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原始仏典コミュの中部経典 第8経 削減経[サッレーカ・スッタ] 全訳

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(『南伝大蔵経9 中部経典1』大蔵出版 P62−74  に相当)





  中部経典 第8経 削減経[サッレーカ・スッタ] 全訳

「   第八 削減経

81.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住んでいた。
 ときに尊者マハーチュンダは午前に黙想から起って先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座って尊者マハーチュンダは先生にこう言った。
 先生、これらの様々な見解が世界に生じています。自己に関する説や世界に関する説です。
 先生、どのようにこれらを作意すれば、比丘はこれらの見解を断ち、これらの見解を放棄することができるのでしょうか。
82.チュンダ、これらの様々な見解が世界に生じている。自己に関する説や世界に関する説だ。
 これらの見解が生じるところ、随眠(潜在)するところ、現に行じるところ、それらを「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見るならば、これらの見解は断たれ、これらの見解は放棄される。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は欲を離れ悪法を離れ、尋が有り伺が有り、遠離より生じる喜と楽がある第一のジャーナを具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する(削減住)」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「現法楽住」(現世において楽に住する)と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は尋と伺を寂静にし、内に歓喜し、心の一境性があり、無尋無伺のサマーディより生じる喜と楽がある第二のジャーナを具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「現法楽住」と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は喜を離貪することと捨に住することと念自覚と身体において楽を感受することとがあり、聖者が「捨念楽住」と称するところの第三のジャーナを具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「現法楽住」と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は楽も断ち苦も断ち、以前に喜と憂は滅しており、不苦不楽の捨念遍浄の第四のジャーナを具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「現法楽住」と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は一切の色想を超越し、違逆想を滅し、種々想を作意せずに「虚空は無辺である」という空無辺処を具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「寂静住」(静寂に住する)と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は一切の空無辺処を超越し「識は無辺である」という識無辺処を具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「寂静住」と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は一切の識無辺処を超越し「何も無い」という識無辺処を具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「寂静住」と言われる。
 チュンダ、またこのような処が知られる。
 即ちここにある比丘は一切の無所有処を超越し非想非非想処を具足して住する。
 彼はこのように思う。「私は削減に住する」と。
 チュンダ、しかしこれは聖者の律における削減とは言われない。
 これは聖者の律において「寂静住」と言われる。
83.チュンダ、ここにあなたたちは削減を為すべきである。
 「他は害するだろうが、私たちは害さないようにしよう」と削減を為すべきである。
 「他は殺生するだろうが、私たちは殺生を離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は盗むだろうが、私たちは盗みを離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は非梵行(性行為)をするだろうが、私たちは梵行者であろう」と削減を為すべきである。
 「他は嘘をつくだろうが、私たちは嘘をつかないようにしよう」と削減を為すべきである。
 「他は仲間割れさせることを語るだろうが、私たちは仲間割れさせる言葉を離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は不快なことを語るだろうが、私たちは不快な言葉を離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は駄弁をするだろうが、私たちは駄弁を離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は貪求(強欲)するだろうが、私たちは貪求を離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は怒りの心(瞋害心)を持つだろうが、私たちは怒りの心を離れよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪見をするだろうが、私たちは正見をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪思をするだろうが、私たちは正思をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪語をするだろうが、私たちは正語をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪業をするだろうが、私たちは正業をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪命をするだろうが、私たちは正命をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪精進をするだろうが、私たちは正精進をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪念をするだろうが、私たちは正念をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪定をするだろうが、私たちは正定をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪知をするだろうが、私たちは正知をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は邪解脱をするだろうが、私たちは正解脱をしよう」と削減を為すべきである。
