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宗教的対話ー「三つのL」ーコミュのアダムとエバの人間論

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10年程前に『社会思想史の窓』に連載した『バイブルの精神分析』より転載いたします。

ーーーーーーーーーーー天地創造と神の言葉 ーーーーーーーー

□さて神は天地創造された時、何を材料に天地を作られたのでしょう。彫刻家が彫刻を作る様子を想像してください。

□『バイブル(聖書)』では、神は自分の外に、彫刻を作るように宇宙を作ったのです。だから神は自然存在からは離れて立っています。

□『バイブル』の神はそれで唯一絶対の超越神と言われるのです。この対極としてヘレニズムつまりギリシアの神々は、自然に内在する神々です。豊作をもたらす神ディーメーテールや、愛の神アフロディテのような、自然の摂理なのです。

□日本の神々はどうでしょう。日本も自然神信仰です。日本の神は、ワーびっくりしたと驚くようなもの、巨木や白鹿、白蛇、富士山のような自然物だったのです。

□『バイブル』の神は、それら自然神信仰とはまるで違います。さて天地の材料ですが、「はじめに神は天地を創造された。」という書き出に『バイブル』はなっていますね。

□一般には「無から 有の創造」と言って、何も無いところから万物を作ったというように解釈されています。それじゃあ、質量保存の法則に反しますが、作り手の神から発するパワーは人間の想像を絶します。ですから無といっても形が無いということでしかありません。

□神のエネルギーが神から出て、宇宙が出来たという考えを発出論と呼ばれています。

□ところで、バイブルには『旧約聖書』と『新約聖書』があるのはご存じですね。

□『旧約聖書』はユダヤ教とキリスト教の共通の教典で、『新約聖書』はイエス・キリストの降誕以後の文献だけなので、キリスト教だけの教典です。

□『新約聖書』の中の「ヨハネによる福音書」では、「初め」について興味深い表現になっています。「第一章 初めに言(ことば、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。この言の内に命があった。命と人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」

□じゃあ初めからあった言葉はだれが作ったのでしょう。神 が作ったとしたら、その神はだれが作ったのでしょうか。

□その最初が神なのです。つまりたいていの事物にははじまりというものがあって、何らかの原因で生じたものです。あなたはお父さんとお母さんが原因で生まれましたね。ずっと遡っていけばファースト・マンであるアダムとエバにいき着きます。

□このファースト・マンは『バイブル』では、神が創造されたとされているんです。こういう決まった原因から決まった結果が生じることを因果律と呼びます。

□でも因果律はこの最初の原因である神には、あてはめられません。だって最初の者は何らかの原因で生じたものではないから最初なんですから。そこで「初めに有り、今有り、世々限り無く有る」存在を考えてしまったのでしょう。これを神と名付けと思われます。

コメント(14)

□ところで言葉というのは動物は使いませんね。なのにどうして初めに言葉があったと言えるのでしょうか。

□『旧約聖書』の「創世記」が書かれた時期は、紀元前五八六年から紀元前五一六年までの時期でした。バビロニアにユダヤ人が捕囚として連れていかれていた時期から、捕囚民解放後の第二エルサレム神殿完成までの時期までの間とされています。

□その時期には、ギリシア哲学の影響はなかったので、モデルになる観念つまりプラトンの 言葉で、ものとか出来事がどういうものかを観念として作り上げたモデルであるイデアが先ずあって、それに基づいて、それに合う事物が生み出されるという考え方に到達していません。

□ところが『新約聖書』はギリシア語で書かれていて、ギリシア文化の影響の下に 書かれていますから、「ヨハネによる福音書」(著者は十二使徒の一人のヨハネではなくて、一世紀末のギリシア語やギリシア文化に詳しいユダヤ人のキリスト者だとみなす見解が有力)の思想にもどうもイデア論の影響があるらしいのです。

□「イデア」は単なる言葉ではありませんが、この場合は「言葉」になっています。人間がコミュニケーションの手段として作りだした言葉が事物の元になっているというのはさかさまの気がしますね。

□しかし神の言葉と人の言葉は区別しなければなりません。物事や事物には「これは〜である。」という本質がありますね。例えばカラスは人間が名付けたからカラスになったわけじゃないけれど、カラスと名付けられるに相応しい存在として作られていたわけでしょう、人間が登場する以前にね。

□ところでカラスを作り出す際に必要なものは何かって考えますと、まず「カラスとは黒くて大きくて嘴が特に大きく鋭い頭の いい鳥である。」という設計図が必要になってきますね。その設計図は、生物学では細胞の核にあるよじれた糸みたいな染色体が螺旋階段になっていて、そこにどんな遺伝子が乗っかっているかで決まる筈です。

□でも『バイブル』は進化論とはずっと折り合いが悪いんです。だから自然自身の中で設計図が進化していくのじゃありません。万物は神によって創造されたと推論したのです。

□だとしたら自然から超越した存在である神のイマジネーションの中で、設計図が書かれていることになりますね。正しいカラスの観念がカラスのイデアで、聖書では、これが神の言葉なんです。

□人間の言葉は、この神の言葉を推測して生まれたと考えられています。それで神の言葉には、言葉に対応する物や事を誕生させる力つまり「命」があるんです。ですから神がある言葉で考えると、それに対応する事物が生まれるという理屈です。

□だから 神においては、考えることと行うことは同じなんです。この「言葉」はギリシア語の原典では「ロゴス」なんです。ギリシア語で「ロゴス」と言えば、言葉と論理と本質という意味を兼ねています。

□「あれ!『バイブル』の原典は古代ヘブライ語じゃなかった?」ですか、ええ『旧約聖書』はそうです。ユダヤ教徒は古代ヘブライ語で書かれた『バイブル』への信仰で結合していますから、イスラエルの公用語は古代ヘブライ語なんです。

□でも『新約聖書』は、ユダヤ人がローマ帝国に対する植民地解放戦争に敗北して、無理やりディア・スポラつまり 離散させられていたので、キリスト教徒たちが、ギリシアで集まって古代ギリシア語で書かれたんです。

□だから「キリスト」というのも元は古代ヘブライ語で救世主を意味する「メシア」のギリシア語訳なんです。ついでに「イエス」という名前もギリシア的な呼び方です。古代ヘブライ語では「ヨシァ」に当たるそうです。
□話を戻します。そういう本当の言葉が霊力を持っていると思い込む信仰を言霊信仰って 言いますが、人間の言葉にはそういう力はありませんね。ですから人間の言葉はまがいものだという捉え方があります。

□人間も修行次第で考えることが、そのまま物事を生み出すことができるということになると、オカルト的な念力信仰になるのです。その意味で人間の言葉は、まがいものだという面を強調しますと、その言葉を使った人間の認識も真理とはほど遠いということになり、人間の智恵なんてたいしたものじゃないと卑下するようになります。

□この反省も無意味ではありません。確かに人間は自分たちの知に驕って、悪智恵を働かしたり、自然を安易に作り変えて、かえって人間環境を破壊してしまうことがありますからね。それでメソポタミア文明もインダス文明も崩壊したんです。

□だから人間の智恵に対する反省は大切です。でもね、だからといって、それを教会権力が世俗権力に対して優越 して威張っていい根拠にしたり、宗教の方が哲学や科学に対して優越すると主張する根拠にされたらたまりません。

□宗教が政治を支配したらそれこそ恐怖です。十字軍を造って、聖地奪還なんて言って、侵略や人殺しをしました。

□また科学に口出ししてジョルダーノ・ ブルーノを火炙りにしたことがあります。進化論を学校で教えないように圧力をかけてい る教団が未だにあるのです。

□それにおびただしい魔女狩りなどが起こったのも、宗教が力を持ちすぎたからですね。宗教は独善的で、自分たちだけが絶対正しいって過信しやすいのです。それで対立すると、相手の宗派はサタンの陣営だということになります。

□それも 結局、宗教的に分かってることは思い込みからきているのに、かえって無条件に正しいことになってしまって、哲学的認識や科学的認識より優越するという考えになったからなのです。

□人間の認識だって、経験に基づいて自然や社会からの働きかけで成立するわけで、それ ほどいい加減なものじゃありません。

□教会が神の権威を借りて、神の言葉を推量するのに比べ遜色ない筈です。ところが宗教では神は絶対で、教会は神に聖化されているから無条件に正しいということになってしまいます。
------------------------光と闇 -------------------

□「神は『光あれ。』と言われた。こうして光があった。」たしかに語る事と作る事は、 神では同じ行為なのです。「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇とを分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」これが第一日です。

□「光を良し」とされたのに、わざわざ「闇」を作るなんて意地悪の感じもしますね。光は輝く栄光であり、自己実現つまり成功のシンボルです。歓喜であり、愛であり、正義であり、希望であり、救済なんです。それに対して闇は奈落であり、自己喪失つまり失敗であり、悲哀であり、憎しみであり、悪であり、絶望であり、責苦あるいは滅びなんです。

□つまり光はプラス・イメージ、闇はマイナス・イメージなんです。「光」が愛のシンボ ルなのは仏教でも言えます。慈悲の純粋な固まりのような「阿弥陀仏」は「無量の光」という意味なんです。だから初めに愛があった、神の愛が宇宙を造った、世界は愛のためにあるんだ。愛を感じとり、愛を確かめ、愛を行うために全ては存在しているんだというメッセージで『バイブル』は始まっていると言えるかもしれません。

□理窟でなく、イメージで思いをキャッチすべきです。でもこういう反発があります。神が人間を本当に愛しておられるのなら、人間に幸福だけ与えて、不幸を与えなければいい筈なのに、どうして多くの不幸を与えるのか納得できないという反発です。

□でも「ヨハネによる福音書」で言うように「光は闇の中で輝いている」んです。もし人 間に幸福だけ与えて、不幸を与えないと、人間は幸福が当たり前で、幸福に飽きて鈍感になり、少しも幸福だと感じなくなりますね。むしろ幸福が息苦しくなり、かえって不幸になるんです。

□子供たちは両親の愛を、押しつけや干渉と感じ、むしろ重圧と感じるようになるでしょう。山登りの苦しみが大きければ大きいほど、頂上での景色は素晴らしいと感じますし、失敗すればするほど、成功は素晴らしい歓喜になります。

□だから光を輝かすために闇をコントラスト効果で与えているということなのでしょう。でもそれなら、その犠 牲で闇の方に回される人は気の毒ですね。ほんの薬味程度に闇があるんじゃなく、むしろ闇が光を圧倒しているような人もたくさんいるんですから。

□でもこうも考えてみてください。一生極貧の生活をしていた人でも、常に神の恵みを感謝し、隣人と愛し合って幸福に暮らしたかもしれませんし、どんなに大金持ちで、贅沢三昧で暮らした人でも憎しみ合って、不幸な人生だったって事もあり得ます。

□悲惨に見える人生だって、ほんの一瞬、葉の上に一粒の露が朝日にきらめいた瞬間に永遠を感じるような、幸福体験で神に感謝して死ねる人だっているわけです。

□数え切れない不幸を取り上げて、神の無慈悲を責め、そこから神なんかいないという結論を導き出すことは自由です。でも、人間たちは希望の光を求めているんです。だから自分の力だけでは光を獲得するの は到底無理だと思っている凡人たちは、それを与えてくれるかもしれない神が実在することを、どうしも渇望してしまうんです。

□だとすれば信仰を得るには、何か深い悲しみの体験や不幸の体験がいるようですね。ということはこれだけすごい信仰の記録を残したヘブライ人達は、相当の苦難にあってるのでしょうね。

