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学校評価コミュの携帯電話、家庭、学校、親の責任とは何か

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●子どもに携帯電話を持たせてはいけない

私の息子の話をして恐縮だが、今度高校に入学する息子のクラス(中学三年の卒業数日前のクラス)では、高校入試が終わったとたんに、入学祝いで携帯電話を買ってもらった生徒が多く、クラスの7割の学生が携帯派に一挙に変身したらしい。区立の中学でさえこうだから、私立であれば、9割くらいは(まったく根拠のない数字だが)携帯派だろう。

 なぜ、世の親たちは、こんな馬鹿な入学祝いをするのだろう。

携帯の最大の問題点は、自分の時間、一人になる時間を与えないということだ。これは〈考える時間〉を与えないということとほとんど同じことを意味する。

特にこれから高校生になってやっと自分で考えはじめる年齢の子ども達に、帰り道でも、自宅の自室でも携帯“コミュニケーション”が横行することになると、もはや“自己”は、忙しい会話(ドイツの哲学者ハイデガーは、この会話をGeredeと呼んだ)のなかに解体するしかない。

 大人の仕事の仕方でも、忙しく働いている人に仕事ができるはずがないように、忙しい子どもにもろくな子どもはいない。人間は“ため”がなくなると生活(=自然)の中に解体するだけなのである。

仕事が「忙しい」と言う人は、仕事が“生活”になっているだけなのだ。本来、仕事は危うい〈選択〉の連続なのに、不可避なものの連続である〈生活〉が前面化する。これは、大人にとっても大人になる子どもにとっても決していいことではない。

 同じように携帯は、“コミュニケーション”を〈生活〉化してしまったのだ。こんな貧相な“コミュニケーション”がかつてあっただろうか。

 我が家では、息子(長男)には30才になるまで携帯電話を与えないという「家訓がある」ということにしている。実は、もう一つ「家訓」があって、サンタクロースは本当にいるということを20才まで信じ込ませるというものだったが(別にクリスチャンでも何でもないが)、これはもろくも小学校6年頃から守るのが苦しい「家訓」になってきた。「親がサンタだよ」という友達のアドバイスを反駁するのは簡単だったが(「一年間よい子にしていなかった子どもは、親という偽のサンタにしかプレゼントをもらえない」ということにしていた)、クラスでサンタの存在について多数決をとったとき、サンタを信じていたのがクラスで一番勉強ができない子と息子のふたりだけになったとき(この2人は確信をもって挙手したらしい)、さすがに疑いはじめたらしい。

 だから携帯電話の30才も果たして守れるかどうか、あやしい家訓だが、持とうとしたときには息子に「勘当」を言い渡そうと思っている。

 私自身は、SONYの新しいFOMAを出たてで買って喜んでいるが、それは携帯電話というモノが好きなだけで、それで“生活”したりはしていない。中年男で携帯で“生活”している人というのは、不倫している男性ぐらいのものだ(記:2001年03月14日)。


●続・子どもに携帯電話を持たせてはいけない

親が子どもに携帯電話を持たせる直接的な理由がある。「塾通いなどで遅くなったときなどにも連絡が取りやすいから安心だ」というものだ。

「あなた、今どこにいるの?」というものだ。小学生から携帯電話を持たせる、超バカな親がいるが(もっとも私も含めて親というものはみんなバカだが)、なぜそうなるかというのは、この親から連絡が取りやすいというものである。

またもうひとつ、子どもになにか事故があったとき連絡が取りやすい(安全だ)というものだ。しかし、携帯電話の〈存在〉は、親から子どもへのためにだけあるのでもなければ、事故のためにだけ存在しているものでもない。

一度持たせると求心的、遠心的に自立的な“連絡網”ができあがっていく。忙しい会話(Gerede)のはじまりだ。世のお父さん、お母さん、子どもの(民主的な)要求に応じてはいけません。

もし、友達はみんな持っているし、お父さんだってもっているじゃないか」と子どもに言われたら、「そんなにだれでも持っているのなら借りればいいじゃないか」と言っておきましょう。

電話での連絡というのは、メール連絡と同じように、“連絡”の中で一番意味のない連絡です。死んだおじいちゃんの口癖は、「本当に必要ならここまで言いに来るよ」というものでした。それでいいのです。

 「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画(http://www.asmik-ace.com/LifeIsBeautiful/)で、主人公は自分の子どもにウソを言い続けました。迫り来るナチの暴虐に対してです。そして最後には子どもを救済することに成功します。

この映画は反戦映画というよりは、ウソであれ、本当であれ、〈確信〉こそ「希望の原理」だというものです。ブレるということこそが、リーダーの条件にもっとも遠いものだというものです。会社の課長や部長でも、正しいことを言おうと意識する上司に限って、昨日と言うことが違ったりします。これではリーダーになれません。

リーダーの条件は、真理を参照することではなくて、確信を保持すること(ブレないこと)なのです。だからこそ、リーダーはいつでも孤独です。「ライフ・イズ・ビューティフル」の主人公はだからいつもおどけていました。それは彼が(子どもにウソを言い通そうと)確信する人として孤独だったからです。であるからこそ、彼は子どもに未来を開いたのです。

