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人間論および人間学コミュの「商品としての人間」論の可能性

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『人間論の可能性』北樹出版1983年3月5日発行より
もう23年前の作品になってしまいましたが、愛着があるので紹介します。

74頁〜136頁〈経済哲学からのアプローチ〉 保井温(やすいゆたか)著

本書は三重短期大学の講師をしていたときの共著。共著者は瀬島順一郎・鷲田小彌太・山田全紀の各氏


第二章  「商品としての人間」論の可能性

          目次

第一節 人間の物化・商品化

第二節 商品としての人間の本質=価値

第三節 商品の存在構造

第四節 価値と価値意識

第五節 商品性の危機とその超克

コメント(41)

ーーーーーー現代ヒューマニズムの物化・商品化批判ーーーーーー

 このような情況を現代ヒューマニズムは、物化、商品化として捉え、非難します。諸個人の主体性を復権し、人間を品物としてでなく、自己の意志に基づいて行動する主体として、自由を取り戻そうと叫んでいます。

 機械や組織はあくまで人間にとって手段にすぎない筈で、人間こそが目的であり、人間が逆に機械の補助や、組織の道具におとしめられているのは、何としても不当だと主張しています。

 人間が考える主体であり、意志や感情を持つ動物であること、したがってその自由が最大限尊重されるべきことはいうまでもありません。

 諸個人が自己の意志に反して働かされたり、諸個人の意志が実現しにくい体制はできる限り変革されるべきでしょう。その意味では現代ヒューマニズムの主張の意とするところを汲みとり、その実現に積極的に取り組むべきです。

 ただし、現代ヒューマニズムの物事に対する捉え方、考え方に対しては再検討の要があります。現代ヒューマニズムは、物化に反対します。人間は物ではない、だから物とLて取り扱われるのはけしからんと強調します。

 その場合、物でないとはどういう意味でしょう。人間は物でないことはありません。人間の身体は立派に物であります。いや、人間は他の物とは違って、思惟し、意志や感情をもっている、だから他の物とは違うのだといいたいのでしょう。他の物と違う物であっても、物には違いありません。

 それは揚げ足とりだ、この場合の物は、人間のように、考えたり、悩んだり、意志や感情をもたない物を指しているのだ、そのような物と同様に、人間の特性を無視して扱われることが物化なのだ、こうヒューマニストは反論します。
−−−−−−−物的関係としての経済関係−−−−−−−−−

□ところで、人間は労働し、様々な物を創造します。創造した物の中に自己を表現します。人びとは必要に応じて互いに創造した物を取り換え、互いの生活を成り立たせます。これは分業と呼ぼれています。

□そこでは、経済的には、諸個人は彼らが創造した生産物によって評価され、社会的な存在価値を与えられます。経済的見地からは、生産物以外の彼らの身体的特性や、人格的特性は評価されません。したがって、人びとは専ら生産物によって自己を代表させていといえるでしょう。

□つまり、諸個人は生産物として評価されます。これは物化ではないでしょうか。マルクスは『資本論』「第一章 商品、第四節 商品の物神的性格とその秘密」で、人と人の関係が、物と物の関係として現われる物象化を指摘しています。

□人と人の関係は、経済関係としては、彼らが作り出す物と物の関係として現われる他ありません。物と物の関係として現われても、それが人と人の関係でなくなるわげではありません。

□このような物化、物象化においては、人はその作り出した物として扱われます。商品社会では、生産物は商品ですから、人は商品として扱われます。ここに人間の商品化の原点があります。

□ヒューマニストは、人間は人間として扱われるべきであり、物や商品として扱われるべきではないといいます。でも、人間は自分たちが作り出した物や商品として扱われなけれぱ、どのようにして経済関係を取り結べぱよいのでしょう。
-----------------共同社会と物的関係--------------------

□コミュニストたちは、共同社会を構想し、共同生産、共同消費の社会機構をつくれば、人間関係は生産、消費の共同関係になるから、物と物の関係として自分たちの関係を表現する必要はなくなるだろうといいます。

□しかし、共同社会も、共同でつくり出す物と物の関係によって労働を配分し、生産物を分配する社会です。諸個人の必要や欲求は、米何キログラム、魚何匹、机何台等として表現される他ないので結局、人間関係はそれに対応する労働関係になります。

□農民は自分を米いくら、漁師は魚いくら、指物師は机いくらとして自分を表現します。社会関係がそれらの物と物の関係になるのは超歴史的な、一般的な関係です。

□人間は自分を物にし、物となって社会関係を取り結ぶのであり、物にならず、物として評価されなけれぱ、物の数に入れられないので、一人前の社会人とLて認められません。その意味では物化こそ、人間にとって人間であるために最重要な人間的な事だといえるのです。

-------------良い意味の物化と悪い意味の物化-------------

□これに対して、ヒューマニストは、農民を米としか考えないのはけしからんと反発するか、農民は米をつくっても、米になるのではない。人間としてはあくまで人間であって、その人間性が重要である、米をつくる物化がいけないのではなく、人間性を否定される物化がいけないのだと二通りの反論を用意するでしょう。

□もちろん、米作農民は米しか作らないにしても、その他の食糧品や住居、衣料が必要ですから、彼らの作り出した米は、他の品物と取り換えられて彼らの下には生活物資が必要ただげ入ってこなけれぽなりません。

□その意味では、米作農民は米だけでなく、他の必要な物資の全体として自己を主張します。いかなる社会体制もこれに応えうるものでなけれぱなりません。いや、人間は彼が必要とする物資の総計ではなく、彼の主体性、彼の思考、意志、感情なのだといわれるしよう。

□まことにその通りですが、ここではその議論は止めましょう。少なくとも人間は自己をそのような物資として主張し、表現しなければならないこと、その意味で人間は自己を物化しなければならないことはたしかです。

□そこで、そのような物化ならいいが、人間性を否定する物化、つまり、人間の意志や感情を無視して、物として扱う物化がいけないという議論を吟味しましょう。この議論に、無論、異議があろう筈はありません。しかし、往々にLて、両方の物化は混同されるきらいがあります。

□なぜなら、人と人の関係が物と物の関係となってしまうと、もう、人間の意志や感情は無視され、物としてしかみられていないからです。いい換えれぱ、人間の意志や感情というものも結局、彼らが作り出した物としてしか自己を表現することができないということです。

□我々は、農民の労苦を偲びながら、感謝の気持をこめて「いただきます」といってごはんを食べる時、農民の意志や感情を汲みとろうとしますが、往々にして、無頓着に食べてしまい勝ちです。

□その場合、米だけがあって農民はいません。彼らの存在、意志や感情は無視されます。このように良い意味の物化は、悪い意味の物化に転化し易いのです。
------------人間の物化=物の人間化--------------------

□人間の物化の情況を暴露し、物でない人間が物にされ、物として扱われていることを非難する現代ヒューマニズムの発想は、いきおい物化されていることを指摘すれば、それが批判として成立しているかに憶い込む弱点をもっています。

□物化には当然良いところも悪いところもあるのです。物化そのものがいけないとなると、人間は何もできなくなります。一般に人間の行動では、常に善悪、良し悪しは表裏一体であって、人間存在自体が善でもあれば悪でもあるのです。

□物化は人間が物であることの証しです。人間は身体としてまず物であり、それゆえ、物によって措定され、物の中に自己を措定し、相互に前提し合って存在しています。

□人間は身体としてだけ物であることはできず、物の中に自己を表現し、物を自己の現存としなければなりません。あらゆる生産物は人間の現存であり、人間化した自然です。

□物は今や人間となっており、人間は物として定在しているのです。つまり、人間の物化は、同時に物の人間化に他なりません。

□組織や機械は、したがって人間の単なる手段、道具ではなく、人間自身の現存なのです。そして諸個人は、組織や機械を自己の目的のための手段、道具としてしか把握できないとき、自分たちが組織や機械の手段、道具にされている事を一方的に不当と感じるのです。

□組織や機械を自己の物化、身体的自己からの脱皮、拡張された自己として捉え返すとき、つまり、自己を組織や機械に合体させることに成功したとき、はじめて、組織や機械の中で自己が発揮され、組織や機械が自己のために存在するものであることができるのです。

□はじめから組織や機械が自己と馴染んで、そこで自己が組織や機械の主体として存在できるわけではありません。互いに相手を自己の手段、道具として措定し合おうと外的に対峙し、圧迫し合っています。お互いに使いこなすのは難しいのです。

□そこで自己を組織や機械に習熟した者に成長させること、組織や機械が諸個人に適合した物に改良されることによって、両者の関係を改善しなけれぱなりません。

□こうして両者は互いに他者を自己の契機、規定性にするようになり、身体的な自己から脱皮し、組織や機械の主体としての自己に成長します。

□自己の意志や感情も、組織や機械のそれへと成長します。こうなれぱ、組織や機械は意志や感情をもった人間として現存することになります。組織や機械はそれによく習熟した人びとによって運営され動かされれば、その人びとの手足のようになり、その人びとの意志や感庸を体現するようになるのです。
-----------------人間の商品化の自覚---------------------

□これまで「人間の商品化」は、主として「労働力の商品化」を指す言葉と解されてきたようです。もちろん人間の身体が直接売買される奴隷化も人間の商品化です。しかし、物化とは人間が物を創造して、その物に自己を代表させたり、自己を表現したりすることですから、商品化も、人間が商品を創造して自己を表出することと捉えるべきだと思われます。

□商品社会、これは交換社会あるいは市民社会といい換えてもよろしいが、商品社会では、諸個人は、商品を交換して人間関係を結びます。

□人と人の関係が物と物の関係、商品と商品の関係に置きかえられて現われるのです(カール・マルクス『資本論』 第一巻 第一章 第四節 参照)。人間は彼の内面的な意志、感情、個性などで経済的に関わり合うのではなく、彼らが創造した商品として関わり合うわけです。ここに既に人間の商品化があるといえます。

□人は他に交換できる商品を持たなくなってしまえば、やむをえず商品としての自己を保つために、自分の身体そのものを売ったり、身体の使用権を売ったりします。前者が奴隷化であり、後者が賃労働者化、労働力商品化です。

□奴隷になってしまえぱ、もう市民として、一人前の人格として認められません。そこで、奴隷でない者だけが人間であると捉えられるため、奴隷の出現は人間が商品であることの自覚に結びつかなかったのです。

□労働力商品化は、自己の身体的能力の使用権の売却であり、売り手の所有権は確保され、人格は保たれます。しかも、資本制の発展は、資本家階級と労働者階級への二極分化を極限まで推し進める傾向をもちます。大多数の人間の労働力商品化が現実のものとなりますから、人間の商品化が否応なく自覚されます。

□生産物だけが商品であったのに、人間の身体(といってもその使用権ですが)が商品化されると、人間が品物と同様に扱われることになります。だから商品化は物化として受け止められ、現代ヒューマニズムの批判の的になっているのです。しかも、労働力商品化は資本制の根本的な土台ですから、資本制にともなうあらゆる物化の基礎も商品化に基づいていることになります。

□我々は、生産物が商品化すること自体が人間の商品化を意味することを知っています。それが生産物ばかりでなく、身体にも及んでやっと人間の商品性が自覚されたということです。人間を身体に限定して捉え、生産物を人間の他者と考えていると、生産物が商品であっても人間は商品ではないように思ってしまいます。