 「他は惛沈と睡眠(惛眠)に結ばれるだろうが、私たちは惛沈と睡眠を離れていよう」と削減を為すべきである。
 「他は浮つく(掉挙)だろうが、私たちは浮つかないようにしよう」と削減を為すべきである。
 「他は迷う(疑)だろうが、私たちは迷いを断ち切ろう」と削減を為すべきである。
 「他は忿(ふん。怒りを露わにする)があるだろうが、私たちは無忿であろう」と削減を為すべきである。
 「他は恨(こん。恨む)があるだろうが、私たちは無恨であろう」と削減を為すべきである。
 「他は覆(ふく。隠れて悪事を為す)があるだろうが、私たちは無覆であろう」と削減を為すべきである。
 「他は悩(のう。露わに悪事を為す)があるだろうが、私たちは無悩であろう」と削減を為すべきである。
 「他は嫉(しつ。人のものを妬む)があるだろうが、私たちは無嫉であろう」と削減を為すべきである。
 「他は慳(けん。自分のものを惜しむ)があるだろうが、私たちは無慳であろう」と削減を為すべきである。
 「他は誑(おう。積極的に騙す)があるだろうが、私たちは無誑であろう」と削減を為すべきである。
 「他は諂(てん。消極的に言い逃れる)があるだろうが、私たちは無諂であろう」と削減を為すべきである。
 「他は傲(ごう。頑固なこと)があるだろうが、私たちは無傲であろう」と削減を為すべきである。
 「他は過慢(かまん。過度に慢になる)があるだろうが、私たちは無過慢であろう」と削減を為すべきである。
 「他は悪い言葉を語るだろうが、私たちは善い言葉を語ろう」と削減を為すべきである。
 「他は悪友を持つだろうが、私たちは善友を持とう」と削減を為すべきである。
 「他は放逸であろうが、私たちは不放逸であろう」と削減を為すべきである。
 「他は不信であろうが、私たちは信じよう」と削減を為すべきである。
 「他は無慚であろうが、私たちは慚じよう」と削減を為すべきである。
 「他は無愧であろうが、私たちは愧じよう」と削減を為すべきである。
 「他は寡聞であろうが、私たちは多聞であろう」と削減を為すべきである。
 「他は懈怠であろうが、私たちは精進を起こそう」と削減を為すべきである。
 「他は忘念であろうが、私たちは念を維持しよう」と削減を為すべきである。
 「他は無慧であろうが、私たちは智慧を具足しよう」と削減を為すべきである。
 「他は自己の見解に妄執し、俗物であり、放棄させ難いだろうが、私たちは自己の見解に妄執せず、俗物でなく、善く放棄しよう」と削減を為すべきである。
84.チュンダ、善法において心を生じさせることもまた多く為されるところがあると私は言う。身体や言葉においてはどう言おうか。
 チュンダ、それゆえに「他は害するだろうが、私たちは害さないようにしよう」という心を生じさせるべきである。
 「他は殺生するだろうが、私たちは殺生を離れよう」という心を生じさせるべきである。
 ・・・・・・・・・・・・
 「他は自己の見解に妄執し、俗物であり、放棄させ難いだろうが、私たちは自己の見解に妄執せず、俗物でなく、善く放棄しよう」という心を生じさせるべきである。
85.チュンダ、たとえば間違った道があるならば、それを回避するのは正しい道である。
 チュンダ、またたとえば間違った渡し場があるならば、それを回避するのは正しい渡し場である。
 チュンダ、このように害する人にとっては害さないことが回避となる。
 殺生する人にとっては殺生を離れることが回避となる。
 盗む人にとっては盗みを離れることが回避となる。
 非梵行の人にとっては非梵行を離れることが回避となる。
 嘘をつく人にとっては嘘をつくことを離れることが回避となる。
 仲間割れさせることを語る人にとっては仲間割れさせることを語ることを離れることが回避となる。
 不快なことを語る人にとっては不快なことを語ることを離れることが回避となる。
 駄弁をする人にとっては駄弁を離れることが回避となる。
 貪求する人にとっては貪求しないことが回避となる。
 怒りの心を持つ人にとっては怒らないことが回避となる。
 邪見をする人にとって正見することが回避となる。
 邪思をする人にとって正思することが回避となる。
 邪語をする人にとって正語することが回避となる。
 邪業をする人にとって正業することが回避となる。
 邪命をする人にとって正命することが回避となる。
 邪精進をする人にとって正精進することが回避となる。
 邪念をする人にとって正念することが回避となる。
 邪定をする人にとって正定することが回避となる。
 邪知をする人にとって正知することが回避となる。
 邪解脱をする人にとって正解脱することが回避となる。
 惛眠に結ばれた人にとっては惛眠を離れることが回避となる。
 掉挙する人にとっては掉挙しないことが回避となる。
 迷う人にとっては迷いを断ち切ることが回避となる。
 忿の人にとっては無忿が回避となる。
 恨の人にとっては無恨が回避となる。
 覆の人にとっては無覆が回避となる。
 悩の人にとっては無悩が回避となる。
 嫉の人にとっては無嫉が回避となる。
 慳の人にとっては無慳が回避となる。
 誑の人にとっては無誑が回避となる。
 諂の人にとっては無諂が回避となる。
 傲の人にとっては無傲が回避となる。
 過慢の人にとっては無過慢が回避となる。
 悪語の人にとっては善語が回避となる。
 悪友を持つ人にとっては善友を持つことが回避となる。
 放逸な人にとっては不放逸が回避となる。
 不信の人にとっては信が回避となる。
 無慚の人にとっては慚じることが回避となる。
 無愧の人にとっては愧じることが回避となる。
 寡聞の人にとっては多聞が回避となる。
 懈怠の人にとっては精進を起こすことが回避となる。
 忘念の人にとっては念を維持することが回避となる。
 無慧の人にとっては智慧を具足することが回避となる。
 自己の見解に妄執し、俗物であり、放棄させ難い人にとっては自己の見解に妄執せず、俗物でなく、善く放棄することが回避となる。
86.チュンダ、たとえばいかなる悪法であってもその一切は下の領域に行かせるものであり、またいかなる善法であってもその一切は上の領域に行かせるものである。
 チュンダ、このように害する人は無害によって上の領域に行く。
 殺生する人は殺生を離れることによって上の領域に行く。
 ・・・・・・・・・・・・
 自己の見解に妄執し、俗物であり、放棄させ難い人は自己の見解に妄執せず、俗物でなく、善く放棄することによって上の領域に行く。
87.チュンダ、実に彼自身が沼に落ちていながら、沼に落ちている他を引き上げるというこの処は知られない。
 チュンダ、しかし実に彼自身が沼に落ちていないならば、沼に落ちている他を引き上げるというこの処は知られる。
 チュンダ、実に彼自身が訓練されていず、制御されていず、涅槃していないのに、他を訓練し、制御し、涅槃されるというこの処は知られない。
 チュンダ、しかし実に彼自身が訓練されており、制御されており、涅槃しているならば、他を訓練し、制御し、涅槃させるというこの処は知られる。
 チュンダ、このように害する人は無害によって涅槃する。
 殺生する人は殺生を離れることによって涅槃する。
 ・・・・・・・・・・・・
 自己の見解に妄執し、俗物であり、放棄させ難い人は自己の見解に妄執せず、俗物でなく、善く放棄することによって涅槃する。
88.チュンダ、このように私は削減の法門を説き、心を生じさせる法門を説き、回避の法門を説き、上の領域の法門を説き、涅槃の法門を説いた。
 チュンダ、師が弟子の利益を憐れんで憐れみを取ることによって為すべきところのもの、それを私はあなたたちに為した。
 チュンダ、このような樹下がある。このような空家がある。
 チュンダ、ジャーナしなさい。放逸になってはならない。後に後悔する者となってはならない。
 これが私の教えである。
 このように先生は言った。意を得た尊者マハーチュンダは先生が説いたことを喜んだ。