 したがって、この主人公は死体をさらすことなく、死にました(死んだことになっています)。死においてすら彼は孤独だったわけです。リーダーは死ねない(死体すらさらせない)ほどに確信を保持しなくてはならないのです。

 子どもに携帯電話を持たせてしまったお父さん、「ライフ・イズ・ビューティフル」をぜひ見てください。民主的なお父さんというものが、いかにダメなのか、何が子どもにとっての「希望の存在」なのかがわかるかと思います。勇気を出して、子どもから携帯電話を取り上げましょう(記:2001年3月15日)。


● 続々・子供に携帯電話を持たせてはいけない。

〈考える〉ことができるのは、根本的には一人でいるときしかないのです。

かつて都会の夜には駅のプラットホームの思考時間というのがありました。

残業で一人になり、深夜のプラットホームで、待ち時間の長い電車を待つとき、人はその日一日あったことや、場合によっては人生のことまでも〈考える〉ことができたわけです(考えすぎて自殺する人がいるのもプラットホームです)。

今は一人でも携帯電話で話し続けています。深夜でも一人であっても、忙しい「会話」でにぎわっているのが携帯電話の蔓延するプラットホームです。サラリーマンの唯一の思考の時間であるプラットホームさえもが、携帯電話によって消失してしまったわけです。

 子ども達にとってのプラットホームとは、放課後の帰り道であったり、自宅での初めての自室(独立した部屋)です。そしてこういった空間が、携帯電話によって串刺しのように切り刻まれているのです。

 もともとこういった空間は、〈話す〉空間ではなく、押し黙る、あるいは〈書く〉空間だったわけです。そして話すというのは、時間に追われて話すということです。話す=時間なのです。

〈話す〉というのは根本的に忙しいことなわけです。

一方で書くことは、空間的であって、それは時間を累積させます。ためることが書くという行為です。理論とは書くことの成果です。

だから、書くことに近い話体である“東京弁”は、賢そうに見えますが、話体の極点である“関西弁”の大学教授の講義はとても理論的には見えません。“関西弁”をしゃべる人間は考えることから最も遠いところにいるわけです(私も京都出身ですが)。iモードメールも、書いているかのように見えますが、ほとんどのメールの文体は限りなく話体です。いわゆる“ため”のない書記行為なのです。

時間に追われた書記行為。それがメールを書くという行為なのです。

したがって、メールでいくら書いても、考えたことにならないのです。それは関西弁で書く、という矛盾です。明石家さんまのしゃべりを文字にして読んでも笑えるわけがないのと同じくらいに、メールで書くことは話すことの威力にすぎません。

 子ども達から一人になる時間や押し黙る時間を奪ってはいけません。話すことが中心になったり、話体でしか書けなくなるような状態に子ども達を追い込んだりしてはいけません。お父さん、「ライフ・イズ・ビューティフル」をまだ見ていませんか?(記:2001年3月16日)



●新・子供に携帯電話を持たせてはいけない。

今日、久しぶりに電車に乗った。

「八幡山」駅で、斜め前の席に、中学生の男子(制服から見て明大附属中学)が3人のってきた。3人とも席に着くなり携帯電話を使い始めた。初心者のようだ。「“送信にしました”だって」なんて言って喜んでいる。

 中学生から携帯電話。バカな親もいるものだ。なんで与えるのだろう。学生(or生徒)というのは、〈社会〉から隔離されていてこそ学生だ。〈連絡〉というものから隔離されていてこそ学生である。

 〈教育〉というのは〈社会〉の影響を受けないからこそ、〈教育〉でありうるのであって、だからこそ、次世代を担いうる人材を育成することが出来る。「即戦力」という言葉があるが、市井の英会話スクールやパソコンスクールの教育目標ならいざしらず、その意味の実態は“使い捨て”ということに他ならない。

 学校教育の目標は、大学を含めてさえ、〈基礎〉教育というものにかかわっている。〈基礎〉教育の〈基礎〉とは、わかりやすい、簡単なもの、つまり「初心者」のための教育というものではなくて、〈社会〉がどんなふうに変遷しても変わらない(=生き続けている、これからも生き続けていく)“資産”を伝えるためのものということである。

 そのため学校教育は、どうしても保守的になる。時代遅れになる。それは学校教育の“欠陥”ではない。その保守性や時代遅れは、社会的な変化(消失するもの)を“フィルター”にかけるためのものなのである。もちろん、こういった保守性や時代遅れは、次世代や将来を見通してのものである。〈基礎〉は、〈社会〉に媚びないからこそ、いつでも新しいものの源泉になりうるのである。

 だから、〈学校〉は〈校門〉をはじめとして、〈塀〉(=学校を取り囲むフェンス)で囲まれている。それは〈社会〉や〈変化〉から浸食を受けないためである。それは、〈監獄〉が〈社会〉から隔離されて〈塀〉で囲まれているのと同じことである。どちらも〈社会〉からの隔離という点では同じなのだ。たとえば同じ〈学校〉と言っても、〈社会〉に近い、〈変化〉に近い、実業教育、職業教育を標榜する専門学校には〈塀〉が存在していないのは、その理由からである。