□ともかくこうして「光と闇」が葛藤し合い、調和し合って、『バイブル』の物語の主旋律を奏でていくのです。元々「光と闇」の対立は、善神つまり光明の神アフラ・マズダと悪神つまり暗黒の神アーリマンの闘争を原理としたペルシアのゾロアスター教(拝火教)の原理でした。

□ヒンズー教も創造神(ヴィシュヌ神)と破壊神(シヴァ神)の二元論です。中国の陰陽五行説も二元論ですね。物事を対立物との闘争や相互関係で説明 していく方法を弁証法と呼びますが、ダイナミックに捉えようとするとどうしても弁証法な捉え方になるのは哲学でも宗教でも同じことなんです。
-----------------神の為の人間、人間の為の神-------------

□要約的に読みます。神は水を大空で分けて、大空を天と名付けます。これが第二日。

□下の水が集められ海が出来て、地が現れて陸と名づけられます。そして地に各種の植物を繁殖させます。これで第三日。

□そして天に太陽と月と星々を作らせて、季節や年月をまた昼と夜を作られて第四日が終わります。

□第五日には、海の動物と陸に空を飛ぶ鳥達を作って、繁殖させます。

□そして第六日になって地上に家畜と獣を創造されるのです。

□第六日にはついに人が創造されました。第一章、第二六節・「神は言われた。『我々にか たどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜と、地の獣と、地に這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女を創造された。」

□そうすると神は人間の姿をしておられるわけですね。というより人間が神を模範の型(イデア)にして作られた、神人形なのです。

□神は人間を見ていると自分の分身のようで可愛くて仕方がないようです。結局、神こそ一番のナルシストなのです。だから人間に特権的な地上の支配者としての地位を与えたんでしょう。

□でも『バイブル』は、神がいて人間に書かせたかもしれないけれど、やっぱり人間が書いたものです。だから人間の気持ちがどうしても投影してしまいます。神に似せて人間が作られたという表現は、人間が神になりたいという願望の裏返しなんです。

□それに神が天地を創造して、動植物を繁殖させたのも、結局は人間に地を支配させ、幸福に暮らさせる為だということになります。すると神自身の存在意義を人間に幸福をもたらすことにあると考えていることになるでしょう。だから『バイブル』はすごいヒューマニズム宣言なんです、そういう一面を持っているんです。

□でもバイブルは人間に神を絶対無条件に信仰し、神の命令ならなんでも従うことを強制するものでもあります。

□神が人間を作ったのだから、人間は神のペットに過ぎないと断定しています。それで背いたら恐ろしい罰が当たっちゃうんです。つまり人間が神の為に存在するということも強調しています。

□そこでどっちの解釈を重視するかで、信仰の有り方がまるっきり違ってしまいます。人間中心か神中心かです。この二つの異質の信仰をまとめて統一するのはすごく難しいんです。

□統一協会から家族の働きかけで脱会した山崎浩子ってタレントがいましたね。彼女が言うには、マインド・コントロールが解けるきっかけになったのが、プロテスタント系の牧師から、この問題を指摘されたことだそうです。

□つまり統一協会では神は人間の救済の為に存在すると考えていて、しかもキリスト教ばかりか全ての宗教を統一原理で統合できると主張しています。

□でもプロテスタントの中には、人間が神の為に存在しているのであって、人間の為の神と捉えると冒涜だという解釈が強いそうです。それでまるで神の見方が統一協会とは違うんです、だから文鮮明の考える統一は不可能じゃないかと言われて、山崎は初めて「統一原理」に対して疑うようになったと言うんです。

□この問題はね、こういうふうに考えたらいいんじゃないでしょうか。

□神が人間を作ったように、人間も芸術作品や工芸品や他のいろんな物を作っていますね。つまり人間の手段や楽しみの為の物を造っているでしょう。人間によって造られた物は人間の為に存在しているわけです。この関係を、人間と神の関係にずらしたら、人間は神の為に存在するから、神の為に生きるべきだという考えになります。

□でも、人間は自分が自分たちのために作った物だからといって、造った物を無造作に破壊したり、無駄にしては駄目でしょう。やはり大切に使わなくっちゃね。

□そしてここが肝心なんですが、実は人間はそうした物を作り 出すことで、自分を表現し、自分の力を実現できているんです。

□人間だけが自由に物を生産できますし、自分の能力を労働を通して発揮でき、示すことができます。

□そこで手段だった人間の被造物が、かえって人間の目的になりますね。だってそれで自己が実現できるのですから。

□だから人間はもちろん人間中心に生きているわけですが、同時に人間が作り出す物の為にも生きているわけです。そしてそのことに最大の幸福を発見できるのです。神と人間の関係もこれと同じなんです。

□これこそ素晴らしい統一原理だと思いませんか。統一協会も多宝塔だとか珍味とかを、原価の数十倍で売りつけて、暴利を貪る詐欺みたいなことはやめて、もっと素晴らしい信仰表現になるものを生み出し、それを販売すればいいんです。心を込めて良いもの造り、それをできるだけ安く売る精神でいけば、もっと感動を生み普及する筈です。

 
--------------------エコロジーの問題 ------------------

□神中心か人間中心かという問題の他に、人間中心か自然中心かという問題があります。

□「創世記」では神は人間に動植物をすべて与え、支配するように命令されているでしょう。その御陰で自然が破壊され、地球環境が危機になっているんだから、大問題です。

□人間が自然を支配するという場合、好き勝手に地球環境を破壊していい筈はありません。 そんなことをすると、支配者である人間自身に必要な自然環境まで破壊してしまい、人類が絶滅することになります。

□人間が健康に暮らすには、美しい空、澄んだ空気、きれいな水、豊かな森、魚がたくさん生棲できる海が必要です。

□ところが近代の産業の発達は、最大限利潤の獲得という資本の論理に支配されて成し遂げられました。資本が増えそうなことなら、たとえ自然環境を破壊することになっても産業の発達として歓迎されました。

□その結果、今では地球は北極圏の白熊やアザラシまで、汚染された魚を食べて大量死する有り様で、かつてない地球生命の危機を迎えています。

□豊かな水と生命の星という地球環境は、すごく壊れ易いバランスの上で維持されていて、まさに「奇跡の星」という名がぴったりです。特にオゾン層の御陰で地上の生命は紫外線の脅威から辛うじて守られているのに、最近オゾン層が薄くなり両極地と北アメリカ大陸に大きなオゾン・ホールができてしまいました。

□そこで先進工業諸国はその元凶の一つとされるフロンガスの製造停止や廃棄を進めていて、一九九五年までにフロンガスの生産停止まで決めたのです。でも新興工業諸国ではまだ生産を続けています。今後急成長が予想される中国やインドでフロンガスの 製造が禁止されないと、とても地球は持たない筈です。

□大気汚染に伴う酸性雨の被害も拡大し、どんどん森林が枯れています。そして途上諸国は熱帯雨林のジャングルの開拓を進め、砂漠も急速に拡大しています。

□どれだけ破壊が進めば、環境のカタストロフィ(大崩壊)が起こって、人類がいつ絶滅するのか予測するのは難しいのですが、相当深刻な状態にあることは確かです。ぐずぐずしてたら手遅れなんです。

□こうなったのは『バイブル』で人間の自然支配を肯定していたからと言えるのでしょうか。人間の自然支配の肯定は、何も自然破壊の肯定ではありません。こんなに海や空を汚し、北極熊まで中毒死させてよい筈はないんです。

□人間はバイブルの言葉に甘えて、奢りがあり、乱暴に自然環境を破壊しました。だから『バイブル』の表現も大いに反省の必要はありますが、神による人間の自然支配の許可は、人間に神が与えた自然環境を、人間の理性で責任を持って守り管理するようにという命令だと受け止めるべきです。

□ところが人間は環境保護には理性を働かせないで、脇目も振らない利潤追求にばかり理性を使ったのがいけなかったんです。

□神が人間に自然支配を任せたのは、自然の調和にも目配りが出来る理性を持っていて、地球生命の中の理性の役割をしてくれると思ったからでしょう。

□ところが人間は私利私欲の固まりで、自然自身の理性としての働きをしてくれないのです。神もがっかりです。人間は、地面の塵から造られた、地殻の一部なんです。だから人間が自然の一部として、自然の事を考えるのは、地殻が自分を振り返っていることなんです。

□ところで人間には自我があって、その自我という捉え所がないものに固執しがちです。そして想像したり、推理したり、構想したりして世界を様々に解釈したり、改造しようとする自由な意識として自分を捉えます。

□それで動植物や自然全体と断絶させて、人間を捉えてしまいます。しかし所詮は地殻の一部に過ぎません。自然との代謝の中で生きているのです。結局は土だから土に帰るのです。だったら人間の意識も自然自身が意識していることになるでしょう。

□「山には山の憂いあり、海には海の悲しみが、ましてこの世の花園に咲きしあざみの花ならば」と『あざみの歌』で歌われています。私達人間が身を引きちぎられる思いで自然破壊を憂えているのは、同時に自然自身が我が身を憂えていることでもあるんです。

□実際、自由に考えているようでも、人間の考える内容は自然や社会の状態によって決まってきます。自然を破壊するような考えや行動もある程度はできても、それに徹したら、人間自身の存続がどんどん危うくなります。

□その意味で、結局人間は自然再生に向けて理性を大動員せざるを得ないんです。それができなければサバイバル(存続)する資格はありません。

□『バイブル』の神の審判も、人間が自然の一部であることを忘れて、自然を自分のあさはかな私利私欲の為に破壊してしまうことに対する「自然の復讐」を、神による審きとして受け止めた考えかもしれませんね。『バイブル』のこの箇所も、舌足らずのと ころは補充して、それを訴えていると解釈しておきましょう。
-----------人間対動植物、そして魂の不滅について--------

□ところで神は何から最初の人間アダムを造られたのかご存知ですか。

□第二章、第七節。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

□人間については土から作ったとはっきり書いていますが、動植物のことは書かれていませんね。それに動植物を作った時には「命の息」の吹き入れについても書いていないんです。これは動植物と人間とがまるっきり断絶しているって事なのでしょうか。

□ギリシア思想をヘレニズムと呼び、『旧約聖書』に書かれた思想をヘブライズムと呼んでいます。ヘレニズムとヘブライズムを自然神信仰と超越神信仰として対極的な信仰と考えるか、『旧約聖書』にも中に両方の要素が入っていると考えるかで、解釈は違ってくるのです。

□「命の息」を輪廻転生する魂のことだと解釈しますと、ヘレニズム的な信仰になります。つまり肉体は滅んでも魂は不滅だということになるんです。

□これではヘブライズムの立場から見れば、神と同様に人間も魂としては不死だということになり、人間を神化して超越神を否定することになってしまいます。

□じゃあキリスト教は、超越神論だから不滅の魂を説く教えじゃなかったのでしょうか。 不滅の魂を信仰するから、死んでも天国に行けるとか、永遠の生命を信仰できるのですよね。

□キリスト教はヘブライズムとヘレニズムの融合と見られるので、そこが微妙なんです。ヘブライズムでは「お前はそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記、第三章、第十九節)とあります。

□神から吹きこまれた命の息は永く止まりません。命の息が抜けてしまうと死んでしまうのです。命の息を不滅の魂と捉えると、自己は肉体よりもこの命の息だとなるところですね。しかしバイブルでは、人間はかえって「ちり」 や「土」や「肉体」として捉えられているんです。