□生産物としての商品が人間関係、社会関係を取り結ぶことを何か倒錯した事態であるかに憶い込みます(マルクス物神性論の立場、前掲個所及び『資本論』 第三巻 第七篇「収入とその源泉」、『剰余価値学説史皿』補録「収入とその諸源泉、俗流経済学」参照)。

□生産物を人間の現存として捉えれば、生産物が商品であることは、同時に人間が商品であることであり、したがって、生産物としての商品が人間関係を取り結ぶのはなんら倒錯した事態ではないことが理解できます。
-------------------労働カ商品と人間性-------------------

□人間は自己を身体として主張するだけでは経済関係は結べないのですから、生産物として、特に商品社会では商品として自己を提示しなげれぱなりません。ですから、人間は、いつまでも、自己を身体でしかないという立場に固執できません。積極的に自己を生産物として、商品として把握しなけれぱならないのです。

□労働力以外に生産手段をもたない労働者は、自己を労働力商品として商品化しなけれぱならない運命にあります。

□ところで、現代ヒューマニズムは、労働力商品化を人間の非人間化、物化として把握し、糾弾します(マルクス『経済学・哲学手稿』「私有財産と労働」参照)。

□しかし、労働者は労働力を売っても人間でなくなることはありません。もちろん、現代ヒューマニズムの立場からは、人間性が失われること、つまり、主体性、意志、感情、個性、諸能力等が失われることが非人間化であり、人間が商品として物扱いされることが非人間化なのだといいたいのでしょう。

□我々は既に人間は物であり、物とならなければならないこと、物化して自己を表現する他ないことを知っています。たとえ不本意であっても、労働力を商品化することによって、賃労働者は賃労働者としての人間になれるのです。その意味では自己を商品化するところにこそ賃労働者の人間性があるといえるでしょう。

□人間性といっても固定的ではありません。階級や身分、時代によって人間のあり方も変化し、人間性の内容も変わります。労働力が商品化していない時代の人間性は、労働力が商品化Lた時代には失われるでしょう。そこには労働カ商品にふさわしい人間性が形成されます。

□いや、人間性というのは人間の理念、あるべき姿であって、それに照らして我々は現実の人間を人間性を失っていると批判し、人間の理念への到達を促すのだ。

□人間は人間の理念に向いつつ、現実の中に理念がどれだけ宿り、どれだけ踏みにじられているかを常に反省し、理念の伸長を企るべきだ。人間性を現実の人間の姿そのままとすれぱ、そこには反省も、批判も、進歩もなくなる。ただ歴史の変遷の中で人間の変遷を傍観するだけになってしまう。現代ヒューマニズムはかく反論するでしょう。
------------マルクスと現代ヒューマニズム----------------

□ところで、マルクス自身は、たしかに『経済学・哲学手稿』では自己疎外論に立ち、人間性を本来の人間のあり方とLて、疎外されていない労働、類的存在等から説き、現実の疎外を批判する構えをとっていました。

□しかし、『フォイエルバッハ・テーゼ』では人間の本質を社会的諸関係のアンサンブルとして捉え返す現実主義に立ち、ヒューマニズム的な理念主義から一線を画したようです。

□『資本論』などにみられる物神性論では、人間を物や商品でないとするところではヒューマニズムと見解を共にしますが、それはあくまで経済関係を人間関係として把握するという観点からであって、別段人間を理念によって規定する現代ヒューマニズムからとはいい切れません。

□とはいえ、人間と物の抽象的区別にとどまったという点においては、マルクスの人間観は現代ヒューマニズムと同じ限界内にあると判定して差しつかえありません。

□人間の理念に対する大言壮語が人間の現実を批判し、人間を革新するという妄想をきっぱり批判し、人間とは何であったか、現実に何であるか、また、どこへ行こうとしているかを物質的生の再生産を土台に据えて考察し直そうとしたのがマルクス、エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』でした。

□我々は、現代ヒューマニズムの人間の理念が間違っているとは考えませんが、しかし、その理念を抱かざるをえない、あるいは抱くことができる人間の現実の存在構造こそ人間として捉えるべきだと考えます。ですから、その理念と反対の在り方や行動もまた人間的であると理解すべきなのです。
----------現代ヒューマニズムの諸傾向--------------------

□務台理作氏の『現代のヒューマニズム』(岩波新書)は全体的人間の立場から人間性の疎外を追求する構えをとっています。氏はこれをアンリ・ルフェーブルの強い影響の下に書いたと述べています。

□ルフェーブルは商品・貨幣や様々な社会制度等の物神性を批判する立場を貫いています(アンリ・ルフェーブル『マルクス主義』クセジュ文庫、『日常生活批判』現代思潮社、一九六八年参照)。

□ルフェーブルの立場は、物象化の問題を本格的に追求した、ジョルジュ・ルカーチ『歴史と階級意識』(未来社)から影響を受けているようです。

□こうした疎外論的マルクス主義ヒューマニズムの系譜と共に、人間の物化をもっと単純な図式で捉える傾向は実存主義です。人間は物とは違って、存在を問う存在であることによって存在とかかわる現存在(ダーザイン)であり、そのことによって存在の明るみに立つ実存(エクジステンス)であるとするハイデッガー(『ヒューマニズムについて』角川文庫)や、人間は物のように単に措定された存在ではなく、自らを投企(アンガージュ)することによって実存する自由な存在であるとするサルトル(『実存主義とは何か』人文書院)がそれに当たります。

□実存主義は、物との対極において人間を捉えます。物になること、それは自由を失うことであり、人間でなくなることだと考えるのです。

□人間の理念から現実の人間を批判し、物化、商品化を人間性の喪失だと論難する傾向は良心的な知識人、ジャーナリストの一般的な傾向であり、機械文明、管理社会、官僚主義等に対して、精神文明、人間の主体性、自由を擁護する論調は、常套的に物化、商品化を指摘し、その非人間性を批判して事足れりとする傾向がみられます。

□しかし、このような批判は、現実に人間が物であり、商品であることに対する高踏的な批判に終わりがちです。

□むしろ、物であり、商品であることが、現実に人間であることなのであり、そこにこそ人間性があるという立場に我々は降りていかなければなりません。その上で、人間はいかなるものになりうるのか、いかにして商品であることの問題性を捉え返せばよいのかを考えてみるべきではないでしょうか。

  
---------第二節 商品としての人間の本質・価値-----------

--------------人間の本質としての思惟-------------------

□人間性とは何かという問いは、人間観によって様々な異なった解答を与えられます。この問いは人間の本質をいかに把握すべきかという問いとして受け止められるべきでしょう。

□人間の本質は、他の動物、或いは他の物から人間が区別される所以ははたして何であるかによって規定されます。思惟、言語、労働、社会的存在、実存等々、それぞれ解答者の人間観、世界観によって異なった解答が用意されます。

□それらは互いに相容れない面をもちますが、根本的には思惟に帰着しているといえましょう。言語は思惟を形式的に表現したものですし、労働も思惟を媒介にした目的意識的対象変革活動、或いは自己対象化活動です。

□動物の自然に対する働きかけとの根本的相違は結局思惟が介在しているか否かにかかっているのです。社会的存在も動物社会と区別する観点は、人間が思惟主体であることによって人間社会の特性が生じることに基づきます。実存も結局、人間が思准によって存在の意味を問いかけることによって生起するといえます。
-------認識の主観・客観図式と言語の主語・述語構造-------

□ところで思惟も動物的な意識からいかに区別されるのかが問題です。思惟の形式は言語ですから、言語と動物信号の相違がはっきりしなけれぱなりません。

□それは要するに主語・述語構造をもつという点にあります。「Aは〜である」「Aは〜する」等、主語が事物として把握され、述語がその事物の性質、状態、運動等を説明したり、主語についての発話者の気分を説明したりします。

□事物は発話者にとって、外的に存在していると了解されています。たとえ自分の事でも自分を客観化して表現します。

□言語でも主・述構造をもたない場合は、例えぽ「熱い!」と叫ぶ時は客観化していませんが、「〜は熱い」となると、それはもう自分の感覚の表現ではなく対象の表現になっています。

□また、それぞれの事物は互いに区別され別物として措定され、同一性の有無によって分類されます。世界は事物によって構成されていると把握されているのです。いわゆる主観・客観図式が言語の主・述構造の前提になっています。

□動物は、主・客未分化な表象を信号化しますので、主語・述語の形での言語構造をもたないのです。

□動物といえどもそれ自身、主体であり、他者から自己を区別し、他者、即ち自然との相互前提、対立の関係にあります。それで、それぞれの事物の区別を識っているともいえます。ただし、その識り方が主・客対立を自己の生理の中に止揚する仕方をとっているのです。

□つまり諸事物は生理的な表象であり、それが自己のその時々の状態であるのです。生理的な状態の変化に対応して、体験知(これは個体の体験だけでなく種族の体験も含みますが)から反応するわけです。動物は主・客未分化であるというのはそういう意味なのです。
-----------商品交換の発生と自己意識の成立---------------

□では人間はどうして、表象を自己の生理状態としてでなく、事物として把握することができるのでしょう。それは商品交換が発生して、自他の区別が明確になり、自己から諸事物が区別されたからです。

□いい換えれぽ、自己意識が成立したからです。自己意識の成立を商品交換に求めるのにはそれなりの論証が必要です。労働や言語がその契機とも考えられますが、それらは既に自己意識に前提されています。交換も自他の区別がなけれぱできないともいえますが、その発生過程を推理することによって謎が解けます。

□群婚、世代婚時代には共同体は血縁的一体性が強固で他者性の契機はありません。やがて氏族が発展し、フラトリア(母氏族)内での氏族間の交わりに対応してプナルア婚の時代に入ります。

□そこでも血縁的一体性に支えられています。そこでは氏族間の送り合いの形での分業が発生し、それが経済的重要性を増しますと、相手の氏族が移動し、そこに流れて来た全く異縁の共同体との交わりの必要が生じます。

□彼らは全くの他者ですから、安易に血縁的一体性を創出することができません。そこでまず物と物の関係、人のいない物々交換が始まります。こうして他者との関係が成立するというわけです。

□交換は、自己の不可分な一部であった生産物を他者化し、他者のそれを自己化します。生産物に他者性が入りこみ、自己と切り離された、もはや単なる生理的表象ではない外的事物が登場します。

□最初の他者は他人およびその生産物であったのです。他者の定立は、表象の他者化ですから自己は表象の外に定立されることになります。

□動物的知覚では自己と表象は未分化であったのが、人間にいたって分化し、表象は自己で対外的事物となり、自己はその外に立つなにかある物となります。それは表象を事物として見ている意識、自己意識にほかなりません。

□表象を外的事物として措定し、性格づける意識によって言語、つまり主・述構造をもった意識が発生するのです。

□かくして世界は事物から構成されることになり、事物と事物の区別、その相互連関、事物の運動が把握されます。

□そうして成立した認識を媒介して、事物に働きかけることが労働です。

□動物的表象のコピー、事物化は絵画ですが、言語的連関にそれを並べ、その絵を記号化、定型化すれぱ文字になります。かくして文明が開かれることになるのです。

□人間の人間たる所以は、交換を契機にして発生した自己意識の成立にあります。

□交換とは物を商品化することですから、人間は自己を物化、商品化することによって人間に成ったといえます。それ以前の人間は、他の動物とは論理的に同一の地平にあったのであり、未だ人間の人間的段階に達していたとはいい難いのです。

