)
〔5〕野中和夫(大阪・32歳)
〔6〕八尾一豊(広島・42歳)
2年前にSG3連覇を成し遂げた野中が、ふたたび快進撃を始めようとしていた。
このシリーズはまさに絶好調、予選5連勝のうち3勝が逃げのものと、イン戦にも進境を見せていた。とにかくターン回りが桁違い、「差した」と思った艇を瞬時に引き離すアシだった。
準優も2コース一気に捲って圧勝、石原洋の全国地区対抗依頼、9年ぶりのSG完全制覇が待ったなしになった。
一方、常松はいたってリラックスしていた。林通の3着に敗れた前年の全日本選手権とは違ってエンジン的に力が入るものではなかったからだ。ただし、予選終盤にイン逃げ連勝、準優は2コースと巧差しと、レース勘は日毎に冴えてきた。
だが、そんな選手模様を超えた事態が出現したのだ。競艇史上に残るフライングレースになったのだ。

コース取りはインから北原・野中・渡辺・常松・矢尾・井上。予想とは少し違ったものになった。進入駆け引きの中でまず井上、ついで常松が外へ逃げたからだ。常松は当初2コースに陣取っていたが、そのままでは100より流れ込んでいただろう。結果的には正解だった。
「前の4艇はFだと思った」
スリットで取り残された渡辺がレース後に語ったほどだ。きわめて早いスタートになった。スリットを見ると大外の井上は、半艇身以上踏み越している。野中はコンマ02くらい、その上を井上が捲っていった。
野中は行き場を失い、北原も曳き波に入れられた。常松、矢尾と差した。
 2マーク、そのまま旋回すれば八尾が内有利に優勝を決めたかも知れない。そこに野中の突進がきた。パーフェクト優勝がかかっていたのだ。仕方ないレースの流れだった。常松も一瞬バックを踏み、井上が浮上したが、ホームに帰って来たところで2艇にFコール。常松が先頭に立ったのだ。
「野中に退いてくれと合図した。あのまま突っ込まれたらどうなっていたか分からない」
井上は戦線を離脱したが、野中は気がついていなかった。うちに迫って来た同艇に冷静な対処、2周1マークを回って、常松は優勝を確信した。
 優勝戦の売上げ3億3千万円のうち2億7千万円が返還された。大アクシデントレースはこうして決着した。

 競艇界を代表するイン選手が、ついに実績に見合うタイトルを獲得した。もともと遅咲きの選手である。ここからが真の全盛期だった。40代前半に最も強さを発揮する。
彦坂との対決絵巻が、競艇ファンを熱くした。

 常松と彦坂の2年にわたっての笹川賞を舞台にしたマッチレースが82年・83年(昭和57年・58年)に繰り広げられた事に、時代の要請を感じる。彦坂の矢面に立つべき野中に、80年夏から81年暮れまで登録消除期間があり、復帰してからもFを多発して調子を崩していたからだ。

 彦坂のこの時期におけるハイライトは82年の総理大臣杯、下関で達成したパーフェクト優勝。第9回笹川賞には、SG連覇を狙って参戦してきた。
ファン投票総数4万6805票のうち2万2570票を集めて1位選出。実に48%を占める支持を受けていた。
常松は2位選出だった。こちらは1万8752票、3位の北原を5千票以上引き離していた。2年前の笹川賞で112111で優出しながら、ここ一番で6着と大敗した雪辱が期待されていた。
ここを勝ったのは中道善博、若きテクニシャンがタイトル連覇をかざっていた。前年覇者の古豪・貴田宏一を加えて後から見ても笹川賞覇者の系譜は、益々充実したものになってきた。
彦坂がSG完全制覇なら常松も地の利の無い芦屋周年を前年に続き連覇、真向対決に不足の無い調子を誇っていた。実際、シリーズは予想通りの流れになっていた。
北方正孝・今村豊という『新時代の旗手』も力の開きに引き下がるしかなった。

●第9回笹川賞競走(住之江)
初日の『ファン選抜戦』こそ、加藤峻二の大捲りが決まって、常松の2着、彦坂の3着と敗れたものの、まず彦坂、そして常松と本格化。やはり二人のシリーズになった。
彦坂は2日目にイン逃げ連発。節一パワーを見せつけた。3日目には今村が作ったばかりのコースレコード(6コース一気。これが記念すべきSG競走初勝利である。準優には乗れなかったものの、最終日連勝と合計3勝を揚げて、非凡な才能を証明している)1分49秒1をすぐさまコンマ01更新している。
このタイムは翌日、「彦さんに追いかけられて必死に走った」石黒広行にコンマ01縮められたが、彦坂が優勝戦までに敗れたのは、緒戦とこの2着だけだった。
 
 常松は緒戦・2戦目とインを取れずに2着3着。三戦目からインで3連勝して準優に乗ってきた。
その準優は、インで5コース好ダッシュの黒明良光を飛ばしたところを、大外で展開街の淺香登に差されてしまったが、これに続いた岡本義則と阿部邦男は2マークまでまとめて抜き去った。「まだ伸び型」と言っても、強力に仕上がっていることは疑いようが無かった。