□じゃあ、少なくともユダヤ教では、人間は死んだら土に帰って、それでおしまいだとい ってるわけなのでしょうか。

□実は『バイブル』では死後人間が天に昇った例は、エリヤと『新約聖書』のイエスしかいないのです。

□でも彼らは神との契約を信じています。神との契約を忠実に守り抜けば、神はイスラエルの栄光を実現して下さる筈なんです。それに奇跡を信じていて、神の辞書には不可能という文字はありませんから、義の為に生きた人々は、いずれ死後の審判の時に甦らせてくださり、不死の楽園に導かれる筈だという信仰を持っているのです。

□それならいつになるか分からない審判まで無ですね。でもキリスト教では死ぬことは神に召されることで、かえってめでたい事だって言います。これも矛盾した話ですね。

□キリスト教の葬式に行くと、牧師さんは死についていろんな説明をされます。「神に召されたのだから、残された者には寂しいが本人の為には祝福すべきだ」とか、「人間はちりらちりに帰るのだ」とか、「神は全能だから必ずさばきの時に甦らせて下さる」とか、バイブルのあちこちから矛盾した言葉を引いてくるんです。

□そして結局はイエスの次の言葉を信じるように言われます。それは『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」第一一章、二 五節の言葉です。

□「わたしは復活であり、生命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも、決して死ぬことはない。」

□だからイエス・キリストを信仰することによって、彼が死を克服して甦ったように、死を克服できるというのです。魂の輪廻転生説とはやはりだいぶ違いますね。

□ヘレニズムでは輪廻転生する魂は、動物や植物にもなります。それに対してヘブライズムでは動植物は人間の為の食糧源や家畜としか捉えられません。ヘブライズムのこの人間中心主義はすごく傲慢な気がしますね。

□そしてヘブライズムでは動植物に魂を低くみて、全く動植物の生命の尊厳を認めません。デカルトは動物機械論を唱えました。デカルトによると動物は神が作られた精巧なエンジンつきの自動機械なんです。

□人間の身体もその意味では同じ自動機械なんです。ただしデカルトに言わせますと、人間には思考する主体としての霊魂が宿っているのです。彼は霊魂の主座を、頭のてっぺんの松果腺だと推理 しました。全体液が必ず頭のてっぺんの松果腺を循環して、すべての情報が伝えられますから、そこに魂がはりついていれば、判断が可能だからです。

□こういう傾向に対してイギリス経験論は否定的です。ホッブズは人間の霊魂を身体のはたらき以上に考えることに猛反発しているんです。
ーーーーーーーーーーーーエデンの園ーーーーーーーーーーー

□神は人間を作られてから、人間が快適に過ごせる環境としてエデンの園を作られたのです。

□第二章、第九節「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、さらに園の中央には命の木と、善悪の知識の木とを生えさせられた。」そして神はこう人に言いまた。

□「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

□あれ、命の木の実は禁断じゃなかったのでしょうか? 

□書かれてませんが「命の木の実」も禁断だったんです。この禁断の木の実の話は、〔エデンの園の中央には命の木と善悪を知る木があった。〕という話と、〔善悪を知る木の実を食べてはいけないという禁令を犯したので、エデンの園を追放された。〕という話と、〔神は命の木の実を人間に食べられるのを恐れた。〕という話が別々に作られて、まとめ られたと考えればいいんです。そういう風に『バイブル』誕生の謎を解く「聖書学」という学問があるそうです。

□「善悪の知識の木」を食べちゃって賢くなると、「命の木の実」の取り方も考えつくかもしれませんね。それで神は恐れたかもしれません。

□でもどうして善悪を知る木の実をわざわざ作っておいて、食べるのを禁じたのでしょう。どうせ禁じるのなら、エデンの園にはそういう木は植えなければ良かったのに、そう思われませんか。ほんとに神は罪作りですね。だから本当は、神は人がそれを食べることを期待していたのではないかって、精神分析学的に勘繰られているんです。

□子供が誕生しますと、最初は笑ったり泣いたりするだけで罪がないですよね。それがだんだん成長してきて、言葉を覚え、智恵がついてくると、親の思い通りにいかなくなります。わがままばっかりいったり、親に反抗したり、悪たれをついたりしだします。

□だから親という者は、子供は幼いままで、初な心のままでいて欲しいと思うものなんです。でも成長しなければしないで、これ程心配なことはありません。やはり自分の頭で善悪の判断がつけられる一人前の人間になって欲しいものです。それがたとえ親を裏切り、反抗して、家庭から出ていくことであってもね。

□ということはエデンの園は過保護の幼児期に当たるんですね。欲しいものは何でも与える状態ですから。ただ、善悪の判断を勝手にしちゃいけない、そういう時はお父様である神様に聞きなさいということなのです。

□ですからこの「善悪を知る木の実」は「智恵の木の実」じゃないんです。「善い悪い」の価値判断と「ああすればこうなる」の知的判断は違うでしょう。

□昔から神が食べたらいけないと言ったのは「禁断の智恵の木の実」と思われていて、物事の客観的な知的認識それ自体が神に対する罪に当たるんじゃないかと誤解されてきました。だから科学技術が発達することは、神が隠した秘密を暴くことで、神へ の冒涜に当たるという非難があったんです。

□そういう批判に対して、フランシス・ベーコンは『ノヴァム・オルガヌム(新機関)』で反論しています。

□ベーコンによりますと、神が禁じたのは、勝手な道徳的善悪などの価値判断なんです。もし一人一人が自分で善悪を判断しちゃうと、それぞれ別の価値体系を持つことになってしまいますね。各々が自分の道徳的良心に従って行動したら、善意故に傷つけ合い、殺し合うことにもなりかねません。そこで道徳的価値判断は神に任せ、神の定めたトーラー(律法)に無条件に従っておけばよいということになります。

□それに対して事実についての知的判断が正しいかどうかは、実験、観察や効果について調べればはっきりすることだし、知れば知るほど生活が改善されるとベーコンは考えたのです。それで彼は、神が隠した創造の秘密を知ることは、それによって神の創造の偉大さを賛美することだと主張しました。

□でも人間にとって便利なように自然を改造する科学的な知には、とても恐ろしいところがあります。だっていつもある決まった目的からしか物を見ていないでしょう。その目的には役に立つかもしれないけれど、それによって変化させられた自然がどのような副作用を伴うか、初めから分かっているわけではないのです。

□この危惧が当たって、今では、この道具的理性が地球を深刻な環境危機に追い詰めているわけなのです。だから便利なものをどんどん生み出そうとする科学技術も原理的に反省すべきです。  

□それに各自が価値判断をしてはいけないというベーコンの考えも、怖いですね。

□神による価値の一元化と絶対的な専制支配になってしまいます。神の支配といっても、実際には神と交信できると称する特権的な司祭や預言者の独裁になります。地上の権力者が神の権威を笠に着て、専制支配をおこなうことになりかねないのです。

□でもみんながばらばらな意見になってまとまらなくなると、人間は一人一人になって、衰退してしまいます。やはり意見を喧嘩ごしじゃなく、しかも対等な話し合いで一つにまとめるシステムが必要なのです。

□そこで共通の価値観を共有していない者同士でも、はたして対話が可能なのかが問題になっています。

□現代は急速にグローバル化しつつあり、異質の価値観に基づく文化が地球上の到るところで混ざって住み始めました。それでかえって「文明の衝突」が懸念されているんです。

□特に宗教は教義や教団にこだわって排他的になる傾向が強いですね。だから対話によって、対立を緩和するのが難しいのです。

□宗教的な教えが正しいかどうか、客観的に証明できるわけじゃないでしょう、だからお互いに譲れないわけです。それに奇跡や預言といった理窟を超えた部分を含めて信じ込んじゃってますから、余計にこじれちゃうみた いですね。

□でも交通や情報の発達によって、異文化が接近し、混住しているってことは、やはり異質な文化間の相互理解、融合が進むということなんです。

□宗教も互いの教義を学び合い、欠陥を是正し合うチャンスなんで、排他的な態度を取り続けると、孤立してしまいます。

□グローバルな世界市場統合と地球環境の保護、集団安全保障体制の確立、資源・食糧の確保などを考えると、もう国民国家の時代は行き詰まっていて、グローバルな政治的統合が必要な段階にきているんです。

□その際、宗教的紛争でみんな台無しにされたのではたまりません。オウム真理教事件や各地の宗教紛争を反省材料にして、各宗教が自己の教義の排 他性、攻撃性、残虐性を点検し直し、他宗教との相互理解、和解を進めるべきなんです。

  
-------------------------アダム語の成立------------------

□第二章、第十八節「また主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合 う助ける者を造ろう。』そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、」

□あれ!また造り直していますね。人を造る前に鳥や獣を造った筈なのに、神ならすでに造ったのをエデンの園に連れてくれば良かったのにね。

□ということは人の為の環境を造ってから、最後に人を造ったという創造説話の他に、人を造ってから、他の動物たちを人の為に神が造ってくれたという説話が、別のバージョンとしてあったってことです。

□いずれにしても人間中心主義だってことですね。このようにバイブルの矛盾するところを、 謎解きしながら読んでいきますと、退屈しません。それを人によったら構成がめちゃくちゃだとか、前後矛盾するから駄目だとか言って、腹を立てたり、だからユダヤ教やキリスト教はいんちきだと決めつけてしまいます。そういう読み方では、せっかくの素晴らしい精神の宝庫から何も学びとることができなくなってしまうのです。

□続きを読みます。生き物たちを「人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶとそれはすべて、生き物の名となった。」

□ということは、人は初めから名前をつける能力を持っていたのですね。バイブルでは、神が人に言語能力を授けたとなっているのかと思っていたでしょう。

□アダムが造った言葉をアダム語といいます。確かにこの言語能力を神が授けたとは書いていませんが、生まれつきの能力は神がみんな創造によって授けたものです。それで言語神授説と捉えてもいいのです。実はこの箇所はイスラム教の『クルアーン(コーラン)』では、かなり重要な役割を担っています。

□アッラー、変ですね。『クルアーン』でもヤハウェやアダムが出てくるのでしょうか。『バイブル』の神の名は「ヤハウェ」でイスラム教の神の名は「アッラー」です。イスラム教がユダヤ教やキリスト教と仲が悪くて、戦争ばかりしているのは、違った神様同士で喧嘩ばかりしているからじゃなかったのでしょうか?そういう初歩的な誤解が多いんです。

□『旧約聖書』はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典なんです。イスラム教 の教祖ムハンマド(マホメット)によれば、神は初めモーセなどのユダヤ人に預言したのです。預言というのは、未来を言い当てるのじゃなくて、神の言葉を託するという意味です。

□それでたくさんの律法(トーラー)を与えたのですが、ユダヤ人は律法を破ってしまったのです。そこで神の言葉に従うように、モーセ以来の大預言者であるイエスを処女懐胎の奇跡でこの世に送り込み、神の言葉を伝えたのですが、ユダヤ人はかえってイエスを処刑してしまったのです。これは神への裏切りです。

□他方、キリスト教徒はイエスを預言者としてではなく、子なる神として崇拝してしまい ました。これは根本教義である唯一絶対神信仰に矛盾しますね。

□それで今度は、イスラム教によりますと、神はキリスト教徒も教えに背いたとして見捨てられたのです。そしていよいよアラビア人ムハンマドにアラビア語で預言されたのです。それが『クルアーン』の内容になっています。