□これまでの学説ではサルからヒトに進化した段階で人間に論理的にも到達したと考えていました。梯明秀『社会の起源』(青木書店)などを参照してください。
ーーーーーーーー価値の意味は交換カであるーーーーーーーー

□交換発生による商品性の付与により人間が人間に成ったと考えると、商品の本質である価値が人間の本質であることになります。価値とは何かを考えることによって、人間とは何かを考えることにしましょう。

□ここで価値というのは差し当たり、商品価値のことです。いわゆる使用価値、真善美、かけがえのない間柄、最高価値としての神などは含みません。それらが価値に含まれることになった経緯や、その意義づけは後に詳しく検討します。

□マルクスは周知のように『資本論』の冒頭の第一章、第一・二節で「価値は抽象的人間労働の膠質物(Gallerte)である。」と規定しています。

□これ以外の明確な規定がないので、あたかもこれが価値の定義であるかに思われがちです。しかしこの規定は価値というものは、抽象的人間労働の膠質物によってできているという実体に則した規定です。決して価値とはどういうものかという価値の意味を表現しているのではないのです。

□価値は、ある商品が他の商品のどれだけに当たるかを表現しています。交換において、ある商品が、他のある商品のどれだけの量と取引できるかということは、結局、他の商品に対する交換力、社会的物的支配力が価値だということです。それは交換価値のことであって、商品の本質としての価値ではないと思われるかもしれません。

□マルクスは、価値を抽象的人間労働の凝結量として捉えたので、交換においては、それに比例する形で交換力をもっている筈だが、実際には、商品所持者の恣意やその他の市場の諸条件で、個々の取り引きでは必ずしも比例しません。

□それでも法則的には、市場全体の平均としては結局は比例する傾向にあることを主張します。それで、具体的な個々の取引で発揮される交換価値と元来投下労働量としてもっている交換力としての価値を区別したのです。ですから、やはり価値の意味は交換力として捉えるのが正しいのです。
--------------生産物の属性としての価値----------------

□交換力としての価値は、あくまで生産物としての商品に備わっているカであって、それを所持している人間の力ではないように思われます。

□しかし商品を手に入れるのは所持者の方ですから、その力は逆に商品のカではなくて人間の力であるようにも思われます。

□このため、価値は商品としての生産物の属性かそれとも人間の社会関係が商品に投映して、人間の力である価値を物に仮託しているだけなのかという論争を生じます。

□マルクスは「真珠やダイヤモンドの中に交換価値を発見した化学者はこれまでいなかった」と第一章の末尾近くで主張し、『経済学批判要綱』でも価値は物の属性でない旨明言しています。

□しかし、ではマルクスは価値は所持者の力だと考えていたのかというとそうでもありません。例えば磁石を手にしている人は鉄分を吸い寄せますが、それは磁石の磁力によるのですから、人に備わっている力とはいえません。

□マルクスはあくまで投下凝結している労働の力として捉えていたのです。ここに彼の価値論の特色があります。

□投下凝結して物に含まれているなら価値は物の属性であると考えるのが常識的です。でもマルクスは、物でなく労働が価値だという主張をもっていますから、物のもとに投下凝結した労働は必ずしも物になっているのではないと考えます。

□具体的有用労働は使用価値という物の属性になるが、抽象的人間労働は凝結して価値になるのであって物にはならないとするのです。これが価値は生産物に付着しているだけであって、物から物へ移転するのだという価値移転論の根拠になり、後の「不変資本と可変資本」章の前提になります。

□抽象的人間労働は具体的有用労働としてしか現存せず、その抽象でしかないのですから、それぞれ別々に存在するわけでありません。

□だから一方が物の属性になり、他方はならないとする議論は説得力を欠きます。価値は、生産物の具体的有用性の捨象によって成立しますが、それは生産物でなくなるわけではありません。

□価値は、あの生産物もこの生産物も価値としては何ら区別がないという意味で、生産物の抽象的存在性格です。生産物が価値でなく、価値が生産物でないとすると、価値は存在することはないでしょう。立派に生産物であってはじめて価値なのです。

□労働そのものはたとえ抽象的人間労働として捉えられても価値ではありません。「凝結して価値になる。」ということは生産物になることでなければなりません。何物でもない価値などだれも価値とは認めようがないのです。

□マルクスは、価値が物の属性でないことを論証しようとして、超感性的である、物としては捉えられない、幽霊のような対象性等々と特徴づけようとしますが、生産物が価値である以上、我々は交換によって生産物を価値として見ています。

□生産物が価値なら、価値はどの商品をつかんでも捉えていることになります。ともかく我々は価値をまず生産物の属性、抽象的存在性格、生産物の支配力として了解すべきです。
ーーーーーーーー生産物を自己自身だと主張する所有ーーーーーーー

□では、生産物の属性である価値がどうして人間の本質であるといえるのでしょう。商品社会においては、人間は自己の生産、消費に必要な物資を商品の形で手に入れなければなりません。

□商品社会の人間は、霞を食う仙人でもなければ自給自足の農夫でもありません。商品を支配する力を失えぽ一日たりとも生存できません。

□したがって、人間は、なによりもまず、第一義的に商品に対する支配力、即ち価値として存在しなければなりません。人間の本質が価値であるとはそういう意味です。しかし、価値は生産物の属性であって、人間の属性ではない筈です。さあどうしたらよいのでしょう。

□そこで、人間は生産物の属性である価値を自己自身だと主張しなければなりません。価値は生産物の存在性格ですから、価値を自己自身だとすることは、生産物を自己自身だとすることも意味します。

□この関係が所有です。所有は、生産物自身には欠けている意志を置き入れて、生産物を意志ある存在に変え、かくして、生産物に備わっている能力をひき出す役割をします。

□この意志の置き入れに際しても、生産物はその効用、或いは価値によってそうさせるのであり、生産物の側にまったく能動性がないというわけではありません。この意志の置き入れに成功すれば、意志は他者の意志の置き入れを阻止して、排他的な占有取得になります。

□占有は、生産物を意志の統御の下に置くことによって、生産物が意志に従って自己の能力を発揮する使用になります。

□占有によって占有者は自己の意志を生産物に置き入れ、生産物の意志となっており、自己は生産物を現存在の圏、自己の定在にしていますから、使用によって発揮される生産物の能力は、自己の能力の発揮であることになります。

□例えぱ、包丁(料理の名人)は自在に包丁を扱って牛をさぱきます。その際、牛をさぱいているのは包丁の方ですが、それは同時に包丁の能カの発揮でもあります(『荘子』参照)。この使用によって、使用者は自己の意志が生産物に置き入れられ、自己が生産物の主体となったことを確証し、占有の実を示します。

□ところで、使用では、使用者は使用物によって自己を限定され、他の物を使用できなくなり、特に一種類しかもっていない者は、それによって自己を保つことはできません。

□ですから、自己は、物の使用による物の形成が、つまり労働がどの場合も同じであることを主張し、どの物もこの同じ抽象的人間労働の形成物としては同じ物、即ち価値であることを主張しなけれぱなりません。

□そのことによって、意志は、この物にとらわれないこと、どの物に対しても同じ意志であることを示さなけれぱならないのです。彼は、この物という特殊性を自己の他者と見なし、放棄しようとします。これが譲渡です。

□この譲渡によって、所有が生産物の他者性を止揚した関係であったことを再確認し、意志の生産物に対する支配が所有であることを実証します。

□そして意志はその所有対象の効用にとらわれない主体として効用から自由であることを宣言します。

□しかし、一方的な譲渡は、意志の現存在の圏の縮小として現われますから、この譲渡は、同時に他の意志からその生産物を受けとる獲得でなげれぱなりません。

□これが交換であり、意志間の契約です。交換は、所有が価値に対する支配であったことを実証します。

□交換は生産物が価値としては同じであるから成立します。ところで、自己の生産物の譲渡によって、他者の生産物を獲得する力は、生産物の力、即ち価値です。

□ですから、所有者は自己の力を生産物から得ていることになります。かくして、交換によって、自己が生産物の価値であることが示されます。

□彼は自己のもとに集められた生産物の価値とLて自已を主張し、交換によってその力を示し、維持します。

□同時に彼は、生産物の使用によって、生産物自身を、したがってその価値も消費しますから、この使用が、新たな生産物の形成、価値の形成をともなう必要があります。

□このように人間は自己を商品として、またその本質である価値として常に再生産することになります(所有の論理についてはへーゲル『法の哲学』第一部、第一章参照)。
-----------市民社会のモナドとしての商品----------------

□市民社会では人間は、価値、即ち社会的な物的支配力として存在します。人間はこの力をなくしては物質的生活を営むことができませんから、常にこれを維持するために、物に束縛され、物から支配されています。

□物を得るためには、物を譲渡しなければならず、譲渡する物を常に再生産しておかなければなりません。

□これは、物を介して、他の人間によって支配されることであり、同時に物によって他の人間を支配することでもあります。

□このように、商品社会(市民社会)は物を媒介にした相互支配の関係になります。まさしく「万人の万人に対する闘争」(ホッブズ)の世界として市民社会は特徴づげられます。

□互いに自己を価値・物的支配力として主張し合い、物を奪い合い、そのことによって物を作る労働を支配し合うのです。

□市民は価値であるという第一義的な規定性にとっては、互いに無差別な抽象的な存在です。彼にとっては、価値であるためには何であってもよく、価値であるために何であるかは、第二義的な問題なのです。

□職業的な差別は、まったく無意味だといえます。価値追求の自由が彼らにとっては最大の関心事であり、すべての市民間での交換、全商品間の自由な等価交換こそが博愛です。したがって市民革命が「自由・平等・博愛」を旗印にしたことは、市民社会の倫理を鮮明に示したといえるでしよう。

□市民社会は、アトミックな商品の集成として形成されます。人間は自己をアトミックな商品として存在させることによって市民社会の主体となります。

□彼らは価値としての自己にのみ絶対的な関心を示す閉ざされた無窓のモナドです。彼らは破壊しがたい利己の殻に固執したアトムです。

□若きマルクスは『ユダヤ人問題について』で市民を無窓のモナド、不可破壊のアトムとして特色づけ、その典型を利己主義の権化としてのユダヤ人に求めています。

□『資本論』の冒頭では「資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、富のエレメンタル形態として現われる」としています。
-------------マルクスの人間的自然の思想の限界-------------

□ただし、マルクスは商品を富の細胞形態として捉えてはいたものの、商品を人間自身として把握していたわけではありません。

□商品が富の要素になったため、人間の労働力までも商品化することを批判する構えをとっています。人間と商品としての生産物との抽象的区別に固執したままです。人間を商品として、その本質を価値として把握できていません。

□一方、マルクスには人間的自然の思想があります。人間を身体に限定して捉えるのではなく、人間と代謝関係にある自然を人間化した自然、非有機的身体とみなします。その意味では、生産物、商品などは人間に含まれることになります(『経済学・哲学手稿』)。