それでも節一は彦坂。続く準優で見せたアシが凄かった。常松同様インで捲り(紫垣順一)を飛ばしたところを、福永達夫に巧く差されたものの、2マークではもう捕まえていた。
「3艇身も前におったのに」ぬかれた本人の福永が、悔しさを通り越して呆れるほどのパワーだった。
彦坂は2戦目、常松は3戦目以降、インを譲ることなく、優勝戦に進出してきた。前者6号艇に対して後者は2号艇、当時のピット位置では枠の利は彦坂にあった。その中心は動かなかった。

【優勝戦】
 だが、本番でインを奪ったのは常松だった。彦坂を安岐真人が抑えにかかり、それを更に押さえ込んだのだ。
「伸び型でピット離れも大したことない。インにはこだわらん」の優出インタビューを覆したのは、スタート練習で「試しにイン」を取ったところ、彦坂に負けないアシを感じたから。こうなったら迷いはない、どこまで入ってもインである。優勝戦は結局90メートルの起こしになった。確かに深い、しかし常松の感覚ではスローもしっかり効いているし、手慣れたもののスタートだった。
 常松はトップスタートで逃げた。彦坂も伸びたが、内に安岐を入れていた分1マークにスムーズさを欠いた。ツケマイは流れてしまった。最大の強敵は圏外に去った。常松の当面の相手は、差してきた石黒になった。この人も軽量と整備力でエンジンを良く出した。常松は必死になってボートをしゃくり、石黒の行く手を阻んだ。2マーク先マイで勝利を確定、以後は独走態勢に入った。
 2分25秒6の4周タイムは、それまでの野中和夫の記録を1秒も更新するレコードだった。常松の快速を表している。一方の彦坂も石黒を抜いて2着をキープした。
「52キロまで減量したのは初めて。前の優勝より格段に嬉しい」
 Fのときの総理大臣杯とは違って、今度は堂々のイン逃げ。自分のレースでの優勝に、常松の声は躍った。

● 第10回笹川賞競走(住之江)
 一年経っても勢力図に変わりはなかった。彦坂は前年の笹川賞の後、モーターボート記念を野中・淺香と死闘の末に制覇、82年の最優秀選手に選ばれた。そしてこの年はG?V3を記録して、優先出場で住之江に乗り込んできた。
 常松は笹川賞の優勝の後、住之江周年も制している。正月レースでもオール2連対、住之江における強さは益々拍車をかけ、ついでに芦屋周年3連覇まで達成していた。こちらも前年覇者として優先出場である。
 今度は、常松の方が予選の内容で彦坂を上回っていた。前検で全バラするほど出てなかったエンジンが、緒戦6着の後の2日目から本格化、そこから優勝戦に至るまでは 112111 の成績だった。準優もインで他を寄せつけなかった。
 彦坂は連勝発進の後、どうしたものか勝ちあぐねていた。コース取りで割り込まれた選手に血相を変えるなど、少々苛立ってもいた。準優もエンジン劣勢の中道にインを取られ、順走するのみに終わっていた。
 常松と彦坂。2年連続の対決は、常松有利が大方の見方だった。

【優勝戦】
 勝負事は往々にして、予想とは逆の結果に転ぶ。2人の対決が典型的にそうだった。劣勢と見られたほうに凱歌が上がったのである。
 スタート練習で、また彦坂が顔色を変えた。1マークで常松に突っかけられるカタチになったのだ。「危ないじゃないか」声を荒げた。戦いは自ずとヒートアップした。
 それでも彦坂は百戦錬磨だった。本番では、常松と中道のイン争いを冷静に後ろで見ていた。中道がたまらず3コースに引いたため、楽な2コースが手に入った。そこから01のタッチスタート、常松も04と負けない速さだったものの。ダッシュ差は歴然としていた。でも力まかせに捲りには行かなかった。握り返してくる常松の走りを熟知していたからだ。大外から津田富士男がFスタートで絞ってきたが、これにはまったく取り合わなかった。「敵は常松一人」と決めていた。回して差した。ミスのないハンドル、レース運びだった。
 常松も2着は譲らなかった。彦坂には差されたが、すばやく立て直して追走態勢に入った。競艇界の大立者2人が、2年続けてワンツーを決めた。SG競争史に残る対決絵巻は、こうして笹川賞を彩ったのである。

 レースそのものを見れば、今のSG競走の方が、当時と比べ物にならないほど迫力に満ちているはずだ。競艇は確かに進化してきた。しかし今のSG競走には、彦坂さんや常松さんが体現した息苦しいような駆け引きはない。この人たちの他にも、当時は海千山千の個性派連中が跋扈していた。
右肩上がりの時代、そこに渦巻いた猥雑で逞しいエネルギーが懐かしい。


・・・・・おしまい


マクール「競艇百物語」 文・鷲田義継 より

コメント(1)

「笹川賞応援月間」につき、またまた競艇百物語です。

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