□だからアッラーはヤハウェのイスラム圏での呼び名なんです。これは全くイロハのイの常識の筈ですが、世界史の授業でもそんな話は習っていない人が多いようです。

□いかに日本の教育が宗教の基礎知識さえ蔑ろにしているか分かりますね。宗教上の誤解がとんでもない紛争に繋がりかねないのですから、こうゆう大切な事が抜け落ちないようにすべきですね。

□神は『クルアーン』では、神の代理者としてアダムを、つまり人間を地上に置いたのですが、天使たちは予感が鋭くて人間のような「害をなし血を流す者」を地上に置くことに反対します。

□人間って確かに恐ろしいことをしてきましたからね。天使たちが反対するのももっともです。でも神は人間を自分に似せて作られたので、可愛くてたまらないのでしょう。

□それで神は一計を案じたのです。天使に獣たちの名前を告げろと命令しました。もちろん天使は何も教わっていないから知りません。そしてアダムにそれらの名前を告げさせるんです。神は狡いんですよ、前もってアダムには獣たちの名前を教えておいたのです。それで天使より人間の方が偉いと言いたいのです。その上で、天使たちにアダムに跪いて拝めと命令するんです。天使たちにすれば、天使は火を素材に造られていて、土を素材に造られている人間よりも格が上だと思っていたので、いやいや跪かされました。

□どうして火の方が土より格が上か分かりますか。ギリシアでは、火・空気・水・土という四つの元素から自然が構成されているとされていました。そのうち最も活動的で純粋の生命に近いのが火で、その対極が土なんです。それにギリシア語で生命と魂は区別されないで、「プシュケー」と呼ばれていました。生命と魂が同じだなんて、ちょっと日本人には理解できませんね。魂というと死後は肉体から離れる考える主体のようなものを思い浮かべてしまうでしょう。 

□他の天使たちは神の命令は絶対だから、しかたなく命令に従いましたが、イブリースだけは自尊心が強くて、なんで土の塊に跪かないといけないんだと、ムカッときたんです。

□それで神に抗弁して、アダムを跪拝することを拒否しました。もちろん神はかんかんに怒りました。そこでイブリースを楽園から追放し、呪いをかけようとしましたが、イブリースは神に審判の日まで猶予して下さいと頼むんです。

□そしてその日までに人間たちをたくさん誘惑して、審判の日が来たら、煮えたぎる血の河であるゲヘナを人間で一杯にしてみせますから、と公約したんです。そしたら神はその申し出を気にいられて、それはいい是非そうしなさい、おまえに誘惑されるような奴はみんなゲヘナで苦しんだらいいんだ、というわけなんです。

□恐ろしい神ですねえ。それじゃあ悪魔と神は通じているようなものでしょう。それに神の天使たちに対する仕打ちも陰険ですね。

□予めアダムに名前を教えておいて、だから言語神授説になるんです。その上で天使に尋ね、後でアダムに答えさせるのだから、完全な騙しです。恐らくイブリースはそれに勘づいていたから、馬鹿らしくてアダムに跪拝しなかったのでしょう。それで神様に対する怒りが神様と同じ姿をした人間に向けられて、誘惑されることになったんですね。

□このイブリースという堕天使の説話は『クルアーン』で繰り返し出てくるんです。イスラム教の立場でいくと、イブリースにはそれなりの反抗の理由があるんですね。だからといって神に背いてはいけないということなんです。

□いかに理不尽と思っても、天使も所詮神に創造された被造物に過ぎません。なのにそういう肝心なことを忘れて、身の程知らずにも、自分を造って下さった神に反抗することは生意気な奢りなんです。これが最大の罪だということを強調しているんですよ。

□たしかに異教徒から見れば悪魔と通じているように見えるかもしれませんが、罪の誘惑に負けた者を裁くことで、人々を善に導くことができるという立場ですから、この裁きは愛の裁きということになるんです。

□『クルアーン』では、人間が生まれつき言語を造る能力を持っていたとは言えませんが、 でも『バイブル』ではどうもアダムは物の名前をつける天才だったようですね。

□ともかく人間の本質の一つは言語を話すということなのです。またロゴスは「論理」という意味ですから、ベーコンはこの言語能力、つまり名付け能力を、物事を客観的に捉えて、その属性や様態や運動を述語づける能力つまり論理的に認識する能力だと捉えています。

□この言葉を使って世界を認識し、神の創造の秘密を解くことを神を賛美することだと強調しているんです。

□それに「ヨハネによる福音書」の「初めに言葉(ロゴス)があった。言葉は神 と共にあった。言葉は神であった。」という叙述と結合させて捉えますと、その言葉を紡ぎ出すことができる人間は、真理に迫る神聖な存在であると訴えているとも受け取れるます。

□言葉を使うというのは要するに考えるということです。それから話すということ、つまり自分が考えていることを人に伝えるということです。そうしてはじめて、心と心を通い合わすことができます。単なる身体的な関係を超えて精神的な存在になれるのです。

 
------------------アダム・エバコンプレックス --------------

□動物の中には、人にふさわしい助け手が見つからなかったので、ついに神は女を造りました。

□「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると、人は言った。

□『ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。だから、これを女と名付けよう。』

□それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」

□「男から取ったものだから女」というのは どういう意味でしょう。男は「イシュ」で女は「イシャー」なんです。「イシャー」は「イシュから」という意味です。つまり女は「男から」という意味なんです。

□元々同じ体だったから、母を離れて妻と結び合い一体になるということなのです。初めは男しかいなかったというのは、ギリシア神話でも同じです。

□染色体数からいくと、初めは女で、染色体が一つ欠けて男になるのです。どうせ男が考えたんですね、この説話も。男が先で、女は付け足しということにしておきたかったのでしょう。

□生物学的に考えれば、付け足しなのはたしかに男の方かもしれませんね。ギリシア神話にはパンドラ説話という有名な説話があります。

□初めはね、クロノスという時の神が主神だったのです。その頃、人間は男だけでした。ところがクロノスと大地女神ガイアの子、叢雲寄せる天空の神ゼウスが、父クロノスとの戦争に勝って、ゼウスが主神の時代になったんです。

□その後、ゼウスと人間の守護神プロメテウスが対立します。彼は人間のイマジネーションの神なのです。そのプロメテウスが智恵の女神アテナイから智恵を、火の神ヘファイストスから火を盗んで人間に与えたのです。それで怒ったゼウスは、プロメテウスの弟、人間の後悔の神エピメテウスにパンドラという女を与えました。

□このパンドラは女神と見まちがえる程美しかったです。その上に、女神には見られない初々しく瑞々しい美しさをもっていたそうです。だって死すべき運命の人間としていずれは美しさも萎びるからこそ、若い日の乙女の美しさはひとしおなんですから。

□ギリシア神話では、女がいなかった時、男はどうして生殖していたと思いますか。まさ か単為生殖していたんじゃないでしょうね。

□そういえば『古事記』では、イザナミの尊を亡くしたイザナギの尊は、黄泉の国にイザナミを尋ねたけれど、振り向くなと言われたのについ振り向いてしまって、イザナミがあまりに変わり果てた姿だったので、ほうほうの体で逃げて来て、黄泉の国へ続く洞穴を岩で塞いでしまいます。

□それで禊をし、左目を洗って天照大御神、右目を洗って月読の命、鼻を洗って建速須左之男の命の三柱の神を生んだという神話があります。

□ギリシア神話では、クロノスの時代の人間は、なんと豊穰な地面から生えて出てきたということです。その点、「創世記」ではアダムのアバラ骨からエバが造られたので、男女は元々一体だったということで、後はすべて男女が合体して一体に戻ることで子供を産んでいるんです。

□アダムからエバが造られたということは、科学的に見ればアダムの遺伝子でエバが造られたことになりますね。だからアダムはエバの父でもあるのです。

□そうするとアダムとエバは近親相姦で子供を造ったということになってしまいます。確かに娘というのは父にとって「我が骨の骨、我が肉の肉」です。分身としての娘が母と離れて父と合体しようとする、これこそ根源的な抑圧された性衝動かもしれません。

□これはフロイトの「エディプス・コンプレックス」や「エレクトラ・コップレックス」を超える発見かもしれませんよ。いままでアダムとエバを父娘関係で捉え返した人はおそらくいなかったんじゃないでしょうか。ひょっとして私が愛読している小此木啓吾の本に出ていたかもしれませんがね。もしこれが学問的に価値ある発見だと、そのプライオリティ(先駆性)を主張しなきゃいけないからエバ・コンプレックスと名付けておきましょう。

□でもちょっと変ですね。「それで人は父と母から離れて妻と結び合い、一体になる」とありますから、このコンプレックスの主体は、エバじゃなくてアダムです。アダム・コンプレックスか、アダム・エバコンプレックスにした方がいいですね。

□そのうえアダムの場合、父娘の抑圧された性的衝動を問題にするのだったら、「妻から離れて娘と結び合い」になる筈ですね、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」とあるのでやっぱり無理ですかね。

□それでもまだ未練が残ります。だってギリシア神話でも女が男の後で作られることになっていますが、男から女を造ったとはなっていません。だから父娘じゃないんです。その点バイブルは体の一部から造っている。これは明らかに直系、親子関係です。そしてその失われた一体性の取り戻しとして性衝動を取り扱っています。

□ところがもう一点アダム・エバコンプレックスの成立に不都合なことがあります。エディプス・コンプレックスでは、先ず乳児期の母子一体関係があって、それが幼児期に父親という第三者の力で威圧されて、潜行するので説得力があったんです。

□ところが父娘には乳児期のような一体期がないじゃないですか。だからそれが抑圧されて潜行するなんてこともないわけです。

□でも観念的でしかないかもしれないけれど、一体だったって思いが根拠になって、父と子供は精神的に結ばれていますね。母の場合は一体だってことが乳児期の体験としてあるから確かだけど、父と子の一体性は生まれる前の一体性で生後体験じゃないんです。

□でも人間は観念的なというか推理する動物です。この子は「わが骨の骨、わが肉の肉」じゃないかと思って、夫婦で育てたいと思うのです。子供も自分は母とは一体だけれど、父はよそ者じゃないかといぶかりながらも、自分のルーツみたいなものを父に感じて、父に頼ろうとするんです。

□でもそういう一体性の取り戻し欲求は性的な形をとるのでしょうか。母子相姦と父娘相姦と比較して母子相姦の方が多いという統計でもあるのでしょうか。

□やはり一体であるということを確認したい衝動を抑制し、昇華して、それを父親の責任感に変えているんじゃないでしょうか。娘も父に対しては遂げることのできない思いを別の男性に向けるから、結婚式前夜とか結婚式での「お父さん有り難う」が盛り上がるとは言えないでしょうか?