                      第八 削減経  終」

   『南伝大蔵経9 中部経典1』大蔵出版 P62−74  に相当















 註 削減 サッレーカ sallekha
   「私は削減に住する」 サッレーケーナ・ヴィハラーミー
            ‘sallekhena viharāmī’
   聖者の律 アリヤッサ・ヴィナヤ ariyassa vinaye 聖者の教え
   現法楽住 diṭṭha dhamma sukha vihāra 
        ディッタ(現)ダンマ(法)スカ(楽)ヴィハーラ(住)
        ディッタダンマは「現にある法」「現世」の意 
   寂静住 サンタ・ヴィハーラ  santa vihāra サンタは静止、静寂、寂静。
        寂住。静寂住。静止。止住

   (括弧内の様々な心の汚れである忿や覆などの解説は僕の解釈です)























 1.種々見の放棄
  様々な見解を断つにはそれらの見解において
  「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」
  と無我を事実の通りに正しい智慧によって見る。見るならば見解は断たれる。
 2.四禅は「現法楽住」であり「削減住」ではない。
 3.四無色は「寂静住」であり「削減住」ではない。
 4.「削減」の法門。「削減」とは悪を断つための正見と正精進と正念。
 5.「心生」の法門。悪を断つために善法において心を生じさせる。
 6.「回避」の法門。危険を避けるために悪法を回避する。
 7.「向上」の法門。下向させる悪法を断つことによって向上する。
 8.「涅槃」の法門。自分が涅槃しなければ他者を涅槃させることはできない。

   悪 → 有害・十悪・十邪・五蓋・汚れ・七不正法
   善 → 無害・十善・十聖・断蓋・清浄・七正法
   
   (削減経では邪見と貪求と瞋恚が重複なので省かれています。
    心の汚れについては他経において他の汚れの記述もあります)



 
[住]

  削減住  
  梵住   四無量心
  天住   四禅那   「現法楽住」
  不動住  四無色   「寂静住」
  聖住   三悪根の根絶の自覚知。慧解脱と同義。
  念住   四念処
  梵行住  八正道

(発勤精進住という語はないが文章はあるので「精進住」という設定は可能)




この削減経は「空家の法門」の一つです。「空家の法門」というのはその教えの最後に「このような樹下がある。このような空家がある。・・・」とゴータマ自身が教えるべきことは全て教えたという主旨のことを言う記述がある経のことを僕はそう名付けています。空家の法門はこの教えだけで十分解脱できるという保証がつけられた教えであると思っています。空家の法門は少ないですが、この削減経はその一つです。



