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相対主義共和国コミュの何をしてもOK?

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「どんな考についても、善いとも悪いとも断言できないと言うのならば、何をしてもよい、何をしても咎ることはできないってことじゃないか?」また、「だとすると、善いことをしているという意識があれば、その行為は正当化できるんじゃないの?」

このような考えについてご意見をお願いします。


コメント(19)

>グッデイさん
互いを傷つけないためのルールは重要ですね。
自分の価値観に基づいて他人に危害を加える人は、
反撃されるリスクを負うことになります。
互いに反撃しあうことが常態化して、
生存すら困難になるかもしれません。
ある価値観を有する人がいなくなれば、その人はそれ以上
その価値観を伝えることはできなくなります。
単純に考えると、その分、その価値観は弱体化してゆくことになります。そして、その価値観を有する人々が対立する価値観を有する人にことごとく滅ぼされてしまったら、
地上からその一つの価値観が消えることになります。
そのようにして優位に立つことに成功した宗教や思想であってもなんらかの要因(経済や自然現象など)によって劣位に陥る可能性が潜んでいます。
信条のために死ぬことを厭わないという人もいるでしょうが、
その思想自体が消滅してしまっては無意味だと思います。
それを避けたいのならば、グッデイさんのおっしゃるとおり、
互いの善悪に拠らない一定のルールが必要になりますね。
そういったルールは、価値相対主義者にとってのみならず、
価値絶対主義者にとっても有益ではないかと思いました。

なるほど。個人の内面は他人からは見えませんね。
ある行為が独り善がりかどうかという問題を抜きにしても、
個人の善という動機は、ジャッジの基準としては、
必ずしも明確ではありませんね。
>グッデイさん
情状酌量というのは、
内面そのものというよりも、それがなかったら反社会的行為を
しなかったであろう事実(家庭内暴力など)について裁判の過程で常識に基づいて考慮するということなのだと思います。
情状酌量は裁判官の裁量に委ねられているので、
曖昧といえば、曖昧ですね。
単に、内面のみを推測するというよりは、内面を形成している過去の不幸な事実を理解するということが、重要ですね。当然、持ち合わせるべき常識がその判断には必要とされるでしょうね。じゃあ、常識って何?ということになりますが、大多数の人間が自然にもつとされる思考と感情の塊みたいなものでしょうね。人間は人間の気持ちを推し量って、利益や打算に基づかない関係をも築きますが、これは、その常識に基づいると思います。何をされると悲しいと思うか、何をされると怒ると思うか、そういったことは、自分の内面と相手の態度を観察することで自然と身についてゆきます。そういった経験による知識が常識なのだと思います。
善悪の話に戻るならば、そういった常識は、善悪に先行する共通ルールの一つの基準になるかもしれませんね。
>★ヒカル★さん
身勝手な凶悪犯を憎らしく感じる気持ちは私も同様です。
相対主義という立場からみると、
殺人犯は自由の根本たる生命を身勝手に奪っているのですから、
もっとも凶悪といえるでしょうね。

ところで、相対主義は自由を重んじるのですが、
それは刑罰と矛盾しないかという疑問に通じます。
結論からいえば、
相対主義は、死刑以外の制度を否定しません。
逆に言うと、相対主義にとって、死刑制度は問題です。

何故、そのようなことになるかというと、
相対主義における刑罰は市民の自由のために、
犯罪者の自由を最小限制限するものだからです。

例えば、凶悪犯がいて、市民の自由を奪いかねない場合、
それを牽制するか、隔離によって、
市民の安全を図ればよいということになります。
死刑制度を認めると、
凶悪犯の自由を過剰に奪うことになります。
終身刑を課して市民の安全を維持すればよいのです。
つまり、凶悪犯の死刑は、相対主義の立場からは、
非合理と映ります。

確かに、
死刑制度が凶悪犯に対して強い牽制となるかもしれませんが、
市民の自由と凶悪犯の自由のバランスを考えると、
相対主義にとってはゆき過ぎた刑罰と映るのです。

しかし、以上に述べた相対主義的発想は飽くまで原則です。
多数の市民が合意のもとに死刑制度の維持を望むのならば、
自由意思が最大限尊重されるべきであるとの発想から、
相対主義においても死刑制度が認められるべきだといえます。
相対主義の抽象的な原則を押し付けるようなことは、
相対主義ではありませんよね。

例えば、★ヒカル★さんのように、
凶悪犯のために税金が使われるべきではないと思う人が多数ならば、
それを相対主義における「正義」ですので、
その意見は尊重されるべきだと思います。
>モンスターさん
★ヒカル★さんにも述べましたが、
「すべてを救おう」というあり方と、
「ルールは時代によって変化する」という考え方は、
相対主義においても混在しています。
原則は原則として尊重しつつも、
流動的な正義をそれに優先して尊重するのが、
相対主義です。さもなければ、
寡頭制や絶対主義と同様になってしまいます