□ところで父と子供の一体感というのは、大家族主義の儒教では連綿と家系が続くということになるので、一番大切なんです。子供は親がこの世に遺した「遺体」だと見なされます。

□「ぎょ!遺体と言ったら死体のことじゃない。」と訝られるかもしれませんね。「遺体=死体」というのは魂の輪廻転生説に基づいています。

□不死である魂が抜けちゃうと肉体は死体に成ってしまいます。魂というのが即ち生命なのですから。そういうのはアーリア的な発想です。それでインドやギリシアでは輪廻転生説が盛んだったのです。

□魂の輪廻転生説では魂がものとして、まず有るわけです。それが肉体に入るのが生きるってことで、離れるのが死ってことなのです。

□でも中国では死によって肉体を構成している気つまり物質が離散します。祖先霊の供養は家族で祭ることで気を寄せてできるだけ戻して、家族を守ってもらおうとします。

□だから物質的にあるのは気のみです。魂というのは、その気の集まろうとする働きです。それを親が子を造ることで遺していくんです。

□だから子は親の遺体なんですよ。この親子一体観念で子の中で自分の生命が生き続けていく不死信仰を持てるんです。『バイブル』の「我が骨の骨、我が肉の肉」は、ですから儒教的な発想に近いことになります。

□カール・R・ポパーが『よりよき世界を求めて』(未来社)で強調していますが、現存する生命は親の生殖細胞の遺伝子が子の原細胞になって、それが細胞分裂して身体を構成していますね。そうすると子は親の生命の生き残りの部分だということになります。ですから何十億年も前の原始細胞が生き残っているのが現存する生命だということになりますね。ポパーの場合は、儒教的な不死思想に非常に近いように思われます。
----------------------------蛇の誘惑--------------------

□「エデンの園」で禁断の智恵の木の実をとるように誘惑した蛇の正体は一体何でょう?禁断の木の実は甘いのですが、それがもたらす神からの離反、人間の精神的自立、そしてその結果生み出される文化は苦く、酸っぱく苦悩に満ちていますね。神の死の警告をもはねのけて、木の実を食べずにはいられなかったのは何故でしょうか。

□そろそろ禁断の木の実の話に入りましょう。エデンの園にはうっそうと木が生えていて、果物がたくさん実りました。アダムとエバは好きなだけ食べてもよかったのです。でも園の中央にある、命の木の実と、善悪を知る木の実は食べたら死ぬぞと神に脅かされていました。ところが野の生き物で一番狡猾だとされる蛇がエバを誘惑するわけです。この誘惑の蛇というのは、果してサタン(悪魔)なんでしょうか。

□そう一般には解釈されています。でも『バイブル』の本文では、ただ蛇とあるだけで、その正体はサタンだったとは書いていません。

□蛇を精神分析的に夢判断すれば、誘惑の象徴なんです。それも性的な誘惑の感じが強いのです。男性のペニスのシンボルでもあります。

□だから統一協会ではエバがサタンの性的誘惑に負けてしまったと解釈して、これで血が汚れたとしているんです。この血の汚れを清めるためには、汚れのない血で清めなければならないとして、キリストの生まれ変わりである文鮮明との性交が必要だとしていたらしいと噂されています。

□結婚式の「血分け」の儀式と言いまして、脱会者の言によりますと、教団がまだミニ集団だった時には行われていたらしいのです。「血分け」で浄化されてから、今度は結婚相手と性交して相手の血も浄化するのです。

□きれいな血、きれいな体に戻らないと最終的な御国で暮らすエリートに残れないということです。でもそういう儀式はいつまでも続けていられません。教祖の血や精液を薄めていただいたり、今では象徴的に教祖が祝福した液体を飲む儀式になっているということです。その結果あの社会的大問題になった集団結婚式や、その準備のための詐欺的商法が編み出されました。

□ずっと前にテレビで、アフリカの未開部族の酋長の初夜権の事を観たことがあります。それを連想します。でもよくそんな最初の女がだれとどうしたって問題に未だにこだわれるますね。

□「創世記」は、人類の登場についての象徴的な寓話に過ぎないのに、そのことが理解できないのでしょうか。そこがポイントですよ。統一協会は特に『バイブル』の「創世記」説話を、全く実話として取り扱っているんです。

□つまり信仰する以上、すべて真実として扱うべきであるというのが原理主義の立場です。だから荒唐無稽な説話を、荒唐無稽だからこそそのまま信じるのが、一つの信仰告白なんですね。信徒はそこに信仰の純粋性や本物意識を持つんじゃないでしょうか。

□統一協会は『バイブル』の記事から計算して、アダムとエバの時代を今から五千年前と考えているらしいのです。

□じゃあ統一協会では、それ以前は人類はいなかったし、その一週間前に天地が創造されたというのでしょうか。そんな事今時信じられるなんて、驚異ですね。

□第一、何万年、何億年前の化石なんかどう説明するのでしょうか。それは全能の神ならたやすいことだと考えるのです。化石も一緒に創造されたことにすればいいんですから。つまり五千年前に神は何万年前、何億年前の化石を一遍に造っちゃったんだって事になっているのです。

□エバは死んだらいけないからって、神さまに禁じられていた善悪を知る智恵の木の実を食べる事を、蛇に「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」と言われて心が動きました。

□「目が開け」というのは、それまで盲目だったってことじゃないありませんよ。続きを読むと、盲目じゃなかったって分かります。善悪を判断する心の目が開いていなかったという意味です。

□「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで目を引きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分達が裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした。」

□なる程、目には美しくとあります。ここで女がいかに欲しがりで感じたがりで、敏感で、活き活きしてたかが分かるでしょう。おいしいもの、美しいものを欲しがり、世界を知り、賢く成ろうとしていたのですね。

□欲しいものを得れるなら、たとえ死んだって構わない、悪魔にだって心を売る、そんな欲深くて、もっともっと充実したいと構えていたのです。

□その頃は死に関しても何も知らないし、生まれたての、感じる心しか持っていないものでしたから、蛇の誘惑に乗ったのは仕方無いですよね。だって神は善悪を知る能力すら与えていなかったんですから、道徳心のない彼らにとって、神の命令は脅しの効果しかありません。もっと刺激的な蛇の甘言の方にひかれてしまったってことでしょうか。

□ここでは妻エバがイニシアティブ(主導権)を発揮しています。つまり女が男をリードすると、罪を犯すことにしているんです。だから夫アダムが妻エバを支配すべきだという、男尊女卑を説く説話の典型なんです。

□そういえば、『古事記』のイザナギの尊とイザナミの尊が国生みのセックスをする時、 女の方から「いい男ね」と先に声をかけて、セックスをしたら蛭子が生まれたので、次に男から「いい女だな」と声をかけてセックスしたら、ちゃんと国生みができたという神話がありましたね。

□この世に登場したのも男が先、女がでしゃばると罪を犯す、蛭子が生まれる、国が滅びるということを神話で強調していますね。こうした神話は、男性中心社会を確立する上で、重要な役割を果たしたのでしょうね。それに善悪判断の最初が、裸が礼に失するという性的タブーだったのがおもしろいですね。

□これこそ人間は『パンツをはいた猿』(栗本慎一郎著、カッパサイエンス)だという説の見本です。いちじくの葉で性器を覆うことにどんな効果があったのでしょう。パンツというのは性器の露出を防ぎ、発情を抑えて、日常生活を円滑にしようとするものでした。

□それだけ人はいつでも発情できる色情狂の傾向があるんです。他の高等動物はだいたい雌が発情してフェロモンを分泌し、これに誘われて雄が発情して初めてセックスします。それであまり回数も多くありませんし、普段から性欲を漲らしているわけではないんです。

□でもボノボ(ピグミー・チンパンジー)は特別ですよ。あのチンパンジーより賢くて、ア メリカではたくさん言葉を覚えた猿のことです。ボノボの雌は食べ物を取ったり、いろんなサービスを雄にやらせるのですが、そのお礼に気軽にセックスをさせてあげるそうです。それも不特定多数にですって。

□ボノボのようなのは例外で、普通の動物は、淡白なものだからパンツなんか要りません。ところが人は、パンツを穿かせておかないと駄目なぐらいエッチなのです。栗本慎一郎に言わせると、本性はやりたがりなんだから、パンツは脱ぐために穿くんだということになります。これが栗本によると、文化の本性なんです。

□じぁあ、文化もパンツみたいに脱いじゃう為に穿くってことは、文化を作り上げておい て、壊しちゃうってことでしょうか。つまり破壊するために文化を作り上げるのでしょうか。

□これを栗本は「余剰(あまりもの)・蕩尽(無駄に消費しつくすこと)」論と呼んでいます。パンツもただ発情を抑制するだけじゃなくて、いざセックスの場面になるとパンツを脱ぐってことが、初めからスッポンポンより演出効果があって盛り上がるじゃないですか。そういう効果がかえってあるんです。

□栗本によりますと、文化というのは一般に、別に必要のない余剰なんですが、それを破壊することによって快楽を得る構造になっているんだそうです。

□だから余剰な文化が積み上げられれば、積み上げられるだけ、それを破壊しようという衝動が強くなるそうです。現代文明は破壊と建設を繰り返しながら、とてつもなく巨大になり、それを破壊する装置もどんどん進化しています。

□栗本は、核兵器の廃絶を目指す運動に対して、人間の本性に反対しても無駄だと書いていました。つまり破壊するために積み上げているのに、破壊に反対しても余計に積み上がって、破壊が大規模になるだけだってことです。

□なんて恐ろしいことを考えていたのでしょう、栗本は。栗本の論理でいくと、いちじくの葉が文化のはじまりってことですから、それじゃあ神が恐れていたのは、人間が文化を創造するってことになりますね。

□そう考えますと、禁断の木の実は「善悪を知る木の実」の意味だけでなく、やはり「智恵の木の実」の意味もあったかもしれませんね。

□ともかく人間は物事に対する自分の価値判断力を身に付け始めたことによって、神から離れ、自立していくのです。それが人間を造った神の側から見れば罪に当たるんです。

□未練がましいですね、神は。本物の芸術家は、一度作品に自分を表現してしまうと、その作品は既に過去の自分だって捉えるものです。

□もう自立した他者として、否定し、乗り越えるべき対象の筈です。そうでないと、次の作品に取り組む意欲が出てきません。むしろ神は人間が価値判断できるようになったことを、褒めて祝福してやれば良かったのに、子離れの悪い父親ですね、この神は。

 そこなんです。『バイブル』は信仰の記録だから神を賛美する書なんですが、人格的な存在として捉えられているでしょう、神は。それでどうしても人間の感情や思いが神自身の感情や思いとして表現されてしまいます。そうするといじけた性格の神が浮き彫りになってしまいます。

□そこで十三世紀のユダヤ教最大の神学者マイモニデスのように、これを神に人間の弱点を投射していると感づいて、神に対する人格的な表現は、全て比喩として理解すべきだという議論も出てくるんです。

□つまり神には摂理はあっても、人間のような感情はないという解釈ですね。

□ところで神から離れるのを罪だという場合、罪は人間の欲望が神との約束を破らせたことによって生じたものなんです。ここで罰を与えないと、人間は欲望を抑制しなければならないという生活の原理を習得する機会を逃してしまいます。だから「禁断の木の実」事件で罪を問うのは神の摂理に叶っているんです。

□蛇の言い方ですと、人間が価値判断力を身につけると神のようになるから、神が神としての特権がなくなることを恐れているんです。

□神は人間が神のごとくに成ることに脅威を感じているようですね。逆に言えば、「創世記」では人間が神に迫っていこうとしているのです。

□価値判断力や永遠の生命を手に入れて、本物の神に成り上がろうとしています。それを奢りとして批判的に書いているんですが、逆読みすれば、神に迫ろうとするところに人間の本質を描こうとしているヒューマニズムを読み取ることもできるのです。

□エーリッヒ・フロムは『ユダヤ教の人間観』で、「アダムの神」をこの神に迫るヒューマニズム として解釈しています。

 ところでエバのエデンの園におけるアンニュイ(倦怠)を想像して下さい。エデンの園 には時間や変化がありません。きっと死にたいくらい退屈していたんでしょう。でないと神に死ぬと警告されて、蛇の誘惑に乗れる筈がありません。

□ですからたとえ蛇が誘惑しなくても、二人は禁断の木の実を食べたかもしれませんね。でも待って下さい。彼らはまだ死を知りませんね。だから死の恐怖もなければ、死にたいとも思わなかったかもしれません。