 したがって〈塀〉の中の学生が、携帯電話を持って、〈外部〉(〈社会〉)と“連絡”を取るというのは、不思議な事態なのだ。彼らは、もはやその時点、〈学生(or生徒)〉ではない。最初から社会化している学生に、どんな〈才能〉や〈能力〉を見出そうとするのだろうか。

たとえば、最近、私の息子の都立高校に“名門”私立高校から生徒が“転校”してきた。不況で親が学費を払えなくなったためだ。あるいは学業すら続けられない子供がこの時代のあちこちに出現しているのだろう。

 本来、こんなことはあってはならない。こういった、教育からの脱落は、それ自体〈学校〉の〈塀〉の中に社会的な変化が浸食していることの結果なのである。こういった脱落組が負の浸食だとすれば、携帯電話は正の浸食である。携帯電話を持つ学生は〈塀〉の中にいながら(学校に在籍しながら)の退学者なのである。“社会”が豊かであることの意味は、学校を“社会”からどこまで孤立させられるかに関わっているのであって、その逆ではない。

これは単なる推測だが、携帯電話所有率、利用率の学生分布一覧でいえば、所有率・利用率が高い学校ほど、学生に勉強をさせていない学校であるに違いない。社会化した学校はもはや学校ではない。〈現在〉の中に自らを解体させてしまっているからである。

ところで、しかしこの状況は、学校がもはや〈社会〉の影響を受けないでいることは不可能な時代になりつつあるということではないだろうか。ちょうど、旧ソ連が〈社会〉の影響を受けて解体したように(ソ連の社会主義は、〈学校〉としての国家の歴史的実験だった。同じように学校的な中国も社会化しつつあるが、むろん〈学校〉は〈国家〉と同じではない)、〈学校〉も解体しつつあるのだ。
 
 私はこの社会化を防ぐ唯一の砦が〈家族〉だと思うが ― 親や家族こそが〈社会〉からの初源の〈塀〉なのである ― 、その親が、ふたたび子供に携帯電話を持たせて、〈家庭〉を社会化させている。家庭は“連絡”の渦にまみれている。もともとは、機能(利益)や目的に支配されない〈長い時間〉の絆によって形成されている家族の共同性が〈短い時間〉の連絡にずたずたに引き裂かれて解体しつつある。

 今こそ、親こそが“保守的”になって、子供から携帯電話くらいは取り上げようではないか。「みんなもっているから」なんて子供に言われたら、「みんなもっているから、持たないでいい」と言おうではないか(記:2001年11月4日)。

コメント(19)

日記の方の同記事でも書き込みさせていただきたのですが,こちらで同じ質問をさせてください。

ジャイアンさんがおっしゃっているのは,「やっと考えはじめる子供が生きる家庭・学校は,社会とは異質な空間であるべきで,そこにある一人で考えるための空間に携帯をもちこむべきではない」ということだと理解すればいいのでしょうか? ジャイアンさんがおっしゃっる「社会」とは,たぶん家庭や学校のある生活が成熟した「近代」といった意味なのかなとも思いました。

成熟した「近代」の家庭や学校には携帯なんかなかったというということは確かにあるわけですが,ジャイアンさんはそういうこともおっしゃっているのでしょうか?(そうおっしゃっているようにも思えるし,ちょっと違うようにも思えます)。もしそうおっしゃってるとした場合,「今日」の家庭や学校は,ちゃんと成熟してるんでしょうか?(時代に合わなくなっている面はないんでしょうか?)

携帯によって「家庭」の質が変化するかもしれないということはわかるのように思います。変化した後の空間は情報過多のせわしない「雑踏」のようなものかなと思いますが,そうだとした場合,「雑踏」の中に,自分の居場所(一人で考えるための空間)が見つかるということはないのでしょうか?

携帯のつくる空間って,やっぱしどうしようもなくネガティブなものなんでしょうか?
私の言う「社会」とうのは、生理的な有機性と言い換えても良いと思います。歯車のように組み合わさった機能的な全体、というイメージです。

そう考えると、家庭は、私には、どう考えても、反社会的なもののように見えます。昔「家族社会学」というゼミで、「家族は社会の基本単位」というバカな“定義”を聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか。 本当に〈家族〉が’連続的に拡大したものが〈社会〉でしょうか。

よく、息子が社会的な犯罪(犯罪というのはいつでも社会的なものですが)を犯して、世間に対して謝っている親がいますが、その謝罪の裏には「でもあの子は私にはいい子だった」という許容がいつでもついて回っています。この許容が家族です。それは社会的、というよりは、社会的なものとの隙間なのです。