□そのマルクスが、人間の物化、商品化を問題にし、人間が物として扱われるのは非人間的であるとか、経済関係は、物と物の関係として現われているが実は人間関係なのだと論じ、人と物の抽象的区別に固執する論陣を張っているのです。

□しかも、この物神性論は、同じ『経・哲手稿』の中にも原型がみられますから、いわゆるマルクスの思想の前後期の間の断絶によるものではないようです。

□マルクスは『経・哲手稿』のなかで、自然の人間化を強調し、人間的自然の思想を「貫徹されたヒューマニズムは貫徹されたナチュラリズムであり、貫徹されたナチュラリズムは貫徹されたヒューマニズムである」と表現しています。まさしく、人間と自然を一体的に把握する立場だといえましょう。

□しかし、よく注意して読みますと、彼はGegenstand(対象、事物と訳すこともある)の人間化は説いていますが、Ding(物)の人間化には言及していません。

□もともと、物自体という発想をしりぞける立場であれば、対象のみが問題であったともいえます。自然もしたがって、人間の感性の対象でしかなく、最初から人間的な存在であったといえるでしょう。

□人間的自然を人間感性の対象として捉えていれぱ、人間感性にふさわしい、或いは人間感性を豊かにする自然にすることが、貫徹された自然主義=貫徹された人間主義ということになります。

□ですから、彼の自然主義も人間本位に考えられた自然主義だったといえるでしょう。もちろん、人間自身が自然として捉えられているのですから、自然主義には違いありませんが。

□ともかく彼は、物の対象性は人間化されるが、物そのものは人間化されないと考えていたと推察されます。

□彼は『資本論』の物神性論では、生産物と使用価値の区別は明確ではなく、使用価値については、目に見えること、だから物理的、化学的関係、即ち物的関係をもっていることを認める一方、価値に関しては何ら物的関係はもたないとします。

□つまり、価値はあくまで物の属性でない、ただ労働の社会関係が物に投映して価値対象性を付与Lているにすぎないとするのです。

□では価値は人間の規定でしょうか。マルクスは労働の社会的関係、抽象的人間労働の膠質物と規定Lているのですから、たしかに人間的規定です。

□しかし、価値はやはり、生産物の対象性であって、その実体が抽象的人間労働であるとされています。いい換えれぱ、人間はあくまで労働主体として措定され、彼の働きや、彼の取り結ぶ社会関係が、生産物に価値という、特定の歴史的な規定性を付与するのですから、人間そのものは価値ではなく、したがって商品ではないことになるのです。

□価値は、あくまで、人間が生産物をそう見なし、そう取り扱う、生産物に与えた対象性であるといわんとしているのです。
-------------第三節 商品の存在構造---------------------

--------------需要の主体としての生産物----------------

□マルクスの場合、生産物の対象性は人間的だが、生産物自体は人間ではないとします。しかし、生産物自体と生産物の対象性を区別するのは理性的ではありません。身体だけでなく、生産物も人間の現存であるという人間的自然の立場に立てぱ、生産物の商品化が即ち人間の商品化であると考えるべきです。

□だから人間が商品であるぱかりでなく、商品が人間だということなのです。ですから、商品の存在構造はそのまま人間の存在構造であることになります、マルクスはそこまで徹底できませんでした。

□身体も生産物の生産物ですが、生産物が商品なのですから、生産物はそれぞれの物として存在できなけれぱなりません。

□消費によって生産物が消滅するのですから、消費は再生産を呼び起こさなければなりません。商品としての生産物の存在の仕方は、それぞれの種類の生産物が再生産されるためのあり方といえるでしょう。

□もちろん、生産物の各種類は社会的に存在する以上、社会的需要を満たすために存在するのですから、代替の生産物によって駆逐されることもあります。

□この社会的需要や、社会的欲求というものを単に身体の欲求・必要とだけ解さないで、各生産物が互いに再生産し合うために必要とする需要だと考えるべきです。
--------------物を主体とする社会関係-------------------

□我々は社会関係というとき、すぐに諸個人の関係を想い浮かべます。諸個人も狭く身体に限定して捉えてしまいます。

□人間を生産物の全体、即ち人間的自然と解すれぽ、社会関係を取り結んでいる諸個人は、身体だけでなく生産物を自己の現存として関係している主体として捉え返されます。

□しかも、商品としては個々の生産物は相対的に個としての自立性、主体性をもって社会関係を取り結んでいる主体です。

---------------------物の主体性------------------------

□物に主体性を認めることを人ははばかります。純粋に物質的な関係、物理的、化学的、生物的関係においても、物に主体性を認めることを拒否する人がいます。自然の法則に従っているから主体性などないと。

□主体性を意志を媒介にした行為にのみ宿るものと解すれぱその通りです。関係を、物と物とが取り結ぶ関わり合いと解すれぱ、それぞれの物は関係する主体とLて措定されます。

□関係や事態を第一義的に捉えて、物をそれらを説明するための機能的概念として、その実体性を否定すれば、物の主体性も出てこないでしょう。

□関係や事態は、物と物の関わりとしてはじめて説明でき、叙述できるのは、物が存在の唯一の形式であるからだという立場に立てぱ、物の主体性も救われます(拙稿「廣松渉・物象化論におげる〈物〉把握批判」季報『唯物論研究』第三号、一九八一年)。

□机という物の存在物の主体性は物質的関係では認めても、社会的関係では認めないという議論も有カです。

□机は人間が勝手に机と規定しているだけであって、物としては人間にどう扱われるか知ったことではないといいます。

□机を机として、つまり読み書きの台として使わなげれば机ではないし、食卓やみかん箱を読み書きの台として主に使用すると机になります。

□だから机というのは、人間のその物に対する関わり方であって、その物の規定に固定しているけれど、本当は物自身の属性ではないんだという人がいます。

□しかし、それは一般論ですね。現実の経済関係においては、読み書きという用途にふさわしい物に対する需要があって机という物が生産されています。そのような机は、人に読み書きをするように誘いかけており、その意味では、机が人を読み書きという一定の行動に導く主体であるといえます。

□机という物は存在しない。机は物の用途にすぎないという考えは、物を木材や金属など主に素材の観点から捉えるところに生じます。

□つまり物質としての物の一面だけを見ているわけです。物はしかし、特定の働き、作用をする主体として規定すべきです。

□机は金属でできていようが、木材でできていようが同じ机という物です。爆弾の中身は様々な種類に岐れますが、どれも爆弾としては同じ物です。
-----------------物の価値と価値支配カ---------------------

□ところで、使用価値・効用としては物に主体性を認めても価値としては認めない。社会的主体はあくまで人間であって物ではないと固執する人はもっと多いようです。

□そういう人も、商品にはお金を支払わされていますし、貨幣の力をありがたがっています。そして、商品を得るため、貨幣を得るために、毎日あくせく働かなければなりません。

□それでも、その人はいいます。「自分は物に支払っているのでばない、人に支払っているのだ」と。そしてこう付け加えます。「貨幣は人の価値に対する支配権の証明書にすぎない。物と物の関係は、実は人と人の関係なのだ。」

□こういう議論に対しては、価値は物の属性であるという前章の証明で反論済みです。しかし、物には意志や感情、判断力がない筈だから、どうして自己の価値を実証し、実現することができるのかが問題にされるでしょう。

--------------------------諸生産物の意識-------------------

□我々は、意志や感情、人間の思惟活動を身体の活動、あるいは脳髄の活動としてだけ捉えてしまう傾向があります。

□我々は素裸で、原始林の中で棲み、そこで考えたり、感じたりしているわけではありません。もしそうだとしても、我々の思惟や感性は、原始林を自己の身体、自己の情況として感じ、思惟することになるでしょう。

□人間は諸生産物にとりかこまれ、それらによって構成されている社会機構、文化のなかで思惟や感性を機能させます。したがって、我々の思惟、感性は身体のみならず諸生産物の働きかけ、機能によって生起するのです。その意味では単に身体の思惟、感性ではなく、諸生産物の思惟、感性だといえるのです。

□ただ、人間は自己意識をもっています。それで、身体の外部の諸事物を他者として措定することによって認識を成立させているのです。

□そのせいで思惟、感性はあたかも、身体だけの、極端には脳髄だけの活動であるかに憶い込んでいるのです。

□たしかに、社会関係においては、意識が不可欠の媒介になりますから、意識がそこにおいて生起する場所としての身体は欠かせません。

□しかし、諸生産物の意識が身体に担われていると、身体が身につけている個人の性格、利害等によって、正確に事物を代表する役割が損なわれます。ですから、価値は、様々な値をとる交換価値の社会的平均として法則的にのみ実現するのです。
--------------商品の意識としての商品語------------------

□マルクスは『資本論』首章、第三節で、商品間の関係論理を価値形態論として展開しました。

□そこでは、交換を行う商品所持者は後景に退き、商品は相互に商品語を交わして関係し合う構図になっています。

□宇野学派の人びとが、実際に交換を行う所持者の意識を無視するのはおかしいとこれを批判していることは有名です(宇野弘蔵『価値論』青木書店)。

□でも、価値形態論は交換過程論ではありませんね。つまり商品所持者が交換を行う論理ではないのです。商品が相互にいかなる関わりを結ぶのかが問題になっている場面です。

□てすから、たとえ所持者がそれぞれの商品を代表するために必要であっても、彼らの意識は商品の内在的な論理を反映して、商品の意識になっている限りで、この商品間の関係に関わっているのです。

□たしかに、所持者の意識を自分の意識にしなけれぱ、商品語の世界は成立しません。しかし、価値形態論では所持者の意識は商品自身の意識と見なされて、はじめて、商品間の論理である価値形態論が成立するといえるでしょう。
------------リンネルはいかに価値法則を貫くか--------------

□ところで、リンネルが上着の効用に価値を見出すという場合、それはどういう意味でリンネルの意識なのでしょうか。リンネル自身に上着という具体的な効用に対する欲求があるわけはありません。第一リンネルは上着を見る感性すらなく、ましてや、上着の価値量を推し量る才覚があるとは思えません。

□商品社会では、リンネルはただリンネルという効用であるぱかりでなく、リンネル商品として産出され、リンネル商品としての役割を担って存在しています。

□リンネル所持者は、リンネル商品を上着商品或いは他の商品と交換し、リンネル商品の価値を実現すべく存在しています。リンネル所持者はリンネルを抱えこんだままで、その価値を実現しないとしたら、彼自身に必要な価値を手に入れることはできないので窮乏してしまいます。

□リンネル商品は、その社会的需要や、そこに投下された労働量によって、その生産者や、その価億を認めて買いとった所持者に、自己を他の商品と娶わせ、交換するように仕向けます。

□もし、所持者がリンネルの価値以下に交換すれぱ、めぐりめぐって、リンネル生産者のもとに帰ってくる価値量は少なくなり、リンネルを再生産するに必要な物資が少なくなりますから、リンネルの生産量が減少します。

□そうしますと、リンネルの社会的需要は充たされなくなるので、リンネルは高く売られる結果になります。その逆もいえますから、リンネルは、その社会的需要が一定とすれぱ、社会的平均としては価値法則を貫くことになります。
------------------社会的需要と再生産------------------