更正に関しても、市民の批判を受けたならば、
あり方を変更すべきであるし、
市民が死刑などの酷な刑罰を望むのならば、
それも止むなしということになります。
江戸時代は政権側が一方的に残虐な刑罰を科していました。
一般に「人道的」見地からそれらの刑罰が否定されますが、
相対主義においては、残虐な刑罰そのものよりも、
そのような一方的な刑罰が問題視されます。

確かに、あらゆる人には未来があって、
その人がどのように変わるかは確実にはわかりません。
極悪犯が改心して真逆の人間になることもあります。
しかし、相対主義においては、
いかに多くの人が自由を享受できるかを問題にします。
つまり、少数の人間のために、
大多数の人間が自由を奪われることがあってはならないという発想です。
「再犯して戻ってくるのが関野や山」ならば、
それに見合った刑罰もやむをえません。
そして、それが「死刑」であるという意見が多数ならば、
残念ながら、その意見は、自由のために尊重される必要があります。

もちろん、原則は生きているので、
相対主義そのものを愛する人であれば、
市民の意思を第一に尊重しつつも、
第二に尊重すべきものとして、
相対主義の原則に敬意を払っているはずです。
いつでも柔軟に変化しつつも、
そこがポピュリズムの類と異なるところです。
はじめまして。
非常に興味深く読ませていただきました。

行為の正当性についてコメントさせてください。

相対主義を認めてしまうと、権利を力の原理によって根拠付けることになってしまうのではないでしょうか。
つまり、多様な価値を認めると、それに基づく行為も(法に反しない限りで)認められることになる。
たとえば、あるサークルの会議があるとします。
一人の会員Aさんが「私なんか会議に参加しないほうがいいのではないか」と考え、それに従って会議を休むとします。
しかし、他のメンバーは「Aさんにきちんと来て欲しい」と考えます。
ここに、価値の対立が生じるわけです。
この場合、Aさんは「休む」ことが「できる(力を有する)」範囲において自らの価値判断に基づく行為を実行するわけですよね。
他のメンバーはAさんを出席させる「力」が無いので、
「Aさんを出席させたい」という欲求を具体化することができなくなりますよね。

つまり、価値相対主義を認めてしまうと、所持する力の度合いによって自由の範囲が決定されてしまうと思うのです。

自由主義経済によってもたらされる貧富の差なんて、まさに力の原理による結果ですよね。


殺人という極端な行為でなくとも、価値相対主義は他者の自由を制限してしまうという矛盾を含むのではないかと思いますがいかがでしょうか?
>まっつんさん

価値相対主義においては、誰かが不自由を引き受けざるを得ない場合、参加者全体の不自由の総量が最小になる選択肢が優先されると思われます。例えば、多数決という手段は、価値相対主義を最大限に尊重するものと解釈できます。ただしそれは最大の不自由をなくすための妥協です。誰もが自由であれば、究極的には誰にでも横死の危険があります。また、そのような多数決原理を認める価値相対主義においては、力関係は固定化されないので、弱者であることが常である者はいないし、強者であることが常である者もいません。誰もが強者にも弱者にもなりえます。


さて、今回のサークル会議の例を見てみましょう。Aさんの意思とそれ以外の人に意思が対立しています。Aさんの意思のために多数の意思が犠牲にされています。一見、自由が最小限にされているかのようです。しかし、任意でサークルに参加する者はこのルールに賛同しているはずですから、その出来事は、自らの意思が反映された結果であるといえます。また、誰もがAさんと同様の権利を認められているので、この関係は非対称的な力関係ではありません。


「所持する力の度合いによって自由の範囲が決定されてしまう」という問題については、参加者がルールに賛同しているかどうか、力関係が固定化されているかどうか、そういった視点からも考える必要があると思います。
>小生さん
ご意見を読みました。このテーマと関連付けていうならば、相対主義者の意見交換のありかたについての意見であると理解しました。

人間の理性に限界があることを認めると、差異も当然に感じられますね。「相対主義を掲げる」というのは理屈のための理屈に陥って、相手を論破することに熱心になるということでしょうか。相対主義はそれに共感する人が自分への抑圧に抵抗する根拠にはなりえますが、意見を無理強いするような態度とは縁と遠いものであるはずですね。
ことの善し悪しを判断し、行動に移さなければならない問題について。

社会ではあらゆる分野で専門家がいて専門的な知識をもって対処するからこそいかなる結果であっても受け取る側からしたら正しい判断をした結果だと受け取らざるを得ない状況に立たされる場合がありますます。

そういった場合に果たしてその時々において適切な対処を施したのか、さかのぼって審議できたらと思います。


>うささん
数学や自然科学の命題のように検証可能なことであれば、判断が適切であったかどうかについて、誰もが同じ結論を得ることできると思うのですが、善悪の問題は正誤の問題とは性質が違うのでやっかいです。しかし、そういう中にあっては、意見交換が一定の役割を果たしうるでしょうね。

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