子供が育つのは、この〈隙間〉なのではないでしょうか。携帯電話は、この〈隙間〉を解消させようとしている、と私には思えます。もちろん、これは過渡的な現象なのでしょうが。
「社会=全体,家庭=小空間,社会と家庭は異質」というご指摘は大変興味深いです。「学校」もまた,「社会」とは異質な小空間として,独自のものであるべきだというのがジャイアンさんのスタンスなんだろうなと思いました。また後で,反論させてください。
「社会=全体,教室=小空間,社会と教室は異質」という観点で議論を進めさせていただいてよろしいでしょうか?(ジャイアンさんのおっしゃる「隙間」を「小空間」と解釈してしまっていいのかどうかわかりませんが…)。また,携帯電話は,「社会」へのアクセス装置ということかと思いますが,多少,話を限定して(というより拡大してしまうのかもしれませんが),インターネットなどへのアクセス装置一般を携帯電話のアナロジーとして,議論させてください(それが不適切ならば,ご指摘ください。ジャイアンさんは携帯電話を非常にきわだったものとお考えかもしれないので,このアナロジーが成り立つのかどうかわかりませんが,その点も,教えていただけるとありがたいです)。

最近は,無線LANや情報コンセントが備わる教室が増えていると思います。情報教室(デスクトップパソコンのある教室)だけでなく,一般教室でも,授業にノートパソコンを使えるようになってきているわけです。で,パソコンが使える教室での授業では,おもしろいことが起こっているように思います。

本来,パソコンは,資料や演習を提示したり回収するためにあるのだと思いますが,すべての学生が授業に集中してくれるわけではありませんから,パソコンでほかごとをしている光景をよく目にします。最近は,mixi をしている学生をよく見かけます(一昔前は,「2ちゃんねる」だったかなと思います。もっと前は「ソリティア」(ゲーム)かな)。こういった状態を,「小空間であるべき教室が,インターネットによって解体された状態」と考えてみていいでしょうか? 

もう一つ,めちゃくちゃな例になってしまいますが,現在公開中の映画「デスノート」では,主人公の大学生は,個室において情報を収集し,殺人を遠隔操作します。「デスノート」は極端な例ですが,現在の家庭においては,「個室で子供が携帯電話」ということはよく起こっているだろうと思います(僕の子供はまだそういった年齢ではありませんが…)。本来は,個室は,一人で本を読んだり考えたり勉強したりする場所として用意された「小空間=隙間?」であるはずなのに,「個室」が「社会」にアクセスできる機能をもつと,「小空間」の質が変化してしまう。こういった状態を,「小空間であるべき個室が,携帯電話によって解体された状態」と考えてみていいでしょうか?

ジャイアンさんの「家庭は、私には、どう考えても、反社会的」というお話しは,「小空間である家庭は時として反社会的ですらある」という意味(解釈)として,大変,印象的でした。「教室・個室・家庭」がどうあるべきかは,今後よく考えたいと思います。ジャイアンさんの携帯電話論は,「小空間であるべき教室・個室・家庭を解体する装置は抑制するべきだ」とアドバイスをしつつ,「教室・個室・家庭」の空間性を問われたものなのかなと僕は感じました。

反論としては,携帯電話は「アンチ小空間」(アンチ隙間?)ではないんじゃないかという話がありえるように思いますが,論点がズレそうですね。

P.S.
僕は,会議中に,ノートパソコンでメモをとるふりをして,よくほかごとをしています(たぶん誰も僕が会議のメモをとっているとは思っていないと思いますが…)。
俄然、話が面白くなってきましたね。

ここで矛盾したことを言いましょうか。ちょっと話が複雑になるかもしれません。

携帯電話は「アンチ小空間」(アンチ隙間?)ではないと私は一方で思っています。というのも、携帯電話は、結局のところ自分自身としか話していない。そう思うからです。

特に着信記録が残るようになってからの携帯“会話”は結局のところ自分の知っている人としか話さないようになってきた。

つまり携帯電話によって〈社会〉が侵入してきたのではない。〈社会〉が自己(自己という隙間)を侵害したのではない。むしろ、友達、知人との会話を強化しているだけで、どこにも他者はいない。携帯が拡大しているのは、むしろあなたの言う“小空間”自体であって、単に肥大化した(=インフレを起こした)自己が再認されているにすぎない、と言うことも出来ます。

私は〈情報化社会〉というのは結局のところ、知見を拡大させているのではなくて、単に自己をインフレさせているだけだとも思います。たとえば、BSやCS、あるいはYou TubeやGYAOのような多チャンネル時代の〈多様性〉は、自己が拡大する様を表現しているのではなくて、見たいものだけを見るということを意味しているわけですから、自己は決して〈多〉様化しているのではない。見れば見るほど、自己は矮小化している。多チャンネルの〈多〉は、見たい要求にどこまで細かく答えられるか、ということですから、それは他者を排除するための“進化”なのです。

つまりたくさんのチャンネルは、たくさん見るために存在しているのではなくて、見たいものだけを見るために存在している。多チャンネルはむしろ見ないためのチャンネルでもあるわけです。

携帯電話の進化も、まさにその意味で話したい人と話したいときにだけ話しているわけですから、結局のところ、それは拡大されたモノローグでしかない。携帯も最後には「なんか用事ない?」なんて言い合っている。用事もないのに電話をかけている。ミクシィ(MIXI)の会話も同調者だけを集めている。いやなことを言い始める人が出てくると即座に「申し訳ございませんがこのユーザーのページにはアクセスできません」とアクセス禁止にされてしまう。