□各商品種類は、まず、その社会的需要を充たすために消費されなければならず、消費の場に辿りつくために幾度か交換されなければなりません。

□次に、その交換に際しては、自己の商品種類の社会的需要の維持に対応して、価値を実現しなければならないのです。そしてこの二つの事がうまくいかなければ、生産有機体全体が維持できませんから、商品のこの要求を叶える形で機構が整えられ、人びとも行動し、意識せざるをえません。

□たしかにリンネル所持者が上着の効用をみて、その価値を洞察するのですが、それはリンネル商品の価値が上着に自己と同等の価値を見出すように見なければなりません。つまり所持者の目はリンネルの目にならなければならないのです。ちょうど運転手の目が車の目にならなけれぱ、車も運転手も安全ではないのと同様です。

□そんなわけで、商品社会は、様々な商品種類が、互いに関係し合って構成する社会です。そこでは、それぞれの商品種類が自己の社会的需要を維持し、再生産するように働きかけ合っています。

□もちろん、静的ではなく動的に競い合っていますから、その中で新たな種類の生産物が創造され、古い種類の生産物の社会的需要が減退し、その種類全体の価値量が減少したりします。

□労働力商品の社会的需要も、その種類によって変動Lたり、それに対応して、労働力商品の質的変化、量的変化が生じることは避けられません。

□常識的には、社会的需要といのは諸個人にとっての需要と思われがちです。しかし、この諸個人というのも先述したように、所有を介して、単なる身体的存在ではなく、生産物を自己の定在にしているのですから、社会的需要も全商品の連関にとっての需要と解さなければなりません。

□例えば、ガソリソは、車をもっている人にとっての需要ですが、そのことは車がガソリソを需要していることにほかなりません。

□価値をこのように社会的需要という観点から見直せば、各商品種類の価値は、その商品種類を再生産するに必要な他の商品の量として捉え返されます。

□労働力商品の価値は、労働力の再生産費ですが、その内容は、賃労働者の衣食住に必要な物資の量です。どの商品も、社会的需要が安定していれば、その商品を再生産するに必要な生産物の量であるといえるでしよう。

□このように述べますと、価値を効用で捉えているという誤解を受けると思われます。社会的需要という観点は、一応商品交換を捨象して価値を考えているので、物資の量となったわけです。

□ですから、これは商品社会であろうとなかろうと、ある種類の生産物には、その再生産に必要な物資を、生産過程に集積するカがなければならないという事実を表現しているにすぎません。

□商品社会では、この事実に見合って、それを交換という形式で表現したとき、価値という用語が使われるということです。
-----------------------価値と労働量--------------------

□価値は、A商品x量=B商品y量の等式で表現されます。その意味ではやはり物資の量ですが、この等式が成立つためには、同一量が両商品種類に含まれていることを前提します。

□この同一量は、それぞれの商品を生産するのに要した労働量として捉えられます。それぞれの労働は異質ですから、これが同一量であるためには労働の異質性は捨象されなければなりません。したがって、価値は抽象的人間労働の集積であることになります。

□抽象的人間労働の量が等しければ、それらの商品を交換しても、各商品をつくり出すのに必要な労働量を再び手に入れることができますから、各商品種類はその商品量を維持できることになります。価値が投下された労働量によって決まるのはそのためです。

□価値論で最大の問題は、労働量によって価値が決まるのなら、労働量の測定方法がしっかりしていないと、労働量によって価値が決まっていることが実証できないことです。

□この問題は、労働価値説ははたして実証可能かという問題でもあります。価値に労働凝結量という規定をあらかじめ与えておきますと、労働量によって価値が決まるのは同義反復になります。

□しかし、問題はその価値が価格の標準としての役割を果たすかどうかということです。つまり価値法則が成立しなげれば、労働が価値であること、価値が存在すること等は無意味になります。

□もし労働時間が単純に時計で測れるものとしますと、価値は時間を長くかけれぱかける程大きくなります。これではなまけものが得をすることになりかねません。

□そこで同一種類で同一品質の生産物の価値は、その社会的に必要な労働時間と考えます。つまり平均的な労働時間が凝結していると考えるのです。

□ですから、平均が一個につき二時間としますと、それに三時間要しても二時間分しか働かなかったことになりますし、一時間で仕上げた労働は、一時間で二時間分働いたことになります。

□凝結した労働量である限り、どれだけ労働がこめられているかは、その商品自身によって示されるのであって、自分は何時間働いたから、何時間分の価値をというのは甘い考えです。

□ところで、異なる商品種類の交換では、社会的必要労働時間が等しけれぱ同一価値と見なされるでしょうが、実は、それだけでは不充分です。

□というのは異種類の労働は労働の複雑度が異なります。マルクスは、複雑労働は何倍化された単純労働であり、単純労働に換算して労働時間を計算しなければならないとします(『資本論』首章第二節)。
ーーーーーーーーーー労働の複雑度の基準ーーーーーーーーーーー

□労働の複雑度の内容は、技術に熟練を要するかどうか、重労働か軽作業か、複雑な作業か単純な作業か、危険度はどうかなどが含まれます。

□しかし、それらの程度を数量化するのは決して容易ではありません。それぞれの労働に携わっている人びとは、自分の労働が有利に判定されることを望みます。

□純粋に客観的な立場に立って測定することは不可能ですし、その方法もありません。しかし、人が判定しなくても、市場では一定割合で交換され、そのことによって、労働の複雑度は判定されています。実際、市場の判定にまかせるの、が一番客観的で公正であり、冷たいといえるでしょう。

□しかし、市場の評価が、ある労働の一時間分が他の労働の一時間分より価値が大きい、複雑度が高いと判定される根拠は何かが問われなければなりません。

□それは、資本制では労働力商品の再生産費の大小によるとされます。商品生産一般では、生産者の生活費の大小に関わることになるでしょう。

□つまり、それだけ複雑、高度な労働を維持し、伝え残すためには多くの生活資財を消費しなければならないという事実が根拠にあげられます。

□しかし、生活費自身は価格的には示されますが、これを労働時間に換算することはできません。

□価格が価値に比例すること、労働時間に比例することが前提としてわかっていなければ、価格の差が労働時間の差を示すとはいえない筈です。

□ここではそれを証明するために、その根拠として必要な生活費がとり上げられているのですから、結論を前提する循環論法はとれないのです。

□要するに生活費の大小は労働時間の評価に影響を与えることは事実だとしても、労働時間の尺度は存在しないことになります。これが価値法則の論証不可能性の根拠になります。

□それに、生活費の多少と労働の複雑性の比例関係ははたして論証可能でしょうか。むしろ労働の複雑性、高度性が社会的に認められた報いとして多くの生活資財が与えられるのではないでしょうか。

□或いは、各労働種類の業者間での社会的経済的地位をめぐる競争、闘争の成果として、労働の複雑性、高度性の判断が成立するのではないでしょうか。

□ある職業が現在あるような、一定の社会的価値、つまり社会的な物的支配力を認められるためには、階級間、身分間、職業間の競争や闘争の長い歴史があったのであり、政治的、経済的、イデオロギー的・文化的な社会的地位をめぐる複雑な相克を背景にしていると考えられます。そして各時代には相対的に固定した経済的待遇が与えられて来たといえるでしょう。

□ですから、各商品種類間の交換比は、その時代の労働間の社会的地位を反映しているのです。この観点から労働の複雑性は相対的に捉え返されます。

□Lかし、これが労働時間に対する社会の客観的判定である以上、労働時間は結局、その時点においてはそれだげであることを認めなければなりません。それでは労働時間によって交換比が決定されるのではなく、交換比によって労働時間が決定されることになるという強い反発は覚悟しなければならないでしょう。
-------------物化された時間としての価値-----------------

□労働時間については一人よがりのこれだけの時間働いたという主張では無カであって、生産物という形で物化しなければならない以上、物として評価される運命にあることは避けられません。

□我々は時間が物として定在する世界に生きていることを忘れるわけにはいかないのです。

□我々は一定の社会での一定の労働の力関係を背景にして、労働の複雑性が判定され、かくして単純労働に換算されるとき、労働価値説が妥当し、価値法則がその限りで論証されうることを認めることができます。

□いかなる理論の真理性も、それが前提として捨象している背景を無視すれば、いかようにも論破されうるものなのです。

□我々は、この価値法則の再吟味によって、商品の本質としての価値を、商品の物的支配力として再確認し、それが労働の力関係を背景にしていることを再確認できたと思います。
ーーーーーーー不変資本の抽象的人間労働ーーーーーーーー

□価値を労働に還元することは、とりもなおさず、人間の身体的活動だけが価値の源泉であり、価値関係は人間の身体的活動の間の関係であることを示したことになります。

□だから、商品関係は実体としては労働関係であって、物と物の関係というのは仮現ではないか、という疑問が生じます。

□商品が、生産物が人間であるとするなら、生産物としての商品が労働し、価値を産出することを論証しなければならない筈だ、この疑問は正当です。

□マルクスは『資本論』「不変資本と可変資本」の章で、不変資本は価値を産出しない、可変資本だけが価値を創造し、しかも、不変資本の価値をそのまま新しい生産物に移転するという立場をとっています。

□しかし、第一章「商品」では、抽象的人間労働だけが価値に関わり、具体的有用労働はまったく関与しないことになっています。

□ところが、ここでは具体的有用労働が不変資本から価値をとり出し、新しい生産物に移転させるというのですから、明らかに労働の二重性の視点と矛盾します。しかも、そのことによって抽象的な人間労働の価値凝結はまったく影響されないという都合のよい論理になっています。

□これは、価値が抽象的人間労働の膠質物であって、生産物にとりついた膠(にかわ)であり、労働の火に焙られて溶け出し、新たな生産物に付着するというマルクス独特の論理に支えられているのです。

□もし、生産物が価値であれば、生産物の消費によって価値も当然消費されてなくなります。可変資本は自己の労働時間以上の価値を産出することはできませんから、不変資本は自力で自己の価値の消滅分を新たな生産物として産出しなければなりません。

□実際、新たな生産物を作り出Lているのは、不変資本と可変資本の共同作業であることを否定することはできないでしょう。

□機械制大工業になると可変資本の価値付加分はきわめて少なくなります。ほとんどの価値は、不変資本が自已を消滅させながら、新たな生産物として産出しているのです。

□もし、不変資本がそれだけの役割を果たさず消滅してしまえば、新たな生産物の価値は小さくなり、元も子もなくなってしまいます。

□可変資本と不変資本の根本的相違は、可変資本は、その価値産出分以下の価値で再生産されるが、不変資本は価値産出分と同じ価値で再生産されるという原理が法則的に成立していることです。
------------------生産的消費について ---------------------

□このように商品は交換によって自己の価値を実証し、最終的に生産的消費で、自己を消滅させると同時に、自己の価値を他の生産物に対象化します。

□生産財はとくにそうですが、消費財にもある程度あてはまります。消費財は交換によって自己の価値を実証し、消費によって消滅します。そのとき、労働カを再生産します。

□したがって労働力の再生産費はその消費財の価値に等しいことになります。つまり、消費財も自己の価値を労働力に対象化しているのです。

□ところが、消費財は同時に不労所得者をも再生産します。彼らは自己の価値を生産物に対象化しませんから、この不労所得者の消費、再生産は生産的ではありません。その分、勤労者が自己の価値以上に生産物を生産しなければならなくなります。これが搾取と呼ばれているのです。