 
ーーーーーーーーーーー蛇と女への判決ーーーーーーーーー

□禁断の木の実を食べてしまったふたりは、神に出会うのを恐れ、木に隠れます。でもそのことでかえってばれてしまい、エデンの園の裁判になりました。

□これが人類史上最初の裁判です。裁判官はもちろん神、被告はアダムとエバと蛇。この被告達は例によって「秘書が」とか「愚妻が」の責任回避をやります。

□まずアダム「あなたがわたしと共にいるようしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」こういう言い訳、してもいいわけ?あくまでも自分が食べたくて、我慢できなくなったから、もらった木の実を食べた筈ですね。食べないともう遊んでやらないとか、エバに言われたわけじゃなし、ほんとに主体性のない男ですね、アダムって。

□エバだってひどいですよ。「蛇が騙したので、食べてしまいました。」蛇は別に騙したつもりはありませんよ。「死なない」と言ったのも、すぐには死なないの意味で、木の実自体には毒性が無いという意味なんです。その点死ぬぞと脅かしていた神の方が騙していたとも言えます。

□善悪を知る能力は実際についたのです。だから蛇は誘惑の罪はあっても、詐欺の罪はありません。「おいしそうだし、それに賢くなりたいと思ったから、神さまから禁じられていたけど、我慢できなくなって、つい食べてしまいました。ごめんなさい。」と素直に謝ればよかったんです。

□蛇には弁解は一切言わせません。片手落ちですね。蛇から判決です。「このようなことをしたおまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。おまえは、生涯這いまわり、塵を食らう。」

□地を這って塵を食べても、体がそういう構造になっているんですし、別に塵をまずいと思って食べるんじゃないでしょう。蛇には蛇の味覚があります。何か蛇に対して差別的です。実は蛇も元は四つ足だったんです。ところが神に呪われて、ああゆう細長くて地面を這わないといけない形にされちゃったんです。だからバイブルの蛇にすれば惨めですね、一生ちりを食べなきゃいけないのは。

□もちろん「 創世記」の蛇じゃない実際の蛇にすれば、自分なりに自然環境に適応してきた結果ですから、あれが好みの生き方なんでしょうから、同情されるとかえって差別で腹を立てるでしょう。

□蛇はすごくシンボリックな動物です。衝動的で抑えきれない欲望を表現しています。その意味で、アダムとエバとは別の第三者というより、彼らに心の奥にとぐろを巻いている欲望の衝動を象徴する蛇なのです。それが罪を犯させるんです。

□人間の悪い心、この場合は神に背こうとする心です。これを神が超越的な正義の立場から、フロイト的にはスーパー・エゴから抑圧しているんです。ところが人間の欲望は止めようもなく禁断の木の実に向かっていきます。だって、それ以外はもう食べ飽きていますからね。ほとんど他のものでは食欲は湧きません。

□まだ、エデンの園の食糧が不足がちならよかったんです。手に入れる苦労があれば、やっと食糧にありついたということで、それだけおいしいと思えるんですが。あいにくエデンの園はいくらでも木の実ならあるんです。

□そりゃあ食べられなくなっちゃいますね。気分的に言って。だから未知の味に対する欲望はどんどん肥大してしまうんです。そしてしまいにコントロールが全く効かなくなります。それで欲望が、アダムやエバの心から抜け出して独立し、誘惑の蛇として登場したんです。

□それはアダムやエバにとって自分自身の悪を外に出して、この外化された自分の悪によってかえって支配されることを意味します。ですから自分で自分を疎外する自己疎外の一種なんです。

□ということはサタン(悪魔)は神から離れようとする、人間たちの悪が生み出した、悪の結晶みたいな存在だということです。もちろん宗教は、善や愛の固まりとしての神や、悪や憎しみの固まりとしてのサタンを、人間から独立し、それ自身で存在するような超越者の姿で捉えるんです。でもみんなある程度は、神や悪魔が人間の心の有り方を、外に出して他者として捉えたものだと知っています。だから神は愛だとか、心に悪魔 が住んでいるとか言うのでしょう。

□また次のような仮説も成り立ちます。大和の三輪山の御神体は白蛇です。アテネ人の祖先神も下半身が蛇だったって神話にあります。蛇っていうのは割に信仰の対象になっています。でもヘブライズムではそういう自然物を神するのは禁止されています。だから異教の神に対する白眼視が、蛇が神に呪われているという説話の元にあるんじゃないでしょうか。

□蛇は地をはい回るので、大地の象徴です。土を耕すように見えるので豊作の象徴でもあります。それで未開部族では蛇をトーテム動物として崇拝している部族も多いのです。

□ところがユダヤ人の祖先であるヘブル人達は、どうも自分の土地を持たないで、異部族の土地の一部に寄留して、砂漠の強盗団ベドウィン族の襲撃から守ってあげていた少数部族だったらしいのです。

□相手の部族の事情次第であちこちと流浪していた半流浪の民で、だから土地と結びついた信仰を持てなかった事情があったようです。定住部族はたいがい大地母神や河の神を祭っているし、トーテム動物には蛇を祭っていた部族もあったでしょう。

□ともかく定住する土地が欲しくてたまらなかったので、それだけ異部族やその神に対する 妬みや対抗心も強かったようです。そういうコンプレックスが蛇に対する憎しみを生んだとしてもおかしくありません。「レビ記」にアンモン人の神モレクが登場します。この神はどうも蛇だったようです。アンモン人は自分の子供を生贄にモレク神に捧げていたのです。『バイブル』の神ヤハウェは元は聖なる石だったようで、石塚正英によるとフェティシズム(物神信仰)の段階ではライバル関係だったようです。

□次は女エバに対する判決です。「おまえのはらみの苦しみを大きなものにする。おまえは苦しんで子を産む。おまえは男を求め、彼はおまえを支配する。」

□確かにお産は、女が損ですね。二人の共同の子なんだから、同じだけ苦しむべきです。それを女ばかりえらい目に逢わされるなんて納得できないのでしょう。それを女が率先して罪におちたからっていう作り話で、女ばかりお産で苦しむようにするなんて、余計に腹が立つでしょうね、女の人達は。

□「創世記」を書いた人はどうせ男なんです。女の負担をできるだけ協力して軽くしてやろうというのではなく、女自身の罪の報いだと言いくるめようとしているところが、卑怯で冷酷ですね。それにお産だけでなく、男が女に対して支配権を持つことまで女の罪の報いだと言いくるめています。情けないですね、まったく。

□エバが蛇の誘惑に乗って、アダムはそれに追随しただけだっていうのは、全くの作り話です。でも『バイブル』という宗教的権威で語られると、否定すれば信仰心まで疑われることになるので、実害があります。

□またこの叙述を根拠に女が誘惑に弱いとか、情緒的で理性的判断力に欠けるというのも、問題です。もちろん出産・保育に関して男と女の分業がある程度必要なのはわかりますが、そこから男の女支配を正当化してしまうのは飛躍です。

□女と男がどんな分業関係を結べばよいかは、それぞれの社会の文化の有り方にも左右されることですが、人格的に平等なパートーナーシップを前提にしないと、女は常に抑圧された意識から解放されないことになります。

□フェミニズム(女性解放)の立場から『バイブル』批判を行うのは、数千年の男優位社会の正当性を問い直す、とても根源的な作業で、大いにやるべきです。

□女は情緒的で誘惑に弱く、罪に陥り易いって決めつけておいて、だから理性的な男が保護監察してやらなければならないって、堂々と開き直る男っているでしょう。こういうような決めつけが、女性差別を助長しているのです。

□世の中には酒や博打で身を持ち崩したり、すぐ情緒的におかしくなってトラブルを頻発する男だって一杯います。どっこいどっこいですよね。女を家庭内に縛りつけておいて、社会的な経験も積む機会を持たさなければ、女が情緒的な性格になっちゃうのは当然でしょう。

□だからこの差別は悪循環になってるので、ここらで断ち切らないといけません。これからの社会では、女にもしっかりして能力本位で生きていこうとする姿勢が求められています。女に対する不当な差別をはねかえす為にも、しっかりした女性解放の考えが必要なんです。

□蛇(サタン)が、実は人間の内心の悪が生み出したものじゃないかという疑問と、「エデンの園」説話が男優位社会を生み出す論理を含んでいるという発見、この二つのことは重大ですね。

 
--------------------------罰としての労働-------------------

□最後にアダムに判決が下ります。『バイブル』では「人」なんです、アダムは。エバは 「女(人から)」なのに。つまり女はちゃんとした「人」と認められていないんですよ。単なる人の「助け手」として、人に与えたものとして扱われています。だからアダムに対する判決が、人間の原罪に対する一般的な判決に当たるんです。

□「おまえのゆえに、地は呪われるものとなった。おまえは生涯食べ物を得ようと苦しむ。おまえに対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするおまえに。おまえは顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵にすぎないおまえは塵 に返る。」

□大地がアダムが犯した罪によって呪われた大地になって痩せてしまい、穀物の成育が悪くなります。今までは、エデンの園では果実がたわわに実り、労働の必要がなかったのですが、その時からは痩せた大地を耕して水を引き、いばらやあざみ等の雑草を刈り取り、不作の時は雑草も食べて命を繋ぐがなければならなくなったのです。そして苦労の末なんとか生命を保てても、寿命が来て、土に帰ってしまうことになりました。

□結局人間は神様のような姿はしていても、生涯原罪を償う為の労役に明け暮れて、やがて疲れ果て、弱って死んでいく、そして土に帰ってそれでおしまい、ということになったのです。これじゃあ人間は原罪を終身労役刑で償うだけの存在だとということになってしまいますね。それにアダムとエバが犯した罪をどうして子々孫々まで償い続けなければならないのでしょうか?

□今でも中南米の密林等にナマケモノという猿が住んでいて、全く労働なんかしないで、のんびり暮らしています。人口や欲望さえ肥大させずに、最も効率的にカロリーや栄養源を道具を使わずに補給できる環境さえ造れば、労働の必要はありません。だから『老子道徳経』では文明を一切否定して、欲望を最小限にし、小さな村で閉じ籠もって暮らすのが理想だって言ってます。いわゆる「小国寡民」ですね。

□文明ができるとピラミッドや万里の長城や大宮殿ができます。だって文明というのは権力の強大さを誇るためのものだから、大きいものをつくるんです。

□宮殿の周辺には人が大勢集まり、大きな都市ができ、さま ざまな文物が集積され、交換されます。美味しいもの、綺麗なもの、珍しいものがいっぱい集まって、人間の欲望はどんどん膨れ上がってしまいます。

□でも都に集められた富を消費できるのはごく一部の特権階級だけです。残りの大部分の 民衆は、そういう連中の欲望を満足させる為に、莫大な富を生産しなければなりません。

□そしてその生産機構にうまく組み込まれないと、今日一日の生活資料も手に入らなくなるのです。そこで「労働する人間」の登場です。働いて、働いて、働いて、働きづめで死んでいくのが人間の本質になってしまうんです。

□実際はこれは神の罰というより、安定的で抑圧的でない社会機構をどうしたら造り出せるか、生産力の無理のない発展と欲望の肥大化をどのように調整するかという難しい問題なんです。

□宗教は解決困難な問題を神に対する人間の原罪とその償いとして説明して、悲惨な現実を運命だと受け入れさせる効果があるんです。つまり悲惨な現実を自分たちの身に覚えがないけれど、先祖から背負ってきた罪のせいにさせられちゃうわけです。

□それで諦めがつくのでしょうか?皆が同じように苦しんで労働しているのなら、まだしも諦められるかもしれませんが、貧富の格差が大きくて、労働しなくて豪勢な暮らしをしている人もいるのに、自分たちは悲惨な労役に耐えなければならないとしたら哀れですね。

□アダムとエバが犯した罪を、どうしてわれわれが償わなければならないかという問題がありましたね。原罪の問題を「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」など日本が過去に犯した過ちを、われわれ戦後生まれの日本人が償う問題に応用してみればどうでしょう。

□わたしは個人としては、全く責任は無いと思います。でも日本という国家は続いているのですから、国民としては国家の罪を償う責任は認めなければならないのです。

□同じ国家の構成員として過去の日本人と現在の日本人は、同じ日本人なんです。少なくとも被害を受けた側の国民はそう思っています。さてどれだけの償いをできたでしょうか?中国や朝鮮(韓国)の 人々は、充分償ってもらえたと思っているでしょうか?