一方で迷惑メールが洪水のように毎日押し寄せる。これは、インフレした自己(形式的な自己)の裏返し、つまり形式的な他者の出現を意味しています。形式的な自己が肥大化した分、形式的な他者(=迷惑メール)もまた肥大しているのです。

だから〈情報化社会〉は、〈情報〉がむしろ不在な社会です。〈電話〉がリビングや玄関にあった時代(〈電話〉がリビングや玄関にしか存在していなかった時代)には、〈電話〉にはまず〈他者〉が出た。彼女に電話しようと思ってもお父さんが電話口に出て電話を切ったこともある。そうやって、本当に必要なときにしか電話はしなかった。お父さんの怖さを超えてでも伝えたいこと、これを〈情報〉と言います。逆にお父さんやお母さんは、そのことによって、娘の交友関係を〈知る〉ことも出来たわけです。これも〈情報〉です。

そして、このような情報を〈社会〉性と言い換えることも出来るわけです。昔の電話はその意味で社会の窓だった。

こういった〈社会〉性を現代の情報メディアはまったく有していません。むしろ〈社会〉性の抹消のために技術は進化している、と言ってもいいくらいです。

私が、子供から携帯電話を取り上げるべきだと言ったのは、その意味では、子供に社会性を再度獲得させること、真の〈情報〉を獲得させるためです。携帯電話を断ち切り子供を孤独にさせるということは、〈社会〉や〈情報〉に背を向けることではなく、本来の《他者》に出会うための必須の道程なのです。
遅いレスですみません。

「携帯電話が侵入した小空間は,社会ですらありえず,自己を摩耗する歪曲空間でしかない」といった感じでしょうか? 

> 携帯電話を断ち切り子供を孤独にさせるということは、
>〈社会〉や〈情報〉に背を向けることではなく、
> 本来の《他者》に出会うための必須の道程なのです。

たぶん,しっかりしている家庭が携帯電話を断ち切れば「孤独」(他者と出会い一人で考える空間)が現れるんでしょうね? しっかりしている授業ならば,授業中のほかごとは発生しないし,そもそもほかごとを許しているのがしっかりしていない証拠だということでしょうね。その点,僕の授業はぜんぜんダメです。みんながバラバラのことをやっている空間が,なんだか自然で,心地よかったりも感じるので,救われようがないかもしれません。でも,みんながバラバラのことをやっているけど,ゆるやかにつながっているような状態ってないのかな?などとも考えたりします。

僕は,「学生が mixi に熱中しているなら,自分もやってみよう。別に教室だけが学校でもないだろうから…。子供が携帯が欲しいというなら,携帯で子供と話してみたい。携帯も家庭の一部かもしれないから…」などと思う性分なのですが,そもそも考えが甘いんでしょうか?(何も考えていないのかもしれません)。mixi で学生と近づける,携帯で子供と近づけるという発想は,アホかもしれません。
703号さん

ちょっとパワーがなくなっていますよ。何かあったんですか。
いつも持ち歩いている PowerBook G4 が故障しました。

P.S.
この携帯電話をめぐるやりとりで,なんかスターウォーズを連想してしまいました。マトはずれでしょうか?

ジャイアンさん=ジェダイマスター
携帯電話=理力(フォース)
携帯電話をもつ中高生=フォースのダークサイドに落ちてしまったアナキン・スカイウォーカー(若き日のダースベーダー)
私もスターウォーズは全編(LDで)見ていますが、「ジェダイマスター」かどうかは微妙ですね。

携帯電話がフォースだというのはわかりますが、それは“危険"と“救い”が同じものの裏表だという意味ででしょうね。

そう考えれば、アナキン・スカイウォーカーのたとえは、わかるような気がしますが。

※そんなことより、「totoharu」は、どこへ行ったのでしょう。最後までかかってこい、と伝言してください。
追伸

スターウォーズの感想を書くのを忘れました。宇宙へ行っても家族の話なのか、と思ってしまいました。

それは、携帯電話(先端情報デバイス)の話をしていても、家族の話なのか、という問題と似ているかもしれません。
11月12日の「〈情報化社会〉というのは結局のところ、知見を拡大させているのではなくて、単に自己をインフレさせているだけ」というご指摘,大変興味深く感じました。「情報のインフレ」という概念には,いろいろ考えさせられます。

別の文脈になってしまって恐縮ですが,僕は,現代は,真実がわからない時代になってしまったと感じています。「テレビ」も「新聞」も,もはや信じられない時代になってしまったと思うのです。911でさえ,真実がどうであったか,僕にはわかりません(多くの犠牲者がいるという事実だけは真実ですが…)。