□諸個人の身体も、商品としては同じ運命を背負っています。彼らは自己を商品として交換させ、常に自己を消費しては、自己の価値を生産物に対象化し、そのことによって価値を取得して、物的支配力を得ます。

□そして、それを消費して、つまりそれらに再生産されて、再び価値としての自已を取り戻し、自己を商品化するという循環を体験します。

□自己の消費はそのまま自己の消滅ではないところが救いですが、人生全体をとってみればやがて価値再生産能力が衰え、本当に消滅してしまいます。

□彼の人生の価値はどれだけ価値を生産し、消費したかにあると見られます。それではあまりに悲しいと思う人は、価値を別のなにか精神的なよりどころに求めるのです。

 
----------------第四節 価値と価値意識--------------------

-----------------身体的自己意識について-----------------

□人間は商品交換を始めることによって人間になったと先に述べました。

□それは自己を生産物としての商品にすることを意味していましたが、同時にそれは自己を他人に譲渡すること、つまり自己を他者化することにほかなりません。

□こうして人間は、生産物としての商品を他者として意識するので、自己自身を商品としての生産物ではないものとして意識します。

□自己意識は自己を自己でないものではないものとして措定します。

□自己でないものではないもの、それは表象ではないものです。表象は事物の表象として受け止められ、事物は自己にとって外界を構成します。

□何故なら、表象は自己と他者の生理的統一、主・客未分化な全体ですが、それを他者と見なすことで自己意識が成立したからです。

□しかし、表象でない自己は何ものでもないことになり、かえって自己は見出せません。そこで自己は身体としての表象を他の表象から区別して、自己自身として措定します。

□かくして、身体的な自己意識が成立し、意識、感性、意志等は身体のそれとして捉えられます。

□例えば木の表象は、木が身体に自己を対象化した意識であり、その意味では木の意識ですが、その面は捨象され、もっぱら、身体が木を自己の意識としてもつ面だけが採り上げられます。

□身体を自己として意識し、感性や意志を身体のそれと感じると、自己意識の有限性を身体の有限性の自覚によって知ります。

□身体の有限性を運命として受け止め、身体の官能を自己の業として観ずると、それに陶酔して、自己の運命を忘れようとする意識と、結局それも空しいという意識も生じます。

□まさししく、自己をいかに規定し、いかに生くべきかという苦悩が生じるのです。
------------------社会的価値と社会人------------------

□人間は商品として自己を対象化し、その商品を支配するカとしてまず存在しなければなりません。

□この支配力が価値であります。価値はしたがって、何はともあれ第一義的な人間の規定として、人間の本質です。

□彼らは自己を商品に対する、ひいてはそれを創出する他人に対する社会的支配力として定在させるべく努力します。

□一人前の社会人、市民とは自己をこのような社会的価値として定在させることができる人間に他なりません。

□彼らは自己が価値であることを、自己を自己の提出する商品であるという形で示します。

□かくして彼の仕事、即ち彼が産出する生産物が価値としての彼自身であるのです。

□彼はそれによって社会的価値を認められ、一人前の社会人になります。彼はこの社会による彼に対する肯定によって自己を肯定し、自己の存在の資格を得、自分自身を意義あるものとして自覚します。

□ですから、彼らは自己をより大なる価値、即ち社会的物的支配力にしようと競い合い、物を奪い合い、互いに支配し合います。

□市民社会は万人の万人に対する闘争の修羅場と化し、人びとはその中で、社会の冷酷な評価を受け、自己の価値の卑小さに自信を失い、再び価値として生きることの意義を見失いそうになります。
-----------身体的自己の有限性と宗教的意識 ----------------

□人間は自己を身体として捉えることによって、個体的生命の有限性、それを自己とする自己意識の有限性に悩み、しかも、自己を価値として捉える時に、自己の社会的卑小性、無力性に失望します。

□人間はそれゆえ、永遠の生命を憧憬し、無限の価値を希求します。自己の生命が個的身体の限界を超えて連綿と生き続けること、自己の価値が絶対的な評価を受けとること、これが人間の自已意識の最大の希望であり、切実な願いです。この願いは宗教的意識として表明されます。

□宗教は絶対者への関わり方によって分類されます。一つは絶対者への融合の形式をとります。呪術・祈祷・狂乱(乱舞)・冥想などの方法によって、自己意識は絶対者と自己を隔てる身体的束縛から自由となり、絶対者に自己を融合させようとします。

□今一つは、絶対者との絶対的区別を自覚し、絶対者による救いを信じる形式をとります。

□いずれにしても、絶対者との関わりによって自己の有限性を克服し、絶対的価値づけを得ようとするのです。

□しかし、観念的な宗教的生活は、現実の宗教的生活によって培われなけれぱ育ちません。この現実生活の宗教性が家族において典型的に表現されます。

ーーーーーー家族の宗教性、夫婦・親子の一体性 ーーーーーー

□「父なる神」、「天のお父様」などと神が父にたとえられたり、神父と牧師が呼ぱれたりすることがあります。これらはあくまで比喩ですが、家族的関係が宗教性を帯びていることを示唆するものといえるでしょう。

□新興宗教では家族的結合を求め、教祖が「お父様」と呼ばれたがる傾向が見られます。

□明らかに、家族を宗教的に捉えているのが、曽参の著書といわれる『孝経』です『孝経』は、孝を仁の本体として把え、あらゆる人倫の根本として据え、天地自然の摂理も孝に基づくとします。

□「父を厳(たっと)ぶは父を天に配するより大なるはなし」とし、父を天として崇め祭ることに孝の極致を見出します。

□「身体髪膚、これ父母に受く、あえて段傷せざるは孝の始めなり」というように、子の身体は父母の遺体であり、その生命を受け継いだものです。

□子のなかに自已の生命の継続を確信Lようとし、子と親の一体性の信仰によって、自己の有限性を超えようとするのです。

□子はやがて、親から自立しますが、再び自分の子をもつことによって、親に連なる自己を再発見します。親は子に自らの生命を託し、子は親を自己の前身、拠り所とする関係、この関係の連綿を絶えることのない連続、そこに『孝経』は最大の意義を見出します。

□へ-ゲルは『法の哲学』で家族を人倫の基礎として捉えています。彼は夫婦単位の家族を考えています。夫婦間の結合とその証しとして子の養育、それを通して、家産として所有が伝えられる関係を捉えたのです。

□夫婦は互いに半身として結合して一体となり、一つの人格的主体を形成します。この結合は、性的結合であり、そこで互いに互いを自己の分かちがたい半身として確認しようとします。

□もし、この関係が取りかえのきく関係ならぱ、その結合は偶然的であり、一時的であり、つかのまの性的陶酔感の中だけの一体感に終わります。

□ですから、一夫一婦制という婚姻形態は、この関係が絶対的で、不可分離なものであることを確証させる形式です。

□夫婦関係の絶対性によって、両者は互いに不可分の半身であること、したがってもはや、他人ではないことを信じ合います。

□そこに、互いのためにつくし合うことがけっして他人への犠牲ではなく、自分自身のためであると捉えられます。それゆえ、性的放縦、婚外交渉は、この関係への裏切りとして、夫婦間の倫理に対する背徳行為です。

□夫婦関係の絶対性への要求は、婚前に遡り、処女崇拝の意識を呼び起こします。性交は夫婦間の一体性を確証するための神聖な儀式であるべきだと捉えられます。
ーーーーーーーー家族主義的価値観の成立ーーーーーーーーー

□夫婦、親子の一体性に対する信仰によって、家族は絶対的な自己関係となります。

□そこでは、自己は家族にとって、家族のために存在する自己となり、家族の主体となります。

□かくして、一家の稼ぎ手は、家族のために働き、家族のために生き、家族に見守られて死ぬことを望みます。

□家族を主体として捉えたとき、自己は永遠に連綿と生き続ける生命と一つになり、そのために生きることに自己の価値、存在意義を見出すのです。

□彼は家族のために社会的な物的支配カ、価値にならなげればなりません。彼は家族の必要とする衣食住のすべてを支配できるだけの社会的力をもつ必要があります。

□彼は家族にとってすべての必要な物資の創造者として現われ、万物の創造者、絶対者とLての地位を与えられます。

□『孝経』でいう「父を天に配する」とはこの事です。かくして彼は、家族において絶対的な価値、絶対者となります。

□このように家族にとってかけがえのない存在として認められることによって、稼ぎ手は自己の存在意義を与えられ、自己の有限性、相対性を止揚できるのですから、彼にすれば家族は自己に価値を付し、生きがいを付与する絶対者であり、救い主です。

□山上憶良の「銀も、金も玉も何せむに、まされる宝、子にしかめやも」という歌を思い出して下さい。

□社会にとって卑小にすぎない自己の価値も、家族にとっては絶対的になるこの関係によって、価値は、もはや単なる社会的物的支配力という意味だけでなく、神聖な意味、家族関係のかげがえのなさに転化します。

□もちろん、それは物的支配力をもっていることが前提ですが、たとえ貧しくても、家族の絶対的自己関係を支えているという意味では、尊さにかわりはありません。

□やがて、価値は、絶対的な自己関係そのもの、かけがえのない人間関係、愛情等として捉え返されるようになり、家族主義的価値観が形成されます。市民社会の人間は、日常生活においては、この価値観によって生きているのだといえます。
---------------家族の偽臓性、貨幣の魔術----------------

□我々は、この価値観を無自覚に抱いていますから、この価値観のもっている宗教性、そこに宿っている偽瞞性については往々にして無頓着です。

□家族の衣食住は、自然とそれに働きかける人びとの生産物であり、一家の稼ぎ手が創造しているのは、そのなかの一種類か、その部品あるいは材料にすぎません。

□それも自然自身の創造を手助けしているだけです。つまり、家族は人間的自然の再生産、生産物の生産によって支えられているのです。ところが、あたかも、稼ぎ手がすべてを創出したかに憶い込み、彼にのみ養われているかの錯覚に捉われ、社会性を喪失します。この錯視は人間の商品性に起因しています。

□人間は、商品として存在しているため、自己を価値として規定せざるをえません。

□彼は自己の価値を商品としての生産物に表出し、それを交換することによって社会的に承認されます。そこで、彼の生産物は価値としては、他人の生産物とは同一であり、無差別となります。

□かくして、いかなる生産物に対しても平等の支配力を行使できる力となります。この力は貨幣に物化されます。

□貨幣を得ることによって、人はあらゆる生産物に対する抽象的な支配力=価値となり、彼は一種類の商品を生産するだけで全種類の商品を生産したことになります。この人間の貨幣性が、個人を有限者から絶対者へたかめます。つまり、個人は、抽象に還元されることによって、同時に類として存在するのです。