削減経は「悪法を削減する」(悪を断つ)という一字に着目して、一切の修行を完成させようという方向性です。



「他は害するだろうが、私は・・・」という記述の前半部分が重要です。「他者は悪をするだろうが」とパーリ語の原文でも極めて強く強調して繰り返しています。他者が悪を行なうケースに二つあります。他者がこちらに悪を為さず、別の存在者に悪を為す場合と、他者がこちらに直接に悪を為してくる場合です。前者はたとえば、友人が魚を釣って殺して食べているのを見て、自分も魚を釣って殺して食べるという悪の感染などです。友人が覚醒剤をやるから自分も覚醒剤をやるというのも悪の感染です。一方の後者は相手に嫌がらせをされたから、自分もやり返すという復讐という形の悪の感染の場合です。やられたからやり返すというのはすでに相手に先手を取られており、相手の悪徳に自分も飲み込まれて行くので復讐は達成できるかも知れませんが、気付けば自分の手も血で汚れており、自分の眼差しも濁ってしまったことを後で発見することになります。

悪法や悪徳は他者から感染する場合が非常に多いです。基本的に家族や友人から美徳とともに悪徳も感染します。それゆえに「他は悪を為すだろうが、私は・・・」というふうにわざわざ他者が悪を為す想を作ってから「それでも自分はやらない」という逆の想を強固なものにして自分に定着させる作業を繰り返し繰り返しマスターするまで行います。これは単純に「殺さない殺さない」と繰り返す想よりも、さらに土台がしっかりした美徳の習性となると思います。「絶対に殺さない」というふうに「絶対に」をつければ、その「絶対に」という想が「たとえ人が生き物を殺していても」という想に変化しやすくなると思います。それぞれの文章がどのようなヴィジョンを生起させ、そのヴィジョンがどのような心の因果連鎖を引き起こすのかを考察すれば自分で判断できると思います。

一つひとつのヴィジョンはそれぞれ異なった一つひとつのヴィジョンであり、それを原因として何が結果されるかを一つひとつ考察することは五蘊のうちの想と想に連動する五蘊の分析として大変有意義なことだと思います。修行とは特定の善なる想を繰り返し繰り返し作り出す作業ですから、想の内容が修行の成果にダイレクトに影響しますので、その修行する想の性質と原因と結果を考察することは信じて努力する原因構築としても有意義なものです。

戦争では周りが殺すから自分も殺していいんだと思いがちです。また仕事でもグレーゾーンに足を突っ込むことを誰もがしているのだから、自分もしていいのだと思いがちです。しかしこの削減法を行なえばどれだけ多くの周りの人が悪を行なっても自分は絶対に行なわないという堅固不動な美徳を獲得することができます。グレーゾーンを全て切り捨てる強固な意志を削減住によって鍛えることができます。「絶対に悪事の片棒を担いではならない」ということです。

悪徳は内の貪瞋癡から育つ場合と外から感染する場合があります。この削減の修行は、外部からの悪の感染を防ぐのに非常に有効です。同時に自己の内の善法を増大させてその勢いに乗って、内の貪瞋癡を破壊して自己存在を完全に清浄にしようという順序です。削減住における「正見・正智・正解脱」の部分が特に聖・無漏に寄与しています。

削減の法門を伝授されたマハーチュンダは美徳の獲得にかけては比丘たちの中でも最高レベルに達しています。他の増支部経典などの経でも、比丘としての在り方、心の汚れのなさに関してしばしば仲間に説法しています。マハーチュンダの「マハー」の称号は伊達ではないということです。

削減をすれば性格がよくなり人に好かれるようになりますから、在家にもおすすめな修行です。四禅の瞑想よりもやりやすいと思います。前に紹介した「絶対に自他双方を傷付けてはいけない」とひたすら繰り返し念じる無害の修行も、削減住に含まれると考えてよいと思います。「絶対に自他双方を傷付けてはいけない。十悪でも十邪でも五蓋でも」というふうに「傷付けない」という単語の意味に「十悪や十邪や五蓋や忿恨・・・の心の汚れによって自他を傷付けること」を加味することによって「絶対に自他双方を傷付けてはいけない」と繰り返す無害の修行がより奥深いものとなり、応用の効くものとなります。自己にある悪法を削減するのは悪法が自他を傷付けるからであり、悪法を削減すれば自他を傷付けないからこそ削減が推奨されます。自他を傷付ける最悪法は貪瞋癡です。これを削減すれば、削減法のみで阿羅漢になります。

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