「家庭」や「学校」が,社会に対する「小空間」として確固たる役割を果たさなければならないということは僕もわかっているつもりですが,「情報のインフレ」下において,これまでの「家庭」や「学校」がどれほどの真実を語りえるのかということに疑問を感じはじめています。今の「家庭」や「学校」の中には,もはや真実はないという真実すらもないかもしれない。だから,「家庭」も「学校」も変わりはじめているのではないか思えてならないのです。

一つ,僕のあさはかな理解に基づく,不躾でへんてこりんな質問をさせていただくことをお許しください。

ドイツの文芸評論家のヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は,ジャイアンさんのご専門の一つだと思います。僕は,ベンヤミンの「パサージュ論」を,近代の都市空間の変化を記述した論考と理解しています(都市空間というより,社会というべきかもしれません)。「パサージュ論」には,近代の生き生きとした様相が蒐集されていると思います。そして,一つ一つの記述が,詩のように研ぎ澄まされた表現になっていることに,大変驚きます(とはいっても,残念ながら,ほとんどの記述の意味を僕は読解できず,ただいくつかの部分について,ドキッとするだけです)。

もしももしも,ベンヤミンの時代にインターネットがあったら,「パサージュ論」はどうなっていたでしょうか?(こういうまったくのへんてこりんな質問を展開してしまって恐縮です)。「パサージュ論」に蒐集された記述の多くは,パリの国会図書館で得られたものと思うのですが,僕には,「パサージュ論」はインターネットの先取りで,ベンヤミンは,インターネットのない時代に,パリ国会図書館をまるでインターネットのように利用していたように思えるのです。近代においては,一つの真実に意味はない,近代は多様な様相の集積としてしか語れない,といった意識を感じてしまうのですが,間違っているでしょうか?

「一人で考えはじめる前の子供」にとっては「情報のインフレ」は悪害かもしれないのですが,ベンヤミンほどの知があれば,「情報のインフレ」を再構成することができると思ってみてもいいでしょうか?

最近,「パサージュ論」にいろいろ考えさせられているので,「情報のインフレ」という観点から,ジャイアンさんのご意見を伺えればと思いました。もし気が向いたら教えていただけると幸いです。マトはずれだったら,無視してください。
ベンヤミンはたしかに私の領域の一つですが、私にはベンヤミンをインターネット時代に蘇生させるのではなくて、マルクス主義の影響から完全に脱した状態でベンヤミンに自由に思考してもらいたかったと思います。三島憲一なんて奴に翻訳させているのが残念でならない。

私はパサージュ論は、むしろインターネット的だと思いますよ(あなたの言うのとはまた別の意味で)。だからむしろローカル(=時代的)なんだと思います。

ベンヤミンとこのインターネット論とは少し系譜が違うと思いますが、その問題を展開するには(今日は)時間がありません。今しばらくの猶予を。
スターウォーズの書き込みで「意味不明」爆弾が投下されるかと思ったのですが,そうならなかったので,調子に乗ってベンヤミンのことまで書いてしまいました。ベンヤミンの書き込みで,今度こそ「意味不明」爆弾が投下されるかと思った(期待していた?)のですが,「今しばらくの猶予を」という親切なコメントをいただき,光栄です。

情報化社会をどう考えるか,情報化社会における学校・家庭をどう考えるかが問題であるわけですが,ジャイアンさんには,多大な手がかりをいただいているように思います。携帯電話のお話をベンヤミンにまで拡大してしまって恐縮至極ですが,今しばらく,教えていただけると大変ありがたいと思っています。

「もはや教室だけが学校ではないだろう」というのが僕の基本的な意識です。僕は,同じ文脈で「もはや住居だけが家庭でもないだろう」とも思っています(最近,自宅の設計を考えているのですが,子供の個室をどう設計するかが大問題です)。僕にとって,携帯電話は,住居以外の家庭構成要素(構成ではなく,再構成というべきかもしれません)のメタファーです(実際には,ことさら携帯電話を重要視しているわけではなく,子供がどう使うかちょっとだけ実験してみたいといった程度の軽い考えですが…)。

情報の蒐集によって,芸術の視点さえも変えられることを示している「パサージュ論」は,僕にとっては,情報蒐集のお手本です。大げさな話としては,子供や学生がどう情報を蒐集するかで,家庭も学校も変わってくると思えるのです。

以下,「パサージュ論」に関する僕の私的なメモ(の一部)を掲載させてください。

パサージュ論に関するメモ

●複製可能な建築としてのパサージュ

産業革命(18世紀)以降:建築の主要構造部に鉄が用いるようになった
(ボードレール:1821-1867年)
1822-1837年:多くのパサージュはこの間に建設された
1830-1848年:ルイ・フィリップ在位期間
1852-1870年ごろ:パリ大改造
1867年:パリ万国博覧会
(ベンヤミン :1892-1940年)
1895年:リュミエール兄弟が,パリ・グラン・カフェ地下でシネマトグラフを上映
1927年:初期の草稿「パサージュ」
1929年:パサージュ論を中断
1934年:パリに移住,パサージュ論を再開
1935年:「パリ−19世紀の首都〔ドイツ語草稿〕」
1936年:「複製技術時代の芸術作品」
1940年:パリを離れる。ピレネー越えの途中で自殺