□それが全く思ってないんです。だって中国政府は賠償請求権を放棄したし、韓国政府は五億ドルの経済援助と引換えに解決済にしてしまったのです。でも戦争被害者には一円も賠償金は支払われていないんです。だから中国や韓国の人はやっぱり日本人を恨んでたのですね。

□たとえ多額の賠償金が支払われても、虐殺された人々の生命は帰らないし、屈辱の日々は決して贖われない。その思いは子々孫々に語り継がれます。恨みが現在や将来の日本人に向けられることになるのです。そういう悪感情がどんな痛ましい悲劇を生まないとも限らりません。

□ではそのことと、アダムとエバの罪が原罪としてわれわれにのしかかることと関係ある のでしょうか。神にとったら男はみんなアダムだし、女はエバなんです。そういう面がどうしても残るんです。つまり人類という全体を神は見てるわけです。

□ちょうどわれわれが世界史、人類史を振り返るように。そしてアダムとエバが犯した、神から離れ、神に背くという罪を人類はきちんと贖っただろうかと考えると、相変わらず、神から離れ、神に背き続けているんじゃないだろうかという気がしませんか?

□ではそれは不信仰という意味でしょうか?確かに不信仰が罪だとしたら、わたしも神の実在は疑わしいと思っています。でもそれはわたしの罪じゃありません。たくさんの宗教があって、どれが正しいか断定できないこともありますし、科学的な知識によって、天上界だとか神の国とかの存在が、迷信としか思えないようになってしまっているからなんです。

□そういうのをすべてきれいさっぱり無くして、それでも神よ、あなたを信じます!って叫べるような、奇跡とか特別の宗教的体験を与えてくれなくっちゃ駄目なんです。

□でもそれこそ神から見れば、人類全体が罪深いということになります。それに愛に生きるようにという最低限の教えだって守っていない人が多いんです。

□世の中醜い争いだらけですし、自分の私的な利益の追求に汲々とし、その為に人を騙したり、蹴落としたりしようとしています。ということは原罪というのは、濁った世の中で人間が生きていくことによって、繰り返し犯さしてしまうような、どうしようもない罪なのですね。アダムとエバはその典型で、罪の鏡みたいなものなのです。でもその為に人生が懲役刑のようになってしまうのは納得できません。

□同じ労働でも、私利私欲の為に自分の生活や金銭欲のために働くとしたら、当然それは犠牲でしかなく、懲役のような強制されたものになってしまうのです。

□ということは利己主義という罪に堕ちているから懲役になるので、愛の実践として働けば懲役とは感じないということなのです。みんなの幸せのためとか、自分の能力を実現して社会に貢献するために働けば自由な充実した時間になるということですね。

□自分に合った、自分の好きな仕事ができればいいんですが、現実はそうもいきません。そこで生活の為に我慢して、嫌な仕事をしている場合が多いのてす。

□だからいやいや働かされている人に、皆の為になるから喜んで働きなさいというのも酷ですね。でもね、いつまでも「エデンの園」に居て、何も働くこともなく、自然に融合して暮らしてるだけなら、それはナマケモノと変わりませんね。

□それこそ何も認識する必要はないし、殊更考えることもありません。人生の意味に思い悩むこともないんです。神に背いて、楽園から追い出され、痩せた土地と格闘して、命を削って働いてこそ、生きる意味、働く意味、人を愛する意味、人生の喜び悲しみが味わえるわけです。

□つまり労働も宗教的にはエゴを捨てる「勤行」なんです。そういうように開き直りますと、自分自身の営みが自然に対する神の営みと一体化して、宗教的な法悦が味わえるそうなんです。

□もちろん私もまだそういうとこまで達してはおりません。もっとも私は働くのはいやじゃないんです。ただそれできちんと家族に対する責任が果たせていないのが心苦しいところです。

□ところで神に対する信仰も、直接神の懐で神と対面しているようなエデンの園では、神の存在は疑う余地はありませんから、まだ生まれていません。

□神に見放された「エデンの東」の痩せた大地との苦闘の中でこそ、本物の絶望や希望そして不信仰や信仰が生まれるんです。

□エデンの園ではまだ本物の人間は誕生していません。だから子宮の中のようなものなんです。エデンの東に追放されて、そこに本当の人間が誕生するんです。それ は土にまみれて働き、土から生まれ、土に帰る有限なか弱い、しかし生きる意味と愛の救いを求める存在なんです。

□労働を何か神の罰のように考えるのは、すごく辛いことですね。できれば労働こそ自分の力が発揮でき、社会に貢献できることだから、一番のいきがいのように感じたいじゃないですか。だから若い内に自分にあった仕事、一生続けても悔いのないような仕事を見つけることが大切なんです。これからは女性も家庭を守るだけではやっていけなくなりますから、自分の一生の職業を決めて、それに就けるよう頑張らないといけません。

□「わたしは小さい子供が好きだから、幼児教育ができたら楽しいだろうと思ってるの。もちろん辛くて苦しいこともたくさんあるでしょうけれど、楽しいこともいっぱいあるでしょう。」とうちの娘は言ってましたが、このように具体的に目標の定まっている人は、自分で決めたら、自分で努力することです。本気でやりだしたら、きっといつかは実現できます。

□では「あなたは塵だから塵に帰る。」というのはどういう意味でしょう?死んじゃったらお終いという意味でしょうか?そしたらどうして神を信仰する必要があるのでしょう?

□元々『バイブル』の古い思想には、後で出てくる死後の審判・復活も、来世における神の国の到来も、天国の思想も、いわゆる今日宗教的救済といわれるようなものはなにもないということです。

□だから素朴に「あなたは塵だから塵に帰る。」とあれば、その字句どおりの意味になります。しかし天地創造の「創世記」は、全体としては神を唯一絶対の超越神と捉え、全知全能と考えていました。そして神との契約を守ることで、イスラエルの栄光がもたらされるという信仰はあったのです。

 つまり個人の救済より、民族的な救済の方がウエイトが大きかったのです。その解放の時のイメージが広がって、義人は審判の際に復活するというようになり、来世思想が展開されることになりました。

□そうなると塵に帰っていた体が再び骨・肉・皮を取り戻して元の体に復活されるとされたのです。ですから元々は、ヤハウェは現世におけるイスラエルの守護神だったのです。そしてイスラエルの栄光をいつかもたらす神だったのです。

□それがバビロン大捕囚以後はなかなかイスラエルに栄光を現わしません。栄光は自分たちの生きている時代には無理だということで、その審判の時が来たらぜひぜひ我々を死から復活 させてほしいと願うようになり、来世信仰になったのです。まあ全知全能で不可能ということはないんですから、塵に帰っても復活可能ということになる理屈です。                   
ーーーーーーーーーーーー楽園追放ーーーーーーーーーーーー

□第一節「アダムとエバの人間論」はやっと大詰めです。楽園は、まだ人間が人間として誕生する前の子宮にいた状態です。罪を得て人間はやっと自分に目覚めるのです。ですから楽園追放からやっと本格的な人間の歩みが始まるのです。

□最大のポイントは人間は、個人としては有限であり、死ぬということです。皮肉にも死の自覚によって、人間は人間に成ったのです。この有限な時間の中で何を得ることができ、自分の人生を納得できるのでしょうか。神は死の問題をどういう形で克服させてくださるのでしょう?救済の意味は、永遠の生命とは。それらが歴史の中でいかに証されるのでしょう?これまで読んできたほんの四頁のバイブルの書き出し部分に、これほど豊かな内容が詰まっていたとは、驚嘆ですね。

□いよいよ楽園追放になりました。「人は我々の一人ように、善悪を知る者となった。今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者になるおそれがある。」

□そこで神は人と神の断絶を保つ必要を感じて、エデンの園から追放します。神は人が永遠に生きる神のような存在になって欲しくないのです。じゃあ、神が人を死から救済して永遠の生命を与える筈はありませんね。イエスの永遠の生命を与えるという言葉は、楽園追放とは矛盾することになりませんか?

□イエスの「永遠の生命」が本当に無限の長時間生きることを意味していたのかどうか、これは、『バイブル』全体の大きなテーマの一つです。

□ともかく死の問題を克服するというのが、宗教の最大のテーマで、中国の道教では不老不死の仙人が究極の目標ですし、アーリア系では肉体は可死だが魂は不死だとして魂における不死を説いています。つまり魂は輪廻転生して、さまざまな境涯を永遠に生き続けるんです。

□表面的にはこの輪廻転生を苦しみとして否定的に捉えていますが、魂が消滅するとする「魂の断滅」論を否定しているんです。それで輪廻説では、やり直しが何度でも効くことになっています。やはり本音では死の問題を克服する動機があるのでしょう。

□儒教の場合は、親の生命は子が引き継い で連綿と生き続けます。日本では死は黄泉の国での生活として捉えられています。だが『バイブル』は、古い層では、不死は神の特権であり、人は元々塵だから塵に戻るべきだというのが基本認識で、それで一番唯物論的なんです。

□科学的な見方をすれば、これが一番妥当ですね。人間結局何十年生きられるか分からないけど、それだけの人生で、それ以上時間があると思ったら駄目なのです。そしたらまた次の人生で出直そうという気になっちゃって、甘えが出てしまいます。

□一日で死んでしまう虫だっているんだし、永すぎても、その日その日を今日一日で終わりと思って真剣に生きた人より充実していたとは言えないでしょう。

□これをハイデガーは「死の先駆的決意性」というんです。つまり本当に生きる為には、先ず自分が有限で必ず死ぬという事実に直面して、自分の死を決意し受入れておかなくてはならないという考えです。そうしてはじめて人間は与えられた有限な時間で、何を求め何をなすべきかに取り組むことができるとしたのです。

□「死の先駆的決意性」によって今日という日が、ただ直線的な時間の単なる線分ではなくて、常に過去の総括であり、未来を含んでいることが分かります。だから現在は未来・過去を含むことで永遠の輝きを放つことができるのです。

□すごく深い真理を聞いているような気もするんだけれど、抽象的過ぎてよく分からないでしょう。たしかに「永遠の生命」が文字通り、無限の長時間死なないという意味であれば、死への恐怖心はなくなるけれど、生きることへの意欲は殺がれますね。

□別に今日しなくてもいいわけですから、何もしなくなってしまいます。かえって本当に生きることはできないのです。そういう意味で生命の輝きや充実はなくしまうのです。

□だから神は、人には充実した生き方をして欲しいから、あえて人を命の木から遠ざけ、痩せた大地と格闘させて、生きる意味を問い直させてくれたわけです。これこそ本当の意味での救済と言えるし、愛と言えるかもしれませんね。すごくシビアなんですが。