□たしかに、個人は人間的自然を構成し、類を構成し、類的力として存在しています。

□その意味では、個人が類の定在であることは否定できません。しかし、それは、人間的自然、類の有機的全体を前提としてもっているからです。

□価値関係はそれらを捨象し、抽象して、あたかも、個人がそれ自身で、自立した絶対者であるかに錯視させるところに問題があるのです。

□彼らは、有機的全体を捨象し、ただ自己が社会的支配力、価値として認められれぱよいと考え、そのためなら、何をしてもよいと考える傾向をもちます。

□そして互いに社会的支配力を競い合い、物を奪い合い、相互に支配し合うという市民社会の「万人に対する万人の闘争」に身をゆだね、その結果、互いに傷つけ合い、大多数を窮乏化させ、自然を手段化することによってやみくもに破壊するにいたります。

□しかも、それを家族主義的価値観によって正当化し、善人の行為として捉えようとします。
----------------価値と価値意識のずれ----------------------

□我々は、家族主義的価値観がいかにして必然的に生じたかを捉え、そのことによって、人間の価値意識の特色を把握するとともに、その宗教性、偽瞞性をも冷静に捉え返して、それの超克への道を探らなけれぱなりません。

□家族主義的価値観は、商品としての人間の価値意識です。ですから、当然、価値、社会的物的支配力を価値として捉えています。しかし、それだけでは救われないので、かけがえのない人間関係、その愛情を至上の価値として捉える姿勢を示します。

□ところが、価値とはもともと、社会的物的支配力であり、商品の属性としては交換価値にほかなりません。かけがえがないということは、交換できないことですから、これは価値ではない筈です。価値でないものを価値として捉えるところに、価値と価値意識のずれがあります。

□本当に大切なものを価値として捉えようとする意識がそこには見られます。しかし、大切さと価値とは本来別の範疇です。

□商品社会ではすべての大切なもの、あらゆる欲求の対象は商品化され、価値として流通し、手に入れることができるのですから、商品価値をもたない物はいかに主観的に大切であっても、社会的、客観的には大切な物としては認められていないことになります。

□この事態によって、人びとは大切なものを手に入れるために、社会的物的支配力として価値を手にし、価値によってそれを評価し、価値としてそれを手に入れる必要があります。したがって大切さと価値の区別は解消され、両者は混同されることになります。

□このように価値に支配された社会では、大切さと価値はまず同義として捉えられます。

□しかし、人びとのもつ価値は限られて、貧窮にあえいでいますから、貨幣によって手に入れられる物に対する欲望は抑制され、そうした物に対する反発心が禁欲心とともに生じます。

□彼らは分相応の価値に安んじ、それで手に入れられる物で物質的には満足すべきだと自分たちにいい聞かせます。

□本当に大切なもの(すでに価値と混同され、価値と呼ぱれている)は、お金で手に入れられるもの、お金に替えられるものではなく、かけがえのないもの、即ち、家族的紐帯であり、それを慈しむ心なのです。

□かくして真の価値、至上の価値は本来の価値ではなく、本来価値に入らなかったものに求められるのです。真善美や神が価値とされる経緯も同様に考えられます。

□現在、価値は多義的に使用されることばになっています。価値哲学は、価値の一般的な定義を求めて苦悶していますが、多義性をもっていることばに、一般的な定義は不要であり、不可能です。

□もし、社会的物的支配力=交換力を価値の一般的定義とすれぱ、真善美や、かげがえのない間柄、崇高性等は著しい冒涜を受けることになります。

□崇高性にそれを求めれぱ、交換力は崇高性とは関わりがないので、その意味が歪められます。

□効用や欲求充足手段という定義も、交換力は別の観点から価値ありとされますし、崇高性は手段化されることによって冒涜されます。

□ですから、一般的定義づけそのものが誤った発想に立っているのであり、価値の多義性を見極めていない証拠です。価値の多義性の根拠は、商品としての人間存在の自己意識に根ざしているのであり、それを明らかにしない限り徒労です。

       
ーーーーーーーーー人間=商品の光と闇ーーーーーーーーーー

□へーゲルの『法の哲学』}こ「ミネルヴァのふくろうは黄昏に飛び立つ」という有名なことばがありますが、我々が人間を商品として、その本質を価値として把握しえたのは、人間の商品性が、労働力の商品化として即且対自的になり、しかもそれが極点にまで達しつつあり、爛熟して、腐臭を帯びて来たからです。

□人間が商品性を得て、人間的段階に達し、主観・客観図式に基づく認識を成立させたことによって、自然を物的連関として捉え返し、そこに自己を対象化し、物化して、人間的自然を発達させ、様々な文明を興隆させ、文化の花を開いて来たのです。

□その歴史は光輝に満ちています。しかし、それは同時に、万人の万人に対する闘争・相互支配・弱肉強食の歴史であり、自然を破壊し、幾多の悲惨と狂気を生み、時折、凄惨な地獄絵を繰り広げた暗黒の歴史でもありました。

□我々の時代、二〇世紀は、自然エネルギーの未曽有の活用、機械技術の飛躍的進歩、社会管理組織の高度の発展の中で、物質的富の豊富化には目を見張るものがあります。自由の享受も比類がないと申せましょう。

□しかし、その反面、二度にわたる世界大戦の体験、そのなかでの様々な大虐殺、ヒロシマ・ナガサキ体験、朝鮮、イソドシナ、中東、アフリカにおける戦争、地球的規模での自然破壊の進行、核軍拡にともなう人類的危機の深化等、その暗黒面もしだいに人類の存続が可能かどうかという臨界点に近づきつつあります。

□この危機にもかかわらず、大多数の人びとは自らの商品性ゆえに、絶対的自已関心の殻に閉じ籠り、価値追求に汲々としています。しかも、この商品性そのものがしだいに、腐朽化するという危機に頻しています。
------------商品性の危機、或いは家族の解体--------------

□健全な人間性は、商品としての存在構造から生じます。人びとは、自らの価値を社会に認められようとして勤勉に働き、冷酷ではあるがそれなりにある程度の価値を承認され、社会人として自らの家族を養い、そこに生きがいを見出して、自分を価値づけ、存在意義を見出します。

□ところが労働力の商品化が進展し、それにともなって、産業構造が高度化しました。すると労働カは、都市集住を余儀なくされ、単婚小家族が普遍化します。

□しかも、なおも高度化が進行すると、管理システムも高度になり、労働力を家族単位に掌握するのではなく、個々人に管理を細分化する傾向が生じます。

□これは婦人の社会進出を可能にする一方、家族を自分の力だけで扶養して来た男性労働力の価値低下を来たすことになります。

□しかも、教育の普及、社会保障の拡充等は、その掌握の対象を直接、個々の子供にまで向け、子の養育という最大の価値意識の源泉をあいまいにします。

□家族の自然的血縁的紐帯、その関係の必然性、不可分離性は次第にあいまいになっています。これが親に対する扶養問題にはね返り、単婚小家族からの老人の除外、年金、社会保障による老人の一人暮しとして集中的に現われています。

□このような情況下で、夫婦の結合の絶対性が希薄になり、離婚の急増、婚外交渉の増加、性交初体験の低年齢化がみられ、性的結合が夫婦の一体性を確認する神聖さを喪失しつつあります。

□単婚小家族での扶養能力の低下は子の人数を減らし、それにともなう避妊、堕胎を増加させるという形で、人々を卑小化し、精神的にも肉体的にもスポイルし、無力感を与えています。

□家族的価値観の衰退による現代人の孤独、無力感は、容易にペシミズムと結びつき、それを享楽へと逃避することで忘れようとするデカダンに追いやります。これに対応して、エ口・グ口・ナソセンスの文化が流行し、青少年の健全な精神までも蝕んでいます。性の商品化は行きつくところまで行きついた感があります。

□人間に生きる力を与えたのは、自分の価値が、社会的に承認されるか、そこで冷酷な評価を受けても、家族にとってかけがえのない存在として絶対的に承認されるかにかかっています。

□社会は今や大衆化され、しかも高度に管理されて、身動きがとれず、自己の能力を思うままに発揮して承認されることはむつかしいですし、家族にとってもその結合が絶対性を喪失しつつあるので、人ぴとは何を支えに生きれぱよいのか深刻な危機に直面しているのです。

□これが人間性の危機の精神的な内容であるといえましょう。人間性の危機は、実は商品性の危機なのであり、けっして商品化される危機ではありません。もちろん、すべては人間が商品であることに起因していますが、人間性そのものが商品の自己意識であることを忘れてはなりません。
------------社会主義から共産主義への途の困難性-----------

□現代の思潮で、人間の商品化を批判、克服しようとする思潮がヒューマニズムと呼ばれています。その意味ではコミュニズムこそヒューマニズムの最先峰に位置するといえます。

□コミュニズムは、諸矛盾の根本を資本・賃労働関係に求め、生産手段の私有制を廃棄することによって、労働力商品化を止揚し、生産手段の公有制によって商品生産そのものをなくしていく物質的土台をつくり上げようとします。

□現実に商品生産、市場経済を揚棄し、それに代わる共同体経済を建設するという課題を思想的に表明し、社会主義建設によってそれを実践しつつあると自負している点で、彼らのヒューマニズムは現実性を帯びています。

□しかし、残念なことに、社会主義建設は様々な困難に直面し、市場経済を止揚し、商品そのものを止揚するという理想へ向かう道程は必ずしも明確ではないし、その方向に向かっているとも判定しがたいのが現実です。

□建前では、労働カは商品ではないといいながら、賃金労働者の存在構造は、〔賃金労働者=生活手段の私有者=労働カ商品の所有者〕という三位一体構造にあり、彼ら自身の意識ではやはり労働力を企業に売っていることに変わりありません。

□社会主義でも、賃労働者は労働力を企業に売り、賃金を得てそれで生活手段を手に入れ私有する関係にある限り、商品経済、商品流通を止揚できないのであり、賃金を漸次的に減少し、生活手段の計画的、効率的かつ要求に叶った分配に変換しなけれぱなりません。

□それが容易に実行できないのは、要求を充分に充足させるだけの生産力がないからだとされてきました。また、社会の規模が大きいために、消費動向を的確につかみ、それに見合う生産、分配システムを管理、運営するだけの技術体系に欠けていることもあげられます。要するに科学・技術の進展、生産力の発展が共産主義社会を到来させるというわけです。

□ところで、生産力の発展は、欲求の肥大を生じ、文化水準の高度化をもたらしますから、その欲求や必要を充足させるに充分な生産力に到達することはありえないとも考えられます。

□また、科学技術の進歩による情報処理能力の向上が、生産、流通、消費の共同化のために不可欠だという議論は、一種の弁解にも受けとれます。地域や職場単位での消費組合的組織を積み上げて関数的に処理すれば、その時点の生産水準に見合った消費の共同化は可能だと思われます。

□むしろ、共産主義の実現を妨げているのは、人間の商品性であり、それに根ざした人間の意識のあり方、商品的な意識に基づく行動様式に求められる筈です。
----------社会主義社会での労働カの商品性--------------

□社会主義革命は、生産手段を資本家階級の専有(ひとりじめ)にさせておくと、労働力が安く買いたたかれ、労働者階級が窮乏化するので、それに耐えられなくなって、資本家階級を一掃し、生産手段を労働者階級の総体としての国家や集団が所有することに変革する革命です。