ヴァルター・ベンヤミンは,「パサージュ論」において,当時の社会と技術の変化が芸術の概念を大きく変化させたことを指摘している。ベンヤミンは,パサージュに,まったく新しい芸術の片鱗を垣間見ていたはずだ。

「パサージュ論」は,『パリのパサージュの多くは,1822年以降の15年間に作られた。』という書き出しで始まる(「パリ−19世紀の首都〔ドイツ語草稿〕(1935年脱稿)」の書き出し,パサージュ論第1巻,岩波現代文庫)。そして,ベンヤミンは,パサージュには,2つの成立条件があると述べている。一つは織物取引の隆盛,もう一つは鉄骨建築。

この2つの成立条件は,「複製技術の時代における芸術作品」(1936年,「複製技術時代の芸術」,晶文社)の次の記述にぴったりと対応する。『複製技術は,これまでの1回かぎりの作品のかわりに,同一の作品を大量に出現させるし,こうしてつくられた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手のほうに近づけることによって,一種のアクチュアリティを生み出している』(複製技術の時代における芸術作品)。『線路こそは組み立て〔モンタージュ〕可能な最初の鉄材』(パリー19世紀の首都〔ドイツ語草稿〕)と述べられているように,鉄は建築の複製を予感させる材料であったし,実際のところ,鉄を使えば,古代ギリシャ建築や植物の形態を複製することだったできた。もちろん,鉄は,新しい建築様式を生み出す可能性さえももっていた。また,ベンヤミンが1852年の「絵入りパリ案内」の次の記述に「遊歩者」というメモ(パサージュ論の訳文において■ ■で示された記述)を付しているように,パサージュは,芸術家のための芸術ではなく,「遊歩者」のための「芸術」である(もはや,それを「芸術」と呼ぶことは適切ではないのかもしれないが…)。『産業による贅沢の生んだ新しい発明であるこれらのパサージュは,いくつもの建物をぬってできている通路であり,ガラス屋根に覆われ,壁には大理石が貼られている。建物の所有者たちが,このような大冒険をやってみようと協同したのだ。光を天井から受けているこうした通路の両側には,華麗な店がいくつも並んでおり,このようなパサージュは一つの都市,いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている』。

「複製技術時代の芸術」には,建築に関して,次のような記述がある。『芸術作品にたいする受け手のがわの,これまでのさまざまな態度が,現在,あらたに生まれ変わる母胎は,大衆である。(中略)散漫な大衆のほうは,逆に自己の内部へ芸術作品を沈潜させる。この場合,もっとも明快な実例は建築物であろう。建築は,古来,つねに人間の集団が散漫に接してきた芸術の典型であった。その鑑賞の諸法則は,もっとも示唆に富んでいる。(中略)建築芸術は,したがって,けっして中絶することがないのだ。その歴史は,他のいかなる芸術の歴史よりもながく,その直接的な効用は,芸術作品にたいする大衆の関係を究明しようとするばあい,きわめて重要である。(中略)建築物にたいする接しかたには,二重の姿勢がある。すなわち実用と観察(後略)』(「複製技術の時代における芸術作品」)。

ベンヤミンは,ここで,複製技術という生産プロセスと,都市的な商業活動による消費プロセスの両者の変化によってもたらされる芸術の変化の実例としての建築に対する興味を露わにしている。しかし,「複製技術時代の芸術」は,映画や写真を対象とした論考であり,建築が話題となっているわけではない。だから,同時期に書かれた「パサージュ論」こそは,もう一つの「複製技術時代の芸術」としての建築に関する論考であるに違いない。パサージュは,複製を可能とする技術と都市の活動を背景として生まれた建築であるという視点で「パサージュ論」を読解することは,大きな間違いではないだろう。

●インターネットとしてのパサージュ

集団の夢の家とは,パサージュ,冬用温室庭園(ジャルダン・ディヴェール),パノラマ,工場,蝋人形館,カジノ,駅などのことである。[L1,3]

「パサージュ論」には,パサージュに関する「情報」が蒐集されている。ここには,パサージュの建設が進んだ1822年以降のおよそ100年間のあらゆる事象がベンヤミンによって蒐集され,再構成されている。そして,この事象の詩的な表現には,ドキッとさせられる。

「パサージュ論」から100年を経た現在,あらゆる事象がインターネット上に散在するようになった。インターネットの情報は,何かのために構成されているわけではなく,関連をもたないバラバラの情報だ。だから,ベンヤミンという意図によって蒐集された「情報」と,インターネットに散在する「情報」が等質であるはずはない。ベンヤミンの「情報」のほとんどは,おそらくは,パリの国会図書館の閲覧室内で,深遠な思考を通して書き写されたものであったはずだから,そもそもベンヤミンの「情報」とインターネットの「情報」には何の関係もない。しかし,それでも,「遊歩者の視点で語られた集団の夢」は,実に,インターネット的だ。ベンヤミンが,個々の文献の作家による内面的な記述に目を凝らしていたわけではなく,むしろ,「遊歩者の視点で語られた」現象の集合に目を向けていたからだ。