□とはいえ、楽園追放は、楽園へのあこがれ、夢を激しく募らせるわけです。命の木の実を食べて、神のごとく永遠に生きたいという夢やあこがれです。

□やっぱり有限な生命でははかなすぎるのでしょうか?短い人生の中では、ほとんど大したことはできないで、苦役に追われ、次から次へと襲ってくる不幸との応対に疲れ果てて、命を縮めてしまいます。それで悔しくて堪らないのです。

□だから『バイブル』では神への信仰を守り、どんな苦難にあっても誠実に生き抜いているのに、結局、死ぬまで悲惨な生活を送ったり、悪業の限りをつくして神をさんざんこけにした悪党が、死ぬまで栄えていることを描いています。

□それでも信仰を守り、正しく生きることに意味があるのかを問いかけているんです。その方が、信仰を守ったら天国行きで、悪業を積んだら地獄行きという紋切り型よりも真実味がありますね。そこが『バイブル』の長所だともいわれています。

□でもね、正しく生きたけど報われない、それでも自分なりに精一杯自分を貫いた結果、これだけしかできなかったんだから、まあ仕方無いじゃないか、はいお終いでは、納得がいかない人が多いんですよ。

□だからこれは長所でもあるけど、同時に不満なところでもあるんです。そこで結局は、審判や来世を説く預言者が現れ、救い主メシアの登場が預言され、イエス・キリストの福音につながって行きます。これをキリスト教では永遠の生命が与えられたり、最後の審判で帳尻が合うような信仰として捉え返す人が多いのです。

□『バイブル』では、楽園追放から始まって、最後の審判へと人類の歩みは続きます。始点である楽園追放から終点である審判までの時間が直線的なのです。この宗教的な歴史観では、歴史には始まりと終わりがあり、審判という目的に向かって時が流れているとされています。おや?始点と終点があるのなら、直線的時間ではなくて、厳密には線分的な時間の筈ですね。直線的な歴史だと終点や目標なんかなくて、どこまでも続くイメージになってしまいます。

□『バイブル』のように歴史には終わりがあるという歴史観は「終末史観」と呼ばれています。東西冷戦が終わって、歴史が終わったと宣言したのがフランシス・フクヤマです。彼は、『歴史のおわり』(三笠知的文庫)を出して、世界中に話題を振りまきました。

□フクヤマの場合は、歴史は自由実現への歴史であり、ソ連などの全体主義体制が崩壊したことによって、リベラル・デモクラシー体制の普遍性が認められ、リベラル・デモクラシーを克服してより進歩した体制に発展することはなくなったので、そういう意味で歴史は終わったというのです。

□たしかにもう全体主義体制はこりごりですね。経済体制としての資本主義を克服することの是非はまだまだ議論の余地はありますが、資本主義を克服するにしても、リベラル・デモクラシーの枠だけは崩してほしくありません。

□でも歴史は常にその時代に抱えている課題の解決によって、次の時代に発展するものです。だから現代は、国民国家では解決できない問題が山積しており、国民国家の枠を超えて、グローバルな世界統合の時代に向かわなければならない時代なんです。

□各国でリベラル・デモクラシーが実現して、それでおしまいなんて呑気なことでは駄目なんです。それに各国のリベラル・デモクラシーもその中身はいろいろ問題があって、まだまだ発展の余地があります。リベラル・デモクラシーを発展させ、充実させるだけでも立派に歴史的な発展なのです。

□そういう意味で、歴史の終わりなんてとんでもないという批判を、私は『歴史の危機ー歴史終焉論を超えてー』(一九九五年、三一書房刊)でしたわけなんです。

□ではじゃあ世界統合が実現して、リベラル・デモクラシーが充実すれば歴史は終わるのかと言われますが、歴史が終わるということは、人類に解決すべき課題や矛盾がなくなるってことなんです。ある課題の解決は、次の矛盾や課題を生み出し、人類は常に新しい課題と取り組んで解決していかなければなりません。その意味では歴史は終わりません。

□神の審判による歴史の総括だと、いつ終わりになるかまるっきり分かりません。突然審判!って感じで、終わりになるんです。それこそ「神のみぞ知る」ですね。

□でも「ヨハネ黙示録」では、審判はまもなく始まるということなんです。すでにキリストが現れて、贖罪の十字架があり、再臨の準備に天に昇っている段階です。イエスは、きっといつまでも人間を悲惨なまま放っておかないから、すぐにでも審判になる筈でした。

□ただし、キリスト教徒は、審判を受け身で捉えてはいけません、今審判になっちゃうとそれこそ人類の大部分が神に滅ぼされてしまう大惨事になります。

□だから神をおそれて、皆が愛に生きるようになれば、神も恐ろしい審判を下す必要がなくなるわけです。審判思想をそういう積極的活動を促す警告と受け止めればいいのですがね。

□「ヨハネ黙示録」は神の審判を待ち望むという受け身の姿勢だから、怖いんです。ともかく歴史が終わりに向かって一直線に進んでいるというヘブライズムの発想に影響されて、宿命論に落ち込み、わたしたちの時代の歴史的課題との取組を忘れては駄目なのです。

     
-------------------善悪を知る木と生命の木---------------

□もう一度、エデンの園の中央の二つの木の意味を考えてみましよう。エデンの園は地上の楽園です。天上の神の国ではありません。でもアダムとエバは、いわば子宮の中の胎児のような状態だったのです。その意味ではエデンの園は、地上において神の国を象徴している存在だといえます。

□神の国は宇宙創成の以前から、いわば時間・空間を超越して存在している、われわれにとっては空想の世界です。空想の世界ですが、もしそんな世界が存在するとすれば、現実の世界はかえって神の国で予め構想されたものでしかないのかもしれません。かえって神の国から地上の国が生みだされたことになります。

□神の国は神そのものと考えてもいいのですが、神を空間として思い浮かべた姿だと言えます。地上というのは空間的な形で実在を示す場所ですから、時間・空間を超越している神の国をあえて空間として捉えたのがエデンの園なのです。

□ですからその中央にある二つの木は、天地創造の秘密をその内に蔵した木であると言えます。生命の木は、その木の実を食べたら永遠の生命を得ることができることで有名ですが、個体の生命の象徴というよりも、コスモス(宇宙)全体を生命として捉えたものではないかと思われます。つまり根源物質(アルケー)としての生命なのです。これを生命の木が象徴しているのです。

□もう一本は善悪を知る木とされていますが、そこには生命の流れや調和を定め、その現れ方の具体的な形式や展開が、知の体系の形でプログラムされているのです。つまりプラトンのイデアの世界に当たるわけです。こうして世界の二つの要素が予め有るので、それにそって世界創造や世界史が展開されることになるわけです。

□実はこの発想は真言密教にあるのです。大日如来は宇宙の本体を仏として捉えたものです。大日如来は金剛界と胎蔵界から構成されています。金剛界には無量最上の知恵を宿し、胎蔵界にはそれらを事象として発出する全ての種子を宿しているとされています。□金剛界を善悪を知る木が象徴して、胎蔵界を生命の木が象徴していると考えればよく分かりますね。このような発想にはギリシア哲学の影響があったのかもしれません。あるいはネストリウス派のキリスト教つまり景教から二つの木の伝説を知り、教義に取り込んだとも想像できます。

□仏教学者の中には如来蔵思想を非仏教的だと排斥する人もいます。でも仏教という統一的教義があると考えたり、釈尊の教えを再現できると考えること自体が、非現実的です。それに純化された仏教を取り出すことができるとしても、それは如来蔵思想を包み込んだ思想よりも、素晴らしいものであり得るでしょうか?

□もちろんこういう「二つの木」解釈は、イデア界と現実界、精神と物質、形相と質料を二元論的に展開する形而上学的な哲学の立場からの解釈です。『バイブル』をわざわざ哲学的に解釈して難しくすると、『バイブル』に親しめなくなると不平の声も聞かれそうですが、よく考えますと、プラトンのイデア界という構想は、超越的な発想です。ヘブライズムと通じるところがあるのです。

□ヘレニズムでは神も世界の中に存在します。原理や論理といっても、物質自身の中で貫く原理や論理ですから、決して自然を離れた、異次元の実在ではないのです。ところがプラトンのイデア界はオリュンポスの山中に住む神々の世界のイメージに近いのです。オリュンポスの山中に神々が住んでいるから、森羅万象が姿を現し、その姿を認識できるのです。

□もし風の神がいなければ、頬に当たる抵抗感を風だと感じ取ることはできません。単なる感覚の束でしかないのです。ですから何者も我々の前に姿を現しません。つまり頬に当たる空気の抵抗感を風と認識させる観念が確固として確立しているから、風だと認知できるわけです。

□その為には風が他の現象と区別され、関連づけていなくてはならないことになり、概念の関連の世界が時間・空間を超えて実在するということになるのです。その場所がオリュンポスの山中にありとしたのがギリシア神話のプラトン的解釈です。プラトンのイデア界はその哲学的表現なんです。

□でもプラトンもヘレニズム的限界にいますから、どうしてもイデア界と現実界を空間的に繋がったものと考えてしまいます。頭の部分のプシュケー(魂=生命)、つまり理性は死後肉体を離れて、希薄なので上昇して、空気の上の「火」の世界と合体します。そこがイデア界です。このように理性自身が自然の物質を構成しているという限界があるのです。

□とはいいましても、それはプラトンがギリシア人に分かりやすくするための方便なのかもしれません。彼自身はイデア界をまったく超越的に自然自体から異次元的に捉えていたとも解釈できます。だとしますとそれはヘブライズムの神観念に非常に近いことになります。

□フェティシズム(物神崇拝)との関連で、この二つの木について考えてみましょう。エデンの園を地上における神の国と解釈し、神を空間的に表現したものとしますと、二つの木は神の本体の中枢に当たることになります。木が神であるというのは物神崇拝ですが、これは木が神であるというよりは、神が木の姿をしているということに過ぎません。

□その意味では原始的なありふれた物を神にして崇拝するというフェティシズムとは区別されます。石塚正英著『フェティシズムの思想圏』『フェティシズムの信仰圏』(いずれも世界書院刊)によれば、ド・ブロスの定義ではフェティシズムはありふれた物を神にして崇拝し、それに願いを託して、願いを叶えてくれなかったらその物神を攻撃し、破壊するという信仰形態なのです。この二木信仰には物神への攻撃は既にありません。

□この聖なる木は空想の木ですが、おそらく先祖の記憶の中に神の木についての物神信仰の伝承があったのでしょう。そして太古ではその木に願いをかけ、聞き入れてくれなければ切り倒したり,棒で叩いたりしたのでしょう。しかしそれは余りに身勝手で神に対する冒涜だと気づいて、神木に触れたり、木の実を食べたり、叩いたり、ましてや切り倒したりすれば神の罰が下って死ななければならないというタブーが形成されたのだと想像できます。

□つまり物神の方に感情移入して、神の身になって考えてみた結果、人間は何と神を蔑ろにした酷い信仰をしていたんだろうと気づいたのです。禁断の木の実を食べたら死ぬという言い伝えは、おそらくフェティシズムへの反省から由来しているのです。

□それに物神(フェティッシュ)は、人間がきまぐれか何かの事情で選んだものですが、本当の神は人間が選択できるでしょうか?蛇、聖石、神木、神山、人形、聖剣、聖鏡等々はみんな人間が選んだ神です。人間によって選べない神ということで「見えざる神」観念がフェティシズム批判から生じたのかもしれません。

     

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