□つまり、労働者は自らの労働力をより有利に、より安定的に買ってくれる主体として自分たちの権力を樹立したのです。だから労働カ商品としての要求に基づく革命であり、個々の労働者は革命の前後で、〔賃労働者=生活手段の私有者=労働力商品の所有者〕としての三位一体をやめたわけではありません。

□ただし、同時に自己の労働力商品の買い手としての権カを握ったのですから、売り手・買い手という二面性を背負います。

□買い手としての権力は、個人に分有されるのではなく、労働者階級の全体の利害に立つ権力として、個人から相対的に自立しています。

□諸個人は権力としての自己の総体性に関与し、それを自己の主体性にする権利があるのですが、もともと、労働力商品としての存在構造、絶対的な自己関心、排他的、利己的なアトム的存在構造をもっており、革命の熱狂のなかではそれを忘れていても、日常生活に戻れば、日々の糧、家族の生活の安定、そこでの自己確証が最も肝腎な問題です。

□そこで、自己の階級的総体性は、権力機構を実際に日常的に維持、管理する官僚機構にまかせる形になります。

□実際、権力を常に主体化し、そこに意識的に参画し、自己の意志を貫徹させるには、情況を的確に把握し、自己の主張を明確にし、意志決定をめぐる闘争を闘い抜くだけの決意と力量が必要です。しだいに権力の実質的な支配者、采配者が少数のエリート官僚に限られるようになるのは自然の勢いです。

□そうなると、労働力商品としての性格を強くもったままの労働者を働かせ、生産力を向上させるには、自分たちの再生産費、即ち最低限の生活費を得るために、熱心に働く彼らの存在構造に見合った生産システムを当面維持しなければなりません。

□労働力の生産性を上げるためには、労働の複雑度を評定し、それに見合った賃金体系になります。当然、商品生産、市場経済を重視することにもつながります。

□そうすることが妥協として必要ですが、他方で、労働カの商品性を減少させ、労働者の総体性への自覚を促し、積極的に権力主体へと自己変革する途を与えなけれぱなりません。

□そうでない限り、妥協はついには妥協として捉えられず、共産主義への途は、商品経済を盛んにして、生産力を上昇させれば拓かれるような錯覚に陥るでしょう。
---------現代の危機を自己自身として捉える主体性----------

□社会主義の現実、経済改革の方向は、はしなくも人間の商品性を如実に示し、その止揚の困難性、商品性の根深さを思い知らせています。

□そして世界の現実は、商品性を極限にまで開花させ、その光明も暗黒も極限に達しようとし、その果てにあるのは商品性を止揚した新しい人間の共同体なのか、それとも人類は商品であるがゆえの矛盾によって滅亡するのかという問いを発しています。

□しかも、人間の商品性は爛熟とともに腐朽し始めており、商品性としての人間性が衰退し、価値喪失、ペシミズム、退廃が蔽い始めています。

□我々は既成の商品性に基づく価値観を頭から否定し、拒否して、徹底的に家庭を解体し、価値追求をやめて、退廃を深化させれぱ、新しい時代がやってくるとは考えません。そのような行動は商品としての価値を認められていないことへの欲求不満の暴発でしかなく、かえって商品性への希求の表明に他なりません。

□我々は商品として存在している以上、その商品性としての人間性を生き抜く他ないでしょう。社会での価値評価を求め、社会的物的支配カとして一人前になろうとし、家庭での絶対的な自己関係を大切にすることなしに、精神の安定はありません。

□しかも、商品であることのもつ意味、それに由来する様々な光明と暗黒を自己自身の矛盾として自覚し、それを背負うことが必要です。

□我々は自己の責任において、様々な危機に立ち向かい、それを克服すべく努力しなけれぱなりません。我々は今や、自已の商品性を守るためには、それに由来する事柄に責任を取ることが必要な段階に来ています。

□我々は商品である以上、自己の利害にこだわり、個にとじこもりがちで大変腰が重い大衆ですが、それでも、危機は相当身近に迫まり、「泰山は崩れむか」という状況になっています。

□実際、山が崩され、海が油ぎって黒光りし、狂気の核軍拡が続き、発癌食品が横行し、家庭の崩壊が進み、子供たちが精神的に追いっめられているという状況を前にして、この苦悩を見つめ直さざるを得ないのです。
---------------商品性克服の論理への模索------------------

□一方で、管理体系の高度化による無カ感、機械のオートメ化の極点としてのロポット化等によって、機械をいつまでも単なる手段、人間の他者として扱うわけにはいかなくなり、身体と共生する人間の一部として措定する必要が生じています。

□身体自身も生産物にほかならず、自然も人間の身体であるという観点に立つことを自然破壊の進行や、核兵器の出現は教えています。

□人間は物であり、物が人間であること、人間=商品であり、商品=人間であること、これらのことを確認した上で、はじめて危機の全体を自己自身の問題として把握することができます。

□いい換えれぱ、我々が物にとらわれ、物に束縛されている状況に対して、物質文明を離れて、精神文明をとるという形では解決できないのです。

□精神自身がそれら物質の精神であり、関係であります。まさに我々の精神の苦悩は、物質自身の苦悩であり、自然の怒りとして聞かなけれぱなりません。そうでなければ、我々は、この怒りに触れて減びるほかないでしょう。

□しかし、一体、いかにすれば、我々は商品として生きながら、商品であるがゆえの矛盾を克服できるのでしょう。それは、この危機に立ち向かうなかで自己の存在意義を見出し、自己の力を確証し、それに向けて他人や自然との連帯に自分の位置を確認することの他にないでしょう。

□この人間の自然史的使命を自覚するとき、自然の主体としての自己意識が形成され始めることになります。しかも、それが自己の商品性を守り、価値実現ともなる形での実践形態が模索されなければなりません。

□その場合に、はじめて、商品性を守りながらも、同時にそれの止揚への途を拓くことが展望されるでしょう。それはたしかに矛盾した論理ですが、過渡期や変革期には、矛盾した論理が必要なのです。
-----------------まとめにかえて--------------------------

  本論考は、「人間学的商品論」をまとめ上げるための序論的役割を担うものです。

□経済学の観点からの人間学をという編者からの要請でしたが、経済学というよりも、経済哲学、或いは倫理学に近いものになったかもしれません。

□内容はまだ充分仕上げられ、練り上げられたものとはいえませんが、「人間」を見直すという本書の課題に沿った問題提起にはなっているという自負はあります。

 もちろん、人間を商品性を通して理解するという視角には一定の意義は認めても、人間を商品としてしか把握しないのは一面的ではないかという批判に対しては充分説得的ではないかもしれません。

 例えば、人間の人間的段階を商品交換に求めたり、人間が商品であるだけでなく、商品が人間だとしたり、人間の本質は社会的物的支配力としての価値だといい切る強引さにはかなりの論理の飛躍を感じられたかもしれません。

 本章にみられる論理の飛躍は、拙稿の序論的性格に由来するものですから、いずれそれを補なう所存であることはいうまでもありません。

□しかし、いかに精緻をきわめる論理展開であっても、拙論の主旨を納得されるかどうかは別問題です。

□書き手の論理は、あくまでも読者の側の問題意識、生活実感と感応し合ってこそ説得力をもちうるのです。いかに、論理が飛躍し、説明が省略されていても、読者に何か感応しうるものがあれぱ、むしろ論理の飛躍は読者にそれを埋める楽しみを与えるものです。老子『道徳経』のもつ強烈な説得力はそれを物語っています。

 本章は、現代ヒュ一マニズムの諸命題に対して、反対命題を対置しています。現代ヒューニズムの物化・商品化批判は、現代人の疎外感、無カ感に強烈に感応しており、これに対する本章の論理は多くの読者の神経を逆なですることになるでしょう。

□私から見れぱ現代ヒューマニズムは、人間が自己の商品性に気づき、鏡の中の自分にこんなものは本来の自分ではないと、自己否定の叫びをあげたものです。

□この自己否定は、やがて自己を商品として自覚し、商品性を現実に超克するための前梯となるものですから、本章に対する反発によって現代ヒューマニズムに立った自己否定の意識が強まることは、むしろ歓迎すべきことです。

 現代ヒューマニズムは、現代社会を批判する前衛的な意識としての役割を今暫く果たさなけれぱなりません。人類的危機に対する様々な警鐘を現代ヒューマニズムは打ち続けるべきです。

□オイディプス王が人民にふりかかった災難の原因を、他者のなかに糾明し、遂に自己自身が犯人であると突き止めたように、現代ヒュ一マニズムは、彼らが非人間的だとしているすべてを、やがては人間性として把握し、自分で自分の破産を突きとめることになるでしょう。

 マルクスを現代ヒューマニズムのなかに含めるかどうかは、マルクス主義をいかに把握するかという問題であり、マルクス解釈家たちは、自分が現代ヒューマニズムに対していかなる態度をとるかによって、それぞれ見解が岐れています。

□多くのマルクス解釈家は、マルクスの立場と自己の立場を峻別した上で、継承するという科学的な方法を採りきれないでいるようです。

□マルクス自身は、社会的諸関係の結節として人間を把握している点で、明確に理念主義的なヒューマニズムと一線を画していますが、人と物、人と商品の抽象的区別に固執するために、彼自身が意図していた、人間と自然の統一的把握を貫徹しえず、現代ヒューマニズムと共通の限界を共有したといえるでしょう。      

 本章は、マルクス物神性論を人間を物として、商品として把握し切れなかった弱点の現われと論断し、それに由来する彼の価値論の弱点、つまり、価値が物の属性として捉えられていないこと、価値を労働と生産物の区別の止揚として捉えられていないこと、また、価値自身の定義が社会的物的支配力として明確化されていないことを指摘しておきました。

□この価値論の弱点は、直接的には、価値移転論に現われており、間接的には生産の主体が、可変資本に限定されて、人間的自然全体の再生産として把握しきれていないところに現われています。つまり、人間が商品であるぱかりでなく、商品が人間であるという観点に到達していなかったといえます。

□したがって、拙稿が残している課題は、人間学的商品論に立って『資本論』を再検討し、修正することですが、一人では荷が重いので拙論の主旨に賛同する協力者が必要です。( この課題は『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』青弓社1985年刊 によって一応果された。)

 現代ヒューマニズムがヒューマニズムの課題の核心を物化、商品化として捉えたこと、特に商品性の問題を根本的な問題として提起したことは重要です。商品性を超克しない限り、根本的な危機の克服はありえないのです。

□しかし、この商品性は決して近代の特殊な問題ではなく、人間が人間に成ったことによって背負った最も射程の長い問題であり、人間は商品性を超克しようとする限り、既成の人間性の全体を包括的に捉え返し、新しい人間に生まれ変わるぐらいの覚悟が必要です。

□この天才的な予感は二-チェの『ツァラトストラはかく語りき』等で表明されていますが、二-チェの論理は非合理主義、貴族主義の典型であって、商品的な価値意識に対する単純な反発でしかありません。

□我々が求めなけれぱならないのは、現実に商品としての存在構造に生きている我々自身が、商品としての生を背負い、その光明と暗黒を自らの責任において生き抜きながら、なおかつ、価値追求が同時に価値止揚となり、価値止揚が価値追求に応えながらも成長していくような論理です。


 

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