今を生きる私たちは,かつてのような明確なイデオロギーのある世界,あるいは,カタチを伴う物質に囲まれた世界で生きているだけでなく,さまざまな情報に囲まれて生きている。イデオロギーや物質のもつ確かな真実は,付加された情報によってあいまいになっている。あの911事件でさえ,その真実は,もはやわからない。多くの犠牲者がいたという物的な真実は確かにあったのだが,誰が何のために起こした事件なのか,私には理解できない。マスコミが伝える「真実」でさえ,一つの「情報」でしかないと思えてならない。私たちは,雑誌でファッションを知り,携帯電話でレストランを探す。たとえば,携帯電話からアクセスするインターネットのサイトでレストランを探すとき,その外観やインテリアがどれほどの意味を持ち得るだろうか。「料理がおいしい」という物的な真実は存在するとしても,その真実はさまざまな「コメント=情報」で脚色されている。

私は,「情報は真実ではない」ということを主張したいのではない。「情報が真実をあいまいにしているから,情報の向こうにある真実を見抜くことが大事だ」ということを主張したいわけでもない。真実とは異なる「遊歩者の視点で語られた集団の夢」のリアリティを問題にしたいのだ。「パサージュ論」を,生き生きとした「情報」によってこそ,パサージュの芸術性が確認できることを示した論考だと読解できるように思う。
こんなこと一度に書かれても、〈教授〉でない私には時間がありません。今学校から帰って来ましたが、明日は6:00起き。学校見学会です。

一つだけ言っておきます。私のベンヤミン論序章です。

『複製技術時代の芸術』の〈いま・ここ〉一回論=アウラ論に対置される複製技術論は、ヘーゲル的な〈いま・ここ〉論以前であるため、通俗的です。ロマン主義の変形に過ぎません。

そもそも、なぜベンヤミンは受け手の側からの、つまり狭い意味での媒体論(=「メディア」論)からの芸術論を説くのでしょうか。私は彼に続く受容美学の立場をまったく取りません。

芸術なんて見る人、聞く人が一人もいなくても芸術です。それが芸術です。

フッサールなんて、人間よりも先に〈意味〉があると言ったくらいです。

だからベンヤミンの〈複製〉論は、ヘーゲル以前です。ヘーゲルならば、根源的な人間のメディア(=知覚)から芸術論を説く“根性”がありました。それがベンヤミンにはない。

このまま書くと、今から二晩くらい続きそうですから、やめておきます。目の縁真っ黒にして見学者の前に立つわけにはいきません。乞うご期待。
す,すみません。お騒がせしてしまって…。調子に乗りすぎました。僕の戯言は,何かの際にちょっとでも思いだしていただければ,十分に光栄です。

ジャイアンさんにはばれていると思いますが,僕は,かなりのお調子者です。次から次へいろんなことを連想してしまう病癖があります。この病癖は,特に,ネットを使っている時に起こります。本当は,ものごとを体系的に思考しなければいけないのに,ネットを使っていると,非体系的に拡散してしまいます。ネット上だと拡散も許されるような錯覚に陥ってしまうんだと思います。でもそれはとても独りよがりで,僕を相手にしてくださる方にはご迷惑をおかけしていると思います。

僕は,哲学を体系的に理解しておりません。ほんの部分についてだけ,自分流の解釈で,強い興味を感じているだけだといわざるをえません。それは,哲学をご専門にされている方から見れば,いい迷惑だろうと思います。そういった意味では,ジャイアンさんには,またまたご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ありません。

「パサージュ論」については,情報とどう向き合うか,自己と他者をどう関係づけるかなどの問題意識を前提に読むと,先に書き綴ってしまったようなことを感じたということです。そんな風に読んでしまうと,ジャイアンさんの携帯電話論とクロスする部分があると思えたわけですが,そんな読み方について,ジャイアンさんからコメントをいただけるとありがたいなあと思っていました。

僕には,哲学の体系の中でのベンヤミンについて教えていただく資格はないと思います。それを教えていただくには,僕はあまりにも勉強不足です。フッサール,ヘーゲルといわれても,お話についていけそうもありません。もっとも,このネット上では,僕がお話しについていけるかどうかは,どうでもいいことかもしれませんが…。

僕の勝手なお願いとしましては,できましたら,先にご指摘いただいた『パサージュ論は、むしろインターネット的だと思いますよ(あなたの言うのとはまた別の意味で)。だからむしろローカル(=時代的)なんだ』という点に関して,わかりやすく教えていただけると大変ありがたいと思います。「インターネット」というお言葉からは「社会」,「ローカル」というお言葉からは「小空間(隙間?)」を連想してしまって,気になるのです。
> 芸術なんて見る人、聞く人が一人もいなくても芸術です。それが芸術です。

このご指摘はスゴイと思いました。「見る人、聞く人が一人もいなくても芸術」(芸術と情報は無関係?)は「遊歩者の視点で語られた集団の夢」(情報も芸術?)の対極であろうことはわかります。「携帯電話の情報はインフレ」というお話しとつながったような気